2025 年 9 月 28 日

・説教 ルカの福音書19章11-27節「王様の視点、しもべの視点」

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2025.09.28

鴨下直樹

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 みなさんは、仕事を誰かに頼まれると、先に終わらせてしまうタイプでしょうか? それとも、ギリギリまでやらないタイプでしょうか? こういう質問をすると、いろんな答えが返ってきそうです。もちろん、先延ばしにするよりは、すぐにやった方がいいと多くの方は考えると思います。自分でも言いながら、みなさんの視線が痛いような気もしてきます。誰がそれを言っているのだと。

 たぶん皆さんの家庭には今、国勢調査のアンケートが届いていると思います。もうすでに終わらせてしまった人と、まだ終わらせていない人といると思います。10月8日が最終締め切りだそうです。まだの方は、まだあと1週間ありますのでご安心ください。

 先延ばしにする人の場合「しなければならない用事というのは、いくつかの優先順位がある」そんな考え方で、重要度によって分けているという人もあると思います。いろんな考え方があると思うのですが、しなければいけないことを後まわしにする人にも言い分があります。「直前に何かの事情で、やらなくても良くなる場合もあるので、様子をみている」という意見です。「なるほどな」と私も思います。私はどちらかというと、そのように答える人の気持ちがよく分かるタイプです。

 私はというと、ご存知の方も多いと思いますが、「以前は」最後までやらない人間でした。夏休みの宿題も最後の日にラストスパートをかけるタイプです。けれども、実は芥見教会に来てから少し考えを改めました。十数年前のことなのですが、水曜の祈祷会の時に、長老と何かのことで相談をしたのです。もうその時すでに夜の10時頃だったのですが、長老は躊躇なくその場で電話をかけて、あっという間に、その要件を済ませてしまったのです。私なら、明日の朝電話をしようと思いながら、つい電話をかけ忘れてズルズルいくパターンが多いので、この時の長老の姿に私は衝撃を受けました。仕事ができる人というのは、こうも軽やかなのかと感動したのです。もちろん、改めたと言っても、誰も信じてくれないかもしれません。なぜなら今でも昔の癖が抜けきらず、ギリギリまで延ばしてしまうことも多々あるからです。ですが、気持ちとしては、できるだけ早めに終わらせようと思うようにはなりました。はい、信じるか信じないかはあなた次第です。

 どうしてこんな自分の首を絞めるような話から始めたかと言いますと、今日の聖書の話は主イエスのなさったミナの譬え話です。ある身分の高い人が10人のしもべに「私が王様に任命されるために留守にしている間に、一人1ミナで商売をしなさい」と命じて出て行ったという譬え話なのです。1ミナというのは、だいたい100万円くらいと考えていただいて良いと思います。

 そこで、10人のしもべたちは主人が帰ってくるまでに、そのお金を使って商売をしたわけです。当然、うまくやった人もいます。うまくできなかった人もいるわけです。すぐに商売に取り掛かった人もいたでしょうし、入念に計画を立てていた人もいたと思います。まだ時間があるから大丈夫と、のんびり構えていた人もあったと思うのです。ここで求められているのは「商売」という能力です。仕事の能力というのは個人差がありますから、誰もが商売上手とも言えません。商売ですから、失敗する可能性も大いにあるわけです。そういう中で、どう振る舞うのが正解なのか、そこには人の数だけ正解がある気もします。 (続きを読む…)

2025 年 9 月 7 日

・説教 ルカの福音書19章1-10節「見つけ出される喜び」

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2025.09.07

鴨下直樹

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 今日の聖書の箇所は取税人ザアカイの話です。ザアカイの話というのはとても有名な話ですけれども、ルカの福音書にしか書かれていません。ところが、このザアカイを取り上げた説教は沢山あります。その中でも、いくつかの説教を読んだのですが、私が心惹かれたのは旧約聖書学者の左近淑先生の説教で、とても心に残りました。どんな話かというと、牧師の家で飼っていた犬が迷子になってしまったという話なのです。

 その家にはスキピーという大きな犬がいたそうです。毎朝家の前を通るジョギングの人たちに向かって、家の囲いに足をかけてワンワン吠える。その牧師曰く、「がんばれ! がんばれ!」と吠えているのだそうです。ところが、ある日、この犬がいなくなってしまいます。1日がかりで探しても見つかりません。都内近隣の保健所やペットショップに連絡し、いつ電話がかかってくるかと、待っても電話がないのです。娘さんは学校の友達にも見つけて欲しいと頼んだそうです。

 その日の夕方、先生のお父さんの80歳の誕生祝いの夕食会があって、家を空けることに後ろ髪を引かれる思いで、お父さんの家を訪ねて行ったのだそうです。その日の夕食で、お父さんの80歳の歩みを感謝するお祈りをすることになりました。いつもこの時に家族のことを祈るのだそうです。この時に、いなくなったまま戻ってこない犬のことを祈ることにためらいがあったそうです。けれども、一息ついて、続けて祈りました。「どうか、スキピーも無事でいられますよう守ってください。アーメン」

 夕食が終わって家に帰る途中、車の運転をしていた次男が見つけました。「あっ、スキピー!」娘も大きな声をあげて駆けよって行きました。犬の方はというと、「帰って来たんだから叱らないで欲しい」という顔をしていたんだそうです。その牧師が思わず言いました。「いやぁ祈りがきかれると思っていなかったけれど、やっぱり神様はきいてくださったねぇ」。すると、それを聞いた息子たちが「何だよ、神学校の教授が疑いながら祈ったのかよ!」すると、その牧師は、「神様というお方は人間が疑いながら祈ったとしても聞いてくださるお方なのだ」と少し苦しい言い訳をしたのだそうです。

 そこで、左近先生はこんなことを言っています。「私にとっては小さな経験だったけれど、神様がこんな風に、いやこれの何百倍も、何千倍も心をくだいて私たちに接していてくださる」と。

 私たちはこのように大切なものを失うという経験をすることがあります。家族であったり、犬や猫であったり、あるいは大切にしていた物がある時壊れてしまうというような経験もあると思います。大切なものを失うと、そこに大きな穴があいてしまいます。そして、その穴はなかなか埋まりません。そして心にぽっかりできてしまった大きな穴を、何か他のもので埋めることで、その悲しみを乗り越えようとすることがあります。

 今日登場する「ザアカイ」という人は、この人自身が失われた人だったと言ってよいと思います。ザアカイというのは、「正しい人」という意味の名前です。元から悪い人だったということではなさそうです。この人は背が低い人でした。そのために、小さな頃から人に軽んじられてきたのかもしれません。そして、そのために何とか人を見返してやろうと人一倍努力したのかもしれません。実際、この人はエリコの町の取税人のかしらという立場につくことになりました。取税人というのは、ローマの役人になったということです。ユダヤ人でありながら、ローマに取り立ててもらうわけですから、他の人と同じようにやっていてはそういう待遇は得られませんし、中でもその取税人たちのかしらにまでのぼりつめたわけですから、並々ならぬ努力があったと思うのです。 (続きを読む…)

2025 年 8 月 31 日

・説教 ルカの福音書18章35-43節「見えるようになれ!」

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2025.08.31

鴨下直樹

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 今回、3週間ドイツに行かせていただきまして、本当に素晴らしい時間を過ごすことができ感謝でした。ドイツ留学から18年が経ちます。これまでも、教団の研修で2回ドイツに行かせていただいていますが、今回はスケジュールを自分たちで組むことができましたし、半分休暇も兼ねていたので、色々な懐かしい方々のところを訪問することができました。特に、マレーネ先生をはじめ、日本で長い間働いてこられた宣教師たちを訪ねることができたことは、本当に嬉しいことです。

 退職された宣教師の皆さんとお会いして驚いたのは、退職されてすでに20年以上たっているのに、皆さんまだ完璧に日本語を話すことができます。メツガー先生ご夫妻、クリステル・ホッテンバッハ先生、ヘルガー・タイス先生、エルケ・シュミッツ先生、クノッペル先生ご夫妻、そして、マレーネ・ストラスブルガー先生と本当に多くの宣教師たちと再会することができました。この間に亡くなられた先生もたくさんおられますが、改めて多くの方々の祈りと、具体的な支えによって、私たち同盟福音の教会は支えられてきたのだということに気づかされました。これらの先生方は、退職されてドイツにおられるので、なかなかお目にかかることはできません。けれども、来年で私たち同盟福音の教会は宣教70周年を迎えるとお伝えすると、皆さん日本に向けてのメッセージを届けてくださいました。

 今日の説教題を「見えるようになれ!」としました。、この宣教師の先生方の思いもそうですけれども、私たちは普段は目にすることができないもの、そういうものを無いものとして生活しています。けれども、実際には存在していて、そのことがとても大切であるというものがたくさんあります。

 今日の聖書の中に出てくるのは一人の目の見えない人の話です。以前は「盲人」という言葉を使いましたけれども、差別用語、不快用語にあたるということで、今の聖書ではそういう言葉は使わないようになりました。

 私が神学生の時のことです。奉仕をしていた教会に目の見えないKさんという方がおられました。役員もしておられ、とても熱心な方でした。当時私が祈祷会で聖書の話をする当番だったことがあります。その頃、教会では「聖歌」を使っておりましたので、その時の集会に聖歌の451番「神なく望みなく」という曲を選んで歌い始めました。教会生活の長いかたは皆さんよく歌ったことのある聖歌だと思います。こんな歌詞です。

神なく 望みなく さまよいし我も
救われて 主をほむる 身とはせられたり
我知る かつては 盲(めしい)なりしが
目明きとなり 神をほむ 今はかくも

 私はこの最後の繰り返しの歌詞である「我知る かつては盲(めしい)なりしが」というところまで歌って、しまったと思いました。

 この聖歌はKさんのいる時には選んではいけないと思いまして、すぐに聖歌の番号の横に大きなバツ印をつけました。それからは、私はこの451番を選ぶことはなくなったわけです。

 この「盲(めしい)」と言う言葉は、「盲人」よりも、もっと強い言葉のように思います。まさに差別用語です。「わたしはかつては目が見えない者であったが、今は目が開かれて見えるようになった」そう歌っています。けれども、Kさんは今も目が見えないままです。この歌を教会で皆が歌うことで、どれだけKさんを苦しませることになるのだろうかと思ったのです。 (続きを読む…)

2025 年 8 月 3 日

・説教 ルカの福音書18章31-34節「隠された平和への道」

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2025.08.03

鴨下直樹

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 先週の日曜日の午後、教団役員研修会が岩倉教会で行われました。講師として、お茶の水クリスチャンセンターの責任を持っておられる山崎龍一先生をお招きしました。山崎先生は、お茶の水クリスチャンセンターという東京にある、大きなクリスチャンセンタービルの建て直しに尽力された方です。この山崎先生が『教会の実務を神学する』という書物を出されました。この本の中で山崎先生は「教会の実際の運営は、この世の常識で判断されていて、神様の思いから離れたところで判断しているのではないか?」という問題提起をしておられます。

 今回の役員研修会でもこの「教会の実務を神学する」というテーマでお話しくださいました。山崎先生が役員研修会でお話しになられたのは、主に役員として教会をどのようにして導いていくかという内容でした。この研修会でとても大切なこととしてお話しになられたのは、教会が何かを決めていく時に、どういう考え方で物事の判断をするかということです。そこでもお話しになられたのはやはり、聖書の考え方ではなくて、この社会の通念上、あるいは教会の役員たちがそれぞれ社会で経験して来たことに基づいて判断していないかという問題提起です。

 会社ならこうする。世の中ならこういう考え方のはずだ、あるいはお役所はこう判断するはずだということが、判断する時の基準になっているのではないかという指摘をされました。この指摘はとても意味のある問いかけです。今、社会が目まぐるしく変わっていく中で、パワハラ防止法だとか、働き方改革だとか、最低賃金の見直しなどで、行政から要請されて、教団のあり方を見直すような話し合いが続いています。ただ、こういうことをやり始めると、次第に行政の指導に従うのが当然であるという流れになってしまって、気づくと教会はいつの間にか、主が求めておられることとは違うことをさせられているということになりかねないわけです。

 世の中の声が大きくなると、聖書が言っていることが分からなくなっていきます。聖書が語るのは、前回の聖書箇所にもあったように、「それは人にはできないが、神にはできる」というようなこともあります。私たちが自分の力でできないことまで、主はお語りになられるお方です。この世の価値基準と、聖書の価値基準は同じところにはないのです。だから、簡単に聖書の言っていることが「分かる」とはならないことがあるのです。

 今日の聖書の話は、そういう意味では、主イエスが3度目の受難の予告をなさったことが記されています。そして、その結論は、弟子たちは34節で「話されたことが理解できなかった」という言葉で結ばれているのです。

 今日の聖書箇所は少し唐突に思えるかもしれません。ただ、前の箇所の続きとして読んでいくと話の流れが見えてきます。前回の聖書箇所では神の国に入るのは、自分の力ではなしえないというところでした。神の働きかけによって、もっとはっきり言えば神の恵みの御業によって人は救いに至ることができるのだと、この前の部分で主イエスは話されました。これは、言ってみれば主イエスご自身が神から遣わされて人々を神の国に入れるために来られたのだということを明確になさったことになります。

 そこまでお話しになられた後で、今度は弟子たちだけを「そばに呼んで」こっそりとお話しになられたのが、今日の箇所である受難の予告の知らせです。 (続きを読む…)

2025 年 7 月 6 日

・説教 ルカの福音書18章15-17節「神の国を受け入れる者」

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2025.07.06

鴨下直樹

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 私が子どものころ、教会でしきりに聞いた話は、「私たちは死んだ後、天国に行ける」という話でした。まだ小さかった子どもの頃なので、正直この話がよく分かりませんでした。「死んだ後」というのがイメージできなかったのです。昔は、「四つの法則」なるトラクトがあって、「神、罪、救い、天国」の順で神様の救いの説明がなされていました。みなさんの中にも、そのころこういう話を聞いたことのある人がたくさんおられると思います。あるいは、5つの色のフエルトで作った本がありました。黒、赤、白、黄色、そして表紙が緑の5色で、一つずつの色の説明をしながら福音を説明していくのです。

 黒は、私たちの「罪」。私たちは神様の思いを離れているので、心が真っ黒です。けれども、今度は赤色を示して、イエス様の「十字架の血」の説明をします。イエス様が私たちの罪を十字架の上で流された血潮によってきよめてくださいました。それで、私たちの真っ黒な心は雪のように白くなるというのです。そして続いて黄色を示して、私たちは光り輝く「天国」に入れていただけるのですという説明がなされるのです。最後の緑はそれまで私たちの信仰が「成長」していくことを「緑」の色で表して説明をするのです。

 キリスト教の福音を単純化して分かりやすく説明するためには、とても良い方法だと思います。ただ、このような分かりやすい話で、福音を説明していくのですが、子どもの頃の私には、「死んだら天国に行ける」というのは、イメージしにくいどこか遠い話でした。話としてはよく分かるのですが、死ぬということを考えたことがない子どもの私には、あまりピンときていなかったのです。

 その頃、私にとって衝撃的だったことがあります。当時、「日曜学校」と言っていましたが、礼拝の前の時間に、子どものための礼拝として「日曜学校」が行われていました。そこで、讃美歌を歌って、聖書の話を聞いて、お祈りをするわけです。その頃、聖書の話を聞くと、最後に「暗唱聖句カード」という小さな豆カードが一人一人に渡されていました。

 その時もらったカードにはこういうみことばが書かれていました。マタイの福音書7章13節と14節のみことばです。

狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広く、そこから入って行く者が多いのです。いのちに至る門はなんと狭く、その道もなんと細いことでしょう。そして、それを見出す者はわずかです。

 この聖句のカードに絵が書いてありました。広い道の先に大きな門が描かれていて、パレードのように多くの人たちがその道を進んでいくのですが、「ウェルカム」と書かれた物の先には火が燃えていて、悪魔が描かれています。そこにたくさんの人たちが落ちていくのです。ところが、その広い道の途中で細い怪しげな道があって、そこに小さな門があります。そして、その門の先には天国が待っているという絵です。

 その時の私が何年生だったのか覚えていないのですが、その時私は心に誓ったのです。もし、こういう小さな門を見つけたら、その時はその門をくぐっていけば失敗しないんだと。こういう小さな門があることをちゃんと覚えておこうと思ったのです。 (続きを読む…)

2025 年 6 月 29 日

・説教 創世記22章1-14節「イサクの犠牲に見る信仰」

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文学と芸術をテーマにした礼拝
2025.06.29

鴨下直樹

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 今日は、少し変わったテーマで礼拝をしています。「文学と芸術」をテーマにしています。先程は、長い間岐阜県美術館の館長をしておられた古川さんが、いくつかの俳句を取り上げてくださり、「美」というテーマでお話しくださいました。

 実は、古川さんにお話をお願いしたのは、一つの出来事があったからです。以前、子ども食堂の時に古川さんが、ボランティアをしてくれている中学生たちと会話をされていました。その会話の中で、人とは違う外れたところ、そこに「美」があるという話をなさったのです。中学生たちは興味深そうに、その話を聞いていました。自分に自信が無いと言っていた彼らが、とたんに元気になって、みるみる自信に満ちた顔つきに変わっていきました。人とは違っていてもいい。自分なりの違いが自分の武器だと気がついたのです。

 考えてみれば、芸術でも文学でも確かにそうです。誰かが、何かを描こうとする時にも、その人なりの視点というのが、その人の強さ、魅力になっていくのです。

『イサクの犠牲』カラヴァッジョ

『イサクの犠牲』カラヴァッジョ

 最初に、二人の人の絵を紹介したいと思います。テーマは同じ、今日の聖書箇所である「イサクの犠牲」です。1枚目の絵はカラヴァッジョの絵です。16世紀のイタリアの画家です。光と闇を使い分けながら、光を巧みに使うことでカラヴァッジョの表現したいものに、光が投げかけられていきます。またカラヴァッジョは、聖書の人物を描く時にも、実際にその人が目の前にいるかのような表現をします。ここでもイサクの苦しみや恐れの表情をとても生々しく描いています。イサクを犠牲として殺そうとしている父アブラハムの顔も、とても特徴的です。アブラハムは止めようとする天使に対して、いぶかしむような顔をしています。ナイフを持つ手には力が入っていることが見て取れます。このようにして現実的な一人の父親の葛藤の様を描き出しています。

『イサクの犠牲』レンブラント

『イサクの犠牲』レンブラント

 もう一枚、このテーマを描いたもので有名なのは、レンブラントの描いた「イサクの犠牲」の絵です。レンブラントはカラヴァッジョの次の世代、17世紀のオランダの画家です。カラヴァッジョと同じように、光がどのように差し込んでくるのかという、光の明暗の使い分けをする画家です。ただ、レンブラントの特徴は、光が演出のためではなくて、神の恵みを表現していることです。このレンブラントの絵では、光がイサクの体全体にあたっています。神の眼差しが、暖かくイサクを包み込んでいることが分かります。

 面白いもので、同じテーマでありながら少しずつ視点が違うというのがよく分っていただけると思います。

 この「イサクの犠牲」という聖書のテーマは、実に多くの人に、さまざまな疑問を投げかけた聖書箇所です。というのも、そもそもの大前提として「人を殺してはならない」という命題があります。これは、絶対的に正しい真理です。ところが、神はアブラハムに自分の最愛の息子イサクを「全焼のささげ物として献げなさい」と言われたのです。ここから、「倫理」と「信仰」はどちらが優先されるかという問いをもたらしたのです。 (続きを読む…)

2025 年 6 月 22 日

・説教 ルカの福音書18章9-14節「二人の祈り人」

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2025.06.22

鴨下直樹

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 今日の箇所には二人の祈る人の姿が描き出されています。パリサイ人の祈りと、取税人の祈りです。これは、主イエスの譬え話ですから、実際にあったかどうかは分かりません。けれども、ここに描き出されている二人の姿は、私たちにとって非常に現実味のある譬え話となっています。

 人前でお祈りする時というのは、良くも悪くも緊張するものです。自分一人でお祈りするのとは違って、みんなが聞いているわけで、恥ずかしさが有ったり、自信が無かったり、変なお祈りをしていないかなと、気になったりするかもしれません。何か、お祈りの正解が分かれば準備もできそうなものですけれども、何が正解かもよくわからない。そんな思いを抱きながら、礼拝の献身のお祈りがあたるときには一週間心が重いという方もあるかもしれません。

 そんな中で主イエスがお祈りの話をなさる。一方のお祈りは褒められているような感じですし、もう片方のお祈りはどちらかというと褒められていない。そうすると、ここでは何か参考になるようなことが言われているのか。そんな気持ちでこの話を聞くこともできるのかもしれません。

 今日の冒頭の9節にはこう書かれています。

自分は正しいと確信していて、ほかの人々を見下している人たちに、イエスはこのようなたとえを話された。

 この部分には、主イエスがこの譬え話をなさった理由が書かれているわけですから、とても重要な部分と言うことができるでしょう。そこで、考えるわけです。「ほかの人を見下している人たち」という部分に関しては、誰でも分かることですけれども、これは良くないと判断できます。ところが、前半部分、「自分は正しいと確信していて、」という部分は、それほど問題は無い気がするわけです。

 お祈りをする時には、確信を持ってお祈りしたいと思うのではないでしょうか。礼拝の司式をする方は、教会祈祷の時にみなさん確信を持ってお祈りされます。その時に他の人を見下して祈るなんてことはないと思いますが、確信を持って祈るということは、大事なことではないかと思えるわけです。

 確信を持っていることが良くないのだとすると、反対に謙虚であれば良いのかと考えてしまいがちです。ところが、この謙虚さというのも、一概に良いとも言えません。その最たる例として、「私は上手にお祈りできないので、お祈りの当番から外して欲しい」という思いを持つ方は少なくありません。しかし、これが謙虚な姿勢かというと、そういうわけでもないわけです。

 謙虚さは美徳という部分はあると思うのですが、これも度が過ぎると良くない場面というのもあるわけです。では、主イエスはここで何をお語りになろうとされているのでしょうか。

 まずパリサイ人の祈りから見てみたいと思います。11節と12節です。

パリサイ人は立って、心の中でこんな祈りをした。「神よ。私がほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦淫する者でないこと、あるいは、この取税人のようでないことを感謝します。
私は週に二度断食し、自分が得ているすべてのものから、十分の一を献げております。」

 このお祈りは、一部を除けばとても立派なお祈りのようにも思えます。「この取税人のようでないことを感謝します。」の部分は余計な言葉な気がしますが、その他の部分はある意味では立派なところでもあります。きっと、こういうことに気をつけて生活しているから出てくる祈りだとも思うのです。人から奪い取ることはしない、不正は働かない、姦淫しない。週に二度断食をしながら祈りを捧げ、自分の収入の十分の一を聖書の戒めに従って献金している。立派なことだと言えると思うのです。それができない人がたくさんいる中で、自分が頑張っていること、ちゃんと出来ていることを神様の前で感謝するというのは、悪くない気もするのです。 (続きを読む…)

2025 年 6 月 1 日

・説教 ルカの福音書18章1-8節「諦めない祈り」

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2025.06.01

鴨下直樹

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 今日の聖書の冒頭にこうあります。

いつでも祈るべきで、失望してはいけないことを教えるために…

 これまでの信仰の歩みの中で祈ることをやめたという経験があるでしょうか? 「祈ることを諦めた」という経験です。信仰の歩みの中で私たちはさまざまな祈りをします。そういう中で、祈りがきかれないということを経験していくと、信じるのをやめる、疲れる、飽きる、だれてくる、そういう経験をすることが時折起こり得ます。この「諦め」というのは、お祈りというようなことでなくても、ごく身近な経験として、たとえば応援している野球チームや、サッカーのチームが負け続けて、今年は、優勝はないなと諦めるということもあるかもしれません。そういう日常的なものから、自分の大切な進路や、目標や、夢を諦めるというとても厳しい決断ということもあると思います。

 諦めるというのは、それまで張り詰めていたものが突如失われる経験です。目の前に迫る現実に飲み込まれていく。何回も挑戦してみたけれどもダメだった。お祈りしていたけれどもダメだった。信じていたけれどもダメだった。そういうことが起こります。

 もちろん、諦めなくてはならない場合もあると思います。それは悪いことばかりではありません。それまでこだわってきたことを諦めて、新しい可能性に挑戦するチャンスでもあるはずです。そうすると、諦めても仕方がない場合と、諦めてはならない場合とがあるということかもしれません。

 あるいは、自分の忍耐力がなくて、待つことができなくて、耐えることができなくて、戦ったり、努力したりすることが苦手で、諦めるという場合もあるでしょう。戦えない、抵抗するということが性格的に難しいということもあるかもしれません。そこにはいろんな理由があります。抗うことはみっともないことだという考えがあるかもしれません。あるいは、自分は他の人とは違うから、そんなに戦い続けられないのだということもあるかもしれません。あるいは、自分が求めるものが、時代にあっていないものだからスパッと諦めた方が良いのだと感じたというようなこともあるかもしれません。

 諦めてもよいことであれば、それはそんなに問題ありません。ものには大小というものがあります。大きな志もあれば、小さな志もあります。だいたい、子どもの頃からわがままがひどくて、諦めることばかりを言われてきたなんてことだってありうるわけですから、諦めることが常に悪いというわけでもないはずです。

 主イエスはここで諦めない祈りについて教えておられます。ここで主は私たちに何を語りかけておられるのでしょうか。 (続きを読む…)

2025 年 5 月 25 日

・説教 ルカの福音書17章20-37節「終わりの時への備え」

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 07:13

2025.05.25

鴨下直樹

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 教会員の恵美子さんが、少し前に俳句についての本を出されました。俳句の世界では辻恵美子という名前で活動されております。本のタイトルは『樹下随感 ―作句の心と形―』という俳句についてのエッセー集です。とても面白い本で、少しずつ楽しみに読み進めています。

 ちょうど、昨日のことですが、この辻恵美子さんが主宰をなさっておられる俳句の結社「栴檀」の24周年記念大会が開かれまして、私も出席させて頂きました。最初に、この一年の間に活躍された方々の表彰が行われまして、私たちの仲間であるOさんも栴檀賞を受賞されました。また、その授賞式の後で、能登の輪島で住職をしておられ、栴檀の仲間でもある市堀玉宗さんの「俳句と共に能登に生きる」という講演がありました。ここで少しそのお話の内容に触れようかとも思ったのですが、今日の聖書箇所と全然違う内容になってしまいますので、また別の機会にお話しできればと思います。

 ただ、今日の説教題を「終わりの時への備え」としましたが、市堀玉宗さんの講演は能登で2回の震災を経験して、まさに「もう輪島は終わりや」という声が聞こえてくるような、まさに心が折れる経験を通して、そこからどう生きていくのかというお話でした。能登の未来、輪島の未来は20年後どうなるか分からないと思っていたけれども、それが、突然やってきたということなのだという話は、まさに涙無くしては語れない話で、とても心に訴えるものがあったと思います。

 未来が絶たれる、希望が絶たれる、そういった中で、何を支えに生きるのか。この玉宗さんの講演を私流に切り取るとそういう話であったと思います。

 私も、5分ほどのスピーチの時間を頂きました。あの、玉宗さんの話を聞いた後だけに、何を語ることがあるかとも思ったのですが、私は恵美子さんの出された『樹下随感』の中からの話をさせて頂きました。というのは、恵美子さんはこの本の中で「新しさは俳句のいのち」と言っておられるのですが、この言葉は、私にとってとても考えさせられる言葉でした。毎週説教していますから、新鮮さといいますか、新しさが無くなってしまって、ついマンネリ化した話になってしまうからです。

 たとえば、この芥見教会では礼拝説教の箇所を前もって水曜と木曜の聖書の学びと祈り会で、丁寧に解き明かしをしています。これは、私としても皆さんに聖書を読む力をつけて欲しいという願いでやっているという部分もありますし、共に聖書を読んでいくことで、何が分からないのか、どこが難しいのかということを、私自身が理解することができるという意味でも、大いに助かっています。

 ただ、問題もあります。というのは、祈祷会に参加された皆さんは一度説明を聞いた聖書の箇所を、次の日曜に説教で聴くことになります。だいたい、礼拝に集われる方の半数が、聖書の学び会に参加してくださっております。これは、とても珍しいことで、皆さんが聖書を学ぶことに大きな関心を持っていてくださることの表れでもあります。それでは、何が問題かというと、牧師は半数の方がすでに聞いた説明を日曜にもう一度するのかという葛藤が私の中に生まれるわけです。福音の新しさが感じられなくなってしまうのではないか、そういう葛藤がいつも私の心の中に生まれるのです。 (続きを読む…)

2025 年 4 月 27 日

・説教 ルカの福音書17章1-10節「神のくださる安心」

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2025.04.27

鴨下直樹

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 今日の聖書の箇所は「つまずきが起こるのは避けられませんが、つまずきをもたらす者はわざわいです。」という言葉から始まっています。

 「つまずき」というのは教会の中で、何度も取り上げられるテーマです。「教会殺すにゃ刃物は要らぬ、ただこの教会でつまずいたと言えばいい」と言った人がいます。なかなか核心をついた言葉ですが、私たちは苦笑いするしかありません。私を含め、皆さんもそうかもしれませんが、自分の言動が誰かにつまずきを与えたのではないかと感じる場面は、これまでに何度もあったのではないでしょうか? こういう言葉もあります。「牧師殺すにゃ刃物は要らぬ、この牧師には愛がないと言えばいい」。

 私たちは信仰の歩みをしていく中で、何度も何度もつまずきを経験します。そして、それと同じように、何度も自分は誰かにつまずきを与えてしまったのではないかと苦しむことにもなり得ます。ここに、クリスチャンの悩みがある、そう言っても言い過ぎではないのが、この「つまずき」というテーマです。

 しかもです。主イエスは2節で「その者にとっては、これらの小さい者たちの一人をつまずかせるより、ひき臼を首に結び付けられて、海に投げ込まれるほうがましです。」と言われたのです。

 今はひき臼にお目にかかる機会も少なくなりました。和食レストランのサガミに行きますと、玄関先でこのひき臼が自動で蕎麦を粉にしているのを見ることが出来ます。大きな平らな丸い石を二つ重ねて、上臼を回すことで蕎麦を擦り潰して蕎麦粉にするわけです。おそらく、ひき臼一つで何十キロ、下手したら100キロ以上あるかもしれません。そんな石を首にくくりつけられて海に投げ込まれた方がましだと、主イエスが言われるのです。まるでヤクザ映画のようなセリフを、こともあろうに主イエスが言われたのです。この言葉を読んで、心中穏やかで無くなる人はたくさんあると思います。

 誰かをつまずかせる人は殺された方がまし、こんなひどい言葉は無いと思うのです。もし、自分が誰かをつまずかせたとしたら、私は死んだ方がいいのか? そういうことにもなりかねません。そこで、一度落ち着いて考えるわけです。この「つまずき」という言葉は、そもそもどういう意味の言葉なのかと。先日の聖書の学び会でもそういう質問が出ました。 (続きを読む…)

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