2024 年 3 月 24 日

・説教 ルカの福音書11章37-44節「心の内側を見られる神」

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2024.3.24

鴨下直樹

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 今から20年以上前のことです。以前牧会していた教会でもこのルカの福音書から説教をしたことがあります。それで、時々ですが、以前どんな説教をしたか見てみることがあります。すると、今回の説教の原稿に面白いことを書いていました。

 ちょうどこの時期に説教していたのですが、当時私は教団学生会の責任を持っていまして、この季節になると教団学生会の春キャンプが行われます。春キャンプでは、中学生から大学生までが集まるのですが、その時のエピソードが書かれていました。

 そのキャンプの中で行われた分科会で、ある一つのアンケートを取ったのです。

 「あなたにとってクリスチャンというのはどんなイメージですか?」という問いかけです。

 アンケートの結果は大きく二つに分かれました。一つの意見は敬虔なクリスチャン像です。「やさしい」「まじめ」「聖書をいつも読んでいる」「いつも礼拝に通っている」。そんな言葉がアンケートに埋め尽くされています。もう一つの答えはこれとは真逆です。とても否定的な意見が強く、その中にはこんな答えがありました。「自分の力では何もやろうとしない人」「しなければならないことがたくさんある」「聖書の通りには生きていない人」こういった言葉が続きます。なかなか厳しい答えです。

 当時のキャンプに集まってくる学生は、クリスチャンホームの学生が半分ほど、半分は自分から教会に来ている学生たちです。おそらくですが、クリスチャンホームの学生たちの意見の中に否定的なものが強いのだろうと思います。ただ、このアンケートは20年前です。今ならもう少し違った結果になったのかもしれません。あるいは、今もそれほど変わらないのかもしれません。

 その時のアンケートを見ながら、これは今日の聖書箇所の導入としては興味深いものだと思いました。

 クリスチャンはしなければいけないことがたくさんあるというイメージがあるのです。礼拝に参加しなければならない。聖書を読まなければならない。お祈りしなければならない。献金しなければならない。そんな「やらせられている」というイメージです。これは、クリスチャンホームの子どもたちの中にあるイメージなのでしょう。

 ある意味では、仕方がない部分もあると思います。スポーツを身につけるのも同じですが、基礎訓練というのは大抵つまらないものです。やらされていると感じる場合もあると思います。けれども、基礎訓練をしっかりしなければ、どんなスポーツも同じですが自由自在にプレイすることはできません。そういう意味では当時のクリスチャンホームの家庭の親たちが、そのイメージを持っていたので、子どもたちにしっかりと信仰生活の基本を身につけさせようとしていたのだということは言えるかなと思います。

 ただ、このクリスチャンは硬くて厳しくてというイメージのまま、それが本当にそういうものだという理解になってしまうのだとすると、それはとても残念なことです。

 アンケートに答えた子どもたちにも、その親たちの思いのイメージが共有されていなかったことはとても残念なことだと思いました。

 今日の聖書箇所は、あるパリサイ人が主イエスを家に招いたところから始まります。しかも、今日の箇所を読んでみると、このパリサイ人は一言も発していません。ただ、38節で「そのパリサイ人は、イエスが食事の前に、まずきよめの洗いをなさらないのを見て驚いた。」と書かれているだけです。 (続きを読む…)

2024 年 3 月 17 日

・説教 ルカの福音書11章29-36節「あなたの目に見えているもの」

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2024.3.17

鴨下直樹

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 今日の説教箇所はルカの福音書11章29節から36節です。この前のところでは主イエスによって悪霊から解放されて話すことができるようなった人の出来事が記されていました。そこではこの出来事をきっかけにして、集まってきた群衆とのやりとりが記されていました。そして、今日の29節ではこのように記されています。

さて、群衆の数が増えてくると、イエスは話し始められた。「この時代は悪い時代です。しるしを求めますが、しるしは与えられません。ただし、ヨナのしるしは別です。」

 この冒頭の言葉だけでもかなりいろいろなことが語られています。

「群衆の数が増えてくると」とあります。別の翻訳では「押し寄せてきた」とか「集結して来た」と訳されています。これは少し珍しい言葉で「さらに集まる」とか「どっと押し寄せる」という意味の言葉で、新約聖書の中でここだけに使われている珍しい言葉です。悪霊追い出しの一件から、人々の関心が一気に主イエスに傾いて来たことをここで表しています。

 この時に、集結して来た人々の要求は何かというと、「しるし」を見たいということです。主イエスは信頼に足る人物かどうかを見極めようということです。

 私たちの周りには今、さまざまな情報が溢れています。スマホのおかげで手軽に情報を得ることができるようになりました。もちろんそれはスマホに限った話ではありません。書店に行くと、いろいろな雑誌が積み上げられています。健康食品やサプリなど、どうしたら健康が維持できるかという情報や、新型NISAや投資などでいかにして利益を出すかといった経済の情報、美味しい食べ物や旅行案内などの旅情報、あげればきりがありません。その中で、人々は自分なりに最善の判断をするための「しるし」を求めているといえるでしょう。どうやったら間違いないか、失敗しないか、その見極めをしようとやっきになっています。

 「この時代は悪い時代です」と主イエスは言われました。この言葉は、考えてみれば今でも全く同じように言うことができます。戦争や災害、政治不信や経済情勢、あげればきりがありませんが、今は良い時代であるとはなかなか言えません。

 しかも、この「悪い」という言葉は、ただ「良い悪い」という判断の言葉ではなく、とても厳しい言葉です。「邪悪」という言葉です。「よこしまな」と訳している聖書もあります。ただの「良い悪い」という判断の言葉ではなくて、悪に引き込もうとしている時代だと主イエスは言われます。

 それこそ、悪に引き込もうという話は、私たちの周りには溢れています。こういう投資をしたら儲かるよと言われて、お金を儲けたいのに、そのお金がまるまる奪われてしまうなどというニュースを、私たちはひっきりなしに耳にするのです。

 誰もが生きるために賢い選択をしたいと思いながら、さ迷い歩いています。もうずいぶん前のことですが、私たちがドイツにいた時に時間ができると時折旅に出かけました。お金が豊かにあるわけではありませんから、旅に出る前は大抵前もって宿を探しておいてから出かけます。けれども、いつもそうできるわけではなくて、思いつきで旅に出かけることもあります。そうすると、その目的の街に到着すると、まずその街の観光案内所を訪ねます。そこで宿の情報を貰うのです。少しでも安くて、より条件の良いところを探そうと必死になって探します。すぐに見つかることもありますが、なかなか見つからないこともあります。すぐに良さそうな宿を見つけても、街中を観光していると思いがけずもっと良さそうな宿を見つけてしまうことがあります。そうすると、しまったもっと探せば良かったと後悔するのです。

 私たちの人生というのは、このような経験の連続なのかもしれません。居心地の良い場所、最善の場所を求めて旅する者のようなのです。良い人がいて、良い環境があって、良い職場があって、よい信頼関係を築くことができる。そういう私たちが安心して生活できる場所を得たいと思うのです。誰も、失敗したいと思う人などいないのです。居心地の良い、生活のしやすい場所を私たちは探し求めています。

 だから、「これは良い」という知らせを耳にすれば、そこに人々が集まってくるのは当然のことです。そういう噂を耳にして人々が主イエスの周りに大勢集まって来たのです。「集結した」「どっと押し寄せて来た」のです。そういう人々をご覧になりながら主イエスは「この時代は悪い時代だ」と言っておられる。この主イエスの言葉の重みをどうしても、ここで感じざるを得ないのです。そのために人々は「しるしを求めますが、しるしはあたえられない」と主イエスはここで言っておられるのです。

 主イエスはここで、私たちに何を気づかせようとしておられるのでしょうか。私たちの何が問題だと言っておられるのでしょう。 (続きを読む…)

2024 年 3 月 10 日

・説教 ルカの福音書11章14-28節「もう神の国は来ている」

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2024.3.10

鴨下直樹

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 主の祈りがようやく終わりまして、今日からその続きのみ言葉に耳を傾けようとしています。前回の結びの言葉は「聖霊を与えてくださいます。」という言葉でした。

 そして、今日の冒頭の箇所は「さて、イエスは悪霊を追い出しておられた。」と繋がります。この福音書を書いたルカの意図は、ここからもよくわかります。祈る人に聖霊が与えられるということは、悪霊が追い出されることだからです。

 「悪霊を追い出す」などという物々しい言葉を耳にすると、ホラー映画の「エクソシスト」のようなものをイメージしてしまう方があるかもしれません。私はホラー映画をあまり見たことがないので、良くわからないのですが、悪霊追い出しがテーマの映画なのでしょう。自分ではどうすることもできない「霊」や「悪霊」の働きというのは、私たちの心に「恐怖心」を植え付けます。

 映画などでは、悪霊を追い出す人がいるというのはポピュラーなのですが、実際に教会では、悪霊追い出しの話を耳にすることは、あまりないかもしれません。けれども、耳にしないからといって、悪霊の働きが無いわけではないのです。私自身も、これまでに何度かそういう祈りをしてきたことがあります。以前にもお話ししたことがありますが、ナルニア国物語を書いたイギリスの文学者のC・S・ルイスは、「悪魔の働きは2種類ある。1つは、悪魔など存在しないと思わせること、もう1つは、悪魔はとても恐ろしいものだと信じ込ませること」と言っています。悪魔の働きを信じないことも、過度に恐れることも、どちらの反応も健全ではないのです。

 聖書には、こんなにもたくさん悪霊の追い出しの話が出てくるのに、このテーマを取り上げて教会でお話しする機会はあまり多くはありません。その理由は、C・S・ルイスがあげているように、悪魔や悪霊の働きを過度に恐れる心配があるからです。けれども、悪魔の働きを侮ることもできません。

 別に、私はここで悪霊論を展開しようなどとは考えていません。けれども、私たちは占いだとか、ホラーだとか、ミステリーといったテーマに心を惹かれるうちに悪魔に対する過度の恐怖を持つことがないように気を付けなければなりませんし、同時に、侮ってはならないことも心に留める必要があります。悪魔の働きは、神様から私たちの関心を引き離すことです。神様との関係を断ち切るような働きは、すべて悪魔の働きであると言っても言い過ぎではないのです。とすれば、それらの働きは私たちにとって日常的なテーマだと言わなければなりません。そして、私たちは誰かが、そのような悪霊の働きに関心を持つようになる場合には、そのことを明確に指摘していくことも大切です。

 今日の聖書箇所に、1人の、悪霊に支配されていた人が登場します。この人は、この悪霊の働きのために話すことができませんでした。このように聖書に書かれている時には、聖書を読む私たちも気を付けなければなりません。病気や、さまざまなその人の弱さを簡単に悪霊の働きとすることはできないからです。先ほども言ったように、悪霊の働きというのは私たちを神様から引き離すことです。

 主イエスはここで、話すことができなくされていた人をご覧になられて、この人を悪霊から解放し、自由に話ができるようにしてやりました。その場にいた人たちは皆驚きました。普通であれば、こういう出来事を目の当たりにした人たちは、口々に主の名を褒め称え、癒された人のところに行って、喜びの言葉を口にするはずです。

 ところが、今日の聖書の箇所には、続いてこのように書かれています。15節です。

しかし、彼らのうちのある者たちは、「悪霊どものかしらベルゼブルによって、悪霊どもを追い出しているのだ」と言った。

 びっくりする反応です。この人たちは、主イエスのなさった御業を見て、これは悪魔の親玉であるベルゼブルが、悪霊を追い出しているのだと言っているわけで、主イエスのことを悪魔の親玉扱いしているわけです。 (続きを読む…)

2024 年 3 月 3 日

・説教 ルカの福音書11章1-13節「本当に必要なものを~主の祈り8」

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2024.3.3

鴨下直樹

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 主の祈りからの説教も今回で8回目となりました。ここで最後です。今日は主に5節から13節の御言葉に耳を傾けたいと願っています。

 この主の祈りは、はじめに主イエスの弟子たちが主イエスに「主よ。ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください。」と問いかけたところから始まっています。主イエスの弟子たちは、祈ることに憧れを持っていました。神との交わりのすばらしさを知りたいと願っていたのです。

 それで、主イエスは主の祈りを教えた後で、5節からの譬え話をなさいました。5節から8節にひとつの譬え話が書かれています。そこには、あなたがたの友だちが訪ねてきたので、真夜中に別の友だちのところに「パンを三つ貸して欲しい」とお願いに行ったという話が書かれています。パンを借りに行ったのはもう真夜中です。友だちはすでに寝ています。子どもたちも寝ています。そんな状態ですから、友だちはこの願いを断ります。8節で主イエスはこう答えておられます。

「この人は、友だちだからというだけでは、起きて何かをあげることはしないでしょう。」

 先日の祈祷会でも、みなさんここからいろいろな意見が飛び出してきました。「もう真夜中なんだから、明日の朝まで待たせることができたんじゃないか?」とか「パンを三つも求めるのは多すぎじゃないか? 友だちの分だけではなくて、自分も食べるつもりだろうか?」とか色々な意見がでました。

 私たちは、ここで感じるのはパンを借りにいく人の厚かましさです。ただ、同時に私たちは聖書の中に「旅人をもてなしなさい」という御言葉があるとこも知っています。そう考えれば、この人はこの御言葉を誠実に実行しようとした人、隣人に対する愛に満ちた人だという考え方もできるのかもしれません。

 ところが、ここで主イエスは「この人は、友だちだからというだけでは、起きて何かをあげることはしないでしょう。」の後に、こう言われました。

「しかし、友だちのしつこさのゆえなら起き上り、必要なものを何でもあげるでしょう。」

 そうしますと、ここで主イエスが教えようとしておられることは、どういうことになるかというと、「しつこく求めれば何でも与えられる」という理解になると思います。

 すると、私たちはすぐに首を傾げたくなるわけです。私たちがしつこくお祈りすれば必要なものは何でも与えられるのか? という疑問です。きっと、みなさんもこれまでの信仰の歩みの中で、何度も、何度もしつこいくらいに願い事のお祈りをした経験がおありになると思います。そのお祈りはどうなったでしょうか? もちろん、その祈りが叶えられたという経験をした方もあると思います。けれども、ダメだったという経験を持っておられる方も少なくないと思うのです。

 それで、その疑問を解消するためにもう少し丁寧に聖書を読んでみますと、原文ではこの「しかし」という言葉がないことにまず気がつきます。つまりこれは、「しかし」という意味を成り立たせるために、後で補った言葉です。そうだとすると、「しかし」の後の文章は、何らかの意訳が入っていると考えられます。 (続きを読む…)

2024 年 2 月 25 日

・説教 マタイの福音書6章25-31節「心配しなくて良いのです」田村洸太神学生

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2024.2.25

田村洸太

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 皆さんおはようございます。今日は2月最後の主日礼拝となります。次週からは、もう早いもので3月になります。

 皆さんは、3月と聞きますと、どのようなことをイメージされるでしょうか。3月というのは、子どもにとっても大人にとっても、年度替わりの季節です。学生であれば1年間のまとめ、進級、進学、または就職といった新しいステージへと飛び込んでいく時期です。大人であれば、新卒社員が入社してくる4月に向けて、人事異動や部署内の人員調節などが行われていく時期です。当教会でも先週、教会総会が行われ、来年度に向けた話し合いの場がもたれました。

 新しいスタートを迎えようとするこの季節は、来年度に向けての期待感と共に、今までとは違った状況に身を置くことになるため、心配や不安もまた大きくなる時期ではないでしょうか。

 本日は、そのように心配や不安が大きくなる時期を迎えるにあたって、私たちキリスト者が一体、何に目を向け、どのようにして信仰生活を歩んでいけば良いのか、そのことをマタイの福音書6章25節から31節のみことばを通して、味わっていきたいと思います。

 まず初めに今日の説教箇所のみ言葉が、どのような状況の中で語られたものであるのかについて、見ていきたいと思います。マタイの福音書6章の少し前、4章23節〜25節にこのようにあります。

イエスはガリラヤ全域を巡って会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病、あらゆるわずらいを癒やされた。
イエスの評判はシリア全域に広まった。それで人々は様々な病や痛みに苦しむ人、悪霊につかれた人、てんかんの人、中風の人など病人たちをみな、みもとに連れて来た。イエスは彼らを癒やされた。
こうして大勢の群衆が、ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ、およびヨルダンの川向こうから来て、イエスに従った。

 あらゆる悩みを抱える大勢の人々が、全土からイエス様のもとに集まり、癒やされ、従ったとここに書かれています。そして、次、5章の初め。

その群衆を見て、イエスは山に登られた。そして腰を下ろされると、みもとに弟子たちが来た。
そこでイエスは口を開き、彼らに教え始められた。

 大勢の群衆が集まって来るのを見て、イエス様は山に登られたとあります。そして、山の上で弟子たちや群衆に向けて、教えを語り始められました。イエス様のこの教えは、5章の初めから7章の最後まで続いていきます。

 ここで語られた多くの教えは、山上の垂訓や山上の説教とも呼ばれ、当時の人々の考えや価値観を大きく刷新するものでした。

 本日の説教箇所もそのような状況の中で、多くの悩みをもつ人々に対して語られたみ言葉です。それでは、早速今日の聖書箇所に移っていきたいと思います。25節。

ですから、わたしはあなたがたに言います。何を食べようか何を飲もうかと、自分のいのちのことで心配したり、何を着ようかと、自分のからだのことで心配したりするのはやめなさい。いのちは食べ物以上のもの、からだは着る物以上のものではありませんか。

 25節冒頭、「ですから」という接続詞によって始められています。イエス様は、この一つ前、24節において、「あなたがたは神と富とに仕えることはできません。」と語っています。そして、この25節から神に仕える者たち、言わば私たちキリスト者が一体どのような価値観、視点を持って、生きていけばよいのかについて語り始めます。

 何を食べようか何を飲もうかと、自分のいのちのことで心配したり、何を着ようかと、自分のからだのことで心配したりするのはやめなさい。いのちは食べ物以上のもの、からだは着る物以上のものではありませんか。

 ここでイエス様が語るのは、人々の生活の中で起こってくる価値観、優先順位の迷走についてです。 (続きを読む…)

2024 年 2 月 18 日

・説教 ルカの福音書11章1-4節「試みにあわせないでください~主の祈り7」

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2024.2.18

鴨下直樹

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 今週から受難節、レントを迎えました。主イエスが十字架にかけられるまでの40日間、教会では主の苦しみを心に留めて過ごすという習慣があります。国によってはこのレントの期間、肉を絶って生活するというような習慣のある国もあります。謝肉祭とか、カーニバルという言葉を聞いたことのある方もあると思います。これは、この期間は主の受難を覚えるために肉が食べられなくなるので、その前にどんちゃん騒ぎをして、この期間を乗り越えるためのエネルギーをつけておこうなどという習慣が生まれたのです。

 私たちは今週からレントを迎えるというタイミングで、主の祈りの中にある「私たちに試みにあわせないでください」という御言葉に耳を傾けようとしています。レントの期間というのは、先ほどお話したように、肉を食べないとか、好きなものを絶って、主イエスの苦しみを偲ぶ季節ということができます。このように、一方では自らに試練を課して、主の苦難を偲ぼうという習慣、もう一方では「試みにあわせないでください」と祈る。こうなると、私たちは互いに相反するようなことをしているのではないかという印象を持つのではないでしょうか?

 私たちは「試練」をどう考えているでしょう? 多くの場合、「試練」というのは、私たちを成長させるためには必要不可欠なものという認識が、どこかで私たちにはあると思います。けれども、ここでは「試みにあわせないでください」と祈るように勧められています。とすれば試練はない方がいいというわけです。これはいったいどういうことなのでしょう。

 「若い時の苦労は買ってでもしろ」という諺もあるくらいです。そう考えると、私たちが「試み」にあわないようにと祈るのは少しおかしい気もするのです。

「試練」というのは、この言葉にも表されていますが「試み」という言葉と「練る」という言葉で作られています。たとえば、私は鉄の専門家ではないので詳しくは分かりませんが、鉄を強くするためには精錬して、鉄を高熱で練り上げて、不純物を取り除いて、強い鉄を作り出していきます。ここには鉄の専門家がおりますから、あまり適当なことを言わない方がいいかもしれませんが、少なくとも私にはそんなイメージがあります。

 それで、少し気になって「試み」という日本語の意味を調べてみました。すると、面白いことが書かれていました。「心を見る」という言葉から、「試み」という言葉が生まれたというのです。その人の心を見る。その人が本当は何を考えているのかを見る。表面に出てきていない、その内側を見るというわけです。私たちは普段、心の内側は誰にも知られていないと思って、うまいこと表面上を取り繕って、ごまかしながら生きているかも知れません。だから、その人の内面を、心を見るために、試みに合わせる、テストするというわけです。

 私たちは、ひょっとすると神様からテストされてばかりではなくて、私たちの方でも神様の心を見てやろうと、テストするということがあるのかもしれません。本当にこのお方は信じるに値するのか、試してみたくなる。そうやって、たとえば願い事を祈ってみて、それが叶うかどうか、そういうことで判断をしようとすることがあるかもしれません。私たちが神を試みるということについては、今日のテーマではないので簡単にお話したいと思いますが、これは神を侮る態度ですし、結局のところ自分本位な態度だと言わなければなりません。

 今日、私たちが考えたいのは神が私たちを試みられることです。私たちが試されることがある。私たちの心が見られることがあるのです。けれどもそれは、神からの罰ではないということを、一方で私たちは知る必要があります。私たちは思いがけない不幸が訪れると、それは試練だと考えます。それと同時に、反射的に考えてしまうのは「何か悪いことをしてしまって、神様を怒らせてしまっただろうか?」と考えたり、「神のバチが当たった」と考えたりしてしまうのではないでしょうか。

 原因があって結果があるわけで、こうなったのには自分に何か悪い原因があるのではないかと、自分を責めてしまったり、神様を恨んだりする感情が私たちの心の中に浮かんできてしまいます。ここが、試練の怖いところです。

 病気になる、事故に遭う、災害で被害を被る、いろんな試練が私たちの人生の中で襲いかかってくることがあります。それらの出来事が起こると、それに付随して色々なことが起こります。そのためにたとえば仕事ができなくなる、経済的に厳しくなる、人が怖くなって外に出られなくなる、人を信じられなくなる。さまざまな感情が私たちを襲うようになります。そうなっていくと、平安でいられなくなってしまいます。そんな中で他の人を見ると、案外幸せそうにやっている気がして、他の人が羨ましく思えてしまう。自分だけが苦労を背負っているかのような錯覚を起こしてしまうことがあるのです。

 簡単に乗り越えられそうなことを「試練」とは言いません。「試練」には深い闇が潜んでいます。私たちはこの試練に対して、どう向き合うことができるのでしょう。 (続きを読む…)

2024 年 2 月 11 日

・説教 ルカの福音書11章1-4節「罪の赦しを~主の祈り6」

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2024.2.11

鴨下直樹

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 主の祈りも今日で6回目になりました。こんなにゆっくりと解き明かしをしなくても良いのではないかという声も有るかもしれません。けれども、この祈りは私たちの信仰の歩みの根幹を支えるものですから、できるだけ丁寧にみ言葉に耳を傾けたいと願っています。

 今日は「私たちの罪をお赦しください」という祈りです。ここでは、罪の赦しを祈り求めます。

 「罪」。この言葉は、教会に来るようになった人の多くが、最初に戸惑う言葉の一つです。私たちは、クリスチャンになる前は、「罪」という言葉を「犯罪を犯すこと」という意味で認識している場合が多いと思います。ですから「あなたには罪があります」と言われると、「自分は警察にお世話になるようなことはしていない」と抵抗したくなります。けれども、教会に集うようになって、聖書の話を聞いていくうちに、この「罪」というのはどうやら「犯罪を犯した」という意味ではないことが少しずつ理解できるようになってきます。

 この「罪」という言葉は、ギリシャ語で「ハマルティア」と言います。そのもともとの意味は「的が外れている」という意味です。向くべき方向を向いていないことという意味です。では、その「的とは何か?」というと、それは「神」と言ってもいいし、「神が願っている生き方」と言っても良いものです。この私たちが向かうべき「的」とも言えるゴールというのは、神の目にかなう生き方ができていることを指します。このことを「義」と言います。そして、この神の目にかなわない生き方のことを「罪」と言うのです。

 では、その神の願う生き方とは何か?と言った時に、教会は何を教えてくたかというと、「十戒」と「主の祈り」と「使徒信条」の三つの文章を、三つの要の文、「三要文」として、これをを中心に教会は信徒に教えてきました。もちろん、三つの文章で神の御心をすべて知ることができるわけではありませんが、中心的な事柄が、この三要文で扱われているのです。そういう意味でも、今私たちはこの主の祈りの、み言葉を丁寧に聞き取っていこうとしているわけです。

 特に、三要文の中の「十戒」には、神からの10の戒めが記されています。そこでは、神がどう私たちに生きることを命じられているかが分かります。この十戒は、さらにまとめると二つのことを教えています。ここでは「神を愛すること」と「隣人を愛すること」の大切さが教えられていると言えます。ということは、「愛すること」が、神の御心の中心部分だということが分かってきます。つまり「罪」というのは、「犯罪を犯した」ということではなくて「愛さなかったこと」が問題になっているとも言えるわけです。神を愛さなかったこと、あるいは私たちの周りの人々を愛さなかったことが罪と言えるのです。

 「愛する」というのは、私たちの内側から出てくる自覚的な行動によって示されます。そして、その愛というのは、ギブ・アンド・テイクの愛、見返りを求める愛ではなくて、一方的に与える愛だということを私たちは何度も何度も聞いています。これが神の愛だからです。けれども、一方的に与える愛というのは、どういうものなのかとなると途端に解らなくなってしまいます。

 愛を知る。これは、とても短い言葉ですが、とても難しいことです。けれども、どうして愛を知ることを難しく感じてしまうのでしょうか? 私たちは生まれた時から、たくさん愛を受けて育ってきたはずです。だから、本当は愛をたくさん知っているはずです。ところが、私たちは子どもの頃から、この愛を受け取ることがうまくできないようです。慣れてしまうからでしょうか。それとも当たり前だと思ってしまうのでしょうか。毎日毎日、私たちが生きていけるように、親が働いてくれて、親が世話をしてくれて、衣食住を整えてくれていて、そこには十分な愛が示されているはずなのに、気づくと不満ばかりを見つけてしまう、これは一体どうしてなのでしょう。

 押し付けが過ぎるのでしょうか?それとも、もっと高品質の愛を求めているからなのでしょうか? (続きを読む…)

2024 年 2 月 4 日

・説教 ルカの福音書11章1-4節「日毎の糧を~主の祈り5」

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2024.2.4

鴨下直樹

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 ドストエフスキーの書いた短編小説で、しかも子ども向けに書かれた「キリストのヨルカに召されし少年」という児童文学とも呼べる作品があります。この作品はとても珍しいもので、「私は小説家だから、どうやらひとつの『物語』を思いついたようだ」という書き出しから始まります。小説家が小説を書くのはあたりまえのことですから、わざわざこう言うのはなんでだろうと思ったのですが、読んで、なるほどと思いました。

 この物語の少年は、どこかから移り住んできた少年のようで、病気の母親を看病しながら地下の暗い部屋で、飢えと寒さで身動きがとれないでいるのです。お腹があまりにも空いて母親のところに行くと、母はもう冷たくなって死んでいました。

 その後、地下から外に出ると、街中にはクリスマスの賑やかで眩い世界が広がっていて、広場の真ん中には大きなヨルカ、クリスマスツリーが飾られています。そんな中で、お腹の空いた少年が食べ物と暖かさを求めて歩いていると、ある家のパーティーの様子が目に飛び込んできます。そのあまりにも楽しそうな世界に心惹かれ、自分も入れてもらえるのではと思い、家の扉を開けるのですが、追い出されてしまいます。その時、銅貨を一枚握らされるのですが、手がかじかんで、その銅貨を掴むこともできませんでした。

 その後、大勢の人だかりのできていた所で人形劇を眺めていると、いきなり後ろから、わんぱく小僧に蹴飛ばされ、一目散に逃げ出します。そうして、路地裏の陰に隠れ込んでしまうのです。少年はそこで、急にぽかぽかと暖かさを感じるようになってきて、お母さんの子守唄が聞こえてきます。そして「ヨルカのお祝いに行こう、坊や」というお母さんの声を聞きます。その時、自分は眠たいのだと気づくとともに、自分の周りに他にもたくさんの子どもたちがいることに気づいていきます。自分の周りにいる子どもたちは皆、苦労していた子どもたちばかりなのです。こうして、その暖かな世界に招かれた親子たちは天の主なる神様のみもとで巡り会っていく。けれども、その街の傍で、その少年は冷たい死を迎えていく、そんな物語です。

 この物語の最後にドストエフスキーは、どうして自分は作家の日記としてもふさわしくない物語を書いたのだろうと言いながら、これが本当のことかどうかは言えないけれども、私は小説家だから、こういう話を創作するのが商売だと言って物語を結んでいるのです。

 この小説のあとがきを読むと、どうもこの時ドストエフスキーは少年犯罪者の感化院を訪れていて、その時の訪問記も、この小説が載せられた雑誌の同じ号に書いているようです。ということは、犯罪に手を伸ばしてしまう少年たちの現状を知って、こういう子どもたちが自分たちの周りにはたくさんいるんだと、知らせたかったのだろうということが分かってきます。そして、それと同時に、もし子どもたちがこの物語を読んだなら、その先には神のあたたかい御手の中に迎えられるのだということを、ドストエフスキーなりに伝えたかったのではないかと気づかされるのです。ドストエフスキー自身が、そこまで熱心なクリスチャンであったかどうかまでは私には分かりませんが、少なくともこの物語を書いた時にはそんな思いになっていたことは間違いないのです。

 私たちは、主の祈りを生活の歩みの中で祈ります。「私たちの日ごとの糧を、毎日お与えください。」と祈ります。

 私たちが普段、この祈りを祈る時に意識している「私たち」というのは、自分の家族のことだと思います。そこで祈られている「私たち」は狭い範囲をさしているはずです。あるいは、教会で主の祈りを祈る時には、この「私たち」は「教会の人たち」という意味で祈るのかもしれません。あるいは、時々はもっと外に目を向けて、被災地の人たちや、戦地の人たちのことを心に留めたり、あるいは、食べるものが無くて困っている人に思いを馳せたりしながら祈るのかもしれません。けれども、基本的にはやはり、自分の家族のことを一番に考えながら祈るのだと思うのです。 (続きを読む…)

2024 年 1 月 28 日

・説教 ルカの福音書11章1-4節「御国が来ますように~主の祈り4」

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2024.1.28

鴨下直樹

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 少し前のことですが、あるクリスチャンホームの家庭で、幼稚園の子どもが教会で教えてもらった子ども賛美を口ずさんでいたそうです。元気な賛美で、子どもに人気のある歌です。

イエス様を信じるだけで 天国へ一直線に進む 
涙ふいていっしょに乗ろう 喜びがあふれてくるよ
さあ 救いの汽車に乗り かがやく天国へ行こう 
さあ イエス様のまってる 天国へいっしょに行こう

 その娘の歌う歌を聴いていた、その家のクリスチャンではないご主人が、奥さんにこう言ったそうです。
「教会では、こんな小さな子どもに早く死ねって教えているのか?」

 この話を聞いたのはもうずいぶんと前のことですが、私にとって忘れられない出来事でした。この子どものお父さんの質問は、一つの信仰の急所をついた言葉だと言えます。

 まず、長い間、福音派の教会は「天国」のことを「死後の世界」のことだと教えてきたという事実があります。イエス様を信じたら、天国へ行ける。死の不安から抜け出して、来世に希望を見出すことができる。いわゆる大衆伝道者と呼ばれた牧師たちは、そういう福音を語ってきました。

 これは、完全に間違っているわけではないのですが、かなり偏った信仰理解を生み出してしまったと言わなければなりません。「イエスさまを信じたら、天国に行ける」と聞くと、今の苦しみから目を背けさせることができるかもしれませんが、今の生活から目を逸らさせる、現実逃避の信仰ということになりかねないのです。

 けれども、この主の祈りの今日の言葉、「御国が来ますように」という祈りは、そういう信仰の理解に対して、はっきりと「NO!」と告げていると言えます。

 この祈りは、「御国に行けますように」と祈っているのではない。「天国に入れますように」と祈るのではないのです。ここで、主イエスは「御国が来ますように」と教えているのです。 (続きを読む…)

2024 年 1 月 21 日

・説教 ルカの福音書11章1-4節「御名が聖なるものとなる~主の祈り3」

Filed under: YouTube動画,礼拝説教,説教音声 — susumu @ 00:08

2024.1.21

鴨下直樹

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 新改訳2017になって、「主の祈り」の文章が大きく変わりました。一番大きく変わったのは、この「聖なるものとされますように」という文章です。これまでは「御名があがめられますように」となっていました。いつも、礼拝で主の祈りを祈るときも、「御名があがめられますように」と祈っています。

 この「御名があがめられますように」というのは、どんなイメージでしょうか。この「あがめられる」というのは、みなさんにとっていろんなイメージがあるかもしれません。「あがめられる」というのは、「尊敬される」とか「褒められる」というような意味の言葉です。もっと分かりやすく言うと「すごいと思われる」というようなイメージなのではないでしょうか。

 神様の名前が、尊敬される、すごいお方だと思われる。これがこの祈りの主要な意味の一つだと言っていいと思います。この世界のすべての人に神があがめられるようになることです。この祈りがまず第一に私たちに訴えているのは、主の主権がこの世界で確立するようにという祈りだということが分かると思います。

 この世界を創造され、お造りになられたのは、私たちの父なる神です。この世界は主の御手の中にあって、主なる神様がこの世界の主権者であり支配者です。けれども、この世界の多くの人はそのことを知らないでいます。それは、とても残念なことです。何よりも、神ご自身がそのことを残念に思っておられます。

 かつて、ドイツの説教者ヘルムート・ティリケは主の祈りの説教のなかで「主の祈りの最初の祈願は、隠れた悔い改めである」と語りました。この言葉は、まさにこの箇所は、このことを言い表しています。多くの人々が、この世界の創造主であられる父なる神に、語りかけることをしてこなかったのです。

 そんな世界の中にあって、多くの人に忘れ去られている神のことを、心の中に留める人たちが起こされるようになる。人々がもう一度、主の神の御名を思い起こして祈りを捧げるようになる。このお方のことをあがめるようになる。このお方を、尊敬し、すごいお方なのだと告白するようになる。それが、この祈りの中心的な内容です。

 この「あがめる」という言葉をもう少し考えてみると、この日本語は「きわめて尊いものとして敬う」という意味だと書かれています。そして、二番目の意味としては「寵愛する」とか「大事に扱う」と書かれています。まさに、神様を敬う、神様を拝むというような場合に使われる言葉だということが分かってきます。ということは、この「あがめる」というのは、「お祈りをする」ということを私たちに連想させます。

 多くの人が神様のことを知るようになって、このお方がこの世界の創り主であることを知って祈るようになる。そんな祈りを祈っていくことが、求められていると言えるかもしれません。

 これまで「あがめる」と訳していたこの言葉ですが、今回からは「御名が聖なるものとされますように」と訳されることになりました。けれども、こうなると、私たちのこの祈りの印象はかなり変わるのではないでしょうか? (続きを読む…)

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