2018 年 12 月 2 日

・説教 マルコの福音書10章17-34節「金持ちとペテロと主イエスと」

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 10:29

2018.12.02

鴨下 直樹

⇒ 説教音声はこちら

 「本音と建て前」という言葉があります。時々、教会では本音で話せないというような発言が出ることもあります。信仰というのは、きれいな世界なので、どうしてもきれいごとを言わないといけないというような気持ちになることがあるのかもしれません。

 カトリックの作家の書かれた「本音と建て前」というタイトルの本があるのですが、ドイツから日本に来る宣教師たちが、日本人をよく理解するためにこの本を読むように勧められるのだそうです。そして、読んでびっくりするのだそうです。人前では建て前でものを言う。けれども、その心の中は全然違うことを考えているのだとしたら、それは「嘘」ではないかと思うのです。人の顔色を見ながら、体裁のいいことを言う。しかし、心の中では何を考えているか分からないのだとすると、もうどうしていいか分からなくなるのです。そういうことから、教会でもきれいごとを言わないで、もっとその心の中のドロドロしたもの、本音を出して話すべきだ、そういう議論が出てくるわけです。

 ここに、素直な一人のお金持ちが出てきます。彼は、小さなときから律法に忠実でした。きっと育ちがいいのでしょう。親がしっかりした人だったのかもしれません。性格も悪くなさそうです。他の福音書には青年と書かれていますから、若さも持っています。若くて、お金を持っていて、性格も良さそうで、両親もちゃんとしている。言ってみれば、大切なものを何でも持っている人です。これ以上、何を求める必要があるのかと思えるような人です。彼は、主イエスにこう尋ねます。

「良い先生。永遠のいのちを受け継ぐためには、何をしたらよいのでしょうか。」

 驚くべきことです。この人は、人が望むものをみな持っていても、それで幸せになるのではないということを知っているのです。永遠のいのちを得なければ、この世で何を持っていても、肝心のものが欠けているということを理解しているのです。

 彼は、目先のことだけを求めてはいません。しっかりとした考えを持ち、何が大事なのかを見極めることができているのです。こんなみどころのある青年が、果たしてどれほどいるというのでしょうか。立派な青年です。好青年です。非の打ちどころのない青年と言っても言い過ぎではないと思います。しかも、主イエスのことを「良い先生」と呼びかけるのです。あなたから学べるものがある。あなたは、普通の人ではない。良い先生です。私はあなたから、この大切なもの、今のいのちを豊かにするために必要なものを学びたいのです。必要な永遠のいちのをどうしたら得られるのでしょうと問いかけるのです。しかし、この人に主イエスはこう語りかけるのです。

「なぜ、わたしを、『良い』と言うのですか。良い方は神おひとりのほか、だれもいません。」

 これは、なぞなぞのような答えです。どういう意味なのでしょうか。主イエスのことを「良い先生」と呼びかけました。あなたから学ぶべきものがあると。しかし、主は「良い」方は神おひとり、つまり、わたしを見るのではなくて、神を見上げなければ見えてこないと言われたのです。そして、これが、この長いテキストの語っている答えのすべてなのです。
(続きを読む…)

2018 年 10 月 28 日

・説教 マルコの福音書9章42-50節「小さい者として」

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 10:55

2018.10.28

鴨下 直樹

⇒ 説教音声はこちら

 今日のテーマは、「天国」と「地獄」の話しということができると思います。私は、父が牧師であったこともありますし、父が伝道者として色々な伝道集会で奉仕をしていたので、子どもの頃からたくさんの説教者の説教を聞いてきたと思います。その当時、教会の伝道集会であるとか、なんとかクルセードという名前の付けられた大衆伝道集会というものが比較的たくさん行われていました。クルセードというのは、もともとは「十字軍」のことを意味する言葉ですが、福音派の教会では「大衆伝道」という意味で使われていました。このクルセードという伝道集会で、福音派の著名な牧師たちは、天国と地獄の説教を何度となくしてきました。きっと今から30年ほど前に信仰を持たれた方は、そういう説教をよく聞く機会があったと思います。

 その説教というのは、神さまを信じないと地獄に落ちてしまうので、信じて天国に行きましょうというようなお勧めを語ってきたわけです。そして、そのころに、よく語られた聖書箇所が、今日の箇所だと言っていいと思います。

 ここに「ゲヘナ」という言葉が出て来ます。新共同訳聖書では「地獄」と訳しています。このゲヘナという言葉は、イスラエルに実際にあったベン・ヒノムの谷という、エルサレムの城外にあったゴミ捨て場のことです。そこでは、常にゴミが燃やされていたので、火が燃え続けている場所でした。そういう場所を語りながら、神の裁きを語ったのです。そして、神の裁きを受けるか、神の国に入るか、どちらが大切なのかということを、ここでは問いかけているわけです。

 「神の国」のことを、マタイの福音書では「天の御国」と訳しています。私たちがよく耳にする「天国」というのは、この神の国、主イエスが共にいてくださること、神が支配してくださるこという意味があります。ですから、この「天国」という言葉は、死後の世界、それこそ頭に輪っかがついていたり、天使の羽がはえていたりというようなイメージの天国というよりも、今ここで神が私たちと共にいて働いてくださるという意味があるわけです。もちろん、この神の国は将来のこと、死後のことも含んでいますけれども、今すでにということが大事なのです。そうであるとすると、この「ゲヘナ」とか、「地獄」とされている言葉も、死後の世界に、永遠に燃えている火で苦しむ場所というよりも、神の裁きという意味であると理解してくださるとよいと思います。

 さて、今日の箇所ですが、この直前の箇所までは、主イエスの寛容さが語られていましたから、ここから急に厳しいテーマに変わったという印象を持つ方があると思います。今日の前半の部分には何度も、「つまずき」という言葉が繰り返されています。このテーマはつまずきなのですが、最初の42節では「わたしを信じるこの小さい者たちの一人をつまずかせる者」が神のさばきの対象、つまり、首に石臼をつけて、海に投げ込まれた方がよいと書かれているわけです。 (続きを読む…)

2018 年 10 月 14 日

・説教 マルコの福音書9章38-41節「弟子の視点と主イエスの視点」

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 07:45

2018.10.14

鴨下 直樹

⇒ 説教音声はこちら

 聖書を読む時に、大切なことがあります。コンテキストといいます。文脈と訳されることが多いのですが、その前後に何が書かれているかということをちゃんと理解をして聖書を読むことが大事なのです。

 今日の箇所は比較的短い箇所です。説教をするときに、どこで区切るのかということもありますが、今日の箇所は、この前の部分である30節から37節までのところと非常に深く結びついている箇所です。この前のところでは、誰が一番偉いのかということが主題になっていました。そして、主イエスは子どもを真ん中に立たせてから、37節のところで、

「だれでも、このような子どもたちの一人を、わたしの名のゆえに受け入れる人は、わたしを受け入れるのです。」

と言われたのです。
 今日の個所はそれを受けてのことです。そういう流れの中で、主イエスの弟子のヨハネが、主イエスに一つの報告をしたのです。

「先生。あなたの名によって悪霊を追い出している人を見たので、やめさせようとしました。その人が私たちについて来なかったからです。」

 主イエスは「わたしの名のゆえに受け入れる」という話しをなさったことを受けて、ヨハネなりに考えたわけです。主イエスの名によって小さな子どもを受け入れるのは、主イエスを受け入れることになる。それは、分かる。けれども、受け入れてはいけない場合もあるのではないか。そんなことをヨハネが考えたのでしょう。そこで、こういう場合はどうですかと、問いかけたわけです。 (続きを読む…)

2018 年 10 月 7 日

・説教 マルコの福音書9章30-37節「上に立つ者と下に立つ者」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 18:41

2018.10.07

鴨下 直樹

 最近、よく耳にするようになった言葉で「炎上する」という言葉があります。テレビに出てくるような人、例えば政治家であるとか芸能人が、個人的な見解を公にする。その発言が偏った、差別的な発言をすると、それを聞いて嫌な気持ちになった人たちがネットを通して、そのような考え方をみんなで非難することを指して「炎上する」というのです。どんどん人々の批判が燃え上がってしまうと、火消しをするのが大変な状態になるわけです。最近は、多くの人がSNS、ソーシャル・ネットワーキング・サービスと言いますけれども、自分の情報を発信して他の人と交流する場所をインターネット上に載せている人が沢山います。そこで何か失言をしたり、ある偏った考え方を公に発言すると、すぐに本人に直接、非難の言葉を投げかけることができるわけです。最近、この手の事件がニュースなどでもよく報道されるようになりました。

 政治家にしても、芸能人にしても、テレビに出てくるような人はうかつに何か偏った意見を発言することは気をつけなければならなくなっています。この「炎上」というような現象は、一昔であればみなが心の中で感じていたことですんでいましたが、今は誰もがそのことについて意見を発信できるようになっていますので、みんなと違う少数派の意見というのは発言しにくい環境というのが、こうしてどんどんできあがっているようにも思います。そこで考えさせられるのは、自分が大勢の側の場合は比較的問題にはなりにくいのですが、少数の側に立つと、みんなから寄ってたかって非難されるということになるということを理解していなければならないと思うのです。

 さて、今日の個所は、主イエスがなさったご自分の受難の予告のことがこの31節に再び記されています。前回、主イエスが予告をなさったときには、弟子のペテロが主イエスを諫めようとしたのですが、反対に「下がれサタン」と怒られてしまいました。ここで、もう一度、主イエスが何を言われたのかを見てみたいと思います。

イエスは弟子たちに教えて「人の子は人々の手に引き渡され、殺される。しかし、殺されて三日後によみがえる」と言っておられたからである。

(続きを読む…)

2018 年 9 月 23 日

・説教 マルコの福音書9章14ー29節「不信仰者の信仰」

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 14:29

2018.09.23

鴨下 直樹

⇒ 説教音声はこちら

 二週間間が空いてしまいましたが、今日は変貌の山での出来事の時に、残された9人の弟子たちが何をしていたのかということが記されているところです。前回、ウクライナの人形劇の話しをしました。ベルテックというのですが、上と下二段に分かれていて、下の舞台ではこの世界の現実の出来事が演じられ、上の舞台ではその時、天では神様がどのように働いておられるかということを同時に見せるのだそうです。それは、まさにこの聖書の箇所がそのような構成になっているということができると思います。

 有名なラファエロの描いた「キリストの変容」というタイトルの絵があります。それをみてくださると、よく分かると思いますが、上半分は主イエスが光り輝いていて、その両脇にモーセとエリヤが描かれています。そして、その下半分には残された弟子たちが、霊に支配された少年を癒そうとしながら、癒すことができなくて言い争う姿が描かれています。そして、今日の箇所はその、主イエスと三人の弟子たちが変貌の山で素晴らしい経験をしていた時に、残された弟子たちはどうであったのかというところから一緒に考えてみたいと思います。

 今日の聖書を見て、まず驚くことは、弟子たちは主イエスがいなくても、群衆を集め、律法学者たちと議論し、そして、霊に疲れた人を解放しようとしていたということです。主イエスがいない間、少し休んでいようと考えたのではなくて、いない間も、主イエスがいた時と同じように働こうとしていたということは、すごいことだと私は思います。「その心意気やよし」ということだと思うのです。ところが、弟子たちにとってそれは、簡単なことではありませんでした。うまく行かなかったわけです。そんなときに、山から主イエスと三人の弟子たちが戻ってきます。14節にこう書かれています。

群集はみな、すぐにイエスを見つけると非常に驚き、駆け寄って来てあいさつをした。

 理由は書かれていませんが、人々は山から下りて来た主イエスを見て、「非常に驚いた」
とあります。何に驚いたのでしょうか。

 旧訳聖書でモーセがシナイ山に上って神から十戒を頂いたとき、山から下りて来たモーセの顔はどうなっていたのかというと、そこではこう書かれています。「モーセは、主と話したために自分の顔の肌が輝きを放っているのを知らなかった」と出エジプト記34章の29節に書かれています。

 この時モーセは80歳をゆうに超えていましたけれども、お肌が輝いていたというのです。ヒアルロン酸を使ったわけでも、アンチエイジングとして何かをしたわけでもありません。神と出会うと、お肌が光り輝くというのです。 (続きを読む…)

2018 年 9 月 2 日

・説教 マルコの福音書9章2-13節「聞け、そして、見よ」

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 15:00

2018.09.02

鴨下 直樹

⇒ 説教音声はこちら

 二週間の夏休みをいただいておりまして、この間御代田にあります望みの村で少しゆっくりとした時間を過ごすことができました。望みの村では同盟福音の牧師や宣教師だけではなくて、他の教団の牧師や宣教師たちにも夏の間の宿を提供しています。そこで、一人の方とお会いしました。深井智朗先生です。深井先生は、今年、中公新書で出された「プロテスタンティズム」という本で吉野作造賞を受賞された方です。昨年宗教改革500年を迎えて、宗教改革が現代に何をもたらしたのかということを書かれました。今は東洋英和女学院の院長をしておられるのですが、その前は名古屋の金城大学で教授として教えておられた方です。

 実は、御代田でお会いしたのは私ではなくて、小学1年の娘です。御代田では、特にやることもないので、娘はマレーネ先生がみえる間はしょっちゅうマレーネ先生の泊まっておられる家に入りびたりになります。そこに来られた深井先生とマレーネ先生が話していたところ、翌日の礼拝は軽井沢の教会で説教をするということを聞いたのです。それを聞いた娘が、私たちも明日、その教会に行く予定にしていると、どうも、話したようです。実は私たちは、他の教会に行こうと思っていたのですが、娘が言ってしまったのなら仕方がないということで、その礼拝に出席することにしました。そして、深井先生の説教をはじめて聞いたのですが、本当に素晴らしい説教で、娘に改めて感謝しました。

 前置きが長くなったのですが、その説教でウクライナの人形劇でベルテックと呼ばれている人形劇があることを知りました。人形劇の大きさは縦2メートル、横3メートルの舞台が、上下二段に分かれているのだそうです。その劇では、この下の世界と上の世界の2場面を同時に演じるのを見るのだそうです。上の世界は天の世界。下の世界は地上の世界です。こういう人形劇はウクライナのユダヤ人が、子どもに信仰を教えるために考えたということでした。

 どんな人形劇か知りたいと思ったのですが、残念ながら見つけることができませんでした。ただ、そこで行われる物語は、信仰の話で、下では現実の私たちの世界が描かれているのですが、上の舞台、天では、その時同時に神様が働いていてくださって、私たちの生活を、私たちの見えないところで支えて下さっているのを、その劇では見ることができるということなのです。

 この地上で起こっている私たちの世界と、天上で起こっている神の御業。私たちにはこの神の世界は見えません。今日の聖書箇所は、このウクライナの人形劇の世界と重なり合います。ちょうど、ここに二つの出来事が記されています。一つは山の上で起こった不思議な出来事です。「変貌山」(へんぼうざん)などと昔から言われて来たこの出来事は、主イエスの姿が、まさに変わったのです。それまでの主イエスの姿ではなく、完全に聖いお姿、「その衣は非常に白く輝き、この世の職人には、とてもなし得ないほどの白さであった」と3節に書かれています。しかも、その両脇には伝説の人物と言っていいと思いますが、モーセとエリヤがあらわれたのです。旧約聖書の中には3人、死を経験しないで神のみもとに行った人物が描かれています。その一人は創世記に出て来るエノクです。この人たちは神の御許で生きていると考えられていました。そして、今ここに、その旧約聖書を代表する二人、モーセとエリヤが、光り輝く白さを身に帯びた主イエスと共にいるのを目のあたりにしたのです。 (続きを読む…)

2018 年 8 月 5 日

・説教 マルコの福音書8章31節-9章1節「主イエスの背中」

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 18:29

2018.08.05

鴨下 直樹

⇒ 説教音声はこちら

 八月に入りました。今年も例年のように信徒交流会が始まりました。水曜日と木曜の祈祷会で信徒の方々が当番で証をしていただいたり、聖書の話をしていただいています。水曜日はMさんが『百万人の福音』というキリスト教会の機関紙の俳句の選者になって、ちょうど四年経つそうで、その証をしてくださいました。

 Mさんは岐阜県の『栴檀』という俳句の結社の代表をしておられます。俳句の芥川賞と言われる角川賞を取られ、一般の俳句の雑誌にも取り上げられています。ところが、こういう一般の俳句と、いわゆる信仰の俳句というのは少し趣が違います。俳句は俳句ですが、その中で信仰のことを詠むわけです。それで、水曜日に、どんな俳句が投句されるのかということを紹介してくださいました。たとえばこんな俳句が紹介されていました。

猛暑日や我がため祈る人思ふ

 埼玉県のある方の投句された俳句です。この岐阜でも連日38度を超えるような毎日が続いています。この俳句はいつ出されたものかは分かりませんが、きっと今のように暑い季節だったかなと想像できます。そういう暑い夏を迎えて、自分のために祈ってくれている人のことをありがたく思い起こしているという俳句です。暑い日々も、自分のために祈ってくれている人のことを思い起こすと、乗り越えられそうな気がするものです。こういう俳句を読むと、ああ、私も体調を壊している方のためにもっと祈ろう、という気持ちになってきます。このように、俳句は俳句でも季節を歌いながら信仰のことも表そうとするとなかなか大変かなという思いがします。

 俳句を作られる方の中には、俳句を教えてくれる仲間に入って、そこで色々な決まり事を教えてもらいながら、基本を学ぶということをしておられる方が多いと思います。そうすると、どうしたって自分に教えてくれる先生、あるいは「同人」と言うそうですが、同人の俳句に似て来るのだと思います。そうやって、基本を身に着けておいて、自分らしい表現というのを獲得していくわけです。先生がいて、その後に付き従う弟子がいる。そうやって、大切なものを後世に受け継いでいくというのは、俳句だけに限りません。ピアノでも習字でも、なんでもそうやって基本を教える先生がいて、生徒や弟子がいて、受け継がれているものがあるわけです。日本には何々道というのが沢山あります。書道、柔道、華道、道とつくものはみなそういう形をとっているわけです。そういう言い方をすれば信仰の道も「キリスト道」と言ってもいいかもしれません。

 今日の聖書のところは、主イエスと弟子たちのことを記しているところです。主イエスはここで自分の後に従って来るように弟子たちに求めておられるところです。先週に続いての箇所ですから本当は27節から読んでいくのがよいと思います。そこで、弟子のペテロは主イエスのことを「あなたはキリストです」と告白したことが書かれていました。「あなたは救い主です」と、ペテロは告白したのです。自らの主と仰いでいるお方が、「キリストである」、「救い主である」と告白するというのは、信仰の道を歩む中では最も大切なことです。信仰の道はそこから始まっていくことになるのです。そして、それに続くのが今日の箇所です。 (続きを読む…)

2018 年 7 月 22 日

・説教 マルコの福音書8章27-30節「わたしは誰か?」

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 19:40

2018.07.22

鴨下 直樹

⇒ 説教音声はこちら

 先週も、水害のあった地域、上之保への物資支援のボランティアが行われました。この教会からも何人かの方々が参加してくださいました。私たちがしている支援は、必要な物資を一軒一軒訪問して届けるという働きです。私も、最初に行きました時に、玄関から大きな声で家の人に話しかけまして、「何か必要なものがありますか?」と聞いて回りました。そうすると、まず聞かれるのは「あなたはどちらの方ですか?」という質問です。とつぜん見知らぬ人が訪ねて来て、何か必要なものはないかと聞かれても、その人の出所がよく分からなければうかうかと貰うことも憚られるわけです。それで、「岐阜市から来たボランティアで、届いている救援物資が必要な方のところに届くように、家を訪ねさせていただいて、必要なものを聞いてまわっているのです」と答えますと、やっと安心した顔をしてくれます。

 水害から2週間がたとうとしています。関市の被害に遭われた方々の生活もだいぶ落ち着いてきているようですが、最初の頃はどの家も開け放たれて、畳を上げて、泥を掻き出しているような状態で、誰が家の人で、誰がボランティアなのかも分からないような状況でしたから、いきなり飛び込んで「何か必要なものがありますか?」と尋ねれば、察しがついたわけですけれども、時間がたって行きますと、自分がどういう者であるのかということを丁寧に説明していく必要があるわけです。

 けれども、「あなたはどちらの方ですか?」という質問をよく考えてみると、色々な答えができると思います。7月も20日を過ぎて学校の夏休みがはじまりました。私たちの教団では根尾にクリスチャン山荘というキャンプ場を持っています。私は教団の中ではこのキャンプ委員会という委員会に所属しています。それで、根尾山荘のキャンプの責任があるために、買い出しをこの夏何度かに分けて行うことになりました。ちょうど、明日、子どもがお世話になっていたキリスト教の幼稚園のキャンプが根尾で行われます。ひと昔前と違って、最近は山奥の根尾でもあまり涼しくはないようで、夜も熱帯夜が続きます。キャンプ場にはエアコンがありませんので、宿泊するキャンパーは熱帯夜に苦しむことになります。今年の夏は暑い夏で、連日猛暑日が続いています。天気予報では今週も土曜日まで連日35度を超える酷暑の予報が出ています。

 そういう中でのキャンプですから、幼稚園の子どもたちにはつらいと思いまして、先日、妻とこんな会話をしていました。「根尾はいま夜も暑い。ちょうど買い出しした荷物を届けることになっているので、そのついでに園長先生にお話して、卓球室はエアコンがあるので、暑くて子どもたちが眠れないようであれば、卓球室に布団を運んでもらって、その部屋で眠ってもいいように伝えようか」と話していました。すると、そこに娘が会話に加わりました。「私の通っていた幼稚園なので、いまのお父さんの言ったことを手紙に書いてくれれば、私が園長先生に届けてもいいよ」と言うのです。すると、その娘の意見に対して妻が「お父さんはキャンプ場の責任者なので、あなたが伝えなくても、直接お父さんから園長先生に話してもらうから大丈夫だよ。」と言いました。娘は不思議そうに私に尋ねるわけです。「お父さんは何者なの?」。私は答えます。「お父さんには色々な顔があるんだよ」と。 (続きを読む…)

2018 年 7 月 8 日

・説教 マルコの福音書8章22-26節「主の恵みを見よ」

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 20:08

2018.07.08

鴨下 直樹

⇒ 説教音声はこちら

 昨晩、先週から続いた豪雨のために長い夜を過ごした方も多かったと思います。夜中の一時頃だったでしょうか。携帯から避難勧告の音が鳴り響きました。四回か五回は鳴ったでしょうか。眠かったので鳴る度に音を止めていたのですが、最後に見た時には、この芥見地区に避難勧告と出ていて飛び起きました。みなさんのおられる地域も避難勧告が出されたところが多かったと思います。

 この教会は芥見南山地区の避難場所に指定されていますので、誰か来るかもしれないということで、すぐベットから出て教会の電気をつけにいきました。深夜のことですから、町の人たちはもうほとんどは眠っています。私自身もどこかから指示があるのかと待っていましたが、何の連絡もありませんでしたので、この地域の一番大きな避難場所である旧小学校の教育センターを訪ねましたが、誰もいません。電気も点かずまっくらで、区長さんだけが立っていました。区長さんの説明では、避難場所は山際にある公民館を今は考えているということでした。教会も用意した方がいいのか尋ねると、分からないとのお返事。

 結局2時過ぎに電話が鳴って、避難している方が少ないので、消防署の二階だけで対応するとのことでした。それで、ようやく安心して眠りにつくことができました。津保川が氾濫したとか、長良川が危険水域に達しているとか、いろいろなニュースが入ってきましたが、こうして、今日は雨もあがって、少し落ち着きを取り戻そうとしています。教会では今日の午後からコンサートも行われる予定です。この一日、主が何をしてくださるか期待しつつ、この一日を過ごしたいと思っています。

 さて、今日の箇所は目の見えない人の癒しのことが記されているところです。私はこれまでいくつかの教会で牧会してきましたが、その中に何人かの目の見えない人がおられました。ひょっとすると前にも説教で話したことがあるかもしれませんが、その方は、今は60代の方です。私がお会いしたのは今から20年以上前のことですが、当時いた教会に、耳の聞こえない方が来られました。

 私と、目の見えない方と耳の聞こえない方で会話をすることになったのですが、途中であることに気が付きました。目の見えない方は、耳は聞こえますから、声で会話をします。耳の聞こえない方とは、私は手話ができませんので、紙に字を書いて筆談で話します。そうすると、このお二人は、直接には一切コミュニケーションがとれないわけです。その時に、話題になったのは、その目の見えない方が学生の頃は、目の見えない人と、耳の聞こえない人とが同じクラスで勉強をしていたんだそうです。当時は盲学校と聾学校は分かれていない時だったそうです。たぶん、まだ40年か50ほど前のことです。

 学校を作った当時の文部省はそういうことさえも想像できなかったわけです。想像力がないというか、肝心なことが見えていない、分かっていなかったわけです。今は、もちろん、そういうことは改善されて、それぞれのための学校が作られるようになりました。今では当たり前のことも、そのことが明確に分かるまでというのは、案外時間がかかるもののようです。 (続きを読む…)

2018 年 7 月 1 日

・説教 マルコの福音書8章1-21節「何を見ているのか」

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 20:04

2018.07.01

鴨下 直樹

⇒ 説教音声はこちら

 今日の聖書の個所は少し長いところです。三つの出来事が記されています。最初に七つのパンで4000人のお腹を満たした出来事が書かれています。その次に、パリサイ派の人々がしるしを求めて主イエスのところにやって来ますが、主イエスはこれを拒まれます。そして、最後にパリサイ派のパン種とヘロデのパン種に気をつけなさいと言われますが、弟子たちはパンを持っていないことを注意されたと勘違いして、主イエスに叱られる場面が記されています。

 少しずつ順に見ていきたいと思いますが、1節から10節は、主イエスのところに来ていた群衆は4000人ほど集まっていたようですから、もう大騒ぎであったに違いありません。しかも、食べ物も手に入れられないような荒野にいたことが分かります。そんな荒野で3日間もいて、食べる物もなくなっているのです。主イエスのところに集まっている人たちと言うのは、一体何を期待していたのでしょう。

 色々と想像することはできると思います。主イエスのお話があまりにも素晴らしくて、離れがたかったという人もいたでしょう。あるいは、主イエスに病気を治してほしいと思って集まってきた人たちもいたと思います。そして、6章にも同じようなことが書かれていましたが、その時は5つのパンと二匹の魚で5000人の人たちの食べ物を与えた奇跡が書かれていますから、今度もきっと何か食べ物が出て来るに違いないと考えた人たちがいてもおかしくはありません。

 いずれにしても、ここに集まっていた群集は、主イエスのところにいると何かメリットがあると考えていたようです。興味深い話なのか、病気が癒されることか、お腹が満たされるか、そういうものを求めて主イエスのそばから離れなかったようです。そして、これまでこのマルコの福音書を読んできて分かるように、主イエスはそういう自分勝手な言い分で近づいて来る人たちの願いを聞かれるということに対して、あまり積極的ではありませんでした。

 しかし、今日のところは少し違っています。主イエスはここで、お腹をすかした多くの群衆の人たちがこのまま帰って行くと途中で空腹のために動けなくなってしまうのを心配されて、手元にあった7つのパンを取って感謝の祈りをささげ、それを裂いてから、みなに配り始めました。そうすると、そのパンはどういうわけか、4000人の人々にいきわたり、みな食べて満腹します。これが、4000人の給食と言われる奇跡となりました。

 このところの、6節にはこう書かれています。

それから七つのパンを取り、感謝の祈りをささげてからそれを裂き

(続きを読む…)

« 前ページへ次ページへ »

HTML convert time: 0.231 sec. Powered by WordPress ME