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チャペルコンサートのご案内

1987年に韓国で結成以来、世界中でゴスペルコンサートを行っている「オンギジャンイ」が今年も来日、同盟福音基督教会に属する東海地方の3教会でチャペルコンサートを開催します。

日本でのコンサート演目は基本的に日本語で歌われます。

芥見キリスト教会
オンギジャンイ チャペルコンサート

日時: 2025年10月11日(土)
 14時00分 開場
 14時30分 開演 ~ 16時30分 終了

場所: 芥見キリスト教会(岐阜市芥見南山1丁目8-8)

入場無料・申し込み不要

 
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今月の礼拝予定(2025年8月)

8月3日 三位一体後第7主日

主日主題: 平和
聖餐式礼拝: 午前10時30分(Zoom配信)
聖書:ルカの福音書18章31-34節
説教:「隠された平和への道」鴨下直樹牧師

礼拝後:誕生月の祈り、役員会

8月10日 三位一体後第8主日

主日主題: 癒し
公同礼拝: 午前10時30分(Zoom配信)
聖書:マルコの福音書6章53-56節
説教:「ゲネサレでのいやし」内山光生牧師

8月17日 三位一体後第9主日

主日主題: 神のことば
公同礼拝: 午前10時30分(Zoom配信)
聖書:マルコの福音書7章1-13節
説教:「神のことばを無にしないために」内山光生牧師

礼拝後:礼拝準備会/月間予定確認会、聖歌隊練習

8月24日 三位一体後第10主日

主日主題: 感謝
公同礼拝: 午前10時30分(Zoom配信)
聖書:詩篇100篇
説教:「感謝の賛美」加藤愛神学生

8月31日 三位一体後第11主日

主日主題: 信仰
公同礼拝: 午前10時30分(Zoom配信)
聖書:ルカの福音書18章35-43節
説教:「見えるようになれ!」鴨下直樹牧師

礼拝後:聖歌隊練習

・説教 ルカの福音書18章18-30節「他者のために生きる人生」

2025.07.27

鴨下直樹

⇒ 説教音声の再生はこちら

 20世紀の終わりに活躍したドイツの神学者で、ディートリッヒ・ボンヘッファーというルター派の牧師がいました。この人は、ナチスドイツのあり方を批判して闘った牧師です。この牧師の言葉にこういう言葉があります。

「教会は他者のために存在する時に、はじめて教会である」

 このボンヘッファーの言葉は、教会がいつの時代にも聴き続けていなければならない大切な言葉です。

 ここで言う教会というのは、会堂のことや、組織のことではなくて、一人一人主イエスに呼び集められた人々のことを指しています。つまり、私たちの毎日の生活そのものが、そのまま教会の姿ということができます。この教会のあり方というのは、いつも社会のあり方とは正反対だと言えます。政治の世界も、経済の世界も、教育も、基本的にはすべて自己のためにあるものです。国の政治はその国のためになされますし、会社の経済は会社のためですし、教育も基本的には自己目的です。もちろん、どの分野も人のために、世のために貢献しようという部分はありますけれども、基本的には自分の方向に向いているのが、社会のあり方です。けれども、教会はそうではなく、他者のためにあるとボンヘッファーは言うのです。

 さて、今日の聖書の中には、一人の指導者が登場します。この人は主イエスにこんな質問をしました。18節です。「良い先生。何をしたら、私は永遠のいのちを受け継ぐことができるでしょうか。

 「どうしたら、この素晴らしいものを手に入れられるでしょうか?」とこの人は永遠のいのちを得るための方法を主イエスに尋ねています。この問いは、いつも姿を変えて私たちの願いとなっています。
「どうしたら健康が手に入れられるでしょうか?」
「どうしたらお金を儲けられるでしょうか?」
「どうしたら素敵な人と出会えるでしょうか?」
私たちの日常的な願い求めは、いつもここにあります。
「どうしたら経済的に楽に生活できますか?」
「どうしたら病気を気にしないでいられますか?」
私たちはこのような問いを持ちながら、その問いの答えを与えてくれる人を探しています。

 すると、ある人は答えます。
「あなたの家の方角が悪い、運気が悪いから向きを変えなさい」
「名前の画数が悪いから、名前を変えてしまいなさい」
「あなたの子育ての仕方が悪い、あなたのお金の運用の仕方が間違っている、あなたの食べている食品が悪いから、もっとこういうものを食べた方が良い・・・」

 そうして私たちは便利になったインターネットやSNSを見ながら、いつもどこかに新しい情報がないかと、ショート動画を探しているのかもしれません。

 けれども、それらの中に込められている答えは、すべてこういうことです。「それは、今あなたの中にありません!」「あなたは答えを持っていないのです!」だから、もっと新しい情報が必要です。もっとこうするべきです。もっと、もっとと、次々に新しい情報に飲み込まれて疲れてしまっているのに、それを止めることができないでいる。私たちは、必要なことを求めているのに、いつの間にかそれらに支配されてしまって、平安を失い、疑心暗鬼になってしまうのです。

 主イエスは、このような問いに対して何とお答えになられたでしょうか。見てみたいと思います。主イエスはこの指導者に対して、先ずこう答えられました。あなたは今、良い先生と言いましたが、「良い」と呼べるお方は「神以外には誰もいませんよ」と。 続きを読む ・説教 ルカの福音書18章18-30節「他者のために生きる人生」

・説教 マルコの福音書6章45-52節「主イエスに気づけなかった弟子たち」

2025.07.20

内山光生

みなイエスを見ておびえてしまったのである。そこで、イエスはすぐに彼らに話しかけ、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われた。  

マルコの福音書6章50節

序論

 一般的に言うと、職場における上司や経営側に立っている人の視点から見れば、物事をすぐに吸収する人、仕事を覚えるのが早い人の方が好まれる傾向があるでしょう。また、学校においても、勉強ができると先生や親から褒めてもらえる、そういう現実があるかもしれません。

 少し前までは、古本屋に行くと「効率のいい仕事の仕方」とか「勉強ができるようになるための秘訣」といった種類の本がたくさん並べられていて、私自身もそのような本を手に取って、参考にしていました。けれども、今の時代では、インターネットのユーチューブを見ると、分かりやすく、また、すぐに効果がでるような仕事の仕方や勉強方法が無数にあふれています。ただ、あまりにも情報量が多いので、どれが自分にあっているのかが分からなくなり、無駄な時間を過ごすことになる事もあるようです。また、事実と異なっていたり、いいかげんな情報も含まれていますので、それらを判別するためには、ある程度の経験が必要となります。

 多くの人々は、なるべく早く物事を吸収したいと願っていて、そして、そういう事がうまくできるのが良いことなんだ、そういう価値観の影響を受けているのです。それゆえ、そのような基準で考えると、確かに、職場などにおいても、言われたことを素直にすばやく吸収していく人が良い評価を受けやすい、そういう現実があるのです。

 ところが、私たちの信仰について考えるとき、必ずしも、この世の基準が当てはまるとは限らないのです。誤解を恐れずに言うと、聖書を効率よく読んでいき、そこに書かれていることを吸収するのが早ければ、それがいいことなんだ、とは言えないのです。というのも、ゆっくりかもしれないですが、聖書の教えを着実に実生活につなげていく、そういうタイプの人もおられますし、年齢によってはみことばを吸収する速度が早い時期とそうでない時期があるからです。

 また、人間というのは、そう簡単に自分の中にある罪深い言動が変わっていく訳ではないのです。自分では良くないことだと分かっていても、ついつい、家族に対して、冷たい言葉が出てきてしまったり、相手が不快に感じる言動をしてしまう、誰もがそういう弱さを持っているのです。いや、家族だからこそ、自分の弱さが出てしまうのでしょう。

 実は旧約時代の信仰の父と呼ばれているアブラハムでさえも、神様に出会った最初の頃は決して、立派な信仰者とは言えなかったのです。アブラハムが何度も何度も同じ過ちを犯した事が聖書に記録されているのです。例えば、外国の地において、自分たちの命の危険が迫ってくると、自分の妻のことを「あれは妹です。」とごまかしたのでした。しかも、同じような事を2回繰り返したのでした。ところが、神様は、そのようなアブラハムが年老いた頃には、立派な信仰者へと成長させてくださったのです。

 同じように、イエス様の弟子たちも、何度も何度も、失敗を繰り返したのです。更には、イエス様が捕らえられた時に、皆、一斉にイエス様の元から逃げ出したのです。けれども、イエス様はそんな弟子たちに怒りをぶつけたり文句を言ったりしませんでした。むしろ、彼らが立ち直る事ができるよう祈ってくださったのです。それらの事実を通して、私たちは、神様のふところの大きさに気づかされるのです。

 この世の基準では優等生タイプの人が評価されやすい傾向があります。けれども、神は、霊的な成長が遅い人であっても、決して見捨てないお方なのです。また、たとえ失敗を繰り返す人であっても、何度も何度も赦して下さるお方なのです。 続きを読む ・説教 マルコの福音書6章45-52節「主イエスに気づけなかった弟子たち」

・説教 マルコの福音書6章30-44節「五つのパンと二匹の魚」

2025.07.13

内山光生

イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げて神をほめたたえ、パンを裂き、そして人々に配るように弟子たちにお与えになった。また、二匹の魚も皆に分けられた。

マルコ6章41節

序論

 今日の箇所は、イエス様の行なった奇跡の中でも割と有名なものです。しばしば「五つのパンと二匹の魚」と呼ばれています。そして、この出来事は、マルコの福音書を含め4つの福音書すなわちマタイとルカとヨハネにも同じ内容が記されています。しかしながら、それぞれの福音書記者が強調している部分が少しずつ異なっているのです。

 ですから、私たちは「あ、この話は聞いたことがある。」と早急に判断するのではなく、今読んでいるマルコでは、この出来事から何を伝えようとしているのかを読み取っていくことが大切なのです。

 最初に結論をお伝えします。マルコによると、5千人の男たちに食事を与えるという奇跡が行なわれる前に、弟子たちを休ませようとしています。つまり、イエス様は人間の肉体の弱さを知っておられ、必要に応じて休息を取ることの大切さを示そうとしています。その流れの中で、大いなる奇跡が行なわれているのです。

 イエス様がこの奇跡を行なった目的は、イエス様は人々にみことばを語るだけでなく、人々の肉的欲求、この場合は、お腹が空いている状態をよく理解して下さるお方だということが示されています。そして、イエス様は人間の肉的欲求の一つである腹ペコになっているお腹を十分に満たして下さるお方なんだということが示されているのです。一言で言うとイエス様は私たちの身体に対して配慮してくださるお方なんだという事が示されているのです。

 順番に見ていきましょう。

I 休息するよう促した主イエス(30~31節)

 30節と31節を見ていきます。

 イエス様の使徒たち、すなわち、弟子たちは、二人一組となって伝道旅行に遣わされていました。この旅行は、彼らにとっては自分たちだけで行なった初めての伝道活動であって、かなりの緊張感や不安な気持ちがあったと思われます。また、色々な町や村を渡り歩いたために、肉体的な疲れを覚えていたと推測することができます。

 伝道活動を終え、彼らは、イエス様にどのような事が起こったのかを詳しく伝えたのでした。イエス様は使徒たちから一通りの報告を聞くと、すぐに「寂しいところへ行って、しばらく休みなさい。」と命じられたのです。自分たちの周りに多くの人々が出入りしていたので、あまりにも忙しくて食事をとる時間さえなかったからでした。

 私たちが伝道活動をする際に、これ程にまで忙しかったならば、かえってうれしい気持ちとなるかもしれません。そして、多少の無理をしてでも人々の要求に応えていきたいという思いが出てくるかもしれません。人々が救いを求めて集まってくることは、神様にとっても私たちにとってもうれしい事だからです。

 しかしながら、それでも休息を取る時間を削っていくならば、長い期間、活動を続けることができなくなります。それゆえ、イエス様は使徒たちに対して「しばらく休みなさい」と命じられたのです。使徒たちによる伝道活動は1回限りの事ではありません。この後、何度も何度も繰り返されていくのです。また、イエス様が天に昇られた後も、生涯、続けられていくのです。ですから、イエス様は、奉仕をする時と休む時の区別をしっかりするようにと促しているのです。

 教会において、伝道活動をする時も同じような事が言えるでしょう。つまり、自分たちの肉体的な疲れをきちんと回復させることも大切であって、その部分を軽く扱うと、結局は、長続きしない可能性が高くなるのです。

 イエス様は、私たちの肉的な弱さをよくご存知のお方なのです。ですから、私たちに対して「肉体の限界まで奉仕しなさい」とは言われないのです。むしろ、「休みなさい」と言って下さるお方なのです。その事を教会全体で共有していくことが、結局は、私たちが喜んで神様に仕えていくための秘訣となっていくのです。 続きを読む ・説教 マルコの福音書6章30-44節「五つのパンと二匹の魚」

・説教 ルカの福音書18章15-17節「神の国を受け入れる者」

2025.07.06

鴨下直樹

⇒ 説教音声の再生はこちら

 私が子どものころ、教会でしきりに聞いた話は、「私たちは死んだ後、天国に行ける」という話でした。まだ小さかった子どもの頃なので、正直この話がよく分かりませんでした。「死んだ後」というのがイメージできなかったのです。昔は、「四つの法則」なるトラクトがあって、「神、罪、救い、天国」の順で神様の救いの説明がなされていました。みなさんの中にも、そのころこういう話を聞いたことのある人がたくさんおられると思います。あるいは、5つの色のフエルトで作った本がありました。黒、赤、白、黄色、そして表紙が緑の5色で、一つずつの色の説明をしながら福音を説明していくのです。

 黒は、私たちの「罪」。私たちは神様の思いを離れているので、心が真っ黒です。けれども、今度は赤色を示して、イエス様の「十字架の血」の説明をします。イエス様が私たちの罪を十字架の上で流された血潮によってきよめてくださいました。それで、私たちの真っ黒な心は雪のように白くなるというのです。そして続いて黄色を示して、私たちは光り輝く「天国」に入れていただけるのですという説明がなされるのです。最後の緑はそれまで私たちの信仰が「成長」していくことを「緑」の色で表して説明をするのです。

 キリスト教の福音を単純化して分かりやすく説明するためには、とても良い方法だと思います。ただ、このような分かりやすい話で、福音を説明していくのですが、子どもの頃の私には、「死んだら天国に行ける」というのは、イメージしにくいどこか遠い話でした。話としてはよく分かるのですが、死ぬということを考えたことがない子どもの私には、あまりピンときていなかったのです。

 その頃、私にとって衝撃的だったことがあります。当時、「日曜学校」と言っていましたが、礼拝の前の時間に、子どものための礼拝として「日曜学校」が行われていました。そこで、讃美歌を歌って、聖書の話を聞いて、お祈りをするわけです。その頃、聖書の話を聞くと、最後に「暗唱聖句カード」という小さな豆カードが一人一人に渡されていました。

 その時もらったカードにはこういうみことばが書かれていました。マタイの福音書7章13節と14節のみことばです。

狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広く、そこから入って行く者が多いのです。いのちに至る門はなんと狭く、その道もなんと細いことでしょう。そして、それを見出す者はわずかです。

 この聖句のカードに絵が書いてありました。広い道の先に大きな門が描かれていて、パレードのように多くの人たちがその道を進んでいくのですが、「ウェルカム」と書かれた物の先には火が燃えていて、悪魔が描かれています。そこにたくさんの人たちが落ちていくのです。ところが、その広い道の途中で細い怪しげな道があって、そこに小さな門があります。そして、その門の先には天国が待っているという絵です。

 その時の私が何年生だったのか覚えていないのですが、その時私は心に誓ったのです。もし、こういう小さな門を見つけたら、その時はその門をくぐっていけば失敗しないんだと。こういう小さな門があることをちゃんと覚えておこうと思ったのです。 続きを読む ・説教 ルカの福音書18章15-17節「神の国を受け入れる者」

今月の礼拝予定(2025年7月)

7月6日 三位一体後第3主日

主日主題: 神の国
聖餐式礼拝: 午前10時30分(Zoom配信)
聖書:ルカの福音書18章15-17節
説教:「神の国を受け入れる者」鴨下直樹牧師

礼拝後:誕生月の祈り、役員会

7月13日 三位一体後第4主日

主日主題: 愛
公同礼拝: 午前10時30分(Zoom配信)
聖書のお話:「ステパノ」内山のぞみ
聖書:マルコの福音書6章30-44節
説教:「五つのパンと二匹の魚」内山光生牧師

礼拝後:礼拝準備会/月間予定確認会、聖歌隊練習

7月20日 三位一体後第5主日

主日主題: 主の訓練
公同礼拝: 午前10時30分(Zoom配信)
聖書のお話:「ピリポの伝道」河合和世
聖書:マルコの福音書6章45-52節
説教:「主イエスに気づけなかった弟子たち」内山光生牧師

7月27日 三位一体後第6主日

主日主題: 隣人愛
公同礼拝: 午前10時30分(Zoom配信)
聖書のお話:「サウロの回心」鴨下愛
聖書:ルカの福音書18章18-30節
説教:「他者のために生きる人生」鴨下直樹牧師

礼拝後:役員研修会

・説教 創世記22章1-14節「イサクの犠牲に見る信仰」

文学と芸術をテーマにした礼拝
2025.06.29

鴨下直樹

⇒ 説教音声の再生はこちら

 今日は、少し変わったテーマで礼拝をしています。「文学と芸術」をテーマにしています。先程は、長い間岐阜県美術館の館長をしておられた古川さんが、いくつかの俳句を取り上げてくださり、「美」というテーマでお話しくださいました。

 実は、古川さんにお話をお願いしたのは、一つの出来事があったからです。以前、子ども食堂の時に古川さんが、ボランティアをしてくれている中学生たちと会話をされていました。その会話の中で、人とは違う外れたところ、そこに「美」があるという話をなさったのです。中学生たちは興味深そうに、その話を聞いていました。自分に自信が無いと言っていた彼らが、とたんに元気になって、みるみる自信に満ちた顔つきに変わっていきました。人とは違っていてもいい。自分なりの違いが自分の武器だと気がついたのです。

 考えてみれば、芸術でも文学でも確かにそうです。誰かが、何かを描こうとする時にも、その人なりの視点というのが、その人の強さ、魅力になっていくのです。

『イサクの犠牲』カラヴァッジョ
『イサクの犠牲』カラヴァッジョ

 最初に、二人の人の絵を紹介したいと思います。テーマは同じ、今日の聖書箇所である「イサクの犠牲」です。1枚目の絵はカラヴァッジョの絵です。16世紀のイタリアの画家です。光と闇を使い分けながら、光を巧みに使うことでカラヴァッジョの表現したいものに、光が投げかけられていきます。またカラヴァッジョは、聖書の人物を描く時にも、実際にその人が目の前にいるかのような表現をします。ここでもイサクの苦しみや恐れの表情をとても生々しく描いています。イサクを犠牲として殺そうとしている父アブラハムの顔も、とても特徴的です。アブラハムは止めようとする天使に対して、いぶかしむような顔をしています。ナイフを持つ手には力が入っていることが見て取れます。このようにして現実的な一人の父親の葛藤の様を描き出しています。

『イサクの犠牲』レンブラント
『イサクの犠牲』レンブラント

 もう一枚、このテーマを描いたもので有名なのは、レンブラントの描いた「イサクの犠牲」の絵です。レンブラントはカラヴァッジョの次の世代、17世紀のオランダの画家です。カラヴァッジョと同じように、光がどのように差し込んでくるのかという、光の明暗の使い分けをする画家です。ただ、レンブラントの特徴は、光が演出のためではなくて、神の恵みを表現していることです。このレンブラントの絵では、光がイサクの体全体にあたっています。神の眼差しが、暖かくイサクを包み込んでいることが分かります。

 面白いもので、同じテーマでありながら少しずつ視点が違うというのがよく分っていただけると思います。

 この「イサクの犠牲」という聖書のテーマは、実に多くの人に、さまざまな疑問を投げかけた聖書箇所です。というのも、そもそもの大前提として「人を殺してはならない」という命題があります。これは、絶対的に正しい真理です。ところが、神はアブラハムに自分の最愛の息子イサクを「全焼のささげ物として献げなさい」と言われたのです。ここから、「倫理」と「信仰」はどちらが優先されるかという問いをもたらしたのです。 続きを読む ・説教 創世記22章1-14節「イサクの犠牲に見る信仰」

・説教 ルカの福音書18章9-14節「二人の祈り人」

2025.06.22

鴨下直樹

⇒ 説教音声の再生はこちら

 今日の箇所には二人の祈る人の姿が描き出されています。パリサイ人の祈りと、取税人の祈りです。これは、主イエスの譬え話ですから、実際にあったかどうかは分かりません。けれども、ここに描き出されている二人の姿は、私たちにとって非常に現実味のある譬え話となっています。

 人前でお祈りする時というのは、良くも悪くも緊張するものです。自分一人でお祈りするのとは違って、みんなが聞いているわけで、恥ずかしさが有ったり、自信が無かったり、変なお祈りをしていないかなと、気になったりするかもしれません。何か、お祈りの正解が分かれば準備もできそうなものですけれども、何が正解かもよくわからない。そんな思いを抱きながら、礼拝の献身のお祈りがあたるときには一週間心が重いという方もあるかもしれません。

 そんな中で主イエスがお祈りの話をなさる。一方のお祈りは褒められているような感じですし、もう片方のお祈りはどちらかというと褒められていない。そうすると、ここでは何か参考になるようなことが言われているのか。そんな気持ちでこの話を聞くこともできるのかもしれません。

 今日の冒頭の9節にはこう書かれています。

自分は正しいと確信していて、ほかの人々を見下している人たちに、イエスはこのようなたとえを話された。

 この部分には、主イエスがこの譬え話をなさった理由が書かれているわけですから、とても重要な部分と言うことができるでしょう。そこで、考えるわけです。「ほかの人を見下している人たち」という部分に関しては、誰でも分かることですけれども、これは良くないと判断できます。ところが、前半部分、「自分は正しいと確信していて、」という部分は、それほど問題は無い気がするわけです。

 お祈りをする時には、確信を持ってお祈りしたいと思うのではないでしょうか。礼拝の司式をする方は、教会祈祷の時にみなさん確信を持ってお祈りされます。その時に他の人を見下して祈るなんてことはないと思いますが、確信を持って祈るということは、大事なことではないかと思えるわけです。

 確信を持っていることが良くないのだとすると、反対に謙虚であれば良いのかと考えてしまいがちです。ところが、この謙虚さというのも、一概に良いとも言えません。その最たる例として、「私は上手にお祈りできないので、お祈りの当番から外して欲しい」という思いを持つ方は少なくありません。しかし、これが謙虚な姿勢かというと、そういうわけでもないわけです。

 謙虚さは美徳という部分はあると思うのですが、これも度が過ぎると良くない場面というのもあるわけです。では、主イエスはここで何をお語りになろうとされているのでしょうか。

 まずパリサイ人の祈りから見てみたいと思います。11節と12節です。

パリサイ人は立って、心の中でこんな祈りをした。「神よ。私がほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦淫する者でないこと、あるいは、この取税人のようでないことを感謝します。
私は週に二度断食し、自分が得ているすべてのものから、十分の一を献げております。」

 このお祈りは、一部を除けばとても立派なお祈りのようにも思えます。「この取税人のようでないことを感謝します。」の部分は余計な言葉な気がしますが、その他の部分はある意味では立派なところでもあります。きっと、こういうことに気をつけて生活しているから出てくる祈りだとも思うのです。人から奪い取ることはしない、不正は働かない、姦淫しない。週に二度断食をしながら祈りを捧げ、自分の収入の十分の一を聖書の戒めに従って献金している。立派なことだと言えると思うのです。それができない人がたくさんいる中で、自分が頑張っていること、ちゃんと出来ていることを神様の前で感謝するというのは、悪くない気もするのです。 続きを読む ・説教 ルカの福音書18章9-14節「二人の祈り人」

・説教 マルコの福音書6章14-29節「悲しみを通して教えられる事」

2025.06.15

内山光生

主の聖徒たちの死はの目に尊い。  詩篇119篇15節

序論

 今日は父の日です。普段、ご家庭において父親の存在がどれ程、感謝に値することなのかを考えることが少ないかもしれませんが、年に一度の父の日は、しっかりとお父さん方に感謝の言葉をかけて頂けると良いかと思います。

 さて、今日の箇所には「バプテスマのヨハネが殺害された事」について記されています。バプテスマのヨハネは、旧約時代の最後の預言者と呼ばれています。そして、イエス・キリストが人々の前で福音宣教の働きをする少し前に、イエス様の道備えをした預言者です。人々からも尊敬されていて、力強く神様の教えを人々に伝えた立派な預言者だったのです。ところが、ヨハネは悲しい最期を遂げたのでした。

 人は誰かが死んだという知らせを聞くと、悲しい気持ちとなります。私たちは、人の死に対して悲しみや辛い気持ちになってしまうのです。それが、たとえ昔の時代の人の話であったとしても、やはり、悲しい気持ちが出てくるのです。

 聖書を読む多くの人々は、バプテスマのヨハネが殺されたという箇所を読む時、悲しい気持ちや複雑な感情を抱きます。そして、「神様、なぜこんな酷い殺され方をしたのですか。その理由を教えてください。」との気持ちが出てくるのです。ヨハネだけではありません。旧約時代の預言者たちも、同じように、神様に仕えていたにも関わらず迫害に遭い、殉教の死を遂げた人々が存在します。また、新約時代においても、十二使徒の中で一人を除いて、他の11人すべてが殉教の死を遂げたと言われています。直接、聖書の中には書かれていませんが、他の文献によって、そのように伝えられているのです。その事実を知る時、多くのクリスチャンは心が痛む、そういう思いにさせられるのです。

 神様に仕える者が殉教の死を遂げる、この事実に対して、ある人々は「それをどのように受け止めていいか分からない」と考え、キリスト教に失望したと発言する人々がおられます。そんな神様なら信じない方がましだ、と言い張るのです。私は、彼らの気持ちは半分は理解できるのですが、しかし、もっと聖書をきちんと読んでから、そして、イエス様の伝えた福音をしっかり学んだ上で判断してほしいと思うのです。

 今日の説教題は「悲しみを通して教えられる事」です。私たちは悲しい出来事が起こると、一時的に苦しい状況に立たされ、そのただ中にある時は、すぐには神様に対して希望を見出すことができないことがあるかもしれません。しかし、時間がかかったとしても最終的に「すべてのことを益として下さる神」に賛美をささげる者となるよう神様が導いて下さるのです。そのことに目を向けていきたいと思います。 続きを読む ・説教 マルコの福音書6章14-29節「悲しみを通して教えられる事」