2015 年 5 月 31 日

・説教 ヨハネの福音書12章20-26節 「一粒の麦という喜び」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 18:11

 

2015.5.31

鴨下 直樹

 
 先週の月曜日に岐阜県基督教連合会の総会が行われました。岐阜県中の教会がこれに所属しておりまして、岐阜にある二つの刑務所に教誨師を送る働きを続けて来ております。三年前の総会で、書記に任命されまして、ようやく、その勤めを終えることができて少しほっとしております。いつも、この総会において教誨師の働きの報告を聞くのですが、せっかくまさに、教派を超えて普段は福音派の先生方との交わりが多いのですけれども、色々な立場の牧師たちが出席しますので、そこで研修ができるようにということで講師を立てて、講演をしていただいています。今年は、西濃地区の担当ということもあって、この芥見教会の前任者で、この3月まで大垣教会で牧師をしておられた後藤喜良先生が講演してくださいました。「私の福音」という、これまで牧師として働いてこられて後藤先生が大切にしてこられたことをまとめて話してくださいました。二時間近くの講演でしたので、ここでその話をすることはできませんけれども、自分はどうやって聖書を読んできたのか、どのように福音を理解して来たのかというのが主な話でした。とても良い話で、改めて聖書を丁寧に読んでいくことの大切さに気付かされました。そこで話されていたのは、何か一つのテーマが気になると、そのテーマで聖書全体をもう一度丁寧に読み直していく。そうやって、聖書全体がそのテーマについてどのように書いているのかを理解しなおしていったと話しておられました。

 そういう思いで聖書を改めて読みますと、今日、私たちに与えられているこの箇所も、いくつも考えさせられるテーマがあると思います。たとえば、今日の箇所のはじめの20節にこのように書かれています。

さて、祭りのとき礼拝のために上って来た人々の中に、ギリシヤ人が幾人かいた。

他の福音書と読み比べてみましても、この主イエスがエルサレムに入城したあとで、そこにギリシヤ人がいたということを書いているのはこのヨハネの福音書以外にはありません。 (続きを読む…)

2015 年 5 月 24 日

・説教 ヨハネの福音書12章12-19節 「エルサレムに入城される主のお姿」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 18:03

 

2015.05.24

鴨下 直樹

 
 今日は、ペンテコステの主の日です。私たちに聖霊が与えられた、ことを思い起こす主の日です。中部学院大学のチャペルで説教してきたときに、大学の先生から来週はペンテコステだけれども、教会で何かしますかと聞かれました。讃美歌でペンテコステの曲を歌うくらいですとその時答えたのですが、そのあとで、もう一度、今日の聖書箇所を読み直しまして、ああ、ペンテコステの礼拝の説教にふさわしい聖書箇所だと少しほっといたしました。

 今日は、エルサレム入城のところに入ります。教会歴でいえば、主イエスの受難を覚えるレントの期間の、いよいよ受難週をむかえる主の日のことを「棕櫚の主日」と呼びます。主イエスがエルサレムに入場なさる時に、人々が手に手に棕櫚の葉を掲げて「ホサナ、ホサナ」と主イエスを迎え入れました。ですから、ある意味では受難週の時に、この箇所を読むのであればまさに、ぴったりということになると思います。いったい何がこの出来事、ペンテコステにふさわしい個所なのでしょうか。少し、そんなことを心にとめてくださりながら聞いていただければと思います。

 このエルサレム入城の出来事というのは、すべての福音書に記されています。ですから、なんとなく、どの福音書も同じことが書かれていると勝手に思い込んでしまうところがありますが、このヨハネの福音書は、ほかの福音書と特に異なっているということができます。というのは、このエルサレム入城の出来事がラザロの復活ということに深く結びつけられているからです。ここで、イスラエルの人々は主イエスがエルサレムに入場されるのを大歓声で迎え入れ、そのために今日の箇所の最後の19節のところでは、

パリサイ人たちは互いに言った。「どうしたのだ。何一つうまくいっていない。見なさい。世はあげてあの人のあとについて行ってしまった。」

と記しています。それほどまでに、人々の心が主イエスに集中してしまい、もはや、「我々以外はみな主イエスの仲間だ」と言わなければならないほどに、人々は主イエスのエルサレム入城に熱狂したと記しているのです。それは、ラザロの復活の出来事を通して、人々の関心が主イエスに傾いたためだと、ユダヤ人たちは理解したのだと記しているのです。 (続きを読む…)

2015 年 5 月 17 日

・説教 ヨハネの福音書 12章1-11節 「マリヤの応答とユダの応答」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 15:51

 

2014.5.17

鴨下 直樹

 
 ゴールデンウィークも開けてようやく皆さんの生活も落ち着いてきたころでしょうか。私自身も、ここ数週間、ほかの教会に行かなければならないことがあったために、なかなか落ち着いてヨハネの福音書のみ言葉を聞くことができなくなっていて申し訳ない気持ちでいます。今日からいよいとヨハネの福音書の第12章に入ります。特に、今日の箇所からはヨハネの福音書は主イエスの十字架にかけられる一週間の出来事が記されます。これは、この12章から最後までですから約半分を、この受難週の出来事として記録していることになります。

 今朝はこの前に書かれていることを思い出していただきたいのですが、主イエスは、ラザロをよみがえらせた結果、ユダヤ人たちは主イエスを殺害する計画を立てました。今日の前のところ、11章57節に書かれていますのは、「イエスがどこにいるかを知っている者は届け出なければならないという命令を出していた」とありますから、人の目を避けるようにしてベタニアに入られたようです。そこで、晩餐を取ろうとしています。そこにはマルタとマリヤと、復活したラザロも一緒です。この部分ではラザロについてはそれ以上特に何も書かれていませんけれども、よみがえったラザロが主イエスと共に晩餐を囲むというのは、何でもない記事のようですけれども、まさにラザロが生きる者とされたのだということがここから読み取ることができます。

 また、その時、姉のマルタはそのために給仕をしていたと書かれています。ルカの福音書にしるされているマルタが給仕をして、マリヤが主イエスの話に耳を傾けたと言う出来事を思い起こさせるかのようなことが書かれています。おそれく、ここでは、まさに、給仕をするマルタと、主イエスに香油を注ぐマリヤという対比が描かれていると考えられます。このように、今日の箇所は色々な人々が出て来ていて、色々な視点で考えることのできる箇所と言えますけれども、今日の箇所は、ラザロやマルタにもまして、マリヤと主イエスの弟子のユダに焦点が絞られているところだと言えると思います。

 それで、はじめにまずマリヤの信仰についてここから見て見ることにしましょう。 (続きを読む…)

2015 年 5 月 3 日

・説教 ヨハネの福音書11章45-57節 「イエスは何故殺されたのか?」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 14:43

 

2014.5.3

鴨下 直樹

 
 今日、私たちはヨハネの福音書11章の最後の部分を、私たちに与えられたみ言葉として聞こうとしています。このヨハネの福音書11章にはラザロの復活の出来事が記されています。そして、ここで、ラザロの復活の出来事の結果、主イエスが殺害されることになったと記されています。
 月間予定表には、「イエスの殺害計画」と今日の説教箇所を書きました。看板にもそのように張り出されています。しかし、説教題を変えまして「イエスは何故殺されたのか?」と改めました。確かに、ここに書かれていることは、イエスの殺害計画についてですが、説教題としてはあまり良い題とはいえません。「イエスは何故殺されたのか?」としても十分ではないかもしれませんけれども、少なくても、イエスがなぜ殺されたのか、その理由であれば知りたいと思う方があるのではないかと考えるからです。

 今日、私たちに与えられている箇所を読みまして、はじめに私が印象として心にとまったのは、ここに書かれているのは、主イエスを殺した人々の側の出来事についてです。そうすると、どうして、そんな内向きの話が、ここでこうやって記録されているのだろうかという疑問がわきます。こういう、ドロドロした話は、できるだけ隠しておこうとするものです。人に知られてはいけない話です。本来、人殺しの計画話などというものは、そこにいた身内の人間が裏切りでもしないかぎり、外に漏れることはないはずです。ということは、こういった内容が、聖書に記録されているということは、最初は主イエス殺害に加わって、この時の内密の話し合いを聞いていた誰かが、やがてキリスト者になって、その時の事情を話したと考える以外に、考えにくいことです。

45節以下にこう記されています。 (続きを読む…)

2015 年 4 月 19 日

・説教 ヨハネの福音書11章27-44節 「私たちの傍らに立たれる主」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 14:19

 

2014.4.19

 鴨下 直樹

 
 先週、私たちはMさんのご家族と共に山口県の岩国に行ってまいりました。Mさんの結婚式のためです。私は中国地方に行くことが普段ありませんので、景色を非常に楽しんできました。土曜日が結婚式でしたが、前日リハーサルがありましたので、朝早くから家族で車で出かけました。途中早く着きそうでしたので広島でおりまして、雨が降っておりましたが、少しだけ広島に行き、広島焼きを食べて、海沿いの道を走りながら岩国に向いました。途中で宮島という有名らしい場所を通りましたけれども、きれいな景色はそこからフェリーにのってということでしたので、あきらめました。

 夜に、岩国の聖書宣教教会に着いたのですが、行ってみて分かったのですが、海のすぐそばの教会です。教会の方は海辺の防波堤沿いに車を止めるというくらい、海の近くで驚きました。それと同時に、Mさんは今まで山に囲まれた岐阜にいたわけですけれども、これからは海の近くで生活することになるのかと、少し心配になりました。きっと、これまでとは全く違う生活がそこにあるに違いないと思ったからです。

 そして、教会はメソジスト教会です。私たちにはあまりなじみのない教会ですが、ジョン・ウェスレイの教会の伝統に生きている教会です。ジョン・ウェスレイと言っても誰の事だか良く分からないかもしれませんし、メソジスト教会というのもなじみがない。そういう方は、昔NHKでやっておりましたテレビドラマの「大草原の小さな家」を想像してくださるといいと思います。行ってみてわかったのですけれども、今でもまさにそのままの教会を形成しようとしています。テレビも見たことのない方は児童文学ですけれども小説になっておりますので、是非、読んでいただきたいと思います。

 私はアメリカ人の司式の結婚式は初めてでしたし、メソジストの司式も初めてでしたので、興味深い結婚式でした。以前、婚約式に賛美をしてくださったご夫妻です。ミラー先生が英語で説教して、奥様もアメリカ人ですけれどもキョウコ先生と呼ばれていましたが、このキョウコ先生の通訳で説教が行われました。キョウコ先生が通訳をしながら説教の途中で何度も涙ぐみながらMさんに語りかけていたのがとても印象的でした。本当に、心から結婚する二人を祝っているのだということが伝わってきました。私はこのアメリカ人の牧師夫妻を見ながら、この方々は本当にMさんの傍らに立って支えようとしておられるのだということをとても強く感じて、とても嬉しい気持ちになりました。

 さて、今日の聖書箇所をお聞きになられて、少しこれまでの主イエスのイメージと違う印象を持たれた方があるかもしれません。ここに描かれている主イエスはとても感情的に見えます。 (続きを読む…)

2015 年 4 月 5 日

ヨハネの福音書11章17-27節 「よみがえりの主」

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 22:57

 

2014.4.5

 鴨下 直樹

 

イースターの朝を迎えました。先ほど、この礼拝に先立って朝食を共に頂いて聖餐の時を持ちました。主のよみがえりの朝を、共にみなで喜び、また祝いたいと願ったからです。イースターは主の復活を祝う日です。それは、主イエスがよみがえられたので嬉しいというだけにとどまらず、主イエスが死に勝利されたことが、喜びの知らせそのものだからです。

このイースターの朝、私たちに与えられているのはラザロのよみがえりの出来事です。今日は先週に引き続いてヨハネの福音書の第11章17節以下です。もちろん、本来は1節からラザロのことが記されておりますので、1節から読んだほうが適切だと思います。

先週もお話ししましたが、ラザロはマリヤとマルタの兄弟だとここに記されています。しかも、ここではラザロのことを「あなたが愛しておられる者」と書かれています。愛する者が病に倒れ、その知らせを聞きながらも主はなおもそこに二日とどまられました。そして、今日のところで、主がラザロのところを訪られたのはこの17節を見ますと「ラザロは墓の中に入れられて四日もたっていた」と記されています。 (続きを読む…)

2015 年 4 月 3 日

・説教 ヨハネの福音書13章1-15節 「残すところなく示された愛」

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 21:40

 

2015.4.3

 鴨下 直樹

 

今日、この受難日に私たちは「洗足」と言われる出来事の箇所を聞いています。今年の元旦礼拝で今年の年間聖句のカードをお配りしました。そこにこの「洗足」の絵が描かれております。今年、私たちが一年をかけて心に刻もうとしている主イエスのお姿が、ここに描かれています。元旦礼拝で今年一年私たちに与えられた言葉として心にとめているのはローマ人への手紙15章7節です。

キリストが神の栄光のために、私たちを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに受け入れなさい。

私たちはこの一年、ほかの人を受け入れることを心にとめて一年の歩みをしています。けれども、互いに受け入れあうということは簡単なことではないことを、もうすでに毎日のように味わっておられることと思います。夫婦であっても、子どもであっても、あるいは親であっても受け入れることの難しさを覚えます。いや、むしろ家族であればあるほど、受け入れることの困難さを覚えるというところがあります。というのは、家族というのは、こうであってほしいという、私たちの願いが一番強く出るところだからです。もっと自分を理解してほしい、もっとああして欲しい、こうして欲しいと、私たちは身近な者に対して強い願いを抱きます。

「キリストが神の栄光のために私たちを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに受け入れなさい」というこのみ言葉を、ほかの言葉で言いかえるとすると、それは「愛すること」と言い換えることができると思います。愛することは、受け入れることです。愛することはゆるすことです。

 

今日、この受難日の礼拝に、私たちは主イエスが弟子たちの足を洗ってくださった物語を聞いています。主イエスは足を洗うことを通して私たちに愛を示してくださいました。

1節にこう書かれています。 (続きを読む…)

2015 年 3 月 29 日

・説教 ヨハネの福音書11章1-16節 「死で終わらない生」

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 20:52

 

2015.3.29

 鴨下 直樹

 

先ほど洗礼入会式を行いました。先ほど、洗礼式に先立って、今日洗礼を受けられたYさんの証を聞きました。ご存知のように、Yさんのご両親はキリスト者です。その中で、どのように育ったのか、ありのままを話してくださいました。とても勇気のいったことだと思います。ご両親はキリスト者であると言っても、お母さんが洗礼を受けられたのは5年前のことです。先ほどの証の中にもありましたけれども、お酒のために体を壊して、このままでは命までも危ないというところまでいってしまいました。そして、家族の祈りの中で病床で洗礼を受けました。けれども、その後も様々な施設や病院、友人の家を転々として、ついに、洗礼を受けてからこの教会で一緒に礼拝を捧げることはできませんでした。そして、昨年の夏、病のために亡くなりました。亡くなる前のことですけれども、体調がすぐれないと時折電話でお話ししました。そのたびに、Yさんが優しいと涙ぐんで話してくれました。そして、よく電話口で一緒に祈りました。

Yさんが洗礼を希望されて、そのための学びをしている時に、わたしは一つの質問をしました。いつ、洗礼を受けたいと思うようになったのですかと尋ねたのです。すると、「お母さんが洗礼を受けたときから思うようになった」との答えが返って来ました。実は、私はその時、正直驚きました。お母さんのMさんが一番大変な時だったからです。けれども、同時に、Mさんは、自分の人生のもっとも厳しい時に、自分の人生を主イエスに託したから、そのことが心に残ったということだったのかと思い納得しました。

 

今日から、教会の暦で受難節を迎えます。主イエスが十字架にかけられて死なれた一週間を迎えます。そういう意味では私たちは一年の教会の歩みの中で、最も深く死について考える一週間を迎えます。 (続きを読む…)

2015 年 3 月 22 日

・説教 ヨハネの福音書10章31-42節 「殺意の中で」

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 16:16

2015.3.22

 鴨下 直樹

 最近、インターネットでもニュースが読めるようになりました。そのようなニュースの中にはその記事に自分の感想を書き込めることができるようになっているものを見かけます。そういったニュースの中で、最近起こった一つの殺人事件の記事を見かけました。あの中学一年生を殺害した18歳の少年の記事です。その記事によると、この18歳の少年は周りの仲間に囃し立てられて歯止めが効かなくなって殺害に及んだという内容でした。すると、それを呼んだ読者の反応が載せられていますが、どれも、この少年を死刑にすべきだという意見を書いていました。そこに、自分もそう思うという同意する意見が何万件と寄せられているのをみて、私はびっくりしてしまいました。

もちろん、この少年の反抗は短絡的なもので、人々が理解できるような同情をさそう要素は何もありません。けれども、そこで、みんなが寄ってたかって未成年の事件は刑が軽いからやはり未成年にも刑事責任を問えるようにする必要があるのではないかとか、成人であれば死刑に相当するから死刑にした方がよいなどと、みんなが裁判官にでもなったかのようにして、この事件に対してそれぞれな思いのままの意見を発信します。そこには、自分の名前が出るわけでもありませんし、また、その意見に対して「同意する」というボタンであれば誰でもその意見に投票できます。

誰もが自分の目の前で起こった不快な事件を、そんな人間はいなくなってしまえばそれで解決として結論をだす。それに対する問いかけもなければ、自分にもそういうことが起こりかねないのではないかなどという洞察もありません。私が心配になるのは、こうやって、人々はこういう自分本位な意見が載せられたニュースばかり読んでいると、どんどん自分で考える力を失っていって、ますます人の顔色を見ながら生きていくようになるのだろうかと気になって仕方がありません。

 

しかし、もちろん、それは今に始まったことではありませんでした。今日の説教題を「殺意の中で」としました。主イエスの業を見て、話を聞いていた人々が、ここでもまた、「主イエスを石打ちにしようとして、また石を取り上げた」という言葉から始まっているのです。理由はその前に書かれています。 (続きを読む…)

2015 年 3 月 15 日

・説教 ヨハネの福音書10章22-30節 「永遠のいのちを与えるお方」

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 15:57

2015.3.15

鴨下 直樹

 

先日ある方からこんな電話の相談を受けました。来年から学校で旧約聖書続編付きの聖書を使うので、それを買い求めるように言われたのだけれども、この旧約聖書続編というのはどういったものなのでしょうかというのが、その方の質問でした。この旧約聖書続編というのはいったいどういうものなのか、多くの方も気になっておられるのではないかと思います。

私たちの教会の多くの方は礼拝で新改訳聖書を使っております。中には新共同訳聖書といいますけれども、カトリックとプロテスタントの聖書の専門家が一緒に協力をして翻訳をした聖書ですが、この聖書をお使いの方もおられます。この新共同訳聖書は、今多くのミッションスクールなどで使われております。この聖書はカトリックと一緒に訳したことと関係するのですが、カトリック教会がこの旧約聖書続編と言われているものを正典と同じように扱うために、新共同訳聖書では従来の旧新訳の聖書と、それに続編を付けたものとの二種類が取り扱われています。いわゆる福音派と言われる教会、私達もこれに属しておりますけれども、普段この続編についてはまるっきり取り上げませんので、聞いたことがない方がいても不思議ではありません。

少し説明をしておきますと、旧約聖書はマラキ書で終わっています。そして、新約聖書、特に主イエスの誕生までの間、約400年間、聖書にはこの間の出来事が記されておりません。この旧約聖書の続編と言われるのは、この400年の間、それを「中間時代」といいますが、この間に記されたいくつもの書簡が収められています。特に、何か怪しげな書物が含められているという訳ではありません。この時代の資料としてむしろ非常に重要な記録がいくつもおさめられていますので、もちろん、私たちはこれを他の正典と同じようには扱いませんけれども、読む分には非常に面白いものです。

その中でも、特にマカバイ記というものがありますが、ここには、イスラエルがアレキサンドロスというマケドニアの王の支配の後に、アンティオコス・エピファネスというシリアの王がエルサレムを占拠します。この時のユダヤ人たちの戦いの記録がここに記されています。 (続きを読む…)

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