2018 年 2 月 25 日

・説教 マルコの福音書6章6節-13節「主に遣わされて」

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 19:51

2018.02.25

鴨下 直樹

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 今、私たちは「レント」と呼ばれている、主イエスの十字架の苦しみを受けられた期間を覚える季節を迎えています。主イエスはどのような苦しみを受けられたのか、そこのことを覚えようというわけです。けれども、私たちが主イエスの受けられた苦しみを理解しようと思っても、それは簡単なことではありません。不当な裁判を受けたり、鞭で打たれたり、十字架刑にされるということは、話では理解できたとしても、どこかで自分とは関係のない出来事だと考えてしまいます。私たちはあまり、そのような極端な試練を経験するということはないのです。けれども、聖書を読む時に、主イエスがその歩みの中で受けられた困難というのがどういうものであったのかを知ることはできます。

 今日、私たちに与えられている箇所は十二弟子の派遣と言われるところです。主イエスは御自分の弟子たちを二人ずつ組みにして、伝道に遣わされました。その際、弟子たちを送り出す時に心がけることは何かということが記されています。

 まず、7節から分かることは「ふたりずつ」ということと、「権威をお与えになった」ということです。二人ずつというのは、一人で行くなということです。一人で出かけて行って挫けてしまうと、もうそれで働くことができなくなってしまいますから、支えてくれる人が必要なのだというわけです。そして、「権威をお与えになった」とあります。どんな権威かというと、「汚れた霊を追い出す権威」と書かれています。私たちは、汚れた霊などという言葉を聞くと、どんなことかといろいろ考えてしまいます。昔の人は悪霊につかれた人が今よりも沢山いたのだろうかという考えも浮かんでくるかもしれません。

 けれども、以前、汚れた霊に支配されていたレギオンの時にも話しましたが、レギオンのような極端な場合もありますが、神の霊に支配されていない人、つまり罪人は誰もがこの汚れた霊の支配のもとに生きているわけです。クリスチャンになっても、私たちがこの罪と決別するということは簡単なことではありません。主イエスは、ご自分の遣わされた弟子たちに、人をこの罪から、汚れた霊から、自由にするための権威を与えて遣わされたということなのです。主イエスの弟子は、人を罪から解放するためにキリストの権威を与えられて遣わされるのです。というのは、主イエスの弟子であったとしても、罪と無関係ではありません。その罪人が、人の罪のことをとやかく言えるのかということになると、もう何もできません。けれども、そのような力のない、弱さを持っている弟子たちに、主イエスは御自分の権威を与えられて、私の権威によって語りなさい、人と向かい合いなさい、と言われたのです。

 宗教改革者ルターが説教をする前にした祈りというのがあります。その祈りは、まず、自分の罪を赦してください。自分の罪が妨げとなって神に近づくことができなくならないようにと祈りました。自分も罪を犯す弱さがある。そういうものが人に悔い改めを勧めるのだとすると、まず、そのまえに自分の罪を、自分の汚れを清くしていただかなくてはならないと考えてそのように祈ったのです。悔い改めていない者が、悔い改めについて語ることはできないので、祈ったのです。ルターは説教を語る前に常にそのように祈ったのです。このルターの祈りは、それ以来すべてのみ言葉を語る者の祈りとなりました。

 私自身、まだ神学生として学んでいた時のことです。イギリスの大説教者と呼ばれているロイドジョンズの本を読んだ時に、そこにこんな言葉が書かれていました。「望むと望まないとに関わらず、いつでも私たちの生活ぶりが、まず最初の説教者の発言者となる。私たちの唇が私たちの生活以上のことを語っても、それは無益である」。 (続きを読む…)

2018 年 2 月 11 日

・説教 マルコの福音書6章1-6節「心の痛みに寄り添って」

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 16:33

2018.02.11

鴨下 直樹

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 マルコの福音書を順に読み進めております。このマルコの福音書は主イエスがガリラヤ湖のほとりのナザレの出身であるということを第一章のはじめに記して、ここまでの間、ガリラヤ湖からはあまり遠く離れたところには行かないで、この近隣を巡りながら伝道を続けているように記してきました。

 今日のところは、「イエスはそこを去って、郷里に行かれた」と記しています。広い意味で言えば、ここまでの間、主イエス一行はずっと郷里であるガリラヤ湖のあちら側、こちら側という具合で進んできましたから、ここで「郷里に行かれた」とわざわざ説明しているのも少し違和感を覚えるほどです。けれども、今日のところは、郷里周辺ということではなくて、まさしく、ご自分の郷里に行かれたということです。自分の郷里に行くというのは、どんな気持ちだったのだろうかと思います。

 皆さんの中には、もう何年も郷里を離れて岐阜に住んでおられるという方が何人もあると思います。そういう場合、久々に故郷に里帰りするということになると、色々な懐かしさや、あるいは苦い思い出を抱えながら郷里に赴くということになるのだと思います。主イエスの場合、伝道しておられた期間は全部で3年程度と考えられています。しかも、まだこの6章の時点で考えてみますと、郷里を離れてからもう何年もたっていたとは考えにくく、長くても1年とか、数カ月、そのような期間だったと思うのです。

 ただ、今と違って、この時代というのは少し違った地方に移るということでも、すでに大変なことだったわけです。今、NHKの大河ドラマで西郷隆盛をやっています。今からわずか数百年前の時代であっても、隣の藩にまで行くというだけで、脱藩ということになって大きな問題となるわけです。今の感覚からすると、何百年か違うだけでも理解を超えているわけです。ですから、主イエスの時代、今から二千年も前の時代に、自分の住んでいるところを離れて、わずか数カ月であったとしても、さまざまな場所に出かけて行って、数カ月ぶりに戻って来るということも、大変なことであったに違いないのです。しかも、主イエスの働きはあっという間に有名になって、一度は悪い噂まで立てられて家族が迎えに来たという出来事も3章の20節以下で記されていますから、そういう主イエスが何カ月ぶりかに郷里に足を向けるということは、きっと秘めたる思いがあったと考えて間違いないのです。

 その秘めたる思いとは何かというと、郷里の人にも神の国の福音を伝えたいという思いです。それは、郷里の人々への愛と言ってもいいものです。問題は、主イエスの心のうちにはそのような郷里の人々に対する思い、愛があるのにも関わらず、それが伝わらないというもどかしさです。 (続きを読む…)

2018 年 2 月 4 日

・説教 マルコの福音書5章21-43節「新しく生きる」

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2018.02.04

鴨下 直樹

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 いつの時代もそうですが、親というのは自分の子どもが病気にかかると必死でなんとかしたいと思うものです。今日の聖書を読むと、それは時代を超えてそうだのだという思いをいだきます。子どものつらそうな姿を見ると何とかしてやりたいと思うのです。

 先週から、娘の通っている幼稚園でインフルエンザが流行っているという知らせを聞いていました。幸い、木曜までは元気だったのですが、この日の夕方から微熱が出始めました。翌日には高い熱が出たのですが、その日幼稚園の子どもたちも同時にお休みした子どもたちがいたようで、Y君も、Tちゃんもインフルエンザなのだそうです。私もあまり他の方と接触しないほうがいいということですから、できるだけおとなしくしていたいとは思っております。昨日もこの説教の準備をしている時に、妻から子どもの熱が40度になったと知らせを聞いて、手をとめて祈りました。何とか子どもを癒してやって欲しいと願うのです。そこには、立派な信仰などというものはありません。ただただ、切実な親の思いがあるだけです。

 こういう病の癒しという聖書の物語を読む時に、おそらく誰もが頭の片隅によぎる思いがあると思います。それは、どうしたらこの願いは聞き届けられるのかということです。真剣に祈ったらいいのか、長い時間かけたらよいのか。疑いを持たないで祈ったらよいのでしょうか。昔から、お百度参りという祈りの習慣があります。百回、宮参りをして祈る。百回、冷たい明け方に水浴びをしながら祈る。そういう熱心さが、熱意が届くのだと考えてきたのです。それは、キリスト教であろうが、他の宗教であろうが、共通する思い。つまり、何とか祈りを聞いてほしいという思いがそのような形になってあらわれるというのです。

 けれども、同時に私たちは祈っても聞かれないということを経験することがあります。聖書に出て来る使徒パウロであっても、自分の病のために祈りましたが、その祈りはかなえられませんでした。私たちは、自分の祈りはかなえられると信じたい、という思いがあります。それは誰だってそうでしょう。こうやって祈ったらうまくいくというようなコツがあるのであれば、誰だって知りたいと願うのです。

 今日の聖書は、二つの癒しの物語です。そして、単純に読んだ印象ということで言えば、主イエスに信頼するものは癒されるということになると思います。けれども、ことはそんな単純なことではありません。今日の聖書は何を語っているのか、注意深く見ていきたいと思います。 (続きを読む…)

2018 年 1 月 28 日

・説教 マルコの福音書5章1-20節「心の底から変えられて」

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2018.01.28

鴨下 直樹

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 今日は少し長い聖書の箇所です。特にこの箇所には、「汚れた霊につかれた人」が出て来ます。しかも、その人は墓場に住んでいるというのです。墓場というのは、今日でいう霊園のような墓石が並んでいるところを想像しますが、そうではありません。横穴の洞窟です。そういう穴蔵に当時の人々は亡骸を収めて墓としていたのです。この人はそういうところを住処としていたというのです。ちょっと普通ではないなという気がします。

 ここに記されている「汚れた霊につかれる」あるいは、「悪霊につかれる」などいう言葉を耳にすると、ちょっとおどろおどろしいものを想像してしまいます。けれども、この「汚れた霊につかれる」というのはどういう状態にある人なのでしょうか。何か特別な精神的な状態に置かれているということなのでしょうか。

 実は、この箇所には幾つかの、日本の牧師のした説教があります。それを読みながら、全く対照的な考察をしているものを見つけました。一人の牧師は、この人は社会から締め出されてしまって墓場に追いやられてしまったというように、この人のことを理解しようとします。社会が、周りの人々が、この人を墓場まで追い込んだのではないかと考えるのです。

 また、もう一人の説教者は正反対のことを考えます。この人は仕事に失敗し、住む家を失った。けれども、プライドだけはあったので、惨めな自分の姿を人前にさらすことのないように墓場に住み着いたのだろうと考えるのです。いずれにしてもこういうことは、墓場に行くことはなくても、私たちにも理解できる部分があるのではないかと思います。私たちでも、もう人に疲れて誰も知らない世界に抜け出したいというような望みを持つことがあるのです。現実逃避などと言われるけれども、そうしなければやっていられないような気持ちになることがある。そこまではいかなくても、追い詰められるとどこかで気楽に息抜きをしたいという思いに至ることは、誰にだってあるのだと思うのです。この聖書の時代というのは車のない時代です。他の民族のところに出かけると命が危ない。そういう中で、誰も普段は来ることのない墓場で生活するというようなことは、この時代に生きた人の選択肢となりえたのではないかということは、想像するに難しいことではない気がするのです。

 この二つの説教が語るように、周りの人がこの人を追い込んだということも考えられるでしょう。あるいは、自分が人を避けて墓場に住むことを選んだ。どちらもありそうなことです。けれども、回りの人の眼差しが優しくなったら、社会が変わったら、こういうことはなくなるのでしょうか。あるいは、自分がプライドさえ捨てればそれで問題は解決するのでしょうか。事柄はそんなに簡単ではないと思うのです。というのは、私たちが生きている世界というのは、悪の支配、悪い支配と言った方がイメージしやすいかもしれません。そういうものがいたるところにあるのです。この聖書に出て来る「汚れた霊につかれた人」というのは、何か特別な問題を抱えている人というよりも、「悪の支配」、悪い習慣、悪い人の支配、そういったもののもとで生きる人の姿と言ってもいいわけです。つまり、神に支配されないで生きる生活というのは、いつも、この汚れた霊に支配される生活と結びついているのです。

 1節にこう記されています。

こうして彼らは湖の向こう岸、ゲラサ人の地に着いた。

湖の向こうのゲラサ人の地というのは、「他民族の土地」ということです。「異教の神の地」、つまり、イスラエルの神の支配の外にある世界ということです。 (続きを読む…)

2018 年 1 月 14 日

・説教 マルコの福音書4章35節―41節「なぜ私だけ苦しむのか」

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 16:15

2018.01.14

鴨下 直樹

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 今日の説教題はひと月も前に自分でつけたものです。まだ、聖書を丁寧に読んだわけでもないのに、説教題をつけるというのは時々無理があると感じているのですが、どうしてこういう題をその時付けたのだろうかと考えさせられています。

 自分のことを話して恐縮なのですが、この一週間は私にとって心苦しい一週間を過ごしました。大きな岩が私の頭の上にのしかかっていて取れそうもないのです。水曜日の祈祷会のまえにSさんが、「仕事に行く時に気が重くなる時がある」と話してくださいました。「とても気持ちが重たくなって眠れなくなったとしても、私たちはお祈りすることができるので、そういう時はお祈りして、神様に委ねて出かけるようにしています。」その言葉を私自身に言われている言葉のように聞きながら、そういう時いつも祈る祈りの言葉を呟きます。

 「マイゴット、マイオール」「わが神、わが全てよ」。アッシジの修道士フランチェスコの祈りです。まるで念仏を唱えるかのように、ぶつぶつと同じ言葉を繰り返します。「わが神、わが全てよ。わが神、わが全てよ。私の神、主よ、あなたは私の全てです。私のすべてのあなたのものですから、あなたに委ねます。」心からそう祈ることができるようになるまで、何度も、何度も祈ります。

 「なぜ、私だけが苦しむのか」。私たちはこのように叫びたくなる思いを持つことがあります。何故こんなことが起こるのか。主はこのことをおゆるしになっている。残念ながら、私たちは毎日平和で、安全が保障されているところで生きることができるわけではありません。

 今日の聖書の箇所はまさに、そのような弟子たちの叫びが記されています。 (続きを読む…)

2018 年 1 月 7 日

・説教 マルコの福音書4章26-34節「寝ている間に働かれる主」

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 14:31

2018.01.07

鴨下 直樹

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 新しい年を迎えました。新年というのは不思議なもので、何か新しいことを一年の間やり通そうと決意したい気持ちになります。今年こそは、こうありたい。私たちはそのように考えて生きています。それは、こう言い換えることもできます。成長したいと願っているのだと。

 さて、お正月に実家に行きましたら、10年前、ドイツから日本に帰って来た時の写真を見せられました。ドイツにいる間に体重が8キロほど増えて帰ってきたのですが、今と比べるとずいぶん痩せているのです。どうも、この10年の間にさらに8キロほど増えたようです。それで、今年は少し体重を落とそうと決意しました。すでに一週間がたちましたが、体重はさらに少し・・・

 今日の聖書は、主イエスがなさったたとえばなしです。いろいろなたとえ話をなさった最後の二つです。26節から29節の部分のたとえ話はひとりでに成長する種のたとえばなしと言われています。私のお腹と同じように、ひとりでに成長するわけです。

 ここに面白い表現があります。27節です。

夜は寝て、朝は起き、そうこうしているうちに、種は芽を出して育ちます。どのようにしてか、人は知りません。

 この冒頭に「夜は寝て、朝は起き」と記されています。今度の2017年訳ではこう訳されました。

夜昼、寝たり起きたりしているうちに種は芽を出して育ちます。

 私たちは、朝晩…という表現や、朝昼…という言い方をすると思いますが、聖書は反対です。夜に日が暮れると一日が始まったと考えるので、こういう書き方が出てくるわけです。これは、ただ、言葉の順番が入れ替わっているということだけではないと思います。私たちは夜になると今日一日起こった出来事を思いながら、眠ることによってリセットして、朝、新しい一日を迎えると考えて生活すると思います。ですから、夜眠られないということが起こったりするわけです。ところが、聖書の時代の人々の生活はそうではないのです。一日が終わって、新しい一日が始まったと考えながら眠りにつく。眠りから一日が始まるのです。ここの部分は、聖書が特にそれを強調しているのではなくて、ごく当然のことのように「夜は寝て、朝は起き」という書き方をしているのです。 (続きを読む…)

2017 年 12 月 31 日

・説教 マルコの福音書4章21-25節「光の中へ」

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2017.12.31

鴨下 直樹

 今日は大晦日ですが、教会の暦では今日が降誕節第一主日、主イエスの誕生を覚える主の日です。先日少し買い物に出かけたのですが、年末ということもあって、お店には物凄い人であふれかえっていました。もちろん、クリスマスの商品は隅に追いやれて、安売りされていて、真ん中にはお正月のものが並びます。今年も一年が終わるのだという実感がわいてきます。

 でも、少しほっとするのは、クリスマスのイルミネーションの明かりは、すぐに片づけないで、そのまま夜の街を彩っているところが多い気がします。暗く、寒い夜に明かりの持つ力を誰もが認めているのではないかと思うのです。暗い寒い冬の夜空に輝く明かりは、冬にもたらされる風物詩となっています。

 今日、私たちに与えられている聖書は、主イエスがお語りになったたとえばなしです。明かりの話しです。

あかりを持って来るのは、升の下や寝台の下に置くためでしょうか。燭台の上に置くためではありませんか。

 そのように21節に記されています。原文では「あかりが来る」と書かれています。でも、あかりは自分では来ることが出来ないので、翻訳としては誰かが持って来るという訳し方がされています。

 先週の礼拝で燭火礼拝を行いました。礼拝堂の中を聖歌隊が、あかりを携えて歌いながら前に進みまして、クリスマスの讃美歌を歌い、そのあとで暗くした部屋のみなさんのところに明かりをともして回りました。おそらく、座っていた方々は「明かりが自分のところに来た」と感じられたのではないかと思います。誰が持ってきたかというよりも、暗い中で明かりが自分のところにやって来る。そう感じるわけです。それは、まさにクリスマスの知らせそのものです。暗い世界に主イエスがお生まれになる。光がもたらされる。それこそがクリスマスの知らせです。

 主イエスはこのたとえ話を神の国を知らせるためのたとえ話となさいました。神の国、神の支配というのは、暗い所にいる人のところに明かりがもたらされるようにしてくるようなものだということです。そうやってもたらされた明かりを、隠すようなことがあるだろうかと主イエスはおっしゃっているのです。というのは、明かりを隠すということが起こり得たからです。 (続きを読む…)

2017 年 12 月 17 日

・説教 マルコの福音書4章1-20節「みことばを受け入れる祝福」

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 17:10

2017.12.17

鴨下 直樹

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 先週の金曜日で、名古屋の東海聖書神学塾の私の受け持っている今年の講義が終わりました。やっと終わったというのが正直な感想です。10月から3月までが今年の後期の講義なのですが、今、私は三つの講義を教えています。その一つに新約聖書神学という講義があります。実は、この金曜日は私の後で講義をする予定の先生がお休みになったので、急遽もう一コマやることになりまして4時間の講義をすることになりました。

 その後も2時間の講義と1時間の講義が一つずつあります。何とかやりきったという思いで一年を終えました。その新約聖書神学の講義で、この福音書に記されている「神の国」というテーマで何回か授業をします。金曜日にもその話をいたしました。4時間では終わらないほど、さまざまな意味がこの言葉には含まれています。

「神の国」というのは、このマルコの福音書の冒頭15節で、主イエスが「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」とお語りになられて、主は神の国の福音を伝えようとしておられることを私たちは聞いてきました。

 昨日、ちょうど神学校の講義で、神の国ということばを考えるために、旧約聖書の時代にこの言葉がどのような響きをもっていたのかという話をしました。4時間もお話しませんので安心して聞いてください。

 旧約聖書のイザヤ書52章7節にこういうみ言葉があります。

良い知らせを伝える者の足は、山々の上にあって、なんと美しいことよ。平和を告げ知らせ、幸いな良い知らせを伝え、救いを告げ知らせ、「あなたの神が王となる。」とシオンに言う者の足は。

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2017 年 12 月 3 日

・説教 マルコの福音書3章20-35節「新しい家族」

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2017.12.03

鴨下 直樹

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 アドヴェントの第一週を迎えました。先週、教会でも大掃除をいたしましてクリスマスツリーの飾りつけをいたしました。みなさんの家でもツリーを飾っておられる家もあるでしょうか。この季節は日に日に寒くなります。それで、家でストーブを焚いたり、こたつを入れたりして、暖かい家でくつろぐことが多くなるのではないでしょうか。家族の多い所ではどうしても暖かい部屋に人が集まって来るということが自然なのだと思います。ただ、残念なことに家にたくさんの人が集まりますと、どうしても衝突が起こりやすくなってしまいがちです。

 今日の説教の題を「新しい家族」という題にしました。携帯電話のCMの話しではありません。聖書の話しです。今日の聖書の箇所は「イエスが家に戻られると」という言葉からはじまります。「家」というと家族のいる家をイメージするのですが、読み進めていきますと「イエスの身内の者たち」が主イエスを連れ戻すために登場してきます。ですから、この「家」というのは、主イエスの実家ということではないようです。恐らくカペナウム周辺のペテロの家を指しているのだと思います。

 多くの人目を避けて家に戻って、主イエスと弟子たちはくつろぐことができたのかというと、そうではありませんでした。食事の暇もないほど大勢の人が訪れて落ち着くことができなかったのです。しかも、そこに、主イエスの身内の者、おそらく母マリヤと主イエスの兄弟たち、たとえばヤコブとかユダという聖書の後の方に記されている手紙の著者たちは主イエスの兄弟であったと書かれていますから、そういう兄弟たちがやってきて、主イエスを連れ戻そうとしたようです。理由は「気が狂ったのだ」と言う人がいたので、家族としてはこのまま放っておくと、悪い噂がどんどん広がってしまって家の恥になると考えたのでしょう。

 今日のテーマは「家」です。家というのは、くつろぐことのできる場所、生活の場所という意味が大きいのですが、その他にも色々な役割があります。家というのは家族で守っていくもの、支え合っていくものということもできるわけです。それは特に社会に対しての家族の責任、役割というものがあるわけです。その家の中で「気が狂った」という噂がたてられてしまったのがイエスです。家族は当然、必死になって火消しにやっきになります。

 この「気が狂った」という言葉ですが、「自分の存在から外にでてしまう」という意味の言葉です。エクセステーという言葉で、この言葉から英語のエクスタシーという言葉ができました。自分の外に出てしまう。我を忘れてしまう。我を失ってしまう。そういう言葉です。家族、身内の立場から考えると、自分たちの外に出てしまった。我を忘れて恍惚状態に陥ってしまって、手に負えないところに出て行ってしまった。自分の家族の中からそういうものが出てとなった時に、家族としてはそんな恥ずかしいことは外に出さないように、もう一度自分たちの中に収めようとするわけです。だから迎えに来たわけです。

 それは子どもを持つ親としてはよく分かることだと思うのです。自分たちの理解の外に子どもが飛び出していこうとすると、必死になって、何とか手のうちに収めようと考えるのです。それは、家族を持つ者の悩みです。そして、できれば、安心して外に出て行くことが出来るようになってから、子を送り出したいと願うものです。その時、家族としてはどうやって独り立ちしようとする子どもを送り出してやることができるのか、その親としての態度がまた求められるのです。
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2017 年 11 月 26 日

・説教 マルコの福音書3章7節―19節「大衆と弟子たち」

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 19:04

2017.11.26

鴨下 直樹

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 先週の日曜日教会で子ども祝福礼拝をいたしました。その後で、少し前から気になっておりました村上進さんのお父さんの村上伸先生のお宅を訪ねて小さな聖餐の集いを持ちました。

 村上伸先生のことをあまりご存じない方も多いかもしれません。日本基督教団の安城や岡崎で伝道なさって、最後は東京の代々木上原教会で牧会をなさっておられた先生です。退職されてからは、岐阜の池田町に住まわれて、執筆活動などを続けて来られました。福音派という言葉を私はあまり使いませんけれども、福音派の中ではそれほど知られた先生ではなかったかもしれませんが、日本のキリスト教会では本当に大きな貢献をなさった先生です。

 特に、ディートリッヒ・ボンヘッファーの研究家として、さまざまな翻訳をしてくださいましたし、ドイツの色々な神学者たちの著作を日本語に訳してくださって、大きな貢献をされた先生です。少し変な言い方かもしれませんけれども、私には雲の上のような存在の先生でしたので、気軽に訪問するというようなことも、あまり考えていなかったのですが、もう長い間聖餐をされていないのではないかと、急に思い立ちまして、この日曜日の夕方にお訪ねしたのです。

 今週の木曜日、祝日の日でしたが、夕方に進さんからお電話をいただきまして、伸先生が亡くなられたと聞きました。本当に、日曜日にお会いした時にはまだ、顔色も良さそうでしたので、できるだけこれからは訪問をさせていただこうと思っていたところでしたので、本当に言葉も出ないほど驚きました。そして、昨日、葬儀をいたしました。家族の方々とごくわずかな方だけの小さな葬儀でしたが、よい葬儀であったと思います。

 その葬儀でもお話したのですが、村上先生が献身の召命を主から受けたのはまだ18歳。高校生の時です。青森の八戸という町で伝道しておられた渡辺牧師がさまざまなところを訪問する時に、伸先生は一緒に連れられていったのだそうです。そうしているうちに、自分も牧師になりたいという思いを持ったのだそうです。けれども、家は貧しくて、牧師になって食べていくことができるだろうかということが心配で、親に話すことができずに思い悩んでいた時に、天からの声を聞いたのだそうです。その声は「死ねばいい!」という声だったのだそうです。気のせいだったかもしれないけれども、確かにそう聞こえたと自伝の中に書かれていました。そして、青森から東京にでて神学の学びをして、牧師になったということでした。 (続きを読む…)

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