2022 年 10 月 9 日

・説教 ヨナ書1章11-17節「大きな魚を備えるお方」

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2022.10.09

鴨下直樹

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 ヨナの物語の中に、それほど多くの登場人物は出てきません。この1章には、主とヨナ以外の登場人物として水夫、船乗りたちが登場します。この人たちは、神に逆らったヨナに巻き込まれてしまった人たちです。特に、深い信仰心があったわけでもありません。嵐を経験した船を何とかしようと、荷物を捨てて、船を軽くし、それぞれの神に祈るように懇願し、この嵐の原因を探ろうとくじ引きをします。

 自然災害を前に、自分たちのできることはとにかく祈ること、そして、原因探しをすること。あとは出来る限りのことをするだけの人です。
 
 この前のところで、「恐れ」という言葉が二度使われています。それは、この時の船乗りたちの心理を表す言葉として使われています。

 最初に出てくるのは5節の「水夫たちは恐れて」という言葉です。この恐れは前の4節を読むと、よく分かります。「主が大風を海に吹きつけられたので、激しい暴風が海に起こった。それで船は難破しそうになった。」とあります。

 激しい暴風のために船が難破するのではないか。このままでは自分たちのいのちが危ういという恐れです。

 その次に出てくるのは前の10節で、「人々は非常に恐れて、彼に『何ということをしたのか』と言った。」とあります。この時の水夫の抱いた恐れは何であったかというと、ヨナが天地を造られた主の命令に逆らって、主の御顔を避けて逃げて来たというところから生じた恐れです。言ってみれば、この恐れは「宗教的な恐れ」と言えます。「何て罰当たりなことをしたのか」という恐れです。

 ここまでのところを見ると、この水夫たちに信仰心があったようには見えません。ごく一般的な人の反応が記されているといえます。

 ここで私たちが知る必要があるのは、ここで起こっている嵐の背後に、神が働いておられるということです。

 神から顔を背けているのはヨナです。そして、このヨナのとばっちりを受けているのが水夫たち異邦人です。この嵐という出来事の背後に、神が働いておられます。神はここで、ヨナを見ているのだということを、ヨナに知らせておられるのです。

 多くの人は、ここで神が罰を当てておられる、神に逆らうなんて、なんて愚かなことを思うのです。この水夫たちもそうでした。しかし、そこで私たちが気づく必要があるのは、私たちの損得ではありません。神の思いがあるという事実に目を向けることです。神の思いは、私たちが受け取るメッセージとはかなり違っているのではないでしょうか?

 さて、今日の私たちに与えられている聖書箇所の11節から、この水夫たち、船乗りたちの中に変化が起こっていきます。ヨナ書はそのことをとても丁寧に記しています。 (続きを読む…)

2022 年 10 月 2 日

・説教 ヨナ書1章1-10節「主の御顔を避けて」

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2022.10.02

鴨下直樹

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 今週から、私としては珍しく、旧約聖書の小預言書の中にあるヨナ書の講解説教をしていきます。以前、祈祷会でこの箇所を扱ったことがありますし、家庭集会などでも行ったことがありますが、それも10年ほど前のことです。今日から、改めてこのみ言葉に耳を傾けてまいりましょう。

 ヨナ書というのは、旧約聖書の中でも比較的有名な箇所です。この12小預言書の中でも、唯一と言っていいくらい、よく取り扱われます。子どもの絵本などにもなりますし、教会学校などでも取り上げられています。ただ、だからと言って、ここで語られているテーマが、よく理解されているわけではありません。

 物語は魅力的です。海に投げ込まれたヨナが魚に呑み込まれる場面は、知らない人がいないほどで、ピノキオにもそんなところが出てきたりするほどです。

 さて、聖書の中ではこのヨナ書というのは、神の啓示の新しい段階を描き出しています。それは、イスラエルの敵の国であるアッシリアに、預言者を遣わすという神の言葉からはじまっているからです。

 アミタイの子、ヨナは第二列王記14章章の25節にその名前が出てきます。北イスラエルのヤロブアム2世が王様の時代の時の預言者です。この後、数十年後には、北イスラエルはアッシリア帝国に滅ぼされてしまいます。そんな時代です。そして、この神がヨナを遣わそうとしたのは、イスラエルの敵国であるアッシリアの首都、それがニネベと呼ばれる町です。地図で確認したい方は新改訳聖書2017の後ろにあります「地図の7」を見ていただくと、ニネベの場所がすぐに見つけ出せると思います。

 このニネベについては、ヨナ書の少しあとにナホム書というところがありますが、そこにこんなことが書かれています。ナホム書の3章の1-4節を読んでみたいと思います。

わざわいだ、流血の町。
すべては偽りで略奪に満ち、
強奪はやまない。
むちの音。車輪の響き。
駆ける馬。飛び跳ねる戦車。
突進する騎兵。
剣のきらめき。槍のひらめき。
おびただしい戦死者。山なす屍。
数えきれない死体。
死体に人はつまずく。
これは、遊女の淫行の数々に、
呪術を行う女の麗しさによるものだ。
彼女はその淫行によって国々を、
その呪術によって諸部族を売り渡した。

 ここに記されているのは、ヨナの時よりも時代は少し遅いのですけれども、ニネベという町がどんな町であったかがよく分かります。人々は攻撃的で、戦争に明け暮れ、道徳的にも、宗教的にもかなり腐敗している町だったのです。

 こういう国は、神の御心ではない異教の国々でしたから、それまでの聖書の考え方で言えば、滅んでしまっても問題のない国でした。ところが、このところから、神の啓示のなさり方が少し前に進みます。

 神は、ヨナに向かって、こう告げます。2節です。

「立ってあの大きな都ニネベに行き、これに向かって叫べ。彼らの悪がわたしの前に上って来たからだ。」

 神は、預言者ヨナに、アッシリアの首都であるニネベに行って、彼らの悪を悔い改めるように語るよう命令されたのです。これは、ヨナにとって考えられないことでした。これまでの神の語ってこられたことと、まるで違うことを要求されたからです。これまでは徹底的にイスラエル中心でした。異邦人の国が悪い国なのは当たり前のことでしたから、さほど気にも留められてこなかったのです。

 それで、ヨナがどうしたかは、私たちは聖書を読んで知っています。3節です。「しかし、ヨナは立って、主の御顔を避けてタルシシュへ逃れようとした」のです。

 ここに「主の御顔を避けて」という言葉が記されています。今日の1節から10節の中に3度も記されています。これは、明確なヨナの神の要求に対する「No!」という意思表示です。

 「主の御顔を避ける」というのは、主を見上げることをやめるということです。信仰を捨てるというような意味と同じと考えてもよいと思います。

 ヨナが行こうと思っていたタルシシュというのは、新改訳2017の最後にある地図15に「イスパニア」という地中海の一番はずれの国があります。ここにある国だと考えられています。この時代で言う世界の果てです。神から遠く離れて、自分がこれまで生きてきた愛する祖国を捨ててでも、神の命令を忘れて生きることをヨナは選び取ろうとしたのです。

 「そんな命令に従うことは絶対に嫌」それが、ヨナのこの時の思いだったのです。

 どうしてなのでしょう。なぜ、ヨナはそう考えたのでしょう。ニネベは敵の国です。その国に行って、悔い改めを語ることは、ヨナとしては何としても阻止したいと思ったのです。最後の4章の2節で、ヨナはその時何を考えていたか、こう告げています。 (続きを読む…)

2022 年 9 月 25 日

・説教 詩篇57篇「私をあわれんでください」

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2022.09.25

鴨下直樹

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私をあわれんでください。

 今日、私たちに与えられている聖書の言葉はこの祈りの言葉からはじまっています。

 皆さんは、お祈りをするときに、何を祈っているでしょうか。どのように祈っているでしょうか。

 日ごとの感謝の祈り、あるいは、何か困ったことが起こった時に神に助けを求める祈り、毎日の神様との交わりの祈り、誰かのための執り成しの祈り、などいろんな祈りがあると思います。

 そこで、もう一度考えたいのは、自分と神様との交わりの祈りはどうでしょうか? 私たちは自分のことを神の御前に心を注ぎだして祈っているでしょうか。今日はそのことを考えてみたいと思います。

 お祈りをするとき、私たちはお金も求められていなければ、何か特別なことを要求されているわけでもありません。いつでも、どんな時でも私たちは神に祈ることができます。それなのに、神様と深い関係、どんなことでも祈ることができる関係にまだなっていないのだとしたら、それはとても残念なことです。

 今日、ここに記されている祈りの言葉は、祈りの極意と言ってもいいほど、祈りの本質を表しています。

神よ。私をあわれんでください。

 この祈りの中に、私たちは深い神との交わりを発見することができるようになります。

 この詩篇57篇の祈りには表題がつけられています。

指揮者のために。「滅ぼすな」の調べで。ダビデによる。ミクタム。ダビデがサウルから逃れて洞窟にいたときに。

 こんなふうに書かれています。おそらく、この詩篇がイスラエルの人々に歌われていた頃には、「滅ぼすな」というメロディーがあったのでしょう。そのメロディーでこの詩篇を歌います。そんな楽譜に書かれた指示のようなことが表題に書かれています。「ミクタム」というのは、意味が良く分かりませんが、記念碑の「碑」とギリシャ語の七十人訳聖書では訳されております。「黄金」という言葉と似ているので、「黄金の歌」というように説明されることもあります。

 特に大切なのはその後です。「ダビデがサウルから逃れて洞窟にいたときに」とあります。

 ダビデはサウル王に追われて逃げて洞窟にいた時というのは、第一サムエル記の22章に出てくる「アドラムの洞窟」にいた時と、24章の「エン・ゲディの荒野」にいた時と二度聖書には記されています。22章では、その洞窟に続々と仲間たちが集まって来て400人の仲間になったことが記されています。この時、ダビデのことを助けた祭司アヒメレクの家族がサウル王によって皆殺しにされてしまうことが記されています。24章ではダビデたちの隠れている洞窟に、サウル王が用を足しに来た時、サウルを殺すチャンスがあったのですが、ダビデはそれをしないで、上着の裾を切り取っただけで、サウルを助け、自分に敵意はないことを知らせたことが記されています。それを聞いたサウルは、この時はダビデに誓いをさせて、帰っていきます。

 この二度の出来事を通してみても、ダビデは何度もサウルに追われて、危機に瀕していたことがよく分かると思います。この時の出来事がこの祈りの背景にあるようです。

 ダビデがこのサウルに追われていた時の祈りという内容の詩篇は、詩篇の中に沢山あります。ダビデの詩篇と言われているものの多くが、ダビデが絶体絶命の危機に瀕している時のことが歌われているのです。

 問題は、まさにそういう時に、私たちはどのように神に祈るのかということです。こういう時に、私たちの神への信仰が明らかになるのです。 (続きを読む…)

2022 年 9 月 18 日

・説教 申命記31章1-8節「先立ち、ともに進まれる神」脊戸明師

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2022.09.18

脊戸明

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前半:


後半:


 

2022 年 9 月 11 日

・説教 詩篇11篇「直ぐな人は御顔を仰ぎ見る」

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2022.09.11

鴨下直樹

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 以前、この芥見教会の祈祷会でレビ記の学びをしたことがあります。聖書通読をしていますと、創世記から読み始めた方の多くがこのレビ記で止まってしまうことが多いようです。レビ記は難しいという印象を持つようです。けれども、このレビ記が分かってくるようになると、聖書がかなり読めるようになります。

 このレビ記のまとめが書かれているのが26章です。ここは、「祝福と呪い」というテーマで書かれています。神様の戒めを守るものは祝福に与り、神様の戒めをないがしろにするならば、呪われる。そういった内容です。

 昨日、東海聖書神学塾で、このレビ記の学びの最後の講義を行いました。そこで、講義を聞いていた方が、この26章を学んでこんな質問をしました。
「これは、因果応報ではないのですか?」というのです。

 よく、私の説教の中で、「聖書の神は因果応報の神ではない」という発言をします。これは、私だけではなくて、多くの牧師がそのように語るのだと思います。けれども、実際に聖書を読んでみると、このレビ記26章にあるような、どうしても、因果応報というテーマで書かれているような箇所にでくわすことになります。

 良いことを行えば祝福される。悪いことをすれば裁きにあう。一般的な言葉で言えばバチが当たるというわけです。そうするとこれは因果応報ではないか? そんな思いを持つのです。みなさんも、そのように感じることがないでしょうか?
 
 その方の質問はそこで終わりませんでした。さらに、こんなことを言われたのです。
「でも、クリスチャンとしてちゃんとやっているはずなのに、自分の身に災いが降りかかってくることが沢山あって、どうしてもモヤモヤしてしまうのです」そう言われました。

 その方はがんを患って抗がん剤治療でかなり苦しんだようです。今はがんからは癒されたようですが、その後もずっと体調が悪くて日常生活に支障が出ています。私は何か神様を怒らせるようなことをしただろうか。ちゃんと信仰生活しているはずなのに、どうしてなのだろう。どうして、こんなに辛いことばかりが身に降りかかってくるのだろう。そんな悩みを感じているのです。

 私たちも、そういった思いを持つ方があると思います。そして、なかなかこのモヤモヤがすっきりしないのです。

 私は、その時にこの方にこんなことを言いました。 (続きを読む…)

2022 年 9 月 4 日

・説教 詩篇17篇「瞳のように私を守ってください」

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2022.09.04

鴨下直樹

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 これまでローマ人への手紙からみ言葉を聞いて来ましたが、今日からしばらくの間、詩篇やさまざまな箇所からみ言葉を聞いていきたいと願っています。

 今日の、この詩篇の祈り手は、自分の訴えが正しいと信じています。自分は、主の前に誠実に生きて来たのに、自分の身に降りかかってくるのは災いばかり。それで、神からの救いを、慰めを求めるのです。詩篇を読んでいると、時折このような詩篇の言葉に出会います。

 先日、私はある方からとても美味しい梨を頂きました。梨は私の大好物です。梨好きなので、触っただけで、その梨が美味しいかどうか想像ができます。頂いた梨も、どれもとても美味しく私のお腹の中に入りました。ただ、梨以外の果物となると、触っただけで味を見極められるとはいきません。

 みなさんも経験のあることだと思うのですが、これは美味しい果物に違いないと、少し高めのお金を払って、家に帰って食べてみると、思ったほどではないという経験をすることがあるのではないでしょうか?

 美味しい味を知っていると、それは、それなりの値段がするということが分かるわけですが、出した値段の割に、思ったほどでなかったりするとがっかりしてしまいます。ある程度の品質のものを求めると、それ相当の値段がするのです。

「クオリティー・オブ・ライフ」という言葉があります。「生活の質」を豊かにしたいということをあらわす言葉です。最近いろんな所で使われるようになりました。病院の生活や、介護施設などでも使われることがあります。

 意味は良く分かるのです。豊かな質のものに囲まれて生活したい。それをさまざまな領域で求めるのです。私たちは、一度良い物を知ってしまうと、なかなかその質を下げることが難しくなってしまいます。だから、どこででも、それなりの生活の質を求めたいということになるわけです。

 問題は、良い物を知ってしまうと、残念なことですが悪いものでは満足できなくなるということが起こります。食べるものがない時代や、困難な時代は、食べるものがあるだけでありがたいのですが、いつの間にか、クオリティーの低いものを掴まされると、腹がたつというジレンマに陥ってしまいます。良い物に囲まれて生きたいと願うのに、その結果、悪いものに悩まされるというジレンマが待ち構えることになるのです。
 
 これは、私たちの人生のさまざまな場面で登場します。ここ数週間、教会の中のかなりの割合の方々がコロナウィルスに感染してしまいました。そうなると、自宅に留まらなければならなくなってしまいます。買い物を自由にできません。この隔離期間の間は、外に出られませんので、それこそ人生のクオリティーというようなことが言えなくなってしまいます。

 そんな時、私たちはそのがっかりした気持ちから、どのように抜け出すことができるのでしょう。本当の慰めというのは、いったいどこから来るのでしょうか。

 この詩篇17篇というのは、ダビデの祈りと表題に記されています。もし、ダビデが書いたのだとすると、いつ頃の祈りかなと想像するのですが、ダビデは祭司サムエルから王様になるという油注ぎを受けます。ところが、ダビデが油を注がれた時、イスラエルにはサウルという王がいました。ダビデはこのサウル王に仕えるのですが、サウル王はダビデを憎んで、いつもダビデを捕らえようと狙い、常に命の危機を感じていました。

 そんなときの祈りだとすると、この詩篇の状況がよく理解できそうです。 (続きを読む…)

2022 年 8 月 28 日

・説教 ローマ人への手紙16章17-23節「善にはさとく、悪にはうとく」

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2022.08.28

鴨下直樹

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 約一年半にわたって、ローマ人への手紙からみ言葉を聞き続けてきました。今日で、ローマ書は最後の文章です。

 パウロは、ローマ人への手紙の中で、丁寧に福音を語り継いできました。この前のところでは、丁寧にひとりずつ名前をあげて挨拶を語りました。ローマの教会と、パウロがどれほど深い結びつきがあったかということが、ここからよく分かりました。

 そして、この最後の所で、パウロは改めて、ひとつの警告の言葉を発しました。

 17節です。

兄弟たち、私はあなたがたに勧めます。あなたがたの学んだ教えに背いて、分裂とつまずきをもたらす者たちを警戒しなさい。彼らから遠ざかりなさい。

 このように記されています。

 私自身、これまでの信仰の歩みの中で、「教会分裂」というものを何度も目にしてきました。それはとても悲しいことです。さまざまな意見の食い違いや、考え方の違い、思わぬ出来事を通して、それは起こってしまいます。
ここで、パウロは最後に「分裂とつまずき」を警戒するようにと言います。

 続く18節の前半でパウロはこう言っています。

そのような者たちは、私たちの主キリストにではなく、自分の欲望に仕えているのです。

 と書かれています。

 ここに「自分の欲望に仕えている」とあります。この「欲望」と言う言葉に注がついていまして、そこには、「直訳、自分の腹に仕えています」となっています。

 「自分の腹に仕えている」というのは面白い言葉です。少しイメージしてみたいのですが、自分の腹の中で葛藤が起こるわけです。神様が喜ぶことと、自分が喜ぶこと。どちらを取るか。この「自分の腹に仕えている」というのは、新改訳2017では「自分の欲望に仕えている」となっているわけですから、自分の思いが勝ってしまうわけです。

 分裂やつまずきをも引き起こす人たちは、自分自身の腹、欲望に仕えている。自分のためにやっているのだとここで、パウロは警告しています。

 とても厳しい言葉です。何も、最後にこんなこと言わなくてもいいのにとも思えるのですが、パウロとしては、やはり大切な教会が分裂するようなことがないようとの思いから、最後の最後、ダメ押しのように出て来た言葉なのでしょう。

 教会の分裂の場面を見ると、それぞれに立派な言い分があります。ただ、その言葉を聞いていると、最終的には自分の言い分を貫くことに終始してしまって、結局のところ主の思いとは違うところに立ってしまうことになるのです。たぶん、そういう場合、その人の心の中では、平和が無くなってしまっているはずです。自分の言い分ばかりがどんどん大きくなっていく時というのは、気をつけなければならないのです。

 教会を分裂させたり、人をつまずかせる強い意見というのは、よくよく気をつけなければなりません。それは、主に仕えているのではなくて、結局、自分の腹に仕えているのではないか?とパウロは問いかけているのです。 (続きを読む…)

2022 年 8 月 21 日

・説教 コリント人への手紙 第一 10章31節「私たちは神の栄光を現す神の子どもと神の教会になります」後藤喜良師

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2022.08.21

後藤喜良

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前半:


後半:


 

2022 年 8 月 14 日

・説教 ヨハネの福音書17章21節「三位一体の愛」 田中啓介師

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2022.08.14

田中啓介

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2022 年 8 月 7 日

・説教 ローマ人への手紙16章1-16節「パウロからよろしく」

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2022.08.07

鴨下直樹

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 8月に入りました。8月は教会の諸集会の多くが休会となります。また、聖書の学びと祈り会は、これまで信徒交流会としておりましたが、今は長老たちが担当してくださることになっております。先週の水曜日と木曜日にも、それぞれの長老たちが担当してくださって、今日の聖書箇所の学びをいたしました。特に、木曜の祈祷会の時にはM長老がここに上げられている1人1人について大変丁寧に調べて来てくださって、ずいぶん盛んな学びになりました。

 この箇所には26人の名前と、5つの家族のことが取り上げられています。一人ひとり取り上げて考えてみますと、実にいろんな人とパウロが関わりを持っていたことが分かります。

 そこで、M長老は「パウロはこれらの人たちとの交わりが濃密であったからこそ、よろしくと挨拶しているのだ」と言われました。

 そんなに深い交わりがなければ、わざわざ挨拶しなかっただろうというのです。このことは、私たちにいろんなことを投げかけていると思うのです。

 今、芥見教会は宣教40周年記念礼拝を行っておりまして、この教会に関わりのある先生方をお招きして、礼拝説教をしていただいております。二週間後には前任の後藤喜良師をお招きすることになっています。

 特に、この教会はドイツ人宣教師、ジークフリード・ストルツ先生の開拓によって生み出された教会です。もし、ドイツからこのような手紙が届いたことを想像してみると、そこには、同盟福音の最初の信徒となったOさんによろしく、F長老夫妻によろしく、M長老夫妻によろしく、Aさんのご夫妻によろしくと、この教会の創世期におられた方々の名前が書かれていることでしょう。そして、その人たちは本当に嬉しく思うのだと思います。それと同時にストルツ先生のことを知らない方が沢山いるわけですから、その人たちは何を思うだろうかと思います。

 前回来てくださった森岡先生からもはがきが教会に届いております。まだ10年ほど前のことですから、森岡さんのことを知っている方は大勢おります。知っている方の手紙が届きますと、懐かしい思いがよみがえってきたり、一緒に働いた当時のことを思い起こして、主のしてくださった御業の数々を思い起こすことができるわけです。

 しかし、パウロはローマの教会にまだ行ったことがありません。しかも、ローマの教会というのは、少なくとも何百人という人たちが既にいたと考えられます。もちろん、会堂は複数の会堂があったはずです。そういう教会に手紙を送る時に、この挨拶はどういう機能をもったでしょうか。

 パウロのことを知らない人もいたと思います。噂ぐらいは聞いたことはあるかもしれません。ある意味で異邦人伝道をはじめたのはパウロですから、ひょっとすると、近寄りがたい有名人というイメージだったかもしれません。その人から教会に手紙が届いたのです。そして、その最後のところで、「何々さんによろしく」という言葉を聞いた時に、ローマの教会の人たちの中に、何が起こったか。これは想像するしかないのですが、これだけたくさんの名前があれば、一人くらい知っている人の名前があったでしょう。すると、その人のところに行って、「パウロ先生とお知り合いなのですか?」と会話が生まれたと思います。ああ、この人もあの人も、パウロ先生と濃密な交わりがあったのかということが明らかになったのだと思うのです。

 この挨拶の部分というのは、今まで黒一色の言葉が、急にカラーになるような、そんな役割を果たしたのではないでしょうか。

 こんなにも、たくさんの人の名前が挙げられているのです。

 たとえば、最初に名前が挙げられているケンクレアの教会の女性執事のフィベという人があります。この1節の「奉仕者」という言葉ですが、元の言葉では「ディアコノス」という言葉で、執事という意味で使われるようになった言葉です。このあと、しばらく女性たちの名前が続きます。ずいぶん、大勢の女性の奉仕者が当時から活躍していたことが分かります。3節にプリスカという名前が出てきます。この人はローマの人で、夫のアキラはユダヤ人でした。当時、ユダヤ人がローマで争いばかり起こしていたので、皇帝クラウディウスがすべてのユダヤ人を追放するという出来事が起こります。そのために、アキラとプリスカの夫婦は、エペソにやって来ていまして、その時にパウロと出会っています。 (続きを読む…)

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