2023 年 4 月 16 日

・説教 ルカの福音書5章33-39節「主イエスとの新しい歩み」

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復活節第二主日「クアジ・モド・ゲニティ」
2023.4.16

鴨下直樹

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 今日は、復活節の第二主日です。教会の暦では「クアジ・モド・ゲニティ」という名前の付いた主の日です。これはこの日に読まれるペテロの手紙第一第2章2節のラテン語から来ています。「今生まれた乳飲み子のように」という意味です。

 よみがえりの主の新しいいのちに生かされる私たちは、よみがえりの信仰によって「乳飲み子」のように、新しい人生を歩み出していくのです。

 そういう意味では、今日の聖書箇所はこの日にぴったりな聖書箇所だと言えると思います。前回の箇所で出てきた、取税人のレビは、まさにこの「生まれたばかりの乳飲み子」のような状態だと言えるからです。

 レビは、主と共に歩むように招かれました。そこで、みんなで美味しくご飯をたべながらお祝いをしていたのです。ところが、それを見ていたパリサイ派と律法学者が主イエスに尋ねました。

 「さきほど、あなたは『わたしは罪人を招いて悔い改めさせるために来た』と言われましたよね? でも、悔い改めているようには見えないのですが?」と問いかけてきたのです。

 このパリサイ人たちの疑問は意地悪な質問というよりは、普通に感じた疑問なのだと思います。今日の33節の冒頭に「ヨハネの弟子たちはよく断食をし、祈りをします。パリサイ人の弟子たちも同じです」とあります。

 こういう習慣は、パリサイ人たちだけではなくて、初代の教会にもあった習慣です。たとえば、ルカが書いた使徒の働きの13章の1節から3節を読むと、アンティオキアの教会からバルナバとパウロを派遣して送り出す時にこう書かれています。「そこで彼らは断食して祈り、二人の上に手を置いてから送り出した。

 教会ははじめの頃から、断食をして祈る習慣をもっていました。これは、食事を食べる時間も忘れるほどに祈りに集中するという習慣を持っていたのです。断食して祈るという習慣があったということは、やはり悔い改めをする時も、断食をして祈ることはごく一般的にとらえられていたのです。

 今日、ドイツから来日しておられるマレーネ先生を囲んで、礼拝の後に食事会をする計画があるようです。初代教会風にいうと、「食卓を囲んで交わりをし、そして、マレーネ先生を送り出した」ということになります。こんな話をすると、「あれ? そんな話をする鴨下先生は、今日は食事をしないで断食するつもりなのか?」と思われる方があるかもしれません。もちろん、喜んで一緒に食事をさせていただきたいと思っています。

 けれども、言葉の印象としてはどうでしょうか? 「断食して祈る」というのと「食卓を囲んで祈る」というのを比べた時に、どういう印象を持つでしょうか?

 別に、意地悪で言っているわけではないのです。なんとなくですけれども、「断食をした」という風に聞いた方が、真面目な雰囲気があるんだと思います。断食と比べられると、楽しく食事をしていることが、悪いことかのような印象になってしまうわけです。

 当時の教会にも断食をするという習慣はありましたので、断食して祈るというのはとても重要なことだということは間違いありません。特に、ここで主イエスが「わたしが来たのは悔い改めさせるため」と言われたものですから、悔い改めというのは、断食するんじゃないの? とパリサイ人たちは当たり前のように思ったのです。ところが、主イエスたちを見てみると、断食するどころか、楽しそうに食事をしているので、パリサイ派の人々は「いやいや、それは悔い改めとは言わないでしょ」と言いたくなったのです。気持ちはよく分かります。

 ところが、そう言われて、主イエスはこう答えられました。34節と35節です。

「花婿が一緒にいるのに、花婿に付き添う友人たちに断食させることが、あなたがたにできますか。しかし、やがて時が来て、花婿が取り去られたら、その日には彼らは断食します。」

 主イエスはここで、弟子になったレビは今花婿と一緒にいるんだから、断食する必要はないのだと答えられたのです。ここで言われている花婿とは、主イエスのことです。レビにとっては、わたしと一緒に歩む結婚の誓いをしたようなものなのだから、今は喜ぶ時であって断食する時ではないのだと言われたのです。 (続きを読む…)

2023 年 4 月 9 日

・説教 詩篇116篇「死からの救い」

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復活主日(イースター)礼拝
2023.4.9

鴨下直樹

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 イースターおめでとうございます。

 今日は、私たちの主イエスのよみがえりを共に祝い、喜ぶ日です。

 今日はこの詩篇116篇が私たちに与えられています。この詩篇116篇は、教会の伝統では洗足式の木曜日に読まれたり、また、葬儀の時に読まれたりすることの多い詩篇です。

 この詩篇の主題は、死と、よみの恐怖からの救いと、その感謝が歌われています。

 3節にこう記されています。

死の綱が私を取り巻き
よみの恐怖が私を襲い
私は苦しみと悲しみの中にあった。

 この詩篇はいつの時代のものか、誰が書いたものであるかははっきりしません。けれども、イスラエルでは古くからこの詩篇を個人の救いの感謝の詩篇として用いることが多かったようです。ここに書かれている「死の綱が私を取り巻く」というのは、死に支配された状態です。病のため、あるいは、人が何らかの事情で窮地に置かれた時に、まるで大蛇が体に巻き付いて自分を締め付けるように、死の綱が私を取り巻いたと、この詩篇では表現されています。この詩篇を書いた人は、そんな死の恐怖を味わっていた人のようです。

 この詩篇の言い方から分かるのは、死の危機が迫っている状況は、よみの世界に落とされてしまったことと同じように考えられているということです。まだ、死んではいないのですが、死に支配された時、それは「よみ」に、つまり死の支配する世界にいるのと同じだと考えているのです。

 このような表現はまさに、主イエスが十字架に磔にされて、死なれ、よみがえられるまでの、よみの期間を過ごされたことと重なります。

 詩篇の祈り手は、死の支配の中にあって4節にあるように「主よ、どうか私のいのちを助け出してください」と祈りました。主の御名を呼び求めると、救い出されたのです。主の御名を呼ぶことがどれほど大きな意味を持っているかが、ここで私たちにはよく分かります。

 この4節で「私は主の御名を呼び求めた」とあります。この詩篇の中で「主の名を呼ぶ」という表現は、13節にも、17節にも出てきます。

 救いの主の御名を呼ぶことから、主の救いの御業は始まるのです。

 「どうか、私のいのちを助け出してください」という祈りは、どの世界の人々もしているのだと思うのです。けれども、ここではその前に「主よ」という言葉が冒頭にあります。この主の御名を呼ぶということが、とても重要なことなのです。 (続きを読む…)

2023 年 4 月 2 日

・説教 ルカの福音書5章27-32節 「罪人を招かれるお方」

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棕櫚の主日礼拝
2023.4.2

鴨下直樹

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 今週は教会の暦で「棕櫚の主日」と言います。主イエスがエルサレムに入られて、十字架にかけられるまでの一週間の期間を過ごすことになります。この一週間のことを「受難週」とか「レント」と呼びます。

 この時、私たちは自分自身の罪と向かい合いながら、主イエスの十字架の意味を心に刻むのです。この受難週に私たちはこの「罪」に心を向けます。

 そこで、今日の箇所では、まさにこの時代だれからも「罪人」と思われた「取税人のレビ」が登場してきます。

 私はこの説教のためにある本を読んでいた時「彼はこの世の人間の屑でした」と書かれている文章を見つけて衝撃を受けました。聖書の解説の中で、そんな言葉を目にするとは思ってもいなかったのです。

 「人間の屑」というのは、なかなか厳しい言葉です。人に向かって使ってはいけない言葉です。けれども、この言葉には、レビの同胞であったユダヤ人たちからしてみれば、そういう思いがあったのかもしれません。同胞のユダヤ人からお金を取って、自分たちを支配しているローマのためにお金を納めるのです。当然疎ましく思われたはずです。

 先日の祈祷会で、みなさんに質問してみました。「このレビは同胞から疎まれても、それでも逞しくこの取税人という仕事に就いていられたのは、どういうモチベーションがあったと考えられますか?」という質問です。

 色んな答えが返ってきました。一番多かったのは「お金が手に入ることで、満足感を得たり、優越感に浸れたのではないか」という意見でした。他にも、こんな意見がありました。「ローマ人に仕えることができるというのは、他のユダヤ人たちとは違う特権を持っていたはずなので、それは誇りになり得たのではないか」という意見です。

 少しレビのことを想像してみたいと思います。レビは毎日、一体どんな気持ちで収税所に座っていたのでしょう。もちろん、取税人という仕事は誰かがやらなければいけない働きです。ローマからの特権もたくさんあったのでしょう。けれども、妬みや憎しみの目を向けられることも事実です。このレビは、他の福音書を読むと「マタイ」という名前で登場しています。マタイの福音書はこの人が書いたと考えられています。マタイの福音書を読むと、旧約聖書に精通している人物だということが分かります。

 レビは、どうやったのか分かりませんが取税人という仕事を得ました。その仕事が自分を支えていたに違いありません。

 それは、私たちも同じだと思うのです。人は自分の得たもの、手にしたもので、生きていかなければなりません。自分が手に入れて来たもので自分自身を支えているのだと思うのです。

 お金があるから大丈夫。そう考えて、お金によって自分のプライドやアイデンティティーを支えているということはあると思います。あるいは仕事のやりがいや、仕事の楽しさが自分を支えていることもあるでしょう。自分がこれまで培ってきた能力や、技能や、人脈や、知識や、経験といったさまざまなものが、私たちの毎日の生活を支えています。それは、間違いのないことですし、それは私たち自身にとって、とても大切なものでもあります。

 レビにしてみれば、少なくともこれまでは、それでいいと考えていたはずです。ところが、そんなレビに唐突に次のような言葉が語り掛けられます。

 主イエスはレビに語り掛けられました。「わたしについて来なさい」と。 (続きを読む…)

2023 年 3 月 26 日

・説教 ルカの福音書5章17-26節「天井を突き抜けた救い」

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2023.3.26

鴨下直樹

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 先週、WBC、野球のワールドカップが終わりました。とてもドラマチックな展開で、日本が見事優勝しました。私も、普段はそれほど野球を見ないのですが、今回は夜に再放送をしたこともあって、何度かゲームを見ました。一か月間続いたゲームが無くなって刺激がなくなったという方も少なくないのだと思います。

 私たちは普段、毎日同じことの繰り返しの生活を退屈に感じるかもしれません。時々、私たちの生活を刺激してくれるWBCのような非日常の体験というのは、私たちに刺激を与えてくれます。普段は退屈な毎日とは思っていなくても、何か大きな出来事が終わってしまうと、自分たちの普段の生活がとても退屈なものに見えてしまう。そんな経験をすることがあるのかもしれません。それは、たとえクリスチャンであったとしても、信仰を持っていたとしても同じようなことが起こるわけです。

 私自身もそんな思いになることに、今さらながら驚きを覚えます。聖書を読んで、お祈りすれば神様との豊かな交わりの中にいるのだから、退屈さなんてないのではないかと思うのかもしれません。なぜそう思うのだろうかと、私自身考えてみると、一つ見えてくることがあります。それは、「答えが見えて来る」「先が読めて来る」という経験です。

 聖書を読んでいても、本当は分からないことばかりなのですが、いつのまにかすっかり聖書が分かったような気持ちになってしまうことがあるわけです。聖書の学びを皆さんとしているときも、何か質問があるとつい、分かっている気になって話してしまいます。そういう思いというものを持つと、いつしか足もとがぐらつくことにもなりかねないのです。もう、何もかも、分かっている。神様が何と言われるか分かっている。そういう思いによって日常が造り上げられていくときに、私たちの生活はたちどころに退屈なものとなってしまうのではないでしょうか。

 先日も、今日の聖書箇所を祈祷会でみんなと学びました。とても刺激的で楽しい時間でした。というのは、皆さんから予想もしない答えが出てくるからです。私は普段、自分一人で聖書を読んで、聖書の解説を読んでいます。そんなことをずっと続けていますから、この箇所はこうやって解釈するというのは当たり前になってしまいます。そうすると、何だかわかったような気になって、聖書を読むことすら退屈になってしまうということが起こり得るわけです。

 けれども、先日もみなさんと話していますと実に様々な意見が飛び交いました。それは私にとって、非常に刺激的な聖書の学びの時となした。

 今日の聖書は、「また」と言ってもいいかもしれません。癒しの奇跡の御業が記されているところです。「中風の患者の癒し」と呼ばれています。中風というのはギリシャ語では「片方がゆがむ」という意味の言葉です。例えば脳梗塞などの病のために体が麻痺してしまう状態にある人のことをいいます。聖書の注のところにも、「からだが麻痺した状態の人」と記されています。

 ツァラアトの病の人に続いて、中風の人が出て来るのも、人が一度病になってしまうと、そんなに簡単に癒されることがない病として記されていることが分かります。そういう病に陥った時に、その病をどのように受け止めていくのかという、人の姿がここには描き出されています。

 もちろん、それは病の場合に限りません。病というのはその人の生活が困難な状況におかれてしまいますので、その病を抱えながらとても厳しい生活をしなければなりません。毎日、その厳しい現実を目の当たりにしながら、どこかで今の自分の身に起こっている状況が改善することを人は求めるのです。それは、病だけではなくて、人との関係の中でも起こることです。あるいは、経済的な困窮という場合もあるでしょうし、受け入れがたい日常が続くなかで、多くの人がどうしたらそこから抜け出すことが出来るのかを求めているのだと思います。

 そういう生活の中で、信仰が何の助けにもならないように感じてしまう場合もあると思います。今の自分の置かれている状況が変わるとは思えないので、その中でもがき苦しむということもあるのだと思うのです。そんな変わらない現状に苦しんでいるのが、今日出て来る中風を患っている人です。
私たちは今日、この病の人に目を留めることになるのですが、今日の所にはそれ以外の人々も登場してきます。特に今日聖書に出て来る登場人物の中には、新しい人たちが姿を現します。それが「パリサイ人たちと律法の教師たち」です。

 今日の箇所から6章の前半までに4つの物語が記されています。この4つの物語に共通して登場するのが、このパリサイ人たちと律法学者たちです。彼らは、主イエスが人々の病を癒し、聖書を解き明かしているという噂を聞きつけて、至る所から集まって来たようです。最近噂になっているイエスとはいったい何者なのか、興味を持っていたのです。

 ルカはここでこのユダヤ人の宗教指導者たちが主イエスの働きを見て、何を感じたのかということを、描き出していこうとしています。その最初の出来事として、この中風の患者の癒しの出来事を、パリサイ人たちや律法学者たちが見たのだと記録していったのです。

 今日の物語は、このパリサイ派たちに代表されるユダヤ人の宗教指導者たちの視点、そして、中風の患者とその友達の視点、また主イエスの視点と3つの視点で見てみる必要があります。 (続きを読む…)

2023 年 3 月 19 日

・説教 ルカの福音書5章12-16節「主の御手は光のごとく」

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2023.3.19

鴨下直樹

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 今日の聖書の中には「ツァラアトに冒された人」という言葉が出てきます。聖書を初めて読む人には何のことだか良く分からない言葉です。今は、「重い皮膚病」とか「規定の病」と訳したり、新改訳のように原文をそのままで「ツァラアト」と訳したりしています。

 この「ツァラアト」というのは、これまでは「らい病」と訳してきました。この翻訳のために、「らい病」「ハンセン氏病」の人が長い間苦しめられてきました。聖書がこの病のことを神からの刑罰としての病として描いてきたからです。

 たとえば、モーセの姉ミリアムも(民数記12章)この病に侵されてしまいました。エリシャの従者であったゲナジもナアマン将軍が持参した貢物に目がくらんでそれを手にした時、ツァラアトに冒されたと記されています。

 レビ記14章ではこの病に冒された者は人の中を通る時には「汚れている、汚れている」と言わなければなりません。また、町の外の宿営に隔離されて生活することになります。つまり、この病は、人と一緒に生きて行くことがもはやできず、誰からも避けられて一人孤独に生活しなければならない、感染の危険のある病とされてきたのです。

 そのために、人々はこの病に冒されることは、神の裁きであり、何か悪いことをして神の怒りをかった人なのだと考えるようになりました。病のために苦しむだけではなくて、誰からも理解されず、神からも見放された病。それが、このツァラアトという病でした。

 今日の箇所は12節でこのように書かれています。

さて、イエスがある町におられたとき、見よ、全身ツァラアトに冒された人がいた。その人はイエスを見ると、ひれ伏してお願いした。「主よ、お心一つで私をきよくすることがおできになります。」

 この一節だけでも、いろいろなことが語られています。まず、「主イエスがある町におられたときに、全身ツァラアトに冒された人がいた。」と書かれていますが、このこと自体がありえない出来事です。先ほど話したように、この病の人は町の中に入れません。ということは、この人はどこかで主イエスの噂を聞いて、いてもたってもいられなくなって、その禁令を破って町の中に入って来てしまったということです。

 そこで、うまい具合に主イエスと出会うことができたようです。すると、いきなり主の前にひれ伏してお願いしたとあります。この人が男性なのか、女性なのかも分かりませんが、必死さだけはこの文章からも良く分かります。しかも、「癒してください」と願ったのではありませんでした。まず、「主よ」と呼びかけていることもそうですが、「お心一つで私をきよくすることがおできになります」と語っています。自分の願っていることではなくて、主イエスの願ってくださることが重要なのだと、言っているのです。 (続きを読む…)

2023 年 3 月 12 日

・説教 ルカの福音書5章1-11節「深みへの招き」

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2023.3.12

鴨下直樹

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 今、私たちは受難節を過ごしております。受難節というのは、十字架に向かわれるために苦しみを受けられた主イエスのお姿を心に刻み、主の御前に悔い改める時です。それは、また自分を見つめる時でもあります。

 今日のところでは、シモン・ペテロという主イエスの最初の弟子となる人が出てきます。シモンは漁師です。ペテロはここで、一日の漁を終え、網を繕いながら自分を見つめています。

 一晩中漁をしたのに、その夜は何も捕れませんでした。夜通し働いたのに何の収穫もないのです。けれども、次の漁のために、網を繕わなくてはなりません。シモンは、そんな作業に明け暮れながら虚しさがあったと思います。食べていく不安があったかもしれません。苛立ちがあったかもしれません。漁師としての力のなさに打ちひしがれていたかもしれません。網を繕いながら、いろんな考えが頭をよぎったと思うのです。

 みなさんも、そういう経験をしたことがこれまでの歩みの中でもあったと思います。そういう時というのはどうしても、物事を悪い方に、悪い方にと考えてしまうものです。自分の力の無さや、自分の失敗という事柄の前に、私たちは暗い気持ちに支配されることがあるのだと思うのです。

 受難節というのは、ここに描かれているシモン・ペテロのように、自分を見つめる時となるのです。

 そんなシモンに主イエスは声をかけられます。舟を出してくれないか、少し沖から話をしたいのだがと頼まれたのです。この前の4章で主イエスはシモンの家に来られて、シモンの姑を癒しておられますから、シモンとの面識はあったことになります。他の福音書では、シモンが弟子になった後で、シモンの家を訪れていますが、ルカの福音書は順序が逆になっていますから、ルカは時間的な順序ということをあまり気に留めていないのかもしれません。いずれにしても、ルカはここでシモンと主イエスの出会いの出来事を描き出そうとしているのです。

 舟を沖に出すように頼まれたシモンは自分の舟に主イエスをお乗せし、少し沖へ漕ぎ出します。そこから群衆に向かって説教される主イエスの言葉に耳を傾けます。シモンはその時、どんな気持ちで主イエスの言葉を聞いたのでしょう。シモンからしてみれば、内心それどころではなかったかもしれません。主イエスの話を聞きたかったから協力したわけでもなさそうです。ただ、そこでじっと話を聞いたのは間違いありません。

 その時に主イエスが何をお語りになられたのか、シモンがどのように説教を聞いたのか、あるいは説教を聞きに来たと記されているその群衆の反応も、ルカはここで記しておりません。ということは、ルカは主イエスの説教と、その説教に対する群衆やシモンの反応については、ここでは描こうとしていないわけです。むしろ、その後の出来事に力点を置いています。

 4節にはこう記されています。

話が終わるとシモンに言われた。「深みに漕ぎ出し、網を下ろして魚を捕りなさい。」

 この主イエスの言葉は、シモンにどのように響いたでしょう。完全にシモンの想定外の言葉だったはずです。この当時の漁師たちは、昼間は魚が捕れないという経験から、夜に舟を出して朝戻って来るのが常でした。真昼に魚など捕れるはずがないのです。それは、漁師であるシモン自身が一番よく理解していたはずです。

 主イエスは何よりも、シモンの心の内にある思いをよく分かっていたと思います。自分を見つめ、自分の力や、自分の経験というものを見つめようとしているシモンに対して、主イエスはそこから抜け出すようにと、ここで語りかけておられるのです。

 自分の力を信じる、自分のこれまでの経験や、一般的な常識にとらわれている考え方のままでいるのではなく、「その考え方を捨てよ! そこから抜け出せ! そして、わたしの言葉に委ねてみよ!」と主イエスはここで語りかけておられるのです。常識に逆らってでも、自分の思い込みから抜け出してみよと、主イエスは語りかけておられるのです。

 神の言葉のすばらしさは、私たちの理解を超えたところにあります。そして、それは思いもよらないような出来事になるのです。

 シモンは思いがけない言葉をかけられてどうしたというのでしょう。5節にこう記されています。

すると、シモンが答えた。「先生。私たちは夜通し働きましたが、何一つ捕れませんでした。でも、おことばですので、網を下ろしてみましょう。」

 ルカは、このシモンの言葉を信仰の決断として描き出そうとはしていません。特に主イエスの言葉を信じて、その言葉に従ったという積極的な応答の姿ではありませんでした。むしろ、不本意で、疑いながらだったようです。ただ、そこまで言われるのであれば少し試してみましょうか? それがシモンの答えでした。

 ところが、シモンはそこで予想もしていない出来事に遭遇することになります。結果は、大漁です。捕れた沢山の魚はシモンの舟だけでは入りきらないので、岸辺にいたであろう友達のヨハネとヤコブを呼んで、その二人も巻き込み大漁を経験するのです。

 ルカはここで、主イエスの言葉は、従うと出来事が起こるのだということを描き出しています。そして、この神の御業とは、私たちの想像をはるかに超えた出来事が起こるのだと描き出しているのです。

 これが、シモンと、ヨハネとヤコブの、キリストとの出会いの出来事となったのです。それは、とても印象的な出来事だったのです。 (続きを読む…)

2023 年 3 月 5 日

・説教 ルカの福音書4章31-44節「神の言葉の力」

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2023.3.5

鴨下直樹

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 聖書を読む時に私たちは主イエスのお姿に目を留めます。主イエスのお姿に注目しながら今日の箇所を見ていきますと、私たちはここで衝撃的な印象を持つことになります。ここで描かれている主イエスのお姿というのは、りつけておられる厳しいお姿だからです。

 ガリラヤの町カペナウムに行かれた主イエスは、安息日になると会堂に入られました。すると、そこに悪霊につかれた人が出てきます。この人は主イエスに向かって「私たちを滅ぼしに来たのですか?」と語り「あなたが誰だか知っている。神の聖者だ」と言うのです。すると、主イエスは彼を叱ったと35節に書かれています。

 その後の記事でもそうです。会堂を出てシモンの家に行くと、そこでシモンの姑がひどい熱で苦しんでおり、人々は主イエスに治してくれるようお願いすると、主イエスは枕元に立って「熱を叱りつけられた」と記されています。

 「ちょっとイエス様は切れすぎなんじゃないか?」とか「カルシウム不足なんじゃないか?」とか思われても仕方がない書き方です。

 私たちは普段すぐに怒って大きな声をあげる人のことを、あまり好きにはなれないと思います。主イエスを紹介することを目的とした伝道の戦略としては、あまり賢い書き方だとも思えません。

 どうしてルカはこんなマイナスの印象を持たれてしまいがちな主イエスのお姿を、ここで描くのでしょうか。

 その他にも、今日の箇所には私たちが首を傾げたくなるようなことがいくつか記されています。例えば福音書に登場する「悪霊につかれた人」という描写を考えてみてもそうです。旧約聖書には悪霊に取りつかれた人の話はほとんどありません。ところが主イエスが登場すると、まるでそんなことは日常茶飯事でもあったかのように、頻繁に起こっているように描き出しています。これは、どういうことなのでしょうか。

 「悪霊」というのは神に敵対する霊の働きです。悪霊は神の国の支配を阻止したいと考えている、神に敵対する存在です。主イエスが活動を始めることを通して、人々は神の国のことを知るようになります。そうして人々が神に近づこうとすればするほど、悪魔の働きは活発化してくる。そんなふうに考えることができるのかもしれません。

 人々が神から離れている時は、悪魔はおとなしくしているものです。旧約聖書の場合、多くの人々は神から遠く離れたところにいましたから、それほど悪魔が働く必要がなかった。けれども、主イエスが働き始めると、いよいよ悪魔はうかうかしていられなくなって、活発に活動するようになった。そう考えることもできるのかもしれません。

 いずれにしても、ルカはこの前の出来事のような主イエスと群衆という構図ではなくて、ここでは主イエスと悪霊や病というように描き出そうとしていることが分かります。

 そして主イエスは、そういう神に敵対し人々から神さまを遠ざけようとしている存在に対して、ここで怒っておられるのだということが分かってくるのではないでしょうか。

 主イエスがここで叱っているのは、ペテロの姑に対してではなく、病に対してです。会堂に座っていた人に向かって叱ったのではなく、主イエスに近づいて主が何者なのかを人々に知らせようとしている悪霊に向かって叱っておられるのです。

 40節以降になるとこんな記事が書かれています。

日が沈むと、様々な病で弱っている者をかかえている人たちがみな、病人たちをみもとに連れて来た。
イエスは一人ひとりに手を置いて癒された。

 主イエスはここで病の癒しを求める人々に、とても親切に接しておられます。病を抱えている人が主イエスのみもとに来ると、主イエスは十把一絡げで癒されたのではなくて、一人ひとりに手を置いて癒しをしておられます。

 前回の説教箇所に記されていたナザレでは、身勝手で奇跡ばかりを期待する人に対して、主イエスは癒しをなさいませんでした。しかし、このカペナウムではまるで別人のように癒しをしておられる主のお姿が目に留まります。

 私たちはこういう場面を見るとすぐに、癒してもらえるケースと、癒してもらえないケースをしっかりと分析して、正しい求め方をしたら癒してもらえるに違いない。そんな考えを抱くのかもしれません。しかし私たちが、ここで主のお姿を見て心に留めなければならないのは、残念ながらどうすれば癒してもらえるのかという方法の問題なのではないのです。

 主がここで何を大切なこととして示そうとしておられるのか、その本質に目を留めることが大切です。 (続きを読む…)

2023 年 2 月 26 日

・説教 ルカの福音書4章14-30節「みことばから始める歩み」

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2023.2.26

鴨下直樹

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 先週は、荒野の誘惑の箇所から説教しました。その説教の中で、私たちのする、奇跡を期待する祈りは主イエスを誘惑するものにもなりかねないという話をいたしました。すいぶん驚いた方があったかもしれません。その後のお祈りの中でも、たとえばロシアとの戦争が終わるように祈ることも、主を誘惑することになるのか。そんな疑問を感じられながら祈られておりました。言葉が足りなかったかなと反省しております。

 その説教の中で、はじめに「神学する」という話をしました。信仰の筋道が見えて来るようになることを「神学する」と言います。そういうところからいうと、まだまだその道筋が見えていないのかもしれません。

 祈りというのは、私たちの願うとおりにではなく、神の御心がなるようにと祈ります。神を自分の願いをきかせる僕(しもべ)のようにすることはできないのです。そういうところから考えれば、人々が殺し合いをするような戦いを収めてくださいという祈りは、神の御心が行われますように、御国が来ますようにという祈りを具体的に祈るということです。そういう祈りのことを「誘惑」と言っているのではないことは明らかです。ですから、主の御心を求める祈りとして、私たちはどんなことでも祈ることができることを覚えていただければと思います。

 さて、とはいっても私たちは様々なところで過ちを犯してしまう弱さがあります。祈りにおいても、神を誘惑するような、まさに身勝手な祈りをしかねない者です。まさに、そのことを記したのが、今日、私たちに与えられているこの誘惑の続きが記されている4章の14節以下の箇所です。

 そこでルカが記しているのは、主イエスが会堂で教えられたことから書き始めています。「イエスは彼らの会堂で教え、すべての人に称賛された。」と15節に記されています。その後、ルカはこう記しました。16節です。

それからイエスはご自分が育ったナザレに行き、いつもしているとおり安息日に会堂に入り、朗読しようとして立たれた。

 いつものように主イエスは安息日に会堂に入って、聖書を朗読して、み言葉を語り始めます。主イエスが選んだみ言葉は、イザヤ書61章の1節と2節でした。

 そこにはこう記されていました。ルカの福音書の4章の18節と19節をお読みします。

主の霊がわたしの上にある。
貧しい人に良い知らせを伝えるため、
主はわたしに油を注ぎ、
わたしを遣わされた。
捕らわれ人には解放を、
目の見えない人には目の開かれることを告げ、
虐げられている人を自由の身とし、
主の恵みの年を告げるために。

 主イエスはたまたま、偶然にこのイザヤ書を開いたのではありません。主イエスは意図的にこの箇所をお選びになられました。

 そのみ言葉に続いて主が語られたのはこういう内容でした。21節です。

イエスは人々に向かって話し始められた。「あなたがたが耳にしたとおり、今日、この聖書のことばが実現しました。」

 主イエスは、この貧しい人に良い知らせが告げられ、捕らわれ人が解放され、目の見えない人は目が開かれ、虐げられている人は自由となるというイザヤの語った約束の言葉は、今日このところから実現していくのだと言われました。

 まさに福音がこの世界にこの時からもたらされるようになるのだと、主は宣言されたのです。 (続きを読む…)

2023 年 2 月 19 日

・説教 ルカの福音書4章1-13節「誘惑の正体」

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2023.2.19

鴨下直樹

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 今、私たちはルカの福音書から順にみ言葉を聞き続けておりまして、今日から第4章に入ります。ここで、いよいよ主イエスが登場してきます。ここからが、主イエスの公の生涯、公生涯の活動ということになります。そこで、このルカが記すのは主イエスの荒野の誘惑です。

 先日の祈祷会でも、ある方が「どの福音書でもそうだけれども、なぜ主イエスの生涯を書き記すにあたってこの出来事を記すのか、著者の意図が良く分からない」という質問がありました。

 どの福音書もそうですけれども、みな判をついたかのように、皆この「荒野の誘惑」の出来事を記すわけです。このことにどんな意味があるのか。そのことも頭に置きながら、このみ言葉に耳を傾けていきたいと思います。

 先日の金曜日、私は名古屋の東海聖書神学塾で説教学を教えておりました。今、そこで加藤常昭先生の書かれた『説教への道』という本をテキストにしながら学びをしております。この加藤常昭先生は説教をするときに「黙想」が大切だということを教えるために、説教塾という牧師たちを対象にした説教のセミナーを開催しておられます。聖書を解釈しただけでは説教にはならない。そこから、説教の聞き手や、この時代のことを黙想しながらみ言葉を聞くことの重要性を教えておられるのです。

 この本の中で加藤先生は、宗教改革者ルターの言葉を紹介しながら、ルターは説教のために神の言葉を黙想することを「神学すること」だと言っていると書いています。そして、さらにルターは、そのことは「祈り」と深く結びついていると言いました。

 「神学する」と言いますと何か難しいことと考えられてしまいますけれども、神さまは、私たちに信仰の筋道をしっかりと聖書を通して示してくださっているということです。ちゃんと信仰に至る筋道がある。このことを神学というのですが、そのためには祈りが必要だとルターは言ったのです。そして、ルターはさらにそこには当然のこととして神からの「試練」があるということを挙げたというのです。

 そこで加藤先生は、主イエスが荒野の誘惑を受けられたことを紹介しています。主イエスは、この荒野の誘惑を受けられた時に、ここにも書かれていますように、聖霊に満ちていたのですが、この御霊に導かれて荒野に赴いて、そこで悪魔から誘惑を受けられたのです。それは、神様から試練を受けたということだと加藤先生は書いています。こういうことを黙想することで、信仰の道筋を明らかにしていくのです。加藤先生はこの本の中で「神様の言葉を聞き続けてひたすら生き抜くことに伴う試練」と言っています。

 こういうと私たちにもよく分かるのだと思います。私たちは、聖霊に導かれて、誘惑を受けるというと、神様が働いておられるのに、なぜ試練を受けるのだろうと初めは思うのです。けれども、神様と共に生きようと願うところには、試練が伴うものなのです。神の言葉を聞くことを通して、神の願っておられることが分かるからです。神の願いが分かってしまうと、その後は従うか従わないかという選択の前に立たされることになります。そして、まさにそこで誘惑が起こるのです。

 さて、では主イエスはどのような試練、誘惑を受けられたのでしょうか? (続きを読む…)

2023 年 2 月 12 日

・説教 ルカの福音書3章15-38節「洗礼者ヨハネと主イエス」

Filed under: ライブ配信,礼拝説教,説教音声 — susumu @ 07:07

2023.2.12

鴨下直樹

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午前10時30分よりライブ配信いたします。終了後は録画でご覧いただけます。


 

 今日は、バプテスマのヨハネと主イエスという二人の人物が、入れ替わるように出てきます。そこで、まず、ヨハネが授けていた「洗礼」、または「バプテスマ」とはどういう背景から来ているのかを考えてみるところから始めてみたいと思います。

 そこで、いきなりですが、まず「(けが)れ」と「罪」ということを聖書がどのように理解して来たのかを簡単にお話ししたいと思います。

 まず、「汚れ」というのは「罪」のことではありません。人の本質的な「罪」の問題を「汚れ」という言葉で表現しているのではなくて、「汚れ」というのは「ばい菌」がついている程度の意味です。イスラエルの民は、モーセの時代に40年間荒野を旅していました。そこでは、「ばい菌」との戦いが必須です。それは、このコロナの時代の私たちにもよく理解できることでしょう。一族の中で誰かが「菌」に冒されると、民族がそのまま滅んでしまうことになりかねません。それで、神は律法を与えて、「汚れ」についての対処の方法を教えます。

 簡単にいうとこの「汚れ」について、3つのことをレビ記では書いています。まず第一は、汚れたら「洗う」ということです。食べる前には手を洗うというようなことを徹底しました。動物の死体に触れた時とか、汚れたものを触った時、血に触れた時、人々に「洗うこと」を徹底します。そして、第二に、その「汚れ」というのは、そのままで大丈夫な「汚れ」なのか、民から隔離した方がいい「汚れ」、つまり感染拡大の恐れがあるかどうかを祭司が見て、判断します。これは、「ツァラアト」とか「重い皮膚病」という病の時の対処方法として、祭司がどう判断するかが記されています。

 そして、第三の最後に、汚れた者は「犠牲をささげること」でもう一度民の中に戻ることができるという方法について記されています。これは、神との関係をもう一度回復することと、同時に、一度汚れた人が、もう一度人々の生活の中に戻りやすくするという神の配慮の意味も込められていました。

 一度汚れてしまうと、周りの人々は変な目でみるようになります。これは、犠牲をささげて神との和解が成立したなら、もう安心できる状態になったので民の中に戻ることができるようになります。神様が受け入れられたのですから、他の誰にもそれ以上何も言わせないという効果がそこにはあったわけです。

 そういう意味では今から何千前の戒めですけれども、今の日本でもできていないような細やかな人間理解を神様はしておられるということが、分かっていただけると思います。

 さて、その次に考えてみたいのは、この時に行われた「犠牲をささげる」という祭儀の考え方についてです。汚れた者や、罪を犯した者は、神との和解をするために「犠牲をささげる」ことを神さまは要求なさいました。ここでは、「汚れ」の問題と同時に「罪」の問題が出てきます。「汚れ」は外側の問題ですが「罪」は内面の問題です。つまり、神様との関係を軽んじたために起こる様々な出来事に対しても、「犠牲」をささげることで、神様は和解することができることを示したのです。 (続きを読む…)

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