2020 年 3 月 1 日

・説教 創世記19章1-38節「うしろを振り返ることなく」

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 19:59

2020.03.01

鴨下 直樹

⇒ 説教音声はこちら

 ここ連日、テレビをつけると新型コロナウィルスのニュースで持ちきりです。もう、誰もが専門家になったのではないかと言えるほどに、このニュースの話ばかりが取り沙汰されています。実に多くの人がパニックになっていて、トイレットペーパーもなくなるところが出ているとかいう報道を耳にしています。多くの人が疑心暗鬼になっている姿がここからもよく分かります。

 そういう状況の中で、今日私たちは創世記19章のみ言葉に耳を傾けようとしています。 この物語の中心的な主題は神の裁きです。予期せぬ状況が目の前に迫ったときに、人はどう行動するのか。そのことがここで描き出されています。

 ここで神に滅ぼされたソドムとゴモラがどれほど罪深いのか、それは、この箇所を読むと明らかです。この町は道徳的に腐敗していたのです。今日ではさほど罪悪感を感じることもなくなっている、さまざまな形の性的な不道徳がここで明らかになっています。そして、それを神はそのまま見過ごしにすることのできない罪であることをここで明らかにされています。

 このソドムの腐敗ぶりは、わざわざこの聖書を丁寧に説明する必要もないほど明らかです。ここで、神が遣わされた二人の御使いは、ただ決然と事に当たっているのです。そこには、何の弁解の余地もなく、それらの人々が憐れみの対象にすら、もはやなっていないという事実を、私たちはどのように受け止めたらよいのでしょうか。

 これらの不道徳を悔い改めることがないならば、それは罪としてそのまま残る。そして、その罪のために神はこの町を滅ぼされるという事実に、私たちは目を向ける必要があるのです。このような神の裁きを目の当たりにするときに、私たちは神を畏れます。しかし、ほとんど、私たちのこの世界は、この神を軽んじ、神に対する畏れを抱くこともないまま、罪の上にあぐらをかいて生きてしまっているのです。目の前に危機的な状況がなければ普段は平和で、本当に考えなければならないことから目を背けて生きているのが、私たちの日常なのかもしれません。

 今、世界中がこの新型コロナウィルスのためにほとんどパニック状態に陥ってしまっています。カトリック教会は北海道と東京で礼拝を取りやめにしたというニュースも入っています。また、礼拝中止を検討する教会も出てきています。

 確かに、政府の要請ですべての学校を休校にするように呼びかけているわけですから、このような反応は一方では理解できます。もし教会から感染が拡大してしまうならば社会からどれほど大きな攻撃が加えられるか分からないからです。人を守るための決断のために、全国の小中高の学校がひと月にわたって授業を止めて、自宅待機にするというのは、大きな決断であったと思います。そういう世の流れの中で、教会も同様に対応する。それは一つの社会に対する責任の取り方です。

 ただ、そういう中で忘れてはならないのは、何よりも大切なことは、どんな事態に陥ったとしても、神を畏れる心を軽んじることはできないのだということです。例えばこの教会から被害が出て、実質建物が閉じられるようなことが起こったとしても、私たちは神への礼拝をやめるという決断はないのです。礼拝を取りやめている教会でも恐らく、形を変えて礼拝をしているのだと思います。たとえ場所や形を変えたとしても、神を神として礼拝をささげることが何よりも大切なことです。目の前に起こっている現象だけ見て、事の本質を忘れてしまっているのだとすると、本当のことが見えなくなってしまうのです。 (続きを読む…)

2020 年 2 月 29 日

今月の礼拝予定(2020年3月)

Filed under: 今月の礼拝予定 — susumu @ 23:16

3月1日 受難節第1主日

主日主題: 神の裁き
聖餐式礼拝: 午前10時30分
聖書: 創世記19章1-38節
説教:「うしろを振り返ることなく」」鴨下直樹牧師

午後:役員会

3月8日 受難節第2主日

主日主題:神への畏れ
公同礼拝: 午前10時30分
聖書: 創世記20章1-18節
説教:「アブラハム再び・・・」鴨下直樹牧師
子ども: 「アブラハムの生涯より」鴨下愛

午後:礼拝準備会/月間予定確認会、聖歌隊練習

3月15日 受難節第3主日

主日主題:笑い
ファミリー礼拝: 午前10時30分
聖書: 創世記21章1-7節
説教:「イサクによる笑い」鴨下直樹牧師
子ども: 「アブラハムの生涯より」河合和世

午後:手話講座

3月22日 受難節第4主日

主日主題:見られる神
公同礼拝: 午前10時30分
聖書: 創世記21章8-21節
説教:「エル・ロイ」鴨下直樹牧師
子ども: 「アブラハムの生涯より」鴨下愛

午後:教団3月総会@岩倉教会

3月29日 受難節第5主日

主日主題:共におられる神
公同礼拝: 午前10時30分
聖書: 創世記21章22-34節
説教:「共におられる神と生きて」鴨下直樹牧師
子ども: (未定)鴨下愛

子どもと親のプログラム(2月のご案内)

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  • キッズゴスペル(サタデージョイ内で始めます!)
    ...土曜日 朝10:00~11:30(現時点では第3土曜日を予定)5月からスタート予定で準備中。
    参加費:500円(ゴスペルのある回のサタデージョイのみ有料)
    対象:小学1年生~6年生

    毎回、東海地域で4つのクワイアを指導する兼松弘子先生を講師にお招きし、英語でのゴスペルソングに挑戦していく予定です。
    英語は読めなくても、耳で覚えて唄えるようになります!
    興味のある方はお問い合わせください。

    ゴスペルとは、本来「福音~良い知らせを告げる~」という意味です。
    聖書の神さまからの『私はあなたを愛しているよ!』というメッセージです。
    ゴスペルソング(黒人霊歌:アフロ・アメリカン・スピリチュアル)は海外で多くのミュージシャンが幼い頃にその音楽に触れて育っています。

 

  • Mama’s cafe with こひつじ
    ...3月は休会です。

 

  • 就園児(3歳から)と親のプログラム「ハレルヤちびっこ」
    ...3月は休会です。

 

  • 小学生のためのプログラム「サタデージョイ」
    ...3月7日、14日、21日(毎週土曜日。ただし祝日にあたる場合や、公立校の土曜授業日、夏・冬休み期間中はお休みです。)朝10:00~11:30 参加無料
     
    ★見て、聞いて、さわって、食べて、しゃべって、作って! 楽しいプログラムが待っています!

今年もいっぱい遊んで、聖書を学んでいっしょに心豊かに成長しましょう!
 

  • 宣教師館のゲームナイト(旧「芥見JC」、青年学生向き)
    ...3月21日(土)夕18:00~
    (毎月第3土曜日)
    参加費:200円(軽食付き)
    会場:芥見7丁目にある宣教師館
     
    ★ドイツのボードやカードゲーム

 
お問い合わせ・申込みは教会まで 電話 ♪058-243-5798
または⇒こちらのフォームからメッセージを送信してください。
 

2020 年 2 月 16 日

・説教 創世記18章16-33節「主の前に立つアブラハム」

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 14:08

2020.02.16

鴨下 直樹

⇒ 説教音声はこちら

 私たちはここ二週間ほどでしょうか、テレビをつければ新型コロウィルスのニュースにくぎ付けになっています。ついに、日本人の死者が出たとか、感染ルートが分からない人が感染したという、もうこの新しい病が身近に差し迫っているというような危機感を煽る報道に、私たち自身もどのような身の振り方をすればいいのかと不安になります。

 こういう報道をテレビなどで見ていますと、ふとこういう考えが心に浮かんできます。神様はどうしてこういうことをゆるされているのかと。もし神のゆるしがあって、この新しい病気で次々に多くの人の命が奪われているということならば、きっとこれは神の裁きなのではないか。そんな考えが私たちの頭の中に出てくるわけです。信仰生活の長い歩みの人は、こう考え方からある程度自由になっている人もいると思いますが、どうして神様はこんなことをなさるのだろうかという思いを抱かれる方もあると思うのです。

 もちろん、それは今回の病気にとどまりません。地震や、災害に見舞われるとき、不慮の事故や、災いを経験するとき、私たちの心の中に「神よ、どうして」という疑問が出てくることがあります。今日の聖書は、まさにこの神の裁きをどのように理解するかということと深くかかわってくる箇所と言えます。

 と言いますのは、ここで聖書は、神がロトたちの住んでいるソドムとゴモラの町を滅ぼそうとしておられるというのです。この箇所は神の裁きを語る箇所です。

 ここで聖書が神の裁きをどのように書いているのか、まず、注意深くこのところに目を向けていきたいと思いますが、この17節でこう書かれています。

主はこう考えられた。「わたしは、自分がしようとしていることを、アブラハムに隠しておくべきだろうか。」

 ここでソドムの町が裁かれることを、神がアブラハムに相談するべきではないかということを考えておられる、と書かれています。神様の心の中のことが書かれているなんて、ちょっと珍しい箇所です。それは18節以下にも続いています。

アブラハムは必ず、強く大いなる国民となり、地のすべての国民は彼によって祝福される。わたしがアブラハムを選び出したのは、彼がその子どもたちと後の家族に命じて、彼らが主の道を守り、正義と公正を行うようになるためであり、それによって、主がアブラハムについて約束したことを彼の上に成就するためだ。

 とそのように記されています。つまり、これから起こるソドムとゴモラの神のさばきの計画を、アブラハムが知ることは、神がアブラハムに与えた約束が実現するためにどうしても必要なのだと言っているわけです。そして、ここで一番大事なことは何かというと、このことで、アブラハムやアブラハムの一族が「主の道を知り、正義と公正を行うようになるため」と言っています。 (続きを読む…)

2020 年 2 月 9 日

・説教 創世記18章1-15節「主にとって不可能なこと?」

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 14:34

2020.02.09

鴨下 直樹

⇒ 説教音声はこちら

 前回の17章でアブラハムは99歳、妻のサラは89歳。この時に主なる神はアブラハムに、来年の今ごろサラから子どもが生まれると語られました。今日の箇所はその続きと言いますか、今度はアブラハムだけでなくサラにもこの知らせが伝えられたことが書かれています。

 この頃、アブラハムたちはマムレの樫の木のふもとで暮らしています。ここに住み始めてもう長いこと時間がたっています。ロトと別れた時から、聖書で言えば13章の時から、アブラハムはこのマムレの樫の木のところで生活しています。このマムレというのは14章でアブラハムがエラムの王ケドルラオメルの連合軍と戦った時に、アブラハムと盟約を結んでいた人物で、一緒に戦って勝利を得ています。つまり、アブラハムは神から土地を与えられる約束をいただいていても、なおも、マムレの所有する土地を間借りするような状態で、ここまで過ごしていたということです。

 アブラハムにとってマムレの樫の木のふもとはもう住み慣れた地です。そこで落ち着いた生活をしていたところで、3人の旅人が日の暑い時間帯に、アブラハムの天幕のそばを通りかかったのです。

 この三人の旅人は主なる神ご自身でした。「主は、マムレの樫の木のところで、アブラハムに現れた」と1節に書かれています。これは、主がわざわざアブラハムに会われるために、出向いて行かれたということです。17章と内容が同じですから、創世記では時々そのような書き方になりますが、アブラハムに語られた出来事と、サラにも語られたというように書き方を分けて書いているのかもしれません。それは、あのクリスマスの出来事の時と同じように、マリヤに御使いが受胎告知されただけでなくて、夫のヨセフにも語りかけられたことと似ています。

 主はアブラハムに寄り添われて、その信仰を導かれるように、ここではサラに対しても同じように、サラの信仰をも導いてくださるお方なのです。

 しかし、もちろん、アブラハムは主がわざわざ自分に会うためにこられていることは知らなかったはずです。アブラハムは、普段からこのように旅人を持てなしていたのか、あるいは、この旅人からただならぬ雰囲気を感じ取ったのか、はっきりしたことは書かれておりませんから分かりませんけれども、精一杯のおもてなしをいたします。

 今年、オリンピックがあります。その時に「お・も・て・な・し」という言葉が日本の心を表す言葉として紹介されていましたが、アブラハムのおもてなしは、おもてなし文化のあるという私たちの予想を超えるおもてなしです。

 少し余談ですけれども、日本に毎年ドイツから一年の短期宣教師たちがもう何十年も前から来ていますけれども、彼らに聞くと日本で家に招かれたことがないと口をそろえて言います。そんなことを考えると、私たちは「おもてなし」という文化を持っていると言えるのかどうか、怪しい気がしています。人を自分の家に迎えるという気持ちよりも、掃除がめんどくさいとか、きっと他の人がやるからいいとか、そこまで親しくないとか考えるわけで、相手の気持ちよりも、自分の事情が優先されているのではないかということを考えさせられます。ところが、アブラハムはそうではありませんでした。

 まず、「三セアの上等の小麦粉をこねて、パン菓子を作りなさい」と6節にあります。先週、「55プラス」の集会に28名もの方々が参加されたそうです。そこではいつもマレーネ先生がパン菓子というか、ケーキを焼いてくださっています。これは本当におもてなしの心だと思います。それが魅力でたくさんの近隣の方々が教会を訪ねてくれているのだと思いますが、30人分のケーキを焼くのに必要な小麦粉はせいぜい2リットルくらいでしょうか?焼いたこともない私が偉そうに言うことではありませんが、23リットルものケーキを焼かされたサラはかなり大変であったことは想像するに難しくありません。

 それだけではなくて、子牛を一頭屠ります。もう大盤振る舞いです。それに凝乳と牛乳を準備します。「凝乳」というのは、チーズかヨーグルトかと思いますが、ドイツには「クワーク」というパンに載せて食べるヨーグルトとチーズの間みたいなのがあります。そんなイメージでしょうか。ドイツのルター訳ではどうなっているかと思ってみてみたら、「バターとミルク」となっていました。パンにあわせるものですから、バターの方が合いそうな気がしますが、どうだったのでしょうか。

 サラはパンの準備、しもべは子牛をほふって大忙し、アブラハムも8節には「彼自身は木の下で給仕をしていた」とありますから、もう一族上げての「お・も・て・な・し」です。 (続きを読む…)

2020 年 2 月 6 日

子どもと親のプログラム(2月のご案内)

Filed under: 子どもと親のプログラム,教会の活動 — susumu @ 08:48


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  • 【新プログラム】キッズゴスペル(サタデージョイ内で始めます!)
    ...土曜日 朝10:00~11:30(月1回、変動あり)

    4月からスタート予定で準備中。(3月のご案内で日程をおしらせします。)
    毎回、東海地域で4つのクワイアを指導する兼松弘子先生を講師にお招きし、英語でのゴスペルソングに挑戦していく予定です。

    対象;小学1年生~6年生
    英語は読めなくても、耳で覚えて唄えるようになります!
    興味のある方はお問い合わせください。

    ゴスペルとは、本来「福音~良い知らせを告げる~」という意味です。
    聖書の神さまからの『私はあなたを愛しているよ!』というメッセージです。
    ゴスペルソング(黒人霊歌:アフロ・アメリカン・スピリチュアル)は海外で多くのミュージシャンが幼い頃にその音楽に触れて育っています。

 

  • Mama’s cafe with こひつじ
    ...2月18日(火)朝10:00~12:00
    参加費:200円…デザート&飲み物
     
    ノーバディーズパーフェクト(略NP)から生まれたママ達のおしゃべりサロンです。美味しいランチもついてます。学童期(思春期)のお子さんを持つお母さんも是非一緒に♪
     
    お申込みは教会(電話 ♪058-243-5798) または担当 山田まで
    ⇒こちらのフォームからメッセージを送信することもできます。
    (お申し込みは2月15日頃までにお願いします)。
     
    ★プレイスペースがあり、ママもお子さんもゆっくりくつろいでお話できます!★

 

  • 子どもグッツや日頃の裁縫、素敵な作品なんでも!「マレーネ先生とてしごとの会」
    ...2月12日(水)朝9:30~13:00(毎月第2水曜日)
    茶菓代:100円

 

  • 就園児(3歳から)と親のプログラム「ハレルヤちびっこ」
    ...2月8日(毎月第2土曜日)朝10:30~12:00
    ※参加費:親子一組で200円
    前日までに出欠をご連絡ください。

 

  • 小学生のためのプログラム「サタデージョイ」
    ...2月8日、15日、22日(毎週土曜日。ただし祝日にあたる場合や、公立校の土曜授業日、夏・冬休み期間中はお休みです。)朝10:00~11:30 参加無料
     
    ★見て、聞いて、さわって、食べて、しゃべって、作って! 楽しいプログラムが待っています!

今年もいっぱい遊んで、聖書を学んでいっしょに心豊かに成長しましょう!
 

  • 宣教師館のゲームナイト(旧「芥見JC」、青年学生向き)
    ...2月15日 夕18:00~
    (毎月第3土曜日)
    参加費:200円(軽食付き)
    会場:芥見7丁目にある宣教師館
     
    ★ドイツのボードやカードゲーム

 
お問い合わせ・申込みは教会まで 電話 ♪058-243-5798
または⇒こちらのフォームからメッセージを送信してください。
 

2020 年 2 月 2 日

・説教 創世記17章15-27節「ノー! アブラハム」

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 19:18

2020.02.02

鴨下 直樹

⇒ 説教音声はこちら

 みなさんが誰かに話を聞いてもらいたくて一所懸命話をする。ところが、聞いているはずの相手が、鼻で笑っている。そんな場面が私たちの日常でも時折起こるでしょうか。ちゃんと自分の話を聞いてくれていないと思ったとたん、自分が今話した内容が軽く扱われたような気がして空しくなる。悲しくなる。がっかりする。そんな経験をしたことが誰しもあると思います。

 この創世記、17章で主はアブラハムの反応も待たずに、まくし立てるかのように話し続けておられます。アブラハムが多くの国民の父となるという契約を結ぶこと。そのために名前をアブラムからアブラハムに変えること。そして、割礼を施すこと。そこまでが前回の箇所です。主の言葉はそれでとぎれることなく、今度は妻サライの名前もサライからサラに変えるようにと語り続けます。もう、一方的です。99歳になったアブラハムに、神はここぞとばかりに語りかけておられるのです。ここに、主なる神の情熱的なお姿を見ることができます。

 しかも22節を読みますとこう書かれています。

神はアブラハムと語り終えると、彼のもとから上って行かれた。

 えっ? 上って行かれたってことは、下りてこられていたってこと? という疑問符が付きますが、そういうことなのでしょう。神は天から降りてこられていて、アブラハムと顔を合わせて語っておられるのです。それが、どういう姿であったのか、人としての姿をおとりになったのか、御使いのお姿なのか、それとも、光の中から、あるいはモーセの時のように火の中から語りかけられたのかは、書かれていないので分かりません。けれども、この書き方の中に、神のただならぬ情熱のようなものを感じ取ることができます。

 前のめりになって語りかけておられる神。そう表現してもいいと思います。ここで主は満を持して、アブラハムに語っておられるのです。

 一方、アブラハムの方はどうかというと、前回もお話ししました、イシュマエルの出来事の後、13年もの間、何の神からの働きかけもない時間を過ごしています。もっといえば、ハガルとイシュマエルの出来事を通して、アブラハムは神からの直接の働きかけはないわけですから、もっと長い間、あの星空談義の後からここまでの間、アブラハムは神からの御声を聞いたことは書かれておりません。

 忘れたこところに突然現れて、何だかとてもいいことをたくさん話してくれるけれども、こっちの気持ちはどうなのだとアブラハムが思っていたとしても不思議ではありません。

 主なる神が前のめりになっておられるのとは正反対に、アブラハムは引いてしまっています。この主の語りかけのことばをアブラハムは受け止められません。
17節

アブラハムはひれ伏して、笑った。

 ここにそのように記されています。悲しい響きです。アブラハムに一所懸命に語りかけておられる主が、この時どのような思いになられたことでしょうか。神に対してこの態度をとるとは、とても畏れ多いことです。主が、前のめりになって語っておられるのに、アブラハムの心は冷めてしまっているのです。受け止められないのです。笑うしかないのです。

 これが、この17章で描かれているアブラハムの最初の反応です。 (続きを読む…)

2020 年 2 月 1 日

今月の礼拝予定(2020年2月)

Filed under: 今月の礼拝予定 — susumu @ 00:03

2月2日 降誕節第6主日

主日主題: 笑い
聖餐式礼拝: 午前10時30分
聖書: 創世記17章15-27節
説教:「その名はサラとなる」鴨下直樹牧師

午後:新旧役員会/総会資料配布

2月9日 降誕節第7主日

主日主題:神の力
公同礼拝: 午前10時30分
聖書: 創世記18章1-15節
説教:「主に不可能なこと?」鴨下直樹牧師
子ども: 「アブラハムの生涯より」鴨下愛

午後:礼拝準備会/月間予定確認会、聖歌隊練習

2月16日 降誕節第8主日

主日主題:主の慈しみ
ファミリー礼拝: 午前10時30分
聖書: 創世記18章16-33節
説教:「主の前に立つアブラハム」鴨下直樹牧師
子ども: 「アブラハムの生涯より」河合和世

午後:教会総会/役員就任式

2月23日 降誕節第9主日

主日主題:救い
公同礼拝: 午前10時30分
聖書:ヨハネの手紙第一 4章7-8節
証し:田村浩太兄
子ども: (未定)鴨下愛

2020 年 1 月 26 日

・説教 創世記17章1-14節「99歳からの新スタート」

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 17:34

2020.01.26

鴨下 直樹

⇒ 説教音声はこちら

 毎週、すこしずつですがこうして創世記のみ言葉を聴き続けています。みなさんが、毎週この続きの説教を聞くことを楽しみにしてくださっているといいなと思っています。私は、一週間の間に、創世記のさまざまな翻訳の聖書に目を通し、解説している注解書や説教集を読みます。特に、創世記は優れた内容の本がたくさんありますので、少なくても20~30冊の本に目を通します。そうやって準備をするのは、ここに書かれていることがどういうことなのかをできるかぎり理解したいと願うからです。そうすることによって、神はここで何をなさろうとしておられるのかをつかみ取ることができるわけです。けれども、いつも時間が足りない、もっと知りたい、もっと深く掘り下げたいと願いながら、一週間がすぐに過ぎていってしまいます。

 一方で、アブラハムは前回の箇所の終わりで86歳であったと書かれていまして、ここでは99歳です。この13年の間のことを、聖書は何も記していません。言葉に記すことのできない時間を過ごしているわけです。ハガルから生まれたイシュマエルが跡取りではないと聞かされながら、子どもが日に日に育っていくのを、アブラハムはどんな思いで育てたのでしょうか。13年という時間は、とても長いのです。一週間、この前のところから今日の箇所までをゆるされる時間の中で、できるかぎり理解しようとする努力に比べて、アブラハムがここで味わった理解したいと願いながら、何の答えも、言葉もないそのような13年の重みというのはどんなものなのか、想像する他ありません。

 私たちは、教会でこうして毎週、順に聖書の言葉に聞いていくことができるわけですが、そこから神さまはどういうお方か、信仰に生きるということはどういうことなのかを考えることができます。私たちは、アブラハムはあまり立派ではなかったのではないかとか、もっと他の選択がなかったかとか、好きなことを言えるわけですが、それもこれも、私たちはすべての結末を知っているから言えるだけのことで、実際にその期間を経験したわけでありませんので、アブラハムの本当の苦しみというのは理解し得ないのです。

 1節をお読みします。

さて、アブラムが九十九歳のとき、主はアブラムに現れ、こう言われた。「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前に歩み、全き者であれ。」

 主はここで、ご自身のことを「わたしは全能の神である」と言われたと書かれています。「エル・シャダイ」という名前です。前回のところで「エル・ロイ」、「見ておられる神」という主なる神様のことが語られています。それと、同じように、ここで主はご自分の方から、自分は「エル・シャダイ」という神であると言われたわけです。

 ここで、この「エル・シャダイ」という神の御名を「全能の神」と訳しております。ところがこの「エル・シャダイ」という言葉の意味ですけれども、この「シャダイ」という言葉はどの本を読んでも意味が分からない言葉だと書かれています。意味が分からない言葉なのに、どうして「全能」なのかと言うと、まだ紀元前の話ですが、ギリシャがへブル語の聖書をギリシャ語に翻訳した70人訳聖書といわれる、旧約聖書の最初のギリシャ語翻訳がなされます。この70人訳ギリシャ語聖書がこの「シャダイ」という言葉を、「全能」と訳したのです。 (続きを読む…)

2020 年 1 月 19 日

・説教 創世記16章1-16節「荒野の泉のほとりにて」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 12:45

2020.01.19

鴨下 直樹

⇒ 説教音声はこちら

 聖書の中にはいく人もの女性たちの物語が記されています。ここにも二人の女の人が登場します。一人はサライです。サライはアブラハムの妻で、後で名前がサラと変えられます。ここでは、まだサライと名前で出ています。ちょっとアブラムなのかアブラハムなのかと気になる方があるようですから、聖書の表記は「アブラムとサライ」ですが、この後で、「アブラハムとサラ」と名前がかわりますので、今後は「アブラハムとサラ」という名前でお話ししたいと思います。

 サラはアブラハムと共にカルデヤのウルから出てきました。そして、その後、ハランに留まります。アブラハムとサラは10歳年が離れていたと後で書かれています。ですから、アブラハムがハランを出て来た時75歳ですから、サラは65歳ということになります。それから10年後の出来事が今日の出来事です。

 そして、この時、サラは75歳です。つまり、アブラハムが神から子孫の約束を与えられた時、妻のサラもその約束を耳にして、喜んだはずですなのですが、その約束から10年の間、子どもが与えられなかったわけです。その時のサラの悲しみや悩みはどれほどだったことでしょう。
 2節にこう書かれています。

サライはアブラムに言った。「ご覧ください。主は私が子を産めないようにしておられます。」

 まずは、前半だけですが、この言葉の中に、サラの悲しみが込められています。75歳まで子どもがなかったことも悲しみですけれども、神から約束を与えられた時に、当然、はじめは自分に子どもが与えられると思ったはずなのです。ところが、その間も子どもが与えられなかった。きっと悩んだに違いないのです。いろいろと考えたに違いないのです。自分を責めたに違いないのです。

 そして、一つの結論を出します。

「どうぞ、私の女奴隷のところにお入りください。おそらく、彼女によって、私は子を得られるでしょう。」

 この言葉をアブラハムに告げるために10年という歳月を要しているわけですから、どれほど大きな選択だったかということを、私たちはここから知ることができます。
 そして、聖書は続いてこう書いています。

「アブラムはサライの言うことを聞き入れた。」

 このアブラハムの決断にも、寂しさを感じるのです。本当ならば「サラ、あなたはそう言うけれども、私は神様の約束を信じている。だから、そんなことを言うもんじゃないよ。」もし、そう書かれていれば、アブラハムという人は何という妻を愛した人物だったことかということが分かって、物語的にも美しい物語になるはずなのです。

 けれども、アブラハムの口からそういう、信仰的な言葉は出てきません。
「アブラムはサライの言うことを聞き入れた。」この短い言葉の中に、私たちはこの決断がサラをどれほど悲しみに追いやったのかを知るのです。

 もちろん、こういう話は、歴史の中では満ち溢れています。豊臣秀吉の妻、寧々に子どもがなく、茶々を側室として迎え入れたのも、同じことです。こういうことは歴史の中で何度も行われてきたことです。それは、子孫を得るためにどうしても通らなければならない道であるということは、誰もが分かるのです。

 そして、結果もいつも同じです。4節。

「彼はハガルのところに入り、彼女は身ごもった。彼女は、自分が身ごもったのを知って、自分の女主人を軽く見るようになった。」

 こうなることは、分かり切っていることです。そして、ここからはいつも同じ、ドロドロの展開です。

サライはアブラムに言った。「私に対するこの横暴なふるまいは、あなたの上にふりかかればよいのです。この私が自分の女奴隷をあなたの懐に与えたのに、彼女は自分が身ごもったのを知って、わたしを軽く見るようになりました。主が、私とあなたの間をおさばきになりますように。」

 10年前にエジプトの王ファラオが見染めたサラの美しさは、もはやなくなってしまったのでしょうか。それとも、その美しさは外見だけのものだったのでしょうか。いや、それとも、人は誰でもこうなり得るということを、聖書は語ろうとしているのでしょうか。 (続きを読む…)

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