2012 年 6 月 10 日

・説教 マタイの福音書24章15-31節 「警告・終わりの時に」

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 17:03

2012.6.10

鴨下 直樹

今日の聖書の中に面白い言葉があります。カッコ書きにくくられておりますけれども、そこには「読者はよく読み取るように。」と書かれています。どうしてわざわざこんな言葉があるのでしょうか。どうせ書くのであれば、もっと大事なところにあってもよさそうなものです。これはカッコには入れられていますけれども、最初から書かれていたらしいのです。ですから、新共同訳聖書などはカッコではなく縦の線が引かれていまして、その中に「読者は悟れ。」となっています。
何を悟るのでしょうか。何を読み取ったらよいのでしょうか。もちろん、その直前に書かれているところのことです。十五節にはこう記されています。

それゆえ、預言者ダニエルによって語られたあの『荒らす憎むべき者』が、聖なる所に立つのを見たならば、そのときは、ユダヤにいる人々は山へ逃げなさい。

と記されています。その間に、「読者はよく読み取るように。」と書かれているのです。

この預言者ダニエルによって語られた「荒らす憎むべき者」については少し説明がいると思います。 (続きを読む…)

2012 年 6 月 3 日

・説教 マタイの福音書24章1-14節 「最後まで耐え忍ぶ者」

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 15:04

 

2012.6.3

鴨下 直樹

 

 先週、七つの悲しみについて書かれた主イエスの言葉を聞きました。山上の説教で語られた八つの幸いに対応するように語られた言葉です。もう二年も前になりますから思い起こして頂かなければならないかもしれませんけれども、山上の説教で語られた幸いの言葉は、心の貧しい者は幸いです、悲しむ者は幸いです、と語られていました。決して幸せとは思えないようなことが、神がその生活を支配してくださるならば、悲しみも幸いとなるのだと語られていました。しかし、ここで語られている、忌まわしいものだ、わざわいだと語られている言葉は、この世界では当たり前に行なわれている、人にどうしたら自分を良く見せることができるかということです。けれども、神がその生活を見てくださっていないならば、そういう生き方はこの世界では通用したとしても悲しいことなのだ、と語られています。

 普通幸せではないと思えるところで主は幸せなのだといい、この世界で幸せだといわれるところで、それは悲しいことなのだと語る。ここに、主の心があることを私たちはいつも忘れないでいたいと思います。

 

 そして、その言葉が語られたところで、主イエスの嘆きの言葉はさらに続きます。 (続きを読む…)

2012 年 5 月 27 日

・説教 マタイの福音書23章13-39節 「偽善者として生きる?」

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 13:08

 

2012.5.27

鴨下 直樹

 

 今朝もまたと言ってもいいかもしれませんが、説教の題が変わっています。予告されているものでは七つの悲しみとなっていましたけれども、「偽善者として生きる?」と改めました。いつものことですが、毎月前の月に来月の説教箇所とタイトル、讃美歌を選びます。六月のものもすでに印刷されて今日みなさんの手元に届いていると思います。けれども、まだ一ヵ月も先の説教までできているわけではないので暫定的なものにすぎません。これは、前任の後藤牧師の残していった遺産ということになっております。私にしてみれば、そのために毎回、今日もタイトルを変えなくてはならないと胃酸を飲みたくなる思いをしておりますが、そういうわけですからお許し頂きたいと思います。

 

 さて、今日の聖書箇所には「忌まわしいものだ。」という言葉が八回出てきます。これは口語訳聖書は「わざわいである。」と訳されたり、新共同訳聖書では「不幸だ。」と訳されております。この言葉は、マタイの福音書のはじめに時間をかけて学びました山上の説教の冒頭に八回にわたって語られた「幸いです。」という幸いの祝福を告げる言葉に明らかに対応して、ここでは「不幸だ。」、「わざわいだ。」と記されているわけです。

 わたしはいま聖書に「忌まわしいものだ。」とあると説明しましたけれども、すでにお気づきになられた方も多いと思いますが、新改訳聖書の第三版では、ここは「わざわいだ。」と訳が変えられております。 (続きを読む…)

2012 年 5 月 20 日

・説教 マタイの福音書23章1-12節 「一番偉大な者」

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 17:35

2012.5.20

鴨下 直樹

昨年からみなさんに、ぜひ聖書を読んでくださいという話をしています。そのためか、みなさんずいぶん熱心に聖書を読んでくださっています。来週から聖書全巻痛読会という家庭集会も開かれようとしています。教会の牧師として大変嬉しく思います。ぜひ、聖書を読むということを日頃の習慣にしていただきたいと思います。
けれどもいざ聖書を読もうとすると、誰もが経験のあることだと思いますが、ただ読むだけでいいのかということがどうしても気になります。せっかく読むのであるから、何が書かれているか理解したいし、聖書が分かるという経験をしたいと願う。そうやって聖書を読んでいきますと、どうしたらこの箇所に書かれていることを実行する事が出来るかということに心がとまるようになります。自分はここから何をしなければならないかと考えて読むのです。そのように聖書を読んでいきますと、あまり難しいことを考えなくても比較的簡単に読めますから、ついついこのような読み方が身についてしまいます。
もちろん、そのように聖書を読むということは間違ったことではありません。けれども、そうやって「自分は何をしなければならないか」と考えながら聖書を読んでいるうちに、だんだん聖書を読むことが楽しくなくなってきます。聖書を読めば読むほど、自分がしなければならないことが増えていくからです。それで、気がつくとだんだんと聖書を読むことに疲れてしまって、ついには読むことを諦めてしまいます。まぁ毎週教会で説教を聞いているから大丈夫だとか、祈祷会で学んでいるからいいと考えてしまうかもしれせん。けれども、聖書を読むことを諦めてしまうということは、やはりとても残念なことです。

今日の聖書の箇所はいつも出てきています律法学者、パリサイ人に対して主イエスが語られているところです。読みようによっては、ここでパリサイ人たちをやっつけてしまわれた主イエスが、身内の者たちにまるでこれまでのうっぷんを晴らすかのように、ぐちぐちと批判をしておられるように読めます。この次のところなどは、いよいよ主イエスの口がなめらかになって、言いたい放題彼らの悪口をし始めているかのようですが、そうではないのです。 (続きを読む…)

2012 年 5 月 6 日

・説教 マタイの福音書22章34ー46節 「最後の問い」

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 22:27

2012.5.6

鴨下 直樹

今朝の礼拝説教のタイトルがまた変わっていることをすでにみなさんはお気づきになられたと思います。先週の週報や月間の予定表には「一番大切なこと」となっていました。この「一番大切なこと」というタイトルはすでに聖書をお聞きになれば何を意味しているかすでにお分かりのことと思います。パリサイ人が主イエスに「律法の中で、大切な戒めはどれですか。」と尋ねたことに対して、主イエスのお答えが「これが大切な第一の戒めです。」と言われたところがきているわけです。
「最後の問い」と言われると少し考えなければなりません。実は、ここは長い間なされた主イエスとパリサイ人やありとあらゆる人々との論争の最後の場面になるのです。主イエスをためすためになされた最後の問いが、実は今日の箇所なのです。

今日の聖書のところには少し面白い書き方がしてあります。

しかし、パリサイ人たちは、イエスがサドカイ人たちを黙らせたと聞いて、いっしょに集まった。

と三十四節にあります。実は主イエスがエルサレムにお入りになられてから、これまであらゆる人々がやって来て主イエスに難問を突き付けてきておりましたが、実はまだ一度も直接パリサイ人からの問いはなされておりません。例えば十五節以下のところを読みますと、パリサイ人はヘロデ党の者に質問させているという場面はあります。また、主イエスのお答えが自分たちに向けて言われていることに気づいてイエスを捕らえようとした、などということはすでに記されておりますけれども、直接に問うのはここの場面なのです。 (続きを読む…)

2012 年 4 月 29 日

・説教 マタイの福音書22章23-33節 「生ける者の神」

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 20:46

2012.4.29

鴨下 直樹

先週、私はある一冊の本を読んで過ごしました。それは、精神科医で作家でもある加賀乙彦さんが最近出版された『科学と宗教と死』という小さな本です。小さな本ですけれども、この加賀さんの自伝と言ってもいいような内容の書物です。自分が医師としてどのように生き、作家としてどう生きたか。特に、「死」という問題に生涯向かい合ってきた人ですから、死をめぐるいくつもの言葉が載せられています。
この本を読みながら、木曜に近くにありますキリスト教の老人ホームを訪れ、そこでイースターのテーマで短い説教をしてきました。大変印象的な体験となりました。そして昨日、執事であるKさんのお母さんが倒れたという知らせを受けました。
この一週間、死ということを心にとめ続けてきた一週間だったと言っていいと思います。

そのように、この一週間ずっと死ということを考えながら、この今朝与えられている御言葉を読み続けてきたのです。それは、私にとって特別な体験となりました。ここで語られていることも、「死」の問題です。
「人は死と向き合うとどうなるか。」 (続きを読む…)

2012 年 4 月 15 日

・説教 マタイの福音書22章15-22節 「あなたは一体何者か?」

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 21:39

2012.4.15

鴨下 直樹

先日、車の中であるラジオ番組を聞きました。東京大学情報学環教授の姜尚中(カンサンジュン)さんの番組です。この方は昨年までNHKの日曜美術館という番組の司会もやってこられた方です。日曜の朝九時から十時までという時間ですから見たことのある方は少ないかもしれません。この方はもともと政治学が専門なのですけれども、そういう番組を任されるほどこの方は美術というものに深い関わりを持ってこられました。この方がキリスト者であるということはあまり知られておりませんけれども、信仰に生きておられる方です。この姜尚中さんが昨年末に『あなたは誰?、わたしはここにいる』という小さな本を書かれました。このラジオはこの本についてのインタビューだったのですが、大変心動かされる内容でした。

 これは姜尚中さんがまだ二十代の後半の時、これから自分が何をしていいかわからないでいた時にドイツに行ったんだそうです。南ドイツのミュンヘンにあるアルテ・ピナコテークという美術館を訪れます。そこで、一枚の絵との出会いが姜さんの人生を決定的に変えたと言います。その絵はアルブレヒト・デュラーの自画像ですけれども、この絵はデュラー自身、二十八の時に描いたものです。姜さんはこの絵を見ていて、この絵から問いかけられているような気がしたのだそうです。「あなたは一体何者のか。」と。「私はここにいる。あなたはどこに立っているのか。」とデュラーに問いかけられながらも、その絵から深い慰めを受けたといいます。今、将来どうしていいかまだ分からないでいる自分の生き方もゆるされているような気がしたと、そのラジオのインタビューの中で答えておられました。

 私たちはそのように自分自身が何者であるかということを自分自身に問う時に、私たちはどのように答えを見つけ出すのでしょう。

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2012 年 4 月 8 日

・説教 マタイの福音書22章1-14節 「神からの招待」

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 21:35

2012.4.8
イースター礼拝

鴨下 直樹

イースターおめでとうございます。このイースターの礼拝を子どもたちと一緒にお祝いすることができることを嬉しく思います。この朝私たちに与えられている聖書もまた、祝いの場面です。結婚の祝いの場面です。しかもそのお祝いは、王さまからの直々の招待だというのです。王子が結婚をするというので、その祝いの場に招待されるというのですから、これは誰もが心待ちにし楽しんで出かけるところでしょう。
ところが、今日の話は少し変わっています。そのような王の結婚の宴に招いておいた人々が「来たがらなかった。」というのです。食事に期待できないからでしょうか。あるいは、王さまのことが嫌いだからでしょうか。王さまのことが嫌いでも、生涯に一度あるかどうかの王の宴会ですから、参加しておいても損はないと思うところですが、招かれた人々は畑仕事や商売に出かけて行ってしまいます。それどころか、ある人たちはこの祝宴に招いてくれた王のしもべを殺してしまったとさえ書かれています。
しかも、話はそれだけではありません。招いた人々が誰も来ないので、今度は大通りに出かけて行って出会った者を誰でもいいからこの祝宴に招くようにとしもべに伝え、片っぱしから宴会に招いたのだというのです。それで話が終わればいいのですけれど、今度はそのようにして招かれた人の中に、婚礼の礼服を来ていない人が一人いたといいます。そして、この人を縛り上げて外に出してしまったというのです。

さらに、この話の最後に何が書かれているかと言いますと、「招待される者は多いが、選ばれる者は少ないのです。」とあるのです。選ばれる者は少ないと言ったって、追い出されたのは一人だけなのですから、謎は深まるばかりです。 (続きを読む…)

2012 年 4 月 1 日

・説教 マタイの福音書21章33-46節 「神の国の実を結ぶ国民に」

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 21:54

2012.4.1

鴨下 直樹

今朝は、教会の暦で棕櫚の主日、あるいはパームサンデーと呼ばれる主の日です。そして、今週から受難週を迎えます。この蝋燭も最後の一本になりました。今日は、主イエスがエルサレムに入城なさったことを覚える日です。そして、私たちもこの一週間の出来事を引き続き、聖書から聞き続けています。聖書にはこの受難週のうちに起こった一週間の出来事を大変丁寧に記しています。今朝でマタイの福音書二十一書が終わりますけれども、二十七章に至るまでまだまだこの週に起こった出来事を聞き続けるのです。ですから、来週は教会の暦では復活節になりますが、イースターの箇所ではなくて、マタイの二十二章の御言葉を聞くことになります。
それは、講解説教というスタイルで礼拝をする教会はどこでもそのように、ひたすらに順をおって主の御言葉を聞き続けることが大切だと考えるからです。なぜかと言いますと、そうすることによって、この福音書が私たちに語ろうとしていることが良く分かるからです。
今日の箇所もエルサレムに入られてからイスラエルの指導者たちとの論争の場面です。特に、先週この指導者の祭司長や民の長老たちが主イエスに問いかけた、「あなたは何の権威でこれらのことをしておられるのですか」という問いに対して主イエスが答えておられるところです。先週すでに聞きました通り、そこで主イエスは「ヨハネのバプテスマは、どこから来たものですか。」と反対に問いかけられました。そして、その問いに答えられなかったイスラエルの指導者たちに「わたしも、何の権威によってこれらのことをするのか、あなたがたに話すまい。」と言われたのです。
けれどもその後で、主イエスは三つのたとえ話をなさいます。その三つともがこの権威についての問いに答えておられるわけです。すでにその一つ目は先週聞きました。そして、今朝のところでは「ぶどう園と農夫のたとえ」と言われたり、あるいは「悪いぶどう園の農夫のたとえ」などと言われる主イエスのたとえ話です。

たとえ話というのは、普通は話を分かりやすくするために用います。私も礼拝の説教の中でたびたびたとえ話を用いますけれども、時々妻などに叱られるのは、あなたのたとえ話は話が深まらないでかえって意味が狭まってしまうなどと言われます。ホントに説教を聞いておられる方には申し訳ないと思うのですけれども、そのようにたとえ話を使うというのは、実は簡単なことではありません。ちょうどぴったりくるものでないかぎり、話の筋から離れてしまうことがあるからです。
しかし、主イエスのたとえ話というのはそうではありません。実に深いところに引き込むのです。 (続きを読む…)

2012 年 3 月 25 日

・説教 マタイの福音書21章23-32節 「何の権威によってか?」

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 19:32

2012.3.25

鴨下 直樹

安野光雅という絵本作家がおります。絵本作家というよりも画家と言ったほうが正確ですが、実に興味深い本を沢山書いておられます。この人の書いた絵本に「おおきな ものの すきな おうさま」というものがあります。ここで絵本の読み聞かせをしたいくらいですけれども、そういうわけにもいきませんので、少し絵本の内容をお話ししたいと思います。
むかしあるところに、おおきなもののすきな王さまがおりました。この王さまは何でも大きなものが好きなのです。大きなベットで休み、大きなナイフとフォークで食事をいただくといった具合で、何でもおおきなものでないと気がすみません。王さまは大きな鳥小屋をつくりますが、鳥が小さいのでみんな逃げていってしまいます。お城で釣りをしても、大きな釣り竿に大きな針をつけます。ですが、そんな大きな魚はいないので、兵隊たちが海からくじらを捕まえてきて、王さまの垂らしている糸の針に、捕まえてきたくじらのくちをくわえさせるのです。そんなある日、大きな植木鉢を用意します。そこにチューリップの球根を一つ植えます。そして、大きなチューリップがなるのを心待ちにするのです。春になってようやくこの大きな植木鉢にチューリップが咲きます。大きな植木鉢の真ん中に一つ小さなかわいいチューリップが咲いたのです。
話はこれだけです。この安野光雅さんは絵本の最後にあとがきを書きます。普通の絵本にはあとがきなんてありません。そんなものを書いてしまったら意味がないからです。ところが、この安野さんはあとがきを書く。そして、なぜこの絵本を作ろうと思ったかというきっかけを書いているのです。 (続きを読む…)

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