・今月の礼拝予定(2012年4月)

4月1日 受難節第6主日

主日主題: 受難
聖書: マタイ21:33-46
説教: 「神の国の実を結ぶ国民に」  鴨下直樹牧師

礼拝後:各部会

4月6日(金) 受難日

主日主題: 十字架
聖書: ルカ22:1-34
説教: 「あなたの信仰がなくならないように祈った」  鴨下直樹牧師

4月8日 イースター

主日主題: 復活
聖書: マタイ22:1-14
説教: 「神からのご招待」 鴨下直樹牧師

礼拝後:持ち寄り昼食会

4月15日 復活後第1主日

主日主題: 今生まれた乳飲み子のように
聖書: マタイ22:15-22
説教: 「カイザルのものはカイザルに 神のものは神に」 鴨下直樹牧師

礼拝後:礼拝子ども相談会、役員会

4月22日 復活後第2主日

主日主題: 主の慈しみ
説教: 鴨下わたる 牧師

午後:教会役員研修会(稲沢)

4月29日 復活後第3主日

主日主題: 全地よ、喜べ
聖書: マタイ22:23-33
説教: 「生ける者の神」 鴨下直樹牧師

・説教 マタイの福音書21章33-46節 「神の国の実を結ぶ国民に」

2012.4.1

鴨下 直樹

今朝は、教会の暦で棕櫚の主日、あるいはパームサンデーと呼ばれる主の日です。そして、今週から受難週を迎えます。この蝋燭も最後の一本になりました。今日は、主イエスがエルサレムに入城なさったことを覚える日です。そして、私たちもこの一週間の出来事を引き続き、聖書から聞き続けています。聖書にはこの受難週のうちに起こった一週間の出来事を大変丁寧に記しています。今朝でマタイの福音書二十一書が終わりますけれども、二十七章に至るまでまだまだこの週に起こった出来事を聞き続けるのです。ですから、来週は教会の暦では復活節になりますが、イースターの箇所ではなくて、マタイの二十二章の御言葉を聞くことになります。
それは、講解説教というスタイルで礼拝をする教会はどこでもそのように、ひたすらに順をおって主の御言葉を聞き続けることが大切だと考えるからです。なぜかと言いますと、そうすることによって、この福音書が私たちに語ろうとしていることが良く分かるからです。
今日の箇所もエルサレムに入られてからイスラエルの指導者たちとの論争の場面です。特に、先週この指導者の祭司長や民の長老たちが主イエスに問いかけた、「あなたは何の権威でこれらのことをしておられるのですか」という問いに対して主イエスが答えておられるところです。先週すでに聞きました通り、そこで主イエスは「ヨハネのバプテスマは、どこから来たものですか。」と反対に問いかけられました。そして、その問いに答えられなかったイスラエルの指導者たちに「わたしも、何の権威によってこれらのことをするのか、あなたがたに話すまい。」と言われたのです。
けれどもその後で、主イエスは三つのたとえ話をなさいます。その三つともがこの権威についての問いに答えておられるわけです。すでにその一つ目は先週聞きました。そして、今朝のところでは「ぶどう園と農夫のたとえ」と言われたり、あるいは「悪いぶどう園の農夫のたとえ」などと言われる主イエスのたとえ話です。

たとえ話というのは、普通は話を分かりやすくするために用います。私も礼拝の説教の中でたびたびたとえ話を用いますけれども、時々妻などに叱られるのは、あなたのたとえ話は話が深まらないでかえって意味が狭まってしまうなどと言われます。ホントに説教を聞いておられる方には申し訳ないと思うのですけれども、そのようにたとえ話を使うというのは、実は簡単なことではありません。ちょうどぴったりくるものでないかぎり、話の筋から離れてしまうことがあるからです。
しかし、主イエスのたとえ話というのはそうではありません。実に深いところに引き込むのです。 続きを読む ・説教 マタイの福音書21章33-46節 「神の国の実を結ぶ国民に」

・説教 マタイの福音書21章23-32節 「何の権威によってか?」

2012.3.25

鴨下 直樹

安野光雅という絵本作家がおります。絵本作家というよりも画家と言ったほうが正確ですが、実に興味深い本を沢山書いておられます。この人の書いた絵本に「おおきな ものの すきな おうさま」というものがあります。ここで絵本の読み聞かせをしたいくらいですけれども、そういうわけにもいきませんので、少し絵本の内容をお話ししたいと思います。
むかしあるところに、おおきなもののすきな王さまがおりました。この王さまは何でも大きなものが好きなのです。大きなベットで休み、大きなナイフとフォークで食事をいただくといった具合で、何でもおおきなものでないと気がすみません。王さまは大きな鳥小屋をつくりますが、鳥が小さいのでみんな逃げていってしまいます。お城で釣りをしても、大きな釣り竿に大きな針をつけます。ですが、そんな大きな魚はいないので、兵隊たちが海からくじらを捕まえてきて、王さまの垂らしている糸の針に、捕まえてきたくじらのくちをくわえさせるのです。そんなある日、大きな植木鉢を用意します。そこにチューリップの球根を一つ植えます。そして、大きなチューリップがなるのを心待ちにするのです。春になってようやくこの大きな植木鉢にチューリップが咲きます。大きな植木鉢の真ん中に一つ小さなかわいいチューリップが咲いたのです。
話はこれだけです。この安野光雅さんは絵本の最後にあとがきを書きます。普通の絵本にはあとがきなんてありません。そんなものを書いてしまったら意味がないからです。ところが、この安野さんはあとがきを書く。そして、なぜこの絵本を作ろうと思ったかというきっかけを書いているのです。 続きを読む ・説教 マタイの福音書21章23-32節 「何の権威によってか?」

・説教 マタイの福音書21章18-22節 「信じて祈れば何でも与えられる?」

 2012.3.18

鴨下直樹

 

 先日、妻からこんな話を聞きました。ある教会での出来事です。一人の信徒の方が祈りのことで、一言つぶやいたのです。「私はこれまで何度も神に熱心に祈り求めてきたけれども、一度も祈りが聞かれたことがない。これはやはり、私の信仰が足りないからでしょうか。」そう言って、周りにいた人たちに質問を投げかけたのだそうです。それで、その場に居合わせた人たちがこう言った。あなたは、どれくらい真剣に祈ったのか。素直に神様のことを信じることが大事なのだと言って、この方に説得しようとしたと言うのです。その会話を聞きながら、妻は、自分が先週と先々週にここで聞いた説教の話をしてきたのだそうです。 続きを読む ・説教 マタイの福音書21章18-22節 「信じて祈れば何でも与えられる?」

・説教 マタイの福音書21章12-17節 「驚くようなことをなされる主イエス」

2012.3.11

鴨下 直樹

今日、三月十一日は昨年起こったあの東日本大震災からちょうど一年を迎えることになります。私たちはこの一年の間に、実に色々な生活の変化を経験してきました。地震への恐れと、同時に放射能への恐れのためです。こういう経験をしながら私たちはこの一年の間、苦しみの意味を問い続けて来たといってもいいかもしれません。それは、個人だけでなく、国全体が同じ問いの中に、今尚立たされていると言えます。
そういう中で、私たちは教会の暦でレントを迎え、今、この苦しみの意味というものについて聖書から考えようとしています。主イエスが苦しみに耐えられたということは、私たちにとってどのような意味を持つのかということを、この時、さまざまな問いとともに考えさせられているのです。
私たちは苦しみの状況に置かれると誰もが優しい言葉を聞きたいと思う。もう一度勇気をもって立ち上がることができるような御言葉を聞きたいと思う。しかしながら、今朝私たちに与えられている言葉は、まるでそれとは正反対の言葉です。

続きを読む ・説教 マタイの福音書21章12-17節 「驚くようなことをなされる主イエス」

・説教 マタイの福音書21章1-11節 「柔和な王の入城」

2012.3.4

鴨下 直樹

 三月を迎えました。新しい新年度を迎えるにあたって、多くの方がこの季節にいろいろなところでその準備をしている頃だと思います。私が関わっております名古屋の東海聖書神学塾も、四月から新しい神学生を迎えるために、先日入塾試験を行ないました。

 わたしは今教務の仕事をさせていただいていることもあって、入塾試験の担当をしております。様々な学科の試験をいたします。特に聖書の基礎知識という試験を最初に行ないます。毎年、神学生として入塾を希望する方々に尋ねられるのが、なぜ、これから神学校で学ぶのに、その前に聖書知識の試験をするのかという問いです。もちろん、これには意味があるわけで、いくらなんでも基礎的なことも知らないで、そのうえで聖書や神学の学びをするわけにはいきませんので、どの程度の聖書知識があるかをそこで試験するのです。

 どの学生も前もって試験勉強をしてきます。先日も、一人が何ページも聖書をまとめたファイルを私に見せてくれました。そのようにして、試験が終わりまして、面接試験を本人と、その教会の牧師とも面接を致します。そうして、やっと神学塾に入塾が許されるのです。ところが、毎年、何名かの神学生が一年もたたずに、辞めて行ってしまいます。そこにはさまざまなことがあるのだろうと思います。一言で言うことはできません。ドイツの神学校に行っていた時もそうでした。何人かが去っていきます。中には試験に通らなかったということもありますけれども、多くは自分の思い描いていたことと違ったということがあるようです。

 まもなく、新年度を迎え、そこでもまたそのような経験をする方があるのかもしれません。自分が考えていたことと違う。そこにかける期待が大きければ大きいほど、またその失望も大きいということがあります。そういうことが起こってしまうのは、自分の思い違いということもあるでしょう。あるいは、自分の期待に答えるだけのものが、そこにはなかったということもあるでしょう。そして、私たちは人生の大半をそのような期待と、失望の連続のなかで、生きているということもまた事実です。

 

 それで、この朝、特に注意して御言葉を聞きたいと思いますが、主イエスに対して人々はどうであったのかということです。 続きを読む ・説教 マタイの福音書21章1-11節 「柔和な王の入城」

・説教 マタイの福音書20章29-34節 「主よ、憐れんでください。」

2012.2.26

鴨下 直樹

 先週の水曜日からいよいよ受難節に入りました。主イエスの受難を覚えながら6週間、この季節を過ごそうとしています。そして、このマタイの福音書の説教の個所も同じように、主イエスが、この苦しみをうけられるためにエルサレムに入っていかれるところにさしかかります。

 

 毎週こうして連続して聖書を読み進めてまいりますと、主イエスがどのようなことをお語りになりながら、この十字架への道のりを歩んで行かれたかということが、いよいよはっきりしてきます。

 子どものようになりなさい、仕える人になりなさい。主イエスはエルサレムに入る前に弟子たちにずっと語り聞かせています。ところが、弟子たちにはなかなかそのことが伝わりません。このこともまた、主イエスを苦しめたのではないかと思えるほどです。

 来週からはマタイの福音書の二十一章に入ります。ここはすでにエルサレムに入城なさるところです。このエルサレムに入る直前、主イエスは何を語られたのか。この御言葉を聞くことによって、私たちもまたこの受難節をどのような思いで過ごすのかということが、いよいよはっきりしてくるのではないかと思います。

続きを読む ・説教 マタイの福音書20章29-34節 「主よ、憐れんでください。」

・説教 マタイの福音書20章17-28節 「将来を支えるものは何か」

2012.2.19

鴨下 直樹

 今日は礼拝の後で今年の教会総会が行われます。特に、二年に一度私たちの教会では役員の選挙を行ないます。長老と執事を選挙で選ぶのです。これはとても大事なことです。特に、今回からこれまで執事として長い間奉仕されたお二人は二年の間、執事としての務めを休みます。そのためにどうしても新しい執事を選ばなければなりません。おそらくみなさんも、誰に投票するか祈りながら考えてこられたのではないかと思います。

 主イエスも、ご自分の弟子たちを自らお選びになられました。社会的に立派な地位にいる人を選んだということではありませんでした。また、一般的に美徳とされる謙虚な人というわけでもなかったようです。そのことは、今日の物語をお聞きになられてすぐに気づかれたことだろうと思います。

 

 今日の聖書の言葉はこのような言葉ではじまります。「さて、イエスは、エルサレムに登ろうとしておられたが」と。十七節です。

 いよいよエルサレムに上るということを明らかにしておられるのです。エルサレムに上るということは、十字架に向かって行かれるということです。そこで、もう一度弟子たちに大事なことをお話ししておく必要がありました。それが、もうすでに二度なされて、ここで三度めになる、受難と復活の予告です。

 「さあ、これから、わたしたちはエルサレムに向かって行きます。人の子は、祭司長、律法学者たちに引き渡されるのです。彼らは人の子を死刑に定めます。そして、あざけり、むち打ち、十字架につけるため、異邦人に引き渡します。しかし、人の子は三日目によみがえります。」と十八節から十九節までに記されています。

 かつて、主イエスがこの話をなさったときに、ペテロは脇に主イエスを連れていって、そんなめったなことを言うものではないといさめたこともありましたが、もうそんなことはいたしません。皆、弟子たちは主イエスの言葉を理解したのです。主イエスとともに歩み、言葉を聞いている間に、分かってきたのです。

 

 そこで、一つの出来事が起こります。 続きを読む ・説教 マタイの福音書20章17-28節 「将来を支えるものは何か」

・説教 マタイの福音書20章1-16節 「気前のよい主人によって」

2012.2.5

鴨下 直樹

昨日、教会で毎月第一の土曜日に行なわれております、ぶどうの木という俳句の会がありました。私はこれに出席することをとても楽しみにしています。特に、昨日の句会はとても心動かされれる句がいくつもありました。特に目立ったのは赤ちゃんのことを詠んだ句が多かったことです。そして、同時に家族を亡くした悲しみを読んだ句がその隣にならんでいます。いつも句会の時は一枚の清記用紙に七句ほど記された紙が回ってきます。その中から自分が良いと思った句を手控えに書き写しながら句を選んでいくのです。二月ということもあって、節分のことを読むもの、あるいは大雪のこと、家族のこと、実に色々な日常の生活の中から見たものを切り取っていきます。ですから、当然色々な句が並ぶのです。

けれども、赤ちゃんの誕生を詠んだ句の隣に、家族を亡くした悲しみの句があることを見て、あらためて、ここに来ている人たちの様々な生活のことを考えさせられます。みなさんそれぞれに様々な生活があります。そういう生活の中の言葉を聴きながら、私は牧師として祈らざるを得ないことを覚えさせられると当時に、この人たちの心に、今日、もっとも相応しい神の言葉が響くだろうか、神の言葉がその心に届くだろうか、そう考えさせられずにはいられないのです。

マタイの福音書の御言葉を聴き続けて三年目になりました。そして、今朝から第二十章に入ります。様々な主の言葉に耳を傾けてきました。その一つ一つの言葉が、みなさん一人一人の生活を築き上げる土台になっていると、そう信じます。そして、今日の御言葉もまた、私たちにとって、本当に聞き届けるべき大事な言葉であると思っています。
これは、ぶどう園の労務者のたとえ話と呼ばれているたとえです。話自体はそれほど複雑ではありません。一度聞けばその内容は良く分かります。ぶどう園の主人が収穫の季節になったために、労務者を雇ってぶどうの収穫をさせるという話です。
けれども読んでいきますと、首をかしげたくなってくることが書かれています。 続きを読む ・説教 マタイの福音書20章1-16節 「気前のよい主人によって」