2023 年 9 月 3 日

・説教 ルカの福音書8章22-25節「大嵐の最中、その時主イエスは!」

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2023.9.3

鴨下直樹

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 二週間の夏休みを頂きまして、今日三週間ぶりにみなさんと礼拝を捧げることができることを嬉しく思います。私たちの教団は御代田に宿泊施設があり、牧師や宣教師たちが、この施設で夏休みを過ごします。いつも本当に感謝なことですけれども、二回の日曜を挟んで休暇をいただいて、そこでゆっくりした時間を過ごすことができます。

 その間は、本当に仕事を一切持っていきません。ですから、睡眠時間をいつもよりも相当長く取ることができます。ただ、どうしても普段習慣づいてしまっているので、いつも決まった時間に目が覚めますが、休みの間は、もう一度そこから一眠りすることができて、本当にゆっくりすることができました。

 この夏休みの時に、一回は下仁田教会の礼拝に行き、そこで説教をしました。もう一回は、日本基督教団の軽井沢教会の礼拝に行きました。その日の説教は、安息日の話で、「安息日というのは、自分の人生を中断することである。その間は自分のいのちを神様に委ねるわけで、そのことを通して、自分の人生を自分で支配しているのではないことを覚えるのだ」という話をされました。

 私たちは、自分の人生を自分で支配している気持ちになっているわけです。けれども、その自分の人生を一時中断しなければならない。それは死んだ状態になるということで、その時は神様に自分の人生を任せることになるわけです。復活の信仰というのは、そこにあるのだというのです。
 
 私たちの教会では、この夏も信徒交流会が行われ、先週無事に終わりました。久しぶりに行われたこともあって、とても新鮮な時となりました。信徒の方々が順に証しをしてくださいました。その中で何度も出てきた話は、自分が通された困難な状況の中にあって、今も主イエスが生きて働いておられたことを経験した証しです。

 私たちは誰もが、人生の歩みの中で様々な試練を経験することがあります。その時に、不安を感じたり、恐れの感情に支配されたりすることがあると思います。私たちはそのような人生の試練の中で、それとどう向き合うのか。まさに、自分自身の信仰が試されているような思いになることがあるのです。

 今日の聖書箇所は、そのような経験をした時の出来事が記されています。 (続きを読む…)

2023 年 8 月 27 日

・説教 ルカの福音書19章1-10節「イエス様の愛があなたを変える」田村洸太

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2023.8.27

田村洸太神学生

2023 年 8 月 13 日

・説教 ルカの福音書8章19-21節「神の家族=み言葉を聞いて行う者」

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2023.8.13

鴨下直樹

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 今、私たちの教会では「信徒交流会」ということで、夏の間の祈祷会は、信徒の方々が担当してくださっています。担当になってくださる方はほとんどみなさん証しをしてくださっています。先週は、水曜日は私の娘のキャンプの報告と、Sさん、木曜日はMさんが証しをしてくれました。

 先週話してくださった方も、その前に証ししてくださった方々もそうですが、決まって家族のことを取り上げられます。特に、木曜に話してくださったMさんは、今は結婚して山口県の岩国におられますが、今ちょうど帰省してきておられます。その証しでは、信仰に至るまでの、クリスチャンホームで育った中での葛藤をお話しくださいました。その証しをお聞きしながら、改めてクリスチャンホームの家庭の子どもたちが信仰に導かれる難しさというものに気付かされます。

 先週の説教でも少しお話ししましたけれども、私たちは今、全体主義の世界に生きてはおりません。個人が尊重される時代のなかで生きています。家族がクリスチャンだから、子どもの自分もクリスチャンになるように期待されていることは分かるわけですが、親の信仰と、自分はまったく別物です。いくら親が強制したとしても、自分で神様と出会うことなしに自分の中には信仰心は生まれません。この神様との出会いというのは、自分で神様とお会いして自分の心が動かなければどうにもならないことです。

 今日の聖書の箇所はまさに、主イエスの家族はどうであったのかということが記されています。

 19節にこのように書かれています。

さて、イエスのところに母と兄弟たちが来たが、大勢の人のためにそばに近寄れなかった。

 主イエスのところに主イエスの母と兄弟たちが訪ねてきたというのです。

 その続きはこのように記されています。20節と21節です。

それでイエスに、「母上と兄弟方が、お会いしたいと外に立っておられます」という知らせがあった。しかし、イエスはその人たちにこう答えられた。「わたしの母、わたしの兄弟たちとは、神のことばを聞いて行う人たちのことです。」

 イエス様の家族の立場で考えるとちょっと悲しい気持ちになってしまいます。ただ、ここを読んだだけでは、主イエスは結局のところ兄弟たちと会ったのか会わなかったのかははっきりしません。

 私たちはこれと同じ出来事がマルコの福音書にも書かれていることを知っています。そこでは、主イエスがおかしくなってしまったのではないかという噂が広がって、家族が主イエスの活動をやめさせるためにやって来たという流れで書かれています。

 ところが、ルカはそういう流れでは書いていませんので、マルコの福音書のことは一度忘れていただいて、ここを読んでいただきたいと思います。 (続きを読む…)

2023 年 8 月 6 日

・説教 ルカの福音書8章16-18節「明かりのもたらすもの ―聖書とキリスト教の歴史のはなし― 」

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2023.8.6

鴨下直樹

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 今日の聖書の箇所は前回の種まきの譬えの続きの部分です。この18節には、種まきの譬え話の全体の結びが記されています。最初の予定では先週この18節までを扱う予定にしていたのですが、二週に分けてお話しすることにしました。ですから、覚えていただきたいのは今日の箇所は先週の種まきの譬えと一つの話だということです。そのことを初めに踏まえておいていただいて、この16節以下の部分の、み言葉に耳を傾けたいと思います。

 さて、今日の譬えは「明かりの譬え」です。16節にこうあります。

明かりをつけてから、それを器で隠したり、寝台の下に置いたりする人はいません。燭台の上に置いて、入って来た人たちに光が見えるようにします。

 この主イエスの譬え話そのものは、単純明快です。明かりには、暗い部分に光をもたらす役割があるわけで、その役割を果たさないようにはしないでしょということです。ところが、この分かりやすい譬え話を聞いて、私たちは皆、誰もが同意できるかというとそうではないわけです。

 「明かり」というのは、この場合何を指しているかと言えば「神の国の福音」のことであることは明らかです。じゃあ私たちは、この「神の国の福音」を、誰から見ても、その光に照らされるように掲げて生きていますか? と問われたらどうでしょう。

 安倍元首相銃撃事件以降、キリスト教カルト集団のことが連日報道されました。統一教会とか、エホバの証人のようなカルト教団のことが取り上げられて「宗教二世」という言葉で、宗教を信じる家の子どもたちは可哀想だという論調が生まれました。ただ、この「宗教二世」という言葉は、どんどん一人歩きしていって、宗教を子どもに強要することの問題点がクローズアップされています。専門家は、ちゃんと「カルト二世」と言った方が良いという主張をしていますが、あまりそういう意見は取り上げられません。そして、日本人の多くは何かの関わりがある神道も仏教も、キリスト教も総じて宗教というものは悪いものだという理解になりつつあります。

 昨日もある方と話していたのですが、自分の子どもに教会へ行くことを強要しないようにしていると話しておられました。とても残念なことですが、親の通う教会に子どもを連れていくのは悪いことをしているような感覚が最近では生まれてきてしまったようです。

 こういうご時世ですから、私たちキリスト者も「私はクリスチャンです」ということを公にすることに抵抗を感じるようになった人たちも少なくありません。

 いくら聖書が「明かりは燭台の上に置いて、光を見えるようにするのです」と言っても、「いや、今は隠しておいた方が賢い選択なんです」という声の方が勝ってしまうような社会に、私たちは置かれているのです。

 けれども「明かり」というのは、その性質上、隠せるものではありません。そのため、クリスチャンの家族の中でも、子どもに信仰教育をする上で葛藤があるのだと思います。子どもに信仰を強要するのか、自分で選び取ってもらうのかというのは、いつの時代も振り子のように揺れ動いています。 (続きを読む…)

2023 年 7 月 30 日

・説教 ルカの福音書8章4-15節「神の言葉をどう聞くか?」

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2023.7.30

鴨下直樹

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 昔、「のらくろ」という漫画がありました。ご存知ない方も多いと思いますが、犬たちを主人公にした、戦争をテーマに扱った少しユーモラスな漫画です。この「のらくろ」の作者は田河水泡さんといいますが、この方はキリスト者です。この田河水泡さんが晩年、「のらくろ」を書くのをやめたあと、キリスト教をユーモアで紹介したいと『人生おもしろ説法』という本を書かれました。

 その本の中に「名画の切り売り」という話があります。

「画商さん、この額に入っているセザンヌの静物だがね、こんな大きな絵は私の部屋には大きすぎるので、はじっこの果物一個だけ、切り取って売ってもらえないかね」

 そんな会話からはじまります。もちろん無理な注文です。作品を一部だけ切り取ってしまっては絵全体の構図がだめになって、作品としての価値がなくなってしまいます。

 そこで、こんな話を書いています。あるところに、クリスチャンとして非の打ちどころのない人がいました。でも、その人は形式というものが嫌いで、洗礼だけは受けなかった。洗礼は形式だけだからそんなのはいらないと言っていたというのです。

 でも、田河さんは、これはセザンヌの絵を一部だけ切り売りして欲しいというようなものではないかと書いています。自分の都合しか考えない身勝手な要求で、そんなことをすればそのものの価値を失ってしまうことになるというのです。

 今日の説教題を、「神の言葉をどう聞くか?」としました。この箇所でも、同じようなことが言えるのかもしれません。私たちは、聖書から、神の言葉を聞くのですが、そこで自分の気に入ったところだけ切り売りするかのように、部分的にしか聞き取っていないと、同じことになりかねないのではないでしょうか。

 今日の聖書箇所は主イエスのなさった譬え話です。「種まきのたとえ」とか「四つの土地のたとえ」などと言われる譬え話です。実は、この譬え話は、譬えなだけにいろいろな解釈が存在します。み言葉をどう聞くか? というのがテーマの箇所でありながら、一部だけを切り取るようなさまざまな解釈が出てくるのです。

 というのは、種のたとえなのか、土地のたとえなのか、種を蒔く人のたとえなのかで、読み方は全然変わってくるのです。それこそ、その中にはみ言葉を聞いた時の受け取り方のタイプとして四つあるというような話をすることが多いと思います。そうすると、自分は「良い地」なのか、それとも「いばらタイプ」なのか、「岩地タイプ」なのか「道端のカラスタイプ」なのかを考えて、自分はこのタイプだから、私はどうもダメみたいという話になってしまいます。

 このような読み方は、一般的でよく耳にすることがあると思うのですが、そのように読んでしまうと、結局私はダメで、実を実らせることのできないダメなクリスチャンだという話になってしまいます。

 あるいは、こういう解釈もあります。この土地は私たちの心の中の姿で、み言葉を受け入れる準備のできている「良い土地」の部分と、耕されていない道端や、岩地や、いばらの生えた「悪い土地」の部分とがあるのではないかという解釈をする場合もあります。人の心の中に、み言葉を受け入れやすい場所や、頑なな部分があるのではないかと読むこともできるのです。私自身も、そのように解釈して話したこともあります。

 ただ、そのように読むと、私たちの心を少しずつ良い地として耕していきましょうという話になってしまうこともあります。そうなると、もはや福音ですらなくなってしまいます。頑張って心を耕しましょうという努力目標になってしまうからです。

 聖書を読む時に私たちは分かりやすく聖書の言葉を受け取ろうとするのですが、話を単純化してしまうと、この箇所が語ろうとしていることがつかめなくなってしまいます。この譬え話はルカだけでなく、マルコの福音書にも載っています。マタイの福音書にも載っています。けれども、どの福音書も同じ譬え話を、同じように語っているわけではないので、それぞれの文脈を注意深く見極めて聖書の言葉を受け取る必要があります。

 この種は明らかに「神の言葉」のことを語っています。これは、聖書の言葉と言ってもいいし、説教のことと言ってもいいものです。 (続きを読む…)

2023 年 7 月 23 日

・説教 ルカの福音書8章1-3節「主イエスに従う女性たち」

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2023.7.23

鴨下直樹

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 今日の聖書箇所はとても短いところで、主イエスに従った女性たちのことが記されていますが、歴史家と呼ばれるルカならでは、の、とても貴重な聖書箇所といえます。

 というのは、この箇所に続いて、この8章では、主イエスが種まきのたとえ話と、燭台のあかりのたとえ話をなさいます。このたとえのテーマは「隠れているものと明らかになるもの」です。

 そして、今日の箇所はこのたとえ話をする前の導入として、この1節から3節が配置されています。そこからも、ルカがどんな意図をもって、この話をここにおいたのかが見えてきます。

1節にこのようにあります。

その後、イエスは町や村を巡って神の国を説き、福音を宣べ伝えられた。十二人もお供をした。

 ルカはここで、主イエスと十二弟子との宣教がはじめられたことを書いています。私は先日の祈祷会でこの話をした時にはすっかり失念していたのですが、6章の12節以下で十二弟子のことが取り上げられていまして、弟子たちのことを「使徒」と呼んだという記録がすでに記されております。この8章では、主イエスの神の国の宣教に、この十二弟子たちを伴ったことが短く記されていますが、読んでみるとルカの関心は、十二人の弟子よりも、むしろこの後の2節と3節に記した女性の弟子たちに向けられていることが分かります。

 2節と3節にこう記されています。

また、悪霊や病気を治してもらった女たち、すなわち、七つの悪霊を追い出してもらったマグダラの女と呼ばれるマリア、ヘロデの執事クーザの妻ヨハンナ、スザンナ、そのほか多くの女たちも一緒であった。彼女たちは、自分の財産をもって彼らに仕えていた。

 このように書かれています。この「悪霊や病気を治してもらった女たち」という言葉は、このマグダラのマリア以外にも、2節には「ヘロデの執事クーザの妻ヨハンナ、スザンナ、そのほか多くの女たちも一緒であった。」とありますから、主イエスに仕えた女の弟子たちの多くは、主に悪霊や病気を治してもらった人たちが多かったことが分かります。

 このマグダラのマリアをはじめ、クーザの妻ヨハンナも、スザンナも、その他の主イエスに付き従った多くの女の弟子たちは、主イエスによって病気や、悪霊から解放されたという救いを経験して、主に従う者へと変えられたのです。

 特に、ここにはじめて名前が登場してきますこのマグダラのマリアというのは、一体どういう人なのでしょうか? (続きを読む…)

2023 年 7 月 16 日

・説教 詩篇32篇「主を喜び 楽しめ」田村洸太

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2023.7.16

田村洸太神学生

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 皆さんおはようございます。今日、このようにして芥見教会の皆さんの前で福音を述べ伝えることができることを心から嬉しく思います。

 私の神学塾での学びもいよいよ最後の年となり、とても祝福された時を送らせて頂いております。

 さて、本日は詩篇32篇、特に最後の11節の言葉を引用し、「主を喜び 楽しめ」という題を付けました。というのも私自身もまた皆さんにも主を喜び、楽しむそのような素晴らしい信仰生活を送っていただきたいと願うからです。せっかくなのでぜひ、皆さんと一緒にこの11節をもう一度、お読みしたいと思います。私が「詩篇32篇11節」と言いますので、それに続いて声を合わせてお読みください。

(詩篇32篇11節)「正しい者たち を喜び 楽しめ。すべて心の直ぐな人たちよ 喜びの声をあげよ。」

 「主を喜び 楽しめ」これは、32篇最初にあるように古代イスラエルの王であったダビデから、この詩篇32篇を読むすべての者に対する投げかけです。とても積極的な投げかけです。今、皆さんはダビデが言うように、「主を喜び、楽しむ」信仰生活を送っておられるでしょうか。もし、そうではないという方がこの場におられるのでしたら幸いです。なぜなら、ダビデがどのようにして「主を喜び、楽しめ」と言える信仰生活を送れるようになったか、そのことを今日は、この詩篇32篇を通してお話ししたいと思うからです。

 まず、この詩篇が書かれた背景をお話ししたいと思います。この詩篇が書かれる前、ダビデは彼の生涯の中でも最も大きな罪を犯します。部下であったウリヤの妻バテシェバと姦淫の罪を犯し、それを隠そうとしてウリヤの殺害を引き起こしてしまうのです。

 ダビデは、イスラエル軍がアンモン人と戦っている最中、部下であったウリヤの妻バテシェバが、夕暮れ時に水浴びをしている姿を、王宮の屋上から目にします。彼女がとても美しいのを見ると、ダビデは使いを送り、自分の元へと来るように言い、最終的に彼女を犯してしまいます。ウリヤが不在の機を狙った酷い裏切り行為です。しかし、ダビデの罪はここで止まることはありませんでした。

 それからしばらく経ったある日、ダビデはバテシェバがみごもったという知らせを耳にします。すると、ダビデは自分が行った姦淫の罪が明らかになることを恐れて、どのようにすれば自分の罪を隠せるだろうかと考え始めます。そして、彼が思いついたことは、「ウリヤを戦地から呼び戻せば、夫婦なのだから一緒に寝るだろう。そうすれば、自分が犯した罪を隠すことができる」ということでした。そして、ダビデはウリヤに使いを送り、彼を労わるふりをして、自分の家に帰るようにと命じるのです。

 しかし、ウリヤはその命令を聞くと、「他の兵士たちが戦いの中で自分の家に帰ることができない状況なのにも関わらず、自分一人だけが家に帰って、妻と寝ることができるでしょうか。私には、決してそのようなことはできません」とはっきり答えます。ウリヤの返答は、至って正論です。部下としても100点満点の返答ではないでしょうか。

 しかし、ダビデは違いました。自分が思い描いていたようにことが進まないことに焦り、憤って、ウリヤを戦いが最も激しいところへと誘導し、彼が敵に殺されるように仕向けろとウリヤの上司に命じるのです。一つの罪を隠すために、さらなる罪を重ねてしまうということがありますが、この時のダビデは、まさにそのようで、自分の罪をどのようにしたら隠し通せるか、そのことしか見えていなかったのです。

 結局、ウリヤはダビデの目論見通り、敵の矢に貫かれ命を落としてしまいます。当然ダビデが行ったこのことは、主のみこころを損ないました。義なる主は、このダビデが行ったことを見過ごす方ではありません。主は、預言者であるナタンをダビデの元へと遣わし、その罪を指摘しました。するとダビデは「私は主の前に罪ある者です。」と悔い改めの言葉を口にします。それに対して、預言者ナタンも「主はあなたの罪を取り去ってくださった。あなたは死なない」と答えます。

 これが、詩篇32篇が取り扱っている背景です。皆さんはこの出来事をどう思われるでしょうか。このダビデが犯した罪を許せるでしょうか。「もっと罰してやらないとウリヤがあまりにもかわいそうではないか」そう思われる方もいるかも知れません。しかし、これこそが主の赦しの深さなのです。 (続きを読む…)

2023 年 7 月 9 日

・説教 ルカの福音書7章36-50節「あなたの罪は赦された」

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2023.7.9

鴨下直樹

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 人が涙を流す時には様々な涙があります。悲しみの涙や、怒りの涙というものもあるかもしれません。惨めさを感じる時に涙を流すこともあるでしょうし、嬉しくて流す涙というのもあると思います。いずれにしても、涙が流れる時というのは、その人の中である限界を超えた時に、涙が流れるのだと思うのです。

 自分の話で恐縮なのですが、私が小学一年生の時のことです。国語の時間に「詩を書いてみよう」という時間がありました。クラスのみんなは紙にさらさらっと詩を書き始めたのですが、私は何を書いていいか、全く思い浮かべることができませんでした。

 私が何も書けないのを見た担任の先生は、「嘘でもいいから何か書け」というアドヴァイスをくれました。今思えば、先生はとにかく何か書かせることに必死だったのだと思うのですが、このアドヴァイスは私にはとても効果的でした。実際に起こったことでなくていいなら、何か書けるかもしれないと思ったのです。

 そこで私は「お母さんが泣いた」という詩を書きました。その詩は、もう手元に記録がありませんので、完全ではないのですが、大まかにいうとこんな内容の詩です。

お母さんが泣いた。
僕は、お母さんが泣いているのを見て、心配になって、お母さん大丈夫? と聞いた。
すると、お父さんが、僕に「あれは嬉し涙だよ」と言った。

 ざっくりいうとそんな内容の詩です。ちょっと凄くないですか? 小学一年生の私。この時の詩が、当時の小学校が出していた、すべての親に読まれる学校新聞の表紙を飾りました。たぶん、私の人生で、もっとも人から褒められたのは、後にも先にもこの時以外には記憶にありません。

 涙には、悲しい涙だけではなくて、嬉しい涙もあるはずだと、なぜかその時私は思って、この詩を創作したわけです。もちろんそんな事実があったわけではないのです。ただ、たぶん学校の先生をはじめ、多くの人は鴨下家の生活の一部を切り取った詩だと思ったのではないかと思うのです。近所ではずいぶん評判になって、良い証になったのだと思います。ですが、実際には当時五人の子どもを抱えていた我が家に、そんな麗しい光景はありませんでした。担任の先生のアドヴァイスによって生まれた私の想像の産物だったわけです。

 今日の聖書にも、一人の涙を流す女性が登場します。ここには名前も記されておりません。書かれているのは「その町に一人の罪深い女がいて」とあるだけです。この罪深い女の人が、主イエスと出会うまで、どんな歩みをしていたのかは、書かれていないので分かりません。想像するしかないわけですが、この「罪深い人」というのは、「遊女」などと呼ばれ、性的な罪を犯していた人だと思われます。当時のイスラエルは倫理的に非常に厳しい国で、誰かから訴えられたりすれば、石打ちの刑にされて殺されることもある時代です。私たちが今日の「娼婦」とか「売春婦」というイメージから来る、そういう仕事をしながらも逞しく生きている人とはまた少し異なるのだとも思います。今よりももっと生きにくい時代です。表立ってはいないけれども、誰もが知っているというようなことであったようです。

 そういう女性が、どこで主イエスと出会ったのかは分かりませんが、すでに主イエスの語る言葉を聞いたのか、あるいはどこかで癒やされた人なのかもしれません。その女の人が今日の箇所に登場してきます。

 主イエスはこの時、パリサイ人の家に招待されておりました。この人の名前は後で「シモン」という名であったことが記されています。シモンがどういう思いで主イエスを招いたのか、その理由もここにははっきり書かれていませんが、主イエスのことを知りたいと思ったから、主イエスを招いたのでしょう。ところが、そこに、この罪深い女がどこからともなく現れて、主イエスの足元で涙を流し始めたのです。 (続きを読む…)

2023 年 7 月 2 日

・説教 ルカの福音書7章24-35節「神の国に生きる偉大な者として」

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2023.7.2

鴨下直樹

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 今日の聖書の箇所は、バプテスマのヨハネの質問の続きの部分です。ヨハネは主イエスが、聖書に約束された「救い主」なのかを確認したいと願っていました。この時の主イエスのお答えから、ヨハネ自身も主イエスにつまずいていた可能性が考えられます。そこで、主イエスは、ご自身のことをお語りになり、主イエスがこの世にあって何をなそうとしておられるのかは、その行いを見れば分かるでしょうとお答えになられました。すると、ヨハネの弟子たちは帰って行きました。

 今日の箇所はその後の出来事です。今日の箇所は主イエスがずっとおひとりで語り続けておられる部分です。主イエスはここで何を話しておられるのでしょうか?

 聖書の学び会で、私がいつも最初にする質問は「ここには何が書かれていますか?」という質問です。その質問をしますと、皆さん、もう一度聖書を落ち着いて読み始めます。そして、できるだけ短い言葉で、何が書かれているかを言い表そうとします。聖書を読む時には、そのように読んでいくことが大切です。まず、文脈を読み取るのです。そうすると、前に何が書かれていたのかを、もう一度考えてみる必要がある時があります。場合によっては、この後の文章に何が書かれているかにまで目を向ける必要が出て来ることもあります。いずれにしても「ここに何が書かれているか?」をしっかりと把握することで、そこに書かれている「主題」「テーマ」を見つけ出すことができます。

 ここには、「主イエスから見たバプテスマのヨハネの評価」が書かれていると言えるでしょう。そして、それと同時に人々の評価も語られていることに気が付きます。

 当時の多くの人々は荒野で悔い改めを語るバプテスマのヨハネの噂を耳にして、荒野にヨハネを見に出かけました。ところが、ヨハネの語ることを受け入れた人々もいたのですが、受け入れなかった人たちも多かったのです。

 30節でこう言っています。

ところが、パリサイ人たちや律法の専門家たちは、彼からバプテスマを受けず、自分たちに対する神のみこころを拒みました。

 当時のイスラエルの宗教指導者たちは、ヨハネの語る言葉を聞いたのですが、受け入れなかったのです。受け入れなかったということは「神のみこころを拒んだ」ということなのだと、ここで主イエスは言っています。

 つまり、どういうことかというと、当時の人々は、ヨハネが語っている悔い改めは、神のみこころと違うことをしていると思っていたということです。

 ヨハネも異なる救い主像を持っていたのだとすれば、群衆が異なる救い主像を持っていてもおかしくはないでしょう。そして、それは、聖書に慣れ親しんでいるはずのパリサイ派の人々や、律法学者たちにまで及んでいたというのです。今日でいえば、教会の牧師たちも、聖書がちゃんと理解できていませんでしたということになるわけです。それほどのズレがあったというのです。

 「救い主」というのは、煌びやかな服を身に纏い、立派な身なりをしていると思っていたのでしょう。まるで、白馬にまたがるダビデのごとき王さまを期待していたのかもしれません。想像していた預言者のイメージは、荒野で粗布を着て、まるで家を失って着るものも持ち合わせていないような、ひどい風体のヨハネのような人物ではなくて、エリヤやエリシャや、あるいはイザヤやエレミヤのような人の姿だったのかもしれません。けれども、荒野にいたのは、イメージとは程遠いワイルドな風貌のバプテスマのヨハネだったのです。

 人々が抱いたのは「これじゃない感」です。聖書のことが分かっている人、というか、分かっていると思っている人ほど、この「これじゃない感」は大きかったのです。人々は頭の中で、素敵な救い主像を思い描いていましたから、おそらく、バプテスマのヨハネを目にしたら、実際多くの人がそう思ったのでしょう。 (続きを読む…)

2023 年 6 月 25 日

・説教 ルカの福音書7章18-23節「あなたは救い主ですか?」

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2023.6.25

鴨下直樹

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 信仰者にとって絶えず繰り返される問いがあると思います。それは、聖書に出てくるイエスが、本当に私を救ってくださるお方なのか? という問いです。この問いは、私たちが教会に集う度に、ことあるごとに何度も何度も繰り返される問いなのだと思います。

「本当にあなたを信じていていいんですか?」
「あなたは私の救い主で間違いありませんか?」

 このような問いかけは、私たちの信仰の歩みの中で繰り返し起こってくることがあります。

 自分の願っているように事柄が進まない時、あるいは度重なる不幸に見舞われる時、私たちはこのような疑問が心の中に浮かび上がって来るのです。

 そして、今、この問いの前に苦しんでいるのは、他の誰でもないバプテスマのヨハネなのです。

 この問いは、私たちだけの問いではないのです。聖書には、福音書の中には、主イエスが来られた時に、この問いは何度も主イエスに向けて投げかけられているのです。

 今、バプテスマのヨハネは捕えられて牢の中にいます。

 少し想像していただきたいのです。ヨハネはそれこそ命懸けで、人々に悔い改めを語り続けました。そして、「やがて救い主がおいでになる」と告げてきたのです。このヨハネがキリストだと思っていた主イエスの働きはヨハネとはまるで違う働き方をしていました。ヨハネは、人々を避けて人里離れた荒野に住み、獣の毛衣を着て、野蜜を食べ、聖くあろうとしたのです。ところが、主イエスはヨハネとは対照的で、どんどん人の中に入って行き、罪人たちと交わり、食事をし、お酒を飲みます。こうして、「大食いの大酒飲み、収税人や罪人の仲間だ」と言われるようになるのです。こうして、主イエスは人々から注目を集めます。ヨハネも主イエスも、目覚ましい働きをするのですが、形は全く異なっているのです。そんな違いが、ヨハネの中にひょっとしてイエスはキリストではないのかもしれないと考えるに十分な理由となったのではないでしょうか。

 この福音書を書いたルカは、バプテスマのヨハネの誕生の物語から書き始め、ヨハネに対して非常に丁寧な記述をしてきました。そこではマリアがヨハネの母エリサベツのもとを訪ねたことが記されていて、ヨハネと主イエスが遠い親戚であったことまで明らかにされています。ヨハネの方が年長ですから、そういう意味では主イエスのことを気にかけていたということはあったと思うのです。

 そのヨハネは、今牢獄にあって自らの死を見つめています。まもなく自分の働きが終わろうとしていることを感じ取ったのかもしれません。そんな中で、その後のことが気にならないはずはないのです。しかも、バプテスマのヨハネが願っているのは来るべき旧約聖書で神が約束された救い主・キリストを待ち望んでいるのです。期待しないわけにはいかないのです。

 「救い主」は世を救うために来られるお方、それはイスラエルをもう一度神の民として歩ませるお方であるはずなのです。

 「おかしいではないか!」そんな疑問がヨハネの中に生まれてきたとしても不思議ではなかったのではないでしょうか。救い主であるならば自分のように歩むべきではないのか、そう考えたのではないでしょうか。ヨハネの中に、主イエスのしていることは不可解なこととしか理解できなかったのかもしれません。 (続きを読む…)

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