2024 年 5 月 19 日

・説教 マルコの福音書1章21-28節「主イエスの評判が広まる」

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聖霊降臨祭(ペンテコステ)
2024.5.19

内山光生

序論

 今日はペンテコステの日、すなわち、聖霊降臨祭です。ペンテコステの日とは、イエス様があらかじめ弟子たちに伝えていたように “助け主” つまり “聖霊” が( くだ )った事を記念する日です。イエス様の弟子たちは、イエス様の教えを聞いていながらも、本当の意味では福音を理解できていませんでした。例えば、イエス様が十字架の上で苦しまれること、その後、よみがえるということを何度も何度も聞かされていながらも、その意味を悟ることができていなかったのです。

 けれども、イエス様が復活した後でようやく心の目が開かれたのです。そして、ペンテコステの日に聖霊が降ることによって、福音がどういう意味なのかがはっきりと分かるようになったのです。そういう訳で、ペンテコステの日は私たちクリスチャンにとって記念すべき時なのです。

I カペナウムでの宣教 ~人々が驚く~(21~22)

 では21~22節を見ていきます。

 カペナウムという町は、ガリラヤ湖の北西に位置し、交通の便が良いことから割と繁栄していたと言われています。この町がイエス様によるガリラヤ伝道の活動拠点となっていくのです。

 イエス様の伝道方法には、あるパターンがありました。それは会堂、つまり、ギリシア語で言うと “シナゴーグ” において、安息日ごとに聖書の説き明かしをする、という方法です。シナゴーグには、会堂司と呼ばれる人がいて、礼拝において誰に説教をしてもらうかを決める権限がありました。それゆえ、イエス様は会堂司の許可を得て、あるいは、依頼されて聖書の説き明かしをしたのでしょう。

 イエス様の教えは、人々に驚きをもたらしました。マルコの福音書では「人々が驚いた」という表現が至る所に記されています。マルコは、イエス様の教えや行動が、どれ程、人々に驚きをもたらしたかを強調しているのです。

 22節では「その教えに驚いた」とあります。では、なぜ人々は驚いたのでしょうか。当時、聖書の説き明かしをする人は、しばしば「あの有名なラビがこう言っている」とか「言い伝えによれば、こうこうこういうことです」といった感じで、有名な人や有力な言い伝えに頼って、自分の言っていることばに権威を持たせようとしました。ところが、イエス様は、他の説教者のように何かを引用する必要がなかったのです。なぜなら、イエス様ご自身が権威あるお方だったからです。

 私たちは自分の言っていることを信じてもらうために、「誰が言っていたのか。」の出所を大切にします。テレビのニュースで放映されていたり、新聞に書かれている事ならば、ある程度の信頼性があります。一方、インターネットの情報は、しばしば、嘘のニュースが流されることがあって、鵜呑みにできないことを私たちは経験しています。しかしながら、本当に権威あるお方ならば、その人が言うことには言葉では表現しがたい独特の雰囲気があって、人々の心に強い印象を与えるのです。

 イエス様の聖書の説き明かしは、当時の律法の教師とは比較にならない程、権威に満ちておられたのです。それで、人々は驚きを隠せなかったのです。 (続きを読む…)

2024 年 5 月 12 日

・説教 マルコの福音書1章14-20節「人間をとる漁師」

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〈ききたまえ〉
2024.5.12

内山光生


序論

 今日は母の日です。それぞれが家庭において、お母さんに感謝をあらわす日となれば幸いです。

I 宣教を開始した主イエス(14~15節)

 14節を見ていきます。

 イエス様が地上において福音宣教を始めたそのタイミングは、ちょうど、あのバプテスマのヨハネが牢屋に入れられた事がきっかけとなりました。

 なぜヨハネが投獄されたかについては、マルコの6章に詳しく記されていますので、今日は簡単に説明するだけにいたします。

 当時、ガリラヤ地方を政治的に治めていた「ヘロデ・アンテパス」が、自分の異母兄弟の妻を奪うという罪を犯しました。その罪を指摘したのがバプテスマのヨハネです。ヨハネは、正義を大切にする人でした。それで権力のあったヘロデ・アンテパスに対してはっきりと何が罪なのかを指摘したのです。しかしそれが原因で、投獄されたのでした。

 さて、ヨハネが投獄された事はイエス様にとっても、ヨハネを信頼していた人にとっても悲しい出来事でした。けれども、その出来事がきっかけとなって、いよいよイエス様によって「神の福音」が力強く伝えられるようになったのです。

 イエス様による宣教の最初の地がどこかというと、「ガリラヤ地方」でした。ガリラヤ地方は、頑固な国粋主義者が多い地域と言われていました。また、地理的な条件から北からの侵略者の攻撃を一番最初に受ける場所とも言われていました。だから、自分たちの国を守ろうとする気持ちが強かったのです。ある意味、保守的な地域だとも言えるでしょう。そんな場所に、どこよりも早く「神の福音」が伝えられることとなったのです。

 ところで、ガリラヤの地に福音の光が届けられることは旧約の預言書にも記されていることであって、神があらかじめ選んでいた地域だったのです。

 今の時代でも、どうしてあの地が、周辺地域で一番最初に開拓伝道地として選ばれたのだろうか? と思う方があるかもしれません。例えば、私たちの同盟福音では、岐阜県の羽島が最初の開拓地域となりました。その理由は、私ははっきりとは知りませんが、どなたかご存じかもしれないですが、、、言えることは、人々の祈りの中で神様がその地で開拓するようにと導いた、そういうことだと思うのです。

 ここに神様の支配があることを私たちは認めざるを得ないのです。 (続きを読む…)

2024 年 5 月 5 日

・説教 ルカの福音書12章22-34節「心配の糧と天の宝」

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〈いのれ〉
2024.5.5

鴨下直樹

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 今から20年ほど前ですが、朝日新聞の「天声人語」で一冊の本が紹介されました。『パパラギ』という本です。この本には副題がついていまして「はじめて文明を見た南海の酋長ツイアビの演説集」と書かれています。

 この本が最初に世に出たのは今から100年前の1920年のことです。見返しのところにはこんな謳い文句が書かれています。

パパラギとは、白人のこと、見知らぬ人のこと。でも、言葉どおりに訳せば、天を破って現れた人。はじめてサモアに来た白人の宣教師が白い帆船にのっていた。遠くに浮かぶ白い帆船を見て、島の人たちはそれを天の穴だと思った。白人がその穴を通って彼らのところへやって来た。――白人は天を破って現れた――

 本の内容はとても面白いものです。それまで文明とはまったく縁遠い生活をしていたサモアの島の人々のところに白人の宣教師がやってきて、キリスト教が宣べ伝えられます。こうして、島の人々はキリスト教を信じるのです。ところが、この演説は、西洋の誇りとしている文化や生活様式、そして人々が願い求めているものがいかに神の願いからかけ離れているのかを明らかにしていく内容となっているのです。痛烈な白人文化批判と言っても良いような内容です。

 中にこんなエピソードが書かれていました。この酋長がヨーロッパを訪ねた時に、ある質問をしたのだそうです。「そんなにたくさんのお金をどうするんです? 着たり、飢えや渇きをしずめるほか、この世で何ができますか?」答えは何もない。そう書かれています。そして、ヨーロッパでお金を払わなくてもいいのは空気だけだ。でもこの話を聞かれると空気にもお金がかけられるかもしれない。そのなかには、こうも書かれています。「ある人がお金をたくさん、普通の人よりはるかにたくさん持っていて、そのお金を使えば、百人、いや一千人がつらい仕事をしなくもすむとする。――だが、彼は一銭もやらない」

 まるで、主イエスが語っているのではないかという話が、延々と記されています。「お金が欲しい、時間が欲しい。彼らは神を信じていると言っているのに、実のところお金を信じている。」そう書かれています。

 この本は、今もよく読まれているようで、読んだ人たちの様々な感想がアマゾンなどでも書かれています。それで少し興味を持って調べてみると、この本は実在したサモアの酋長の話ではなくて、ドイツ人の創作話だったというようなことまで、インターネットの辞典であるウィキペディアに書かれていてびっくりしました。この『パパラギ』という本の話は実話ではないのかもしれませんが、かなり大きな影響力を与えました。ヨーロッパの人々の信仰の本質を突きつけ、実際に人々が求めているのはお金で、そのために大切なものを失っていることに気づいていないという指摘です。

 今日の聖書箇所のテーマは「心配」です。「何を食べようか、何を着ようか」という心配から始まって、主イエスの語る「幸福論」と言っても良い内容がここには記されています。私たちが生きていくために大切なものは、「衣食住」の三つだと言います。これが整っていれば「幸せ」と表面上は定義することができます。けれども、現代人のほとんどの人は誰もがこの「衣食住」が整っていますが、幸せだと感じている人はそれほど多くはありません。『パパラギ』の本で指摘されているように、「もっと、もっと」と人々は際限なくさまざまなものを求めているからなのでしょうか。

 「心配」というのは、その背後に様々な「恐れ」が潜んでいます。「もっと、もっと」と望みが決して小さくならないのは、少しでも恐れを取り除きたいと考えているからです。主イエスはここで、「いのち」と、「からだ」のことを語っています。食べるものは「いのち」のため、着るものは「からだ」のためと言います。これは、私たちにもよく分かることです。私たちはいのちを長らえさせるために、少しでも長生きしようと「サプリ」や「健康食品」を購入します。あるいは、この「からだ」が健やかでいられるためにも、からだに取り込むものは、加工食品や、化学調味料を除いた方が良いと考えます。

 ごくごく当たり前になっているようなこのような習慣そのものにも、主イエスは目を向けさせます。30節では「これらのものはすべて、この世の異邦人が切に求めているものです。」とさえ言っています。この世の人々が、神の民ではない「異邦人」が行っていることと、同じことをしていて「神の民」としてのアイデンティティーは一体どこにあるのかという厳しい問いかけです。

いのちは食べ物以上のもの、からだは着る物以上のものだからです。」と23節で主イエスは言われるのです。

 烏でさえ主イエスは養われておられると言われるのです。続く25節ではさらに面白いことを主イエスは言われます。 (続きを読む…)

2024 年 4 月 28 日

・説教 ルカの福音書12章13-21節「喜びの備え」

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〈歌え〉
2024.4.28

鴨下直樹

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 約1か月ぶりに芥見教会の皆さんと、こうして顔を合わせて礼拝できることを、本当に嬉しく思います。前回はオンラインでの礼拝説教でしたので、今日はこうして皆さんを身近に感じながら礼拝できることは喜びです。

 4月になりまして、笠松教会との兼牧が始まりました。単純に関わる人の数が倍になりました。やることは増えましたが、私自身とても楽しく過ごさせていただいています。笠松教会にも多くの信仰の友がいて、その一人一人のお話を聞くことは、とても嬉しいことです。

 笠松教会にOさんという今年102歳になられるお婆さんが来ておられます。毎回私と顔を合わせると、顔をくしゃくしゃにして、手を握りながら「昔、オシメを換えていた、あの赤ちゃんがこんなに立派になって嬉しい」と喜んでくださいます。私が笠松教会にいたのは2歳までですので、そのころの記憶は私にはありません。けれども、これまで何度も何度もOさんとお会いしてきました。もう耳が悪くてあまり聞こえていないようなのですが、それでも喜んで礼拝に集っておられます。芥見でもそうですけれども、笠松でも教会の方々が、一人一人を訪問して車で乗せて来てくれるのです。中には何人もの体調のすぐれない方がおられるのですが、皆さん嬉しそうに教会に集っておられます。そういう皆さんのお姿を見ていると、それぞれの存在が、お互いに大きな支えになっているのかと思うのです。

 前回の説教は3週間前でしたので、前回のことを少し思い出してみたいと思います。前回、主イエスはパリサイ人や律法学者の偽善を見抜かれて、1羽の雀や抜け落ちる髪の毛の話をなさりながら「神があなたのことを心配してくださる」と語ってくださいました。見せかけの信仰に生きるのではなくて、神と共に歩むことのできる幸いをお語りになられたのです。

 すると、その様子を見ていた大勢の群衆の1人が、主イエスとは素晴らしいお方だと感じ、この方なら分かっていただけるのではないかと思って、主イエスに相談を持ちかけました。13節です。

「先生。遺産を私と分けるように、私の兄弟に言ってください。」

 この相談をした人は、主イエスが絶対に自分の味方になってくださるに違いないという確信を持っていたのだと思います。ところが、主イエスから返ってきたのは、この人の思ってもみない返答でした。

「いったいだれが、わたしをあなたがたの裁判官や調停人に任命したのですか。」

14節です。

 主イエスの返事を聞いて、この人は失敗したと感じたのだと思います。見極めが甘かったのです。この人は主イエスが話をしておられるのを聴きながら、このお方なら、自分に対して遺産を分けてくれない兄弟から、遺産を取り返すことがおできになるに違いないと思いました。どうしてかというと、パリサイ人や律法学者のような立場のある、それこそ自分の正当性を主張する人であっても、その心の中に秘めた貪欲を曝け出すことが、おできになる方だと思ったからです。ところが、自分の味方になってくれると当たりをつけた人物は、自分の味方になってはくれないことが、ここで明らかになったのです。 (続きを読む…)

2024 年 4 月 21 日

・説教 マルコの福音書1章9-13節「私の愛する子」

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〈全地よ喜べ〉
2024.4.21

内山光生

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序論

 私たちの家族が住んでいる借家において、私は2階の部屋を書斎にしてメッセージの準備をしています。窓の外には木の枝が風に揺さぶられている姿が見えます。また、鳥たちの鳴き声がまるでBGMのように響いています。とても恵まれた環境で聖書と向き合うことができることに感謝をいたします。昨日の子ども食堂も大勢の方が来られたことを感謝いたします。

I バプテスマを受けた主イエス(9節)

 9節から見ていきます。

 イエス・キリストが公に活動を始められる少し前に、バプテスマのヨハネが悔い改めのバプテスマを宣べ伝えていました。悔い改めのバプテスマとは、人々が自分の罪を告白し、神様に心を向けること、それらの「あかし」として水によるバプテスマを授けてもらうこと、そういう意味がありました。

 バプテスマのヨハネの噂は、ユダヤ地方だけでなく多くの地域に広がっていきました。それでガリラヤ地方の田舎町、ナザレという村に住んでいたイエス様もわざわざヨハネの元にやってきたのです。

 マルコの福音書では、この時の詳しい様子が省略されています。一方、マタイによると、ヨハネがイエス様にバプテスマを授けるのをためらった事が記されています。ヨハネは「どうしてこんな私がイエス様にバプテスマを授ける資格があるのだろうか?」と疑問に思ったのです。

 ある人々は、そもそもイエス様は神の子であって何一つ罪のないお方ではないか。罪がないのに「悔い改める必要」はないのではないか。と考えるかもしれません。確かに、その通りです。イエス様は私たちのように悔い改める必要はないのです。

 けれども、マルコの福音書は、単純に、この時起こった出来事を記すにとどまっていて、私たちの心に浮かぶ疑問に対して沈黙をしています。そしてそれがマルコの福音書の特徴なのです。だから、書かれていないことに目を向けるのではなく、はっきりと記されていることに目を向けていけばよいのです。ただマタイによると、イエス様がヨハネからバプテスマを受けられたのは、正しいことなんだと記されています。つまりイエス様は、私たち人間に対して、模範を示してくださったのです。イエス様は罪なきお方でした。しかしながら、ヨハネからバプテスマを受けられたことによって、私たち人間に対して、悔い改めて心を神様に向けることの大切さを示して下さったのです。

 まだ洗礼(バプテスマ)を受けていない方々に伝えたいことがあります。それは、イエス様を救い主として受け入れているならば、そして、洗礼を受けたいという気持ちがはっきりと出てきたならば、ぜひ、早めに洗礼を受ける決心をして頂きたいのです。それが神のみこころであって、神に喜ばれる正しい事だからです。 (続きを読む…)

2024 年 4 月 7 日

・説教 ルカの福音書12章8-12節「神が知っていてくださる」

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〈新生〉
2024.4.7

鴨下直樹

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(本日はYouTube動画はありません)


 今日は、私自身がコロナになってしまったために、このようなオンライン越しで説教することになってしまったことを申し訳なく思います。お聞き苦しいところがあるかもしれません。ご了承ください。

 さて、今日の聖書の中にはとても気になる言葉が記されています。10節にこういう言葉があります。

聖霊を冒瀆する者は赦されません。

 聖書の中に赦されない罪があると書かれているわけですから、どうしたって気になるのではないでしょうか?ここで、主イエスはいったい何を語りかけようとしておられるのでしょうか。

 先週のイースター礼拝ではこの前の1節から8節までの箇所を取り上げました。その時にもお伝えしたのは、主イエスのこの時の話は1節から12節まで一まとまりの文章で語っておられますから、内容としては1節から12節までを一つの内容と考えた方が、よく理解できると思います。

 前回の復習も兼ねて少しお話ししますと、冒頭の1節から8節までで、まず主イエスはパリサイ人の偽善に気をつけなさいと語り出されました。そして、神は小さなことをも見ておられるお方だから、人に見られていないから大丈夫と思って行動するのではなく、神の御前で誠実に生きるようにとお話しなさいました。主は、自分は無価値な存在だと思っているような人であっても、その人をとても大切に思ってくださるお方であることが、語られていました。

そこまでが、前回の内容でした。そして今日の続きの箇所、8節と9節にはこのように書かれています。

あなたがたに言います。だれでも人々の前でわたしを認めるなら、人の子もまた、神の御使いたちの前でその人を認めます。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、神の御使いたちの前で知らないと言われます。

 一瞬、突然違うテーマの話になったのではないか?と思えるほどテーマが変わった印象を持ちます。けれども、主イエスがお話になられた意図としては、ここからが大事なところになるわけです。

 神様にとっては、パリサイ人のような目立つ存在が大切なのではなく、一羽の雀のような、たとえ小さな者であったとしても、自分に自信がないような者であったとしても、そんなあなた方が大切なのだと主イエスは伝えました。そして、今日の箇所です。そのようなあなた方、弟子たちが人々の前で、私たちは主イエスの弟子なのだと宣言することが大事なのだと言っておられるのです。

 この時、主イエスと弟子たちの周りには大群衆が押し寄せてきていました。そんな中で、主イエスは、群衆に向かってではなく、弟子たちに向かって話しかけられます。大事なのはあなたがた弟子たちが、わたしのことを、主イエスのことを認めているかどうかが鍵なのだと、このところで言っておられるのです。 (続きを読む…)

2024 年 3 月 31 日

・説教 ルカの福音書12章1-7節「一羽の雀」

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イースター礼拝
2024.3.31

鴨下直樹

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 イースターおめでとうございます。今朝は、イースターということで、みなさんと共に朝食をいただき、その後で聖餐式をして、子どもたちは「イースターエッグ探し」をしてと、楽しい一時を過ごしています。今日は主イエスがよみがえられた祝いの日です。私たちが苦しみや試練、そして、私たちの最後に待ち構えている死、これらの恐れを主イエスが取り去ってくださったことをお祝いする日です。

 このイースターの礼拝において、私たちに与えられている聖書箇所はルカの福音書12章の1節から7節です。この箇所で扱われているテーマもまた「恐れからの解放」です。

 主イエスはパリサイ人や律法の専門家たちに向かって、神の思いがどこにあるかをお話になられました。この主イエスの話を聞いたパリサイ人や律法学者たちは主イエスに対する敵意を剥き出しにします。ところが、そのようすを見ていた群衆たちと、さらに大勢の人々がやってきます。1節には「数えきれないほどの群衆が集まって来て」と書かれています。また、「足を踏み合うほど」とも書かれています。それほどの人混みというのは満員電車か、ディズニーランドのアトラクションの待ち時間くらいでしか経験することはないかもしれません。それほど多くの人々の関心を集めたと、ここに書かれています。言ってみれば主イエスの伝道は大成功を収めたかのように見えるわけです。

 ところが、主イエスはこれだけ人々が主イエスに関心を持ち、大勢の群衆が集まって来たにも関わらず、その群衆たちに語りかけたのではなくて、弟子たちに向かって語りかけます。ということは、主イエスの伝道というのは、大勢の人々に語りかけるというよりも、弟子たちに対して福音を徹底的に教えるということの方が重要であったことが分かります。それが、今日の箇所です。

 この時弟子たちに向かって語られた主イエスの言葉は、12節まで続きますから、本来なら12節までまとめて説教すべきですが、二回に分けまして今朝は7節までとしました。ここで主イエスがまず弟子たちに向けて語られたのは、理由があります。主イエスがパリサイ人や律法学者たちに向けて語られた後、今度は弟子たちに話をされたのは、その意図を明らかにする必要があるからです。

 ここで主イエスが語られたのは、一言でまとめると隠れているものは全て明らかにされるということです。 (続きを読む…)

2024 年 3 月 29 日

・説教 ルカの福音書11章45-54節「預言者の血の責任を問う」

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受難日
2024.3.29

鴨下直樹

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 今日は受難日です。灰の水曜日から始まったレントも、今日で日曜を除いて40日が経ちました。前に並んでいた受難節のろうそくも全て消え、今日は黒いろうそく1本に火が灯されました。毎年お話ししていることですけれども、これで主イエスの命が完全に尽きたことを表現しています。教会の暦の中で生まれた習慣の1つです。

 毎週1本ずつろうそくの灯火が消えていって、この日全てのろうそくが消える。主イエスの命が尽きたことを、このように表現してきたのです。

 私たちの人生のことを考えてみる時に、私たちの寿命の残りがあとどれくらいで、今何本目のろうそくまで来ているのかが分かれば、残りの人生の過ごし方を考える機会にできるかもしれませんが、私たちは誰も自分の寿命の残り時間を知りません。ということは、私たちは、自分の人生をどう歩むかを先延ばしにすることはできないわけです。

 全ての人は、やがて死を迎えます。そして、その時に全てのことが清算されることになります。死んだ後からは何もすることができませんから、今、私たちがどう生きるかということが問われています。

 私たちは誰もが、この世界で生きるための判断基準を持っています。何が良いことで、何が悪いことか、善悪の基準は人によって違いますし、文化や時代によっても変わります。そこには、さまざまな価値観や、信念の違いが生まれます。そして、何が正しくて、何が正しくないのかを見極めることはとても難しいことです。

 聖書は、神がこの世界を創造されたと語っています。そして、この世界を創造された神は、この世界に生きる一人一人に、どう生きてほしいかを記録として残されました。それが聖書です。そして、聖書の興味深いことは、ここには人にとって都合の悪いことがたくさん書かれているということです。誰か頭の良い人の創作であるとすれば、完全な理想像を示そうとするのだと思うのですが、聖書はそうは書いていません。

 聖書の時代、この神の教えのことを「律法」と呼び、この律法をどのように正しく読み解くのかを教える「律法の専門家」と呼ばれる人たちがいました。

 この律法の専門家は、人々に聖書の読み方を助言するのが役割でした。ただ、ここで大きな問題が起こります。当時のパリサイ人や律法学者たちが、聖書に書かれている神の願いを受け取ることができていたら、なんの問題もなく、パリサイ人や律法学者の教えに耳を傾ければ良いわけです。ところが、この人たちが神の思いを受け取り損なってしまうと大変なことになってしまいます。 (続きを読む…)

2024 年 3 月 24 日

・説教 ルカの福音書11章37-44節「心の内側を見られる神」

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2024.3.24

鴨下直樹

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 今から20年以上前のことです。以前牧会していた教会でもこのルカの福音書から説教をしたことがあります。それで、時々ですが、以前どんな説教をしたか見てみることがあります。すると、今回の説教の原稿に面白いことを書いていました。

 ちょうどこの時期に説教していたのですが、当時私は教団学生会の責任を持っていまして、この季節になると教団学生会の春キャンプが行われます。春キャンプでは、中学生から大学生までが集まるのですが、その時のエピソードが書かれていました。

 そのキャンプの中で行われた分科会で、ある一つのアンケートを取ったのです。

 「あなたにとってクリスチャンというのはどんなイメージですか?」という問いかけです。

 アンケートの結果は大きく二つに分かれました。一つの意見は敬虔なクリスチャン像です。「やさしい」「まじめ」「聖書をいつも読んでいる」「いつも礼拝に通っている」。そんな言葉がアンケートに埋め尽くされています。もう一つの答えはこれとは真逆です。とても否定的な意見が強く、その中にはこんな答えがありました。「自分の力では何もやろうとしない人」「しなければならないことがたくさんある」「聖書の通りには生きていない人」こういった言葉が続きます。なかなか厳しい答えです。

 当時のキャンプに集まってくる学生は、クリスチャンホームの学生が半分ほど、半分は自分から教会に来ている学生たちです。おそらくですが、クリスチャンホームの学生たちの意見の中に否定的なものが強いのだろうと思います。ただ、このアンケートは20年前です。今ならもう少し違った結果になったのかもしれません。あるいは、今もそれほど変わらないのかもしれません。

 その時のアンケートを見ながら、これは今日の聖書箇所の導入としては興味深いものだと思いました。

 クリスチャンはしなければいけないことがたくさんあるというイメージがあるのです。礼拝に参加しなければならない。聖書を読まなければならない。お祈りしなければならない。献金しなければならない。そんな「やらせられている」というイメージです。これは、クリスチャンホームの子どもたちの中にあるイメージなのでしょう。

 ある意味では、仕方がない部分もあると思います。スポーツを身につけるのも同じですが、基礎訓練というのは大抵つまらないものです。やらされていると感じる場合もあると思います。けれども、基礎訓練をしっかりしなければ、どんなスポーツも同じですが自由自在にプレイすることはできません。そういう意味では当時のクリスチャンホームの家庭の親たちが、そのイメージを持っていたので、子どもたちにしっかりと信仰生活の基本を身につけさせようとしていたのだということは言えるかなと思います。

 ただ、このクリスチャンは硬くて厳しくてというイメージのまま、それが本当にそういうものだという理解になってしまうのだとすると、それはとても残念なことです。

 アンケートに答えた子どもたちにも、その親たちの思いのイメージが共有されていなかったことはとても残念なことだと思いました。

 今日の聖書箇所は、あるパリサイ人が主イエスを家に招いたところから始まります。しかも、今日の箇所を読んでみると、このパリサイ人は一言も発していません。ただ、38節で「そのパリサイ人は、イエスが食事の前に、まずきよめの洗いをなさらないのを見て驚いた。」と書かれているだけです。 (続きを読む…)

2024 年 3 月 17 日

・説教 ルカの福音書11章29-36節「あなたの目に見えているもの」

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2024.3.17

鴨下直樹

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 今日の説教箇所はルカの福音書11章29節から36節です。この前のところでは主イエスによって悪霊から解放されて話すことができるようなった人の出来事が記されていました。そこではこの出来事をきっかけにして、集まってきた群衆とのやりとりが記されていました。そして、今日の29節ではこのように記されています。

さて、群衆の数が増えてくると、イエスは話し始められた。「この時代は悪い時代です。しるしを求めますが、しるしは与えられません。ただし、ヨナのしるしは別です。」

 この冒頭の言葉だけでもかなりいろいろなことが語られています。

「群衆の数が増えてくると」とあります。別の翻訳では「押し寄せてきた」とか「集結して来た」と訳されています。これは少し珍しい言葉で「さらに集まる」とか「どっと押し寄せる」という意味の言葉で、新約聖書の中でここだけに使われている珍しい言葉です。悪霊追い出しの一件から、人々の関心が一気に主イエスに傾いて来たことをここで表しています。

 この時に、集結して来た人々の要求は何かというと、「しるし」を見たいということです。主イエスは信頼に足る人物かどうかを見極めようということです。

 私たちの周りには今、さまざまな情報が溢れています。スマホのおかげで手軽に情報を得ることができるようになりました。もちろんそれはスマホに限った話ではありません。書店に行くと、いろいろな雑誌が積み上げられています。健康食品やサプリなど、どうしたら健康が維持できるかという情報や、新型NISAや投資などでいかにして利益を出すかといった経済の情報、美味しい食べ物や旅行案内などの旅情報、あげればきりがありません。その中で、人々は自分なりに最善の判断をするための「しるし」を求めているといえるでしょう。どうやったら間違いないか、失敗しないか、その見極めをしようとやっきになっています。

 「この時代は悪い時代です」と主イエスは言われました。この言葉は、考えてみれば今でも全く同じように言うことができます。戦争や災害、政治不信や経済情勢、あげればきりがありませんが、今は良い時代であるとはなかなか言えません。

 しかも、この「悪い」という言葉は、ただ「良い悪い」という判断の言葉ではなく、とても厳しい言葉です。「邪悪」という言葉です。「よこしまな」と訳している聖書もあります。ただの「良い悪い」という判断の言葉ではなくて、悪に引き込もうとしている時代だと主イエスは言われます。

 それこそ、悪に引き込もうという話は、私たちの周りには溢れています。こういう投資をしたら儲かるよと言われて、お金を儲けたいのに、そのお金がまるまる奪われてしまうなどというニュースを、私たちはひっきりなしに耳にするのです。

 誰もが生きるために賢い選択をしたいと思いながら、さ迷い歩いています。もうずいぶん前のことですが、私たちがドイツにいた時に時間ができると時折旅に出かけました。お金が豊かにあるわけではありませんから、旅に出る前は大抵前もって宿を探しておいてから出かけます。けれども、いつもそうできるわけではなくて、思いつきで旅に出かけることもあります。そうすると、その目的の街に到着すると、まずその街の観光案内所を訪ねます。そこで宿の情報を貰うのです。少しでも安くて、より条件の良いところを探そうと必死になって探します。すぐに見つかることもありますが、なかなか見つからないこともあります。すぐに良さそうな宿を見つけても、街中を観光していると思いがけずもっと良さそうな宿を見つけてしまうことがあります。そうすると、しまったもっと探せば良かったと後悔するのです。

 私たちの人生というのは、このような経験の連続なのかもしれません。居心地の良い場所、最善の場所を求めて旅する者のようなのです。良い人がいて、良い環境があって、良い職場があって、よい信頼関係を築くことができる。そういう私たちが安心して生活できる場所を得たいと思うのです。誰も、失敗したいと思う人などいないのです。居心地の良い、生活のしやすい場所を私たちは探し求めています。

 だから、「これは良い」という知らせを耳にすれば、そこに人々が集まってくるのは当然のことです。そういう噂を耳にして人々が主イエスの周りに大勢集まって来たのです。「集結した」「どっと押し寄せて来た」のです。そういう人々をご覧になりながら主イエスは「この時代は悪い時代だ」と言っておられる。この主イエスの言葉の重みをどうしても、ここで感じざるを得ないのです。そのために人々は「しるしを求めますが、しるしはあたえられない」と主イエスはここで言っておられるのです。

 主イエスはここで、私たちに何を気づかせようとしておられるのでしょうか。私たちの何が問題だと言っておられるのでしょう。 (続きを読む…)

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