2023 年 5 月 7 日

・説教 ルカの福音書6章12-16節「主イエスの弟子たち」

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復活節第5主日
2023.5.7

鴨下直樹

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 今日の聖書箇所の冒頭12節にこのように書かれています。

そのころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈りながら夜を明かされた。

 主イエスは夜通し祈っておられます。何を祈っていたかというと、この祈りを通して十二弟子をお選びになられたのです。

 この「12」という数字は特別な意味を持つ数字です。イスラエルの民は十二部族あります。この12の部族全てで神の民です。つまり、12というのは神の民を表す数字なのです。主イエスの十二弟子も、神の民全てを表します。この神の民全ての代表として、主イエスは12人をお選びになりました。この12人は新しいイスラエルの代表となるのです。そのために、主イエスは山に登られて夜を徹して祈られたのです。

 こうして、これから生まれる新しいイスラエルのために、主は先立って祈ってくださったのです。この新しいイスラエルというのは、今の私たちの教会のことも含まれています。主は、この弟子たちを中心とした新しい神の民イスラエルを再創造なさったのです。

 ルカは、こうして選ばれた12人の弟子たちのことを、「使徒」という名を与えられたと、続く13節で記しています。「使徒」というのは、古代ギリシャでは遠征に軍隊や艦隊を派遣することを意味した言葉でした。そのために正式に信任されて、権限を与えられた代表という意味を持つようになったようです。

 ここで選ばれた12人の使徒たちも、主イエスから信任を受けて、特別な使命のために派遣される、新しい教会の代表となっていきます。

 主イエスから信任を受けた、特別な使命を与えられた「使徒」というくらいですから、どんなに立派な人たちなのだろうかと思って見てみると、この弟子たちは本当に、かなりユニークな面々だということが分かります。

 14節から16節に、この十二使徒と呼ばれた人々の名前が出てきます。このリストを見ているだけでも、かなり個性的な人々の集まりであったことが分かります。

 まず気づくのは、同じ名前が3つもあります。ペテロと呼ばれたシモンの他に、熱心党員のシモン。漁師であったヤコブとヨハネの名前がありますが、アルパヨの子もまたヤコブです。しかも、このアルパヨの子のヤコブの子どもの名前にユダという名前があって、最後にイスカリオテのユダという名前も出てきます。このユダは主イエスを裏切るユダです。

 12人の中に3つの名前が重なっているわけですから、半分の名前は重なっていることになります。

 私には兄弟が二人ありますが、「なおき、ただし、けんじ」といいます。ある時、一番下のけんじが、小学校から帰ってきた時に、「今日、算数の問題で、なおき、ただし、けんじの名前が全部セットで出てきた。なんでこんなにありふれた名前にしたの!」と親に怒っていたことがありました。

 けれども、このシモンとヤコブとユダは、もっとポピュラーな名前です。このシモンとその兄弟アンデレ、そして続くヤコブとヨハネは、みな漁師たちでした。そして、それぞれ兄弟で、主に仕えています。ヤコブとヨハネには「ボアネルゲ(雷の子)」という名がつけられています。これは、気が短く、すぐ怒るというところから来ているそうです。短気で怒りっぽい人であっても、主の目にかなったのです。

 細かく全ての弟子について説明することは出来ませんが、次にピリポとバルトロマイという弟子が出てきます。この二人はいつもセットで出てきますが、他の福音書ではこのバルトロマイはナタナエルという名前で出てきています。

 この二人は弟子たちの中でもかなり優等生で、ナタナエルとして出てくる他の箇所では主イエスに「これこそイスラエル人」と呼ばれた人物でした。その正反対なのが次に出て来る取税人のマタイです。前回の5章で出てきた、ローマのためにユダヤ人の同胞からお金を取っていたような人物です。そして、マタイのような人をなんとかしたいと考えていたのが、熱心党員と呼ばれる人です。熱心党員のシモンとマタイなどは、仲良くするのは難しかったと思うのです。

 他にも石橋を叩いて渡るトマスのような弟子もいます。アルパヨの子ヤコブとユダ(別の福音書でタダイと書かれています)、この二人はどうも親子のようです。そこに、イスカリオテのユダです。このユダだけが、ガリラヤ以外の出身者ということになります。

 かなりキャラの強い人たちですから、仲良くやっていけたとは到底考えられません。それぞれ主義主張が異なっているのです。短気な兄弟や、慎重なトマス、突発的に行動してしまうペテロのような弟子までいるのです。これが、主イエスが徹夜の祈りをして、弟子として任命した十二使徒たちです。

 ここから何が分かるかというと、主イエスにとって、その人の性格やタイプ、主義主張や出身地というようなものは、何の問題にもならないのだということです。 (続きを読む…)

2023 年 4 月 30 日

・説教 ルカの福音書6章1-11節「愛する心を」

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復活節第四主日
2023.4.30

鴨下直樹

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 聖書にはレビ記という神の様々な戒めである律法の規定を記している書物があります。私は、このレビ記をとても興味深い書物だと思っています。多くの人が、聖書を読み始めようと思って聖書を読み進めると、最初の関門がレビ記だと言われます。細かな神様への捧げ物などをする祭儀の規定などが記されていて難しく感じるからです。律法というのは神の法律です。そこでは、神からの命令が記されているのですが、命令というのは、「何々してはならない」という記述の仕方が沢山あります。そういう戒め、規則の文章というのは読んでいてあまり楽しいものではないのかもしれません。ただ、そういう戒めの文章を読むときに、その言葉を文字通りに捉えるのか、それとも、その背後にある意図を知ろうとするのとでは、かなり捉え方は変わってきます。

 私が子どもの頃、小学生の頃のことです。両親が家を出る前にこう言い残しました。「戸棚にあるケーキは食べちゃダメだからね」と言って出かけたのです。我が家は5人きょうだいです。家族の中で当時、もっともよく使われていた言葉は「食い物の恨みは恐ろしい」という言葉でした。5人もきょうだいがいますから、目の前に食べ物があるときに口に入れなければ、「今度」はやってきません。鴨下家のその次によく使われていた言葉は「今度と化け物出たことない」という言葉です。なぜ、ことわざになっていないのかと不思議に思うほどです。「今度買ってきてあげるから」と言っても、出てきたためしがないのです。我が家はそんな具合ですから、戸棚に隠されたケーキの存在はまだ私しか知らない秘密ですから、その時点では私に主導権があると考えました。美味しいものを他のきょうだいに食べられるくらいなら、後でたとえ怒られようと食べておけというのが、私の当時の人生哲学でした。ですから何ら迷うことなく、親がいなくなったと同時に、戸棚のケーキは私のお腹の中に消えていったのです。

 するとどうでしょう。10分もしないうちに両親がお客さんを連れて帰ってきたのです。その時点で私は全てを理解しました。親が二人で出かけたのはお客さんを駅まで迎えに行ったからで、戸棚に隠されていたケーキはそのお客さんに出すためのものだったのです。

 親は、そのお客さんにケーキを出そうとして凍り付きました。4つあったはずのケーキの一つがないのです。当然、そのお客さんが帰った後で私は母から烈火のごとく叱られました。

 「戸棚のケーキを食べてはいけないよ」という戒めには、「それはお客さんに出すためのものだからね」という言葉が隠れていたわけです。けれども幼い子どもの頃の私にはそんな考えが背後にあるとは分かりませんでした。

 戒めの言葉というのは全てがこれと同じで、その戒めの背後には必ず異なる考えが隠されているのです。そして、神からの厳しい戒めも、その背後には、神からの私たちへの愛が隠されているのです。

 今日の安息日の戒めは、先ほど十戒を皆さんで読みましたが、新改訳ではこのように記されています。出エジプト記の20章8節から10節の途中までをお読みします。

安息日を覚えて、これを聖なるものとせよ。六日間働いて、あなたのすべての仕事をせよ。七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはいかなる仕事もしてはならない。

 十戒の第四の戒めです。ここには「安息日にはいかなる仕事もしてはならない」と戒められています。そして、この時代のパリサイ派の人々や律法学者の人々はこの戒めを忠実に守ることに、かなり力を注いできました。

 ここの「いかなる仕事もしてはならない」と書かれていますから、この「いかなる」は何をさすかを考えたわけです。そこで労働してはならないと考えました。じゃあ何が労働にあたるのかと続いて考えるようになりました。この安息日には何歩以上歩くと労働になるというような考え方まで登場してきたのです。そんな具合ですから、主イエスの弟子たちが、安息日に麦畑を通る途中で「穂を摘んで、手でもみながら食べていた」というのは、パリサイ人たちにしてみれば、禁則を犯したと思ったのは彼らからすれば当然のことだったのです。麦を収穫して、脱穀するというのは労働と考えられたからです。
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2023 年 4 月 23 日

・説教 エペソ人への手紙1章3-14節「主にある私のアイデンティティー」マレーネ・ストラスブルガー師

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復活節第三主日「ミゼリコルディアス・ドミニ(主の慈しみ)」
2023.4.23

マレーネ・ストラスブルガー

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2023 年 4 月 16 日

・説教 ルカの福音書5章33-39節「主イエスとの新しい歩み」

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復活節第二主日「クアジ・モド・ゲニティ」
2023.4.16

鴨下直樹

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 今日は、復活節の第二主日です。教会の暦では「クアジ・モド・ゲニティ」という名前の付いた主の日です。これはこの日に読まれるペテロの手紙第一第2章2節のラテン語から来ています。「今生まれた乳飲み子のように」という意味です。

 よみがえりの主の新しいいのちに生かされる私たちは、よみがえりの信仰によって「乳飲み子」のように、新しい人生を歩み出していくのです。

 そういう意味では、今日の聖書箇所はこの日にぴったりな聖書箇所だと言えると思います。前回の箇所で出てきた、取税人のレビは、まさにこの「生まれたばかりの乳飲み子」のような状態だと言えるからです。

 レビは、主と共に歩むように招かれました。そこで、みんなで美味しくご飯をたべながらお祝いをしていたのです。ところが、それを見ていたパリサイ派と律法学者が主イエスに尋ねました。

 「さきほど、あなたは『わたしは罪人を招いて悔い改めさせるために来た』と言われましたよね? でも、悔い改めているようには見えないのですが?」と問いかけてきたのです。

 このパリサイ人たちの疑問は意地悪な質問というよりは、普通に感じた疑問なのだと思います。今日の33節の冒頭に「ヨハネの弟子たちはよく断食をし、祈りをします。パリサイ人の弟子たちも同じです」とあります。

 こういう習慣は、パリサイ人たちだけではなくて、初代の教会にもあった習慣です。たとえば、ルカが書いた使徒の働きの13章の1節から3節を読むと、アンティオキアの教会からバルナバとパウロを派遣して送り出す時にこう書かれています。「そこで彼らは断食して祈り、二人の上に手を置いてから送り出した。

 教会ははじめの頃から、断食をして祈る習慣をもっていました。これは、食事を食べる時間も忘れるほどに祈りに集中するという習慣を持っていたのです。断食して祈るという習慣があったということは、やはり悔い改めをする時も、断食をして祈ることはごく一般的にとらえられていたのです。

 今日、ドイツから来日しておられるマレーネ先生を囲んで、礼拝の後に食事会をする計画があるようです。初代教会風にいうと、「食卓を囲んで交わりをし、そして、マレーネ先生を送り出した」ということになります。こんな話をすると、「あれ? そんな話をする鴨下先生は、今日は食事をしないで断食するつもりなのか?」と思われる方があるかもしれません。もちろん、喜んで一緒に食事をさせていただきたいと思っています。

 けれども、言葉の印象としてはどうでしょうか? 「断食して祈る」というのと「食卓を囲んで祈る」というのを比べた時に、どういう印象を持つでしょうか?

 別に、意地悪で言っているわけではないのです。なんとなくですけれども、「断食をした」という風に聞いた方が、真面目な雰囲気があるんだと思います。断食と比べられると、楽しく食事をしていることが、悪いことかのような印象になってしまうわけです。

 当時の教会にも断食をするという習慣はありましたので、断食して祈るというのはとても重要なことだということは間違いありません。特に、ここで主イエスが「わたしが来たのは悔い改めさせるため」と言われたものですから、悔い改めというのは、断食するんじゃないの? とパリサイ人たちは当たり前のように思ったのです。ところが、主イエスたちを見てみると、断食するどころか、楽しそうに食事をしているので、パリサイ派の人々は「いやいや、それは悔い改めとは言わないでしょ」と言いたくなったのです。気持ちはよく分かります。

 ところが、そう言われて、主イエスはこう答えられました。34節と35節です。

「花婿が一緒にいるのに、花婿に付き添う友人たちに断食させることが、あなたがたにできますか。しかし、やがて時が来て、花婿が取り去られたら、その日には彼らは断食します。」

 主イエスはここで、弟子になったレビは今花婿と一緒にいるんだから、断食する必要はないのだと答えられたのです。ここで言われている花婿とは、主イエスのことです。レビにとっては、わたしと一緒に歩む結婚の誓いをしたようなものなのだから、今は喜ぶ時であって断食する時ではないのだと言われたのです。 (続きを読む…)

2023 年 4 月 9 日

・説教 詩篇116篇「死からの救い」

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復活主日(イースター)礼拝
2023.4.9

鴨下直樹

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 イースターおめでとうございます。

 今日は、私たちの主イエスのよみがえりを共に祝い、喜ぶ日です。

 今日はこの詩篇116篇が私たちに与えられています。この詩篇116篇は、教会の伝統では洗足式の木曜日に読まれたり、また、葬儀の時に読まれたりすることの多い詩篇です。

 この詩篇の主題は、死と、よみの恐怖からの救いと、その感謝が歌われています。

 3節にこう記されています。

死の綱が私を取り巻き
よみの恐怖が私を襲い
私は苦しみと悲しみの中にあった。

 この詩篇はいつの時代のものか、誰が書いたものであるかははっきりしません。けれども、イスラエルでは古くからこの詩篇を個人の救いの感謝の詩篇として用いることが多かったようです。ここに書かれている「死の綱が私を取り巻く」というのは、死に支配された状態です。病のため、あるいは、人が何らかの事情で窮地に置かれた時に、まるで大蛇が体に巻き付いて自分を締め付けるように、死の綱が私を取り巻いたと、この詩篇では表現されています。この詩篇を書いた人は、そんな死の恐怖を味わっていた人のようです。

 この詩篇の言い方から分かるのは、死の危機が迫っている状況は、よみの世界に落とされてしまったことと同じように考えられているということです。まだ、死んではいないのですが、死に支配された時、それは「よみ」に、つまり死の支配する世界にいるのと同じだと考えているのです。

 このような表現はまさに、主イエスが十字架に磔にされて、死なれ、よみがえられるまでの、よみの期間を過ごされたことと重なります。

 詩篇の祈り手は、死の支配の中にあって4節にあるように「主よ、どうか私のいのちを助け出してください」と祈りました。主の御名を呼び求めると、救い出されたのです。主の御名を呼ぶことがどれほど大きな意味を持っているかが、ここで私たちにはよく分かります。

 この4節で「私は主の御名を呼び求めた」とあります。この詩篇の中で「主の名を呼ぶ」という表現は、13節にも、17節にも出てきます。

 救いの主の御名を呼ぶことから、主の救いの御業は始まるのです。

 「どうか、私のいのちを助け出してください」という祈りは、どの世界の人々もしているのだと思うのです。けれども、ここではその前に「主よ」という言葉が冒頭にあります。この主の御名を呼ぶということが、とても重要なことなのです。 (続きを読む…)

2023 年 4 月 7 日

・説教 イザヤ書55章1-12節「苦難のしもべ」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 19:07

受難日礼拝
2023.4.7

鴨下直樹

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 今日は受難日です。主イエスが十字架にかけられて殺されたことを心に刻む時として、私たちは主のみまえに集まっています。

 この主の受難を覚える時に読む聖書の箇所のひとつが、このイザヤ書53章です。ここには「苦難のしもべ」と呼ばれる人物が出てきます。預言者イザヤは、52章の13節から「わたしのしもべは栄える」と語り出して、ここで主のしもべのことを記していきます。ここに記されたしもべは、さまざまな苦難を受けることが描き出されています。それで「苦難のしもべ」と呼ばれるようになったのです。

 そして、このイザヤ書53章に記されている苦難のしもべのお姿は、そのまま受難週に描き出されている主イエスのお姿と重なります。私たちは、このイザヤ書を読む時に、聖書は、こんなにもはっきりと主の苦難のお姿を、あらかじめ記していたのかと驚きを覚えます。それほどに、明確に主の苦難のお姿が描き出されているのです。

 1節から3節にこのようにされています。

私たちが聞いたことを、だれが信じたか。
の御腕はだれに現れたか。
彼は主の前に、ひこばえのように生え出た。
砂漠の地から出た根のように。
彼には見るべき姿も輝きもなく、
私たちが慕うような見栄えもない。
彼は蔑まれ、人々からのけ者にされ、
悲しみの人で、病を知っていた。
人が顔を背けるほど蔑まれ、
私たちも彼を尊ばなかった。

 この苦難のしもべと呼ばれる人は、蔑まれ、人からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていたとあります。悲しみの人、病の人、というのは人が注目するような魅力的な人物ではありません。人から注目される人物とは正反対の姿です。だから、誰も、彼を尊びませんでした。

 ところが、そのような人の目に留まることのない人物には大きな役割がありました。それが4節です。「まことに、彼は私たちの病を負い、/私たちの痛みを担った。」と記されているのです。「私たちの病を負い」「私たちの痛みを担った」と記されているのです。そして、この4節の後半ではこう記されています。「それなのに、私たちは思った。/神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと。

 私たちは、ここに描き出された苦難のしもべが、私たちのために病や痛みを担っていることがあまり理解できません。理解するどころか、あの人は神に罰せられていると思っているのです。かわいそうな人だと思って見ているのです。

 それは、多くの人が十字架上の主イエスのお姿を見た時に思い描く感想とよく似ています。

 ヨーロッパの教会に行きますと、カトリックの教会には、この十字架上の主イエスの彫刻や絵が至る所に置かれています。その主イエスのお姿を見ると、当時の姿を思い描くことができるのですが、どこか人ごとのように眺めているのです。それが、大抵の人の感想です。 (続きを読む…)

2023 年 4 月 6 日

新型コロナ感染症対策 一部変更のお知らせ(2023年4月6日更新)

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 09:05

礼拝のコロナ対応

 芥見キリスト教会では、新型コロナ感染症拡大防止のため、これまで短縮礼拝をつづけておりましたが、今年のイースター礼拝(2023年4月9日)より、短縮礼拝をやめ、通常の礼拝に戻すことといたしました。

 賛美歌は全節賛美いたします。また、検温も廃止し、アクリルパネルなども取り外します。礼拝に来られる方は、アルコール消毒にご協力くださり、また健康に不安にある方はマスクを引き続きご利用ください。

賛美歌を全節賛美いたしますので、マスクをしながら賛美することが困難などの理由でマスクを外して歌う方もおられると思います。健康面に不安のある方は、オンライン礼拝(zoom配信)を行いますので、そちらをお用いください。

オンライン礼拝の一部変更

 これまで礼拝はLineライブを用いて同時配信を行い、またホームページでも礼拝のLine配信および録画アーカイブを見ていただいていましたが、2023年3月末でLineライブのサービスが終了したため、これまで同時配信を見られていた方、またHPを通して礼拝の動画を見ておられた皆様には大変残念なのですが、配信を見ることができなくなってしまいました。

 今後の同時配信についてはYouTube配信なども検討していますが、また決まりましたらホームページでもご案内させていただきます。

 同盟福音 芥見キリスト教会 役員会

2023 年 4 月 2 日

・説教 ルカの福音書5章27-32節 「罪人を招かれるお方」

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 07:36

棕櫚の主日礼拝
2023.4.2

鴨下直樹

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 今週は教会の暦で「棕櫚の主日」と言います。主イエスがエルサレムに入られて、十字架にかけられるまでの一週間の期間を過ごすことになります。この一週間のことを「受難週」とか「レント」と呼びます。

 この時、私たちは自分自身の罪と向かい合いながら、主イエスの十字架の意味を心に刻むのです。この受難週に私たちはこの「罪」に心を向けます。

 そこで、今日の箇所では、まさにこの時代だれからも「罪人」と思われた「取税人のレビ」が登場してきます。

 私はこの説教のためにある本を読んでいた時「彼はこの世の人間の屑でした」と書かれている文章を見つけて衝撃を受けました。聖書の解説の中で、そんな言葉を目にするとは思ってもいなかったのです。

 「人間の屑」というのは、なかなか厳しい言葉です。人に向かって使ってはいけない言葉です。けれども、この言葉には、レビの同胞であったユダヤ人たちからしてみれば、そういう思いがあったのかもしれません。同胞のユダヤ人からお金を取って、自分たちを支配しているローマのためにお金を納めるのです。当然疎ましく思われたはずです。

 先日の祈祷会で、みなさんに質問してみました。「このレビは同胞から疎まれても、それでも逞しくこの取税人という仕事に就いていられたのは、どういうモチベーションがあったと考えられますか?」という質問です。

 色んな答えが返ってきました。一番多かったのは「お金が手に入ることで、満足感を得たり、優越感に浸れたのではないか」という意見でした。他にも、こんな意見がありました。「ローマ人に仕えることができるというのは、他のユダヤ人たちとは違う特権を持っていたはずなので、それは誇りになり得たのではないか」という意見です。

 少しレビのことを想像してみたいと思います。レビは毎日、一体どんな気持ちで収税所に座っていたのでしょう。もちろん、取税人という仕事は誰かがやらなければいけない働きです。ローマからの特権もたくさんあったのでしょう。けれども、妬みや憎しみの目を向けられることも事実です。このレビは、他の福音書を読むと「マタイ」という名前で登場しています。マタイの福音書はこの人が書いたと考えられています。マタイの福音書を読むと、旧約聖書に精通している人物だということが分かります。

 レビは、どうやったのか分かりませんが取税人という仕事を得ました。その仕事が自分を支えていたに違いありません。

 それは、私たちも同じだと思うのです。人は自分の得たもの、手にしたもので、生きていかなければなりません。自分が手に入れて来たもので自分自身を支えているのだと思うのです。

 お金があるから大丈夫。そう考えて、お金によって自分のプライドやアイデンティティーを支えているということはあると思います。あるいは仕事のやりがいや、仕事の楽しさが自分を支えていることもあるでしょう。自分がこれまで培ってきた能力や、技能や、人脈や、知識や、経験といったさまざまなものが、私たちの毎日の生活を支えています。それは、間違いのないことですし、それは私たち自身にとって、とても大切なものでもあります。

 レビにしてみれば、少なくともこれまでは、それでいいと考えていたはずです。ところが、そんなレビに唐突に次のような言葉が語り掛けられます。

 主イエスはレビに語り掛けられました。「わたしについて来なさい」と。 (続きを読む…)

2023 年 3 月 26 日

・説教 ルカの福音書5章17-26節「天井を突き抜けた救い」

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2023.3.26

鴨下直樹

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Lineライブ

午前10時30分よりライブ配信いたします。終了後は録画でご覧いただけます。


 

 先週、WBC、野球のワールドカップが終わりました。とてもドラマチックな展開で、日本が見事優勝しました。私も、普段はそれほど野球を見ないのですが、今回は夜に再放送をしたこともあって、何度かゲームを見ました。一か月間続いたゲームが無くなって刺激がなくなったという方も少なくないのだと思います。

 私たちは普段、毎日同じことの繰り返しの生活を退屈に感じるかもしれません。時々、私たちの生活を刺激してくれるWBCのような非日常の体験というのは、私たちに刺激を与えてくれます。普段は退屈な毎日とは思っていなくても、何か大きな出来事が終わってしまうと、自分たちの普段の生活がとても退屈なものに見えてしまう。そんな経験をすることがあるのかもしれません。それは、たとえクリスチャンであったとしても、信仰を持っていたとしても同じようなことが起こるわけです。

 私自身もそんな思いになることに、今さらながら驚きを覚えます。聖書を読んで、お祈りすれば神様との豊かな交わりの中にいるのだから、退屈さなんてないのではないかと思うのかもしれません。なぜそう思うのだろうかと、私自身考えてみると、一つ見えてくることがあります。それは、「答えが見えて来る」「先が読めて来る」という経験です。

 聖書を読んでいても、本当は分からないことばかりなのですが、いつのまにかすっかり聖書が分かったような気持ちになってしまうことがあるわけです。聖書の学びを皆さんとしているときも、何か質問があるとつい、分かっている気になって話してしまいます。そういう思いというものを持つと、いつしか足もとがぐらつくことにもなりかねないのです。もう、何もかも、分かっている。神様が何と言われるか分かっている。そういう思いによって日常が造り上げられていくときに、私たちの生活はたちどころに退屈なものとなってしまうのではないでしょうか。

 先日も、今日の聖書箇所を祈祷会でみんなと学びました。とても刺激的で楽しい時間でした。というのは、皆さんから予想もしない答えが出てくるからです。私は普段、自分一人で聖書を読んで、聖書の解説を読んでいます。そんなことをずっと続けていますから、この箇所はこうやって解釈するというのは当たり前になってしまいます。そうすると、何だかわかったような気になって、聖書を読むことすら退屈になってしまうということが起こり得るわけです。

 けれども、先日もみなさんと話していますと実に様々な意見が飛び交いました。それは私にとって、非常に刺激的な聖書の学びの時となした。

 今日の聖書は、「また」と言ってもいいかもしれません。癒しの奇跡の御業が記されているところです。「中風の患者の癒し」と呼ばれています。中風というのはギリシャ語では「片方がゆがむ」という意味の言葉です。例えば脳梗塞などの病のために体が麻痺してしまう状態にある人のことをいいます。聖書の注のところにも、「からだが麻痺した状態の人」と記されています。

 ツァラアトの病の人に続いて、中風の人が出て来るのも、人が一度病になってしまうと、そんなに簡単に癒されることがない病として記されていることが分かります。そういう病に陥った時に、その病をどのように受け止めていくのかという、人の姿がここには描き出されています。

 もちろん、それは病の場合に限りません。病というのはその人の生活が困難な状況におかれてしまいますので、その病を抱えながらとても厳しい生活をしなければなりません。毎日、その厳しい現実を目の当たりにしながら、どこかで今の自分の身に起こっている状況が改善することを人は求めるのです。それは、病だけではなくて、人との関係の中でも起こることです。あるいは、経済的な困窮という場合もあるでしょうし、受け入れがたい日常が続くなかで、多くの人がどうしたらそこから抜け出すことが出来るのかを求めているのだと思います。

 そういう生活の中で、信仰が何の助けにもならないように感じてしまう場合もあると思います。今の自分の置かれている状況が変わるとは思えないので、その中でもがき苦しむということもあるのだと思うのです。そんな変わらない現状に苦しんでいるのが、今日出て来る中風を患っている人です。
私たちは今日、この病の人に目を留めることになるのですが、今日の所にはそれ以外の人々も登場してきます。特に今日聖書に出て来る登場人物の中には、新しい人たちが姿を現します。それが「パリサイ人たちと律法の教師たち」です。

 今日の箇所から6章の前半までに4つの物語が記されています。この4つの物語に共通して登場するのが、このパリサイ人たちと律法学者たちです。彼らは、主イエスが人々の病を癒し、聖書を解き明かしているという噂を聞きつけて、至る所から集まって来たようです。最近噂になっているイエスとはいったい何者なのか、興味を持っていたのです。

 ルカはここでこのユダヤ人の宗教指導者たちが主イエスの働きを見て、何を感じたのかということを、描き出していこうとしています。その最初の出来事として、この中風の患者の癒しの出来事を、パリサイ人たちや律法学者たちが見たのだと記録していったのです。

 今日の物語は、このパリサイ派たちに代表されるユダヤ人の宗教指導者たちの視点、そして、中風の患者とその友達の視点、また主イエスの視点と3つの視点で見てみる必要があります。 (続きを読む…)

2023 年 3 月 19 日

・説教 ルカの福音書5章12-16節「主の御手は光のごとく」

Filed under: ライブ配信,礼拝説教,説教音声 — susumu @ 00:06

2023.3.19

鴨下直樹

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Lineライブ

午前10時30分よりライブ配信いたします。終了後は録画でご覧いただけます。


 

 今日の聖書の中には「ツァラアトに冒された人」という言葉が出てきます。聖書を初めて読む人には何のことだか良く分からない言葉です。今は、「重い皮膚病」とか「規定の病」と訳したり、新改訳のように原文をそのままで「ツァラアト」と訳したりしています。

 この「ツァラアト」というのは、これまでは「らい病」と訳してきました。この翻訳のために、「らい病」「ハンセン氏病」の人が長い間苦しめられてきました。聖書がこの病のことを神からの刑罰としての病として描いてきたからです。

 たとえば、モーセの姉ミリアムも(民数記12章)この病に侵されてしまいました。エリシャの従者であったゲナジもナアマン将軍が持参した貢物に目がくらんでそれを手にした時、ツァラアトに冒されたと記されています。

 レビ記14章ではこの病に冒された者は人の中を通る時には「汚れている、汚れている」と言わなければなりません。また、町の外の宿営に隔離されて生活することになります。つまり、この病は、人と一緒に生きて行くことがもはやできず、誰からも避けられて一人孤独に生活しなければならない、感染の危険のある病とされてきたのです。

 そのために、人々はこの病に冒されることは、神の裁きであり、何か悪いことをして神の怒りをかった人なのだと考えるようになりました。病のために苦しむだけではなくて、誰からも理解されず、神からも見放された病。それが、このツァラアトという病でした。

 今日の箇所は12節でこのように書かれています。

さて、イエスがある町におられたとき、見よ、全身ツァラアトに冒された人がいた。その人はイエスを見ると、ひれ伏してお願いした。「主よ、お心一つで私をきよくすることがおできになります。」

 この一節だけでも、いろいろなことが語られています。まず、「主イエスがある町におられたときに、全身ツァラアトに冒された人がいた。」と書かれていますが、このこと自体がありえない出来事です。先ほど話したように、この病の人は町の中に入れません。ということは、この人はどこかで主イエスの噂を聞いて、いてもたってもいられなくなって、その禁令を破って町の中に入って来てしまったということです。

 そこで、うまい具合に主イエスと出会うことができたようです。すると、いきなり主の前にひれ伏してお願いしたとあります。この人が男性なのか、女性なのかも分かりませんが、必死さだけはこの文章からも良く分かります。しかも、「癒してください」と願ったのではありませんでした。まず、「主よ」と呼びかけていることもそうですが、「お心一つで私をきよくすることがおできになります」と語っています。自分の願っていることではなくて、主イエスの願ってくださることが重要なのだと、言っているのです。 (続きを読む…)

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