2025 年 8 月 10 日

・説教 マルコの福音書6章53-56節「ゲネサレでのいやし」

Filed under: 内山光生師,礼拝説教 — susumu @ 07:14

2025.08.10

内山光生

村でも町でも里でも、イエスが入って行かれると、人々は病人たちを広場に寝かせ、せめて、衣の房にでもさわらせてやってくださいと懇願した。そして、さわった人たちはみな癒やされた。  

マルコ6章56節

序論

 イエス・キリストが人々の前で宣教活動を開始した時、主イエスは二つの事をしました。一つは、福音を伝えることです。もう一つが、病人を癒したり、悪霊で苦しんでいる人々を悪霊から解放する事でした。つまり、主イエスは単なる知識を教えるのではなく、苦しんでいる人々の身体の問題や心の問題に対しても光を与えようとしたのです。

 また、イエス様はお一人で宣教活動をするのではなく、早い段階で弟子たちを選んで、弟子たちを引き連れて宣教活動をする方法をとりました。自分一人だけで福音を伝えるのではなく、福音を信じたその人を用いて、更に多くの人々に福音が伝えられていくことを願ったのです。

 もちろん、最初の頃はイエス様が中心となってみことばを語り、そして、癒しのみわざをなしてきました。けれども、ある段階になると、弟子たちを二人一組にして、多くの町や村に遣わしたのです。

 宣教活動を任せられた弟子たちは、あらかじめイエス様から権威を授けられました。それで、彼らもまた、力強くみことばを語ったり、癒しのみわざを行なうことができたのでした。すでにイエス様の力を体験していた弟子たちです。ところが、彼らはイエス様がどういうお方なのかを本当の意味では悟っていなかったのでした。弟子たちは色々な失敗を通してイエス様のことを深く知るようになっていくのです。

 このことから、人というのはイエス様が本当にどういうお方なのかを悟るためには、様々な経験が必要だということが分かってきます。単なる知識だけでは、イエス様がどれほど偉大なお方なのかについて知ることができないのです。また、弟子たちのように、たとえイエス様から権威が与えられたとしても、必ずしもイエス様の事を十分に知っているとは限らないのです。

 イエス様の弟子たちの信仰は、まだまだ未熟な状態でした。しかし、もっと不信仰な人々が存在しました。それは今日の箇所より少し前の箇所に記されています。たとえば、イエス様とその一行がゲラサ人の地に到着した時、悪霊で苦しんでいる人がいました。そこで、イエス様はその人から悪霊を追い出したのです。それで、その人は正気に戻り、イエス様によって苦しみから解放されたと受け止めたのです。本人は、イエス様に感謝をささげていました。ところが、ゲラサ人の地に住んでいた人々は、イエス様のことを警戒したのです。そして、イエス様に対して「出ていってください」と言ったのでした。その結果、ゲラサ人の地の人々は、イエス様の福音に触れる機会を失ったのでした。

 また、イエス様の故郷ナザレの町においても、その町の人々は「イエス様がすばらしいお方だ」といううわさを聞いていたにもかかわらず、イエス様を受け入れようとしませんでした。人々の心がかたくなになっていて、イエス様に心を開かなかったのでした。それで、不本意ながらも、イエス様はナザレの町では、大きなみわざを行なうことができなかったのでした。

 このように、イエス様が福音を伝えたとしても、すべての町や村がイエス様を歓迎した訳ではなかったのでした。一方、今日の箇所において、ゲネサレの地に住んでいる人々は、イエス様を歓迎し、また、イエス様の良い噂を広めていったことが記されています。この地の人々は、素直な心でイエス様の語る福音を受け入れ、更には、イエス様には癒す力があるという事を喜んで受け入れたのです。 (続きを読む…)

2025 年 7 月 20 日

・説教 マルコの福音書6章45-52節「主イエスに気づけなかった弟子たち」

Filed under: 内山光生師,礼拝説教 — susumu @ 07:05

2025.07.20

内山光生

みなイエスを見ておびえてしまったのである。そこで、イエスはすぐに彼らに話しかけ、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われた。  

マルコの福音書6章50節

序論

 一般的に言うと、職場における上司や経営側に立っている人の視点から見れば、物事をすぐに吸収する人、仕事を覚えるのが早い人の方が好まれる傾向があるでしょう。また、学校においても、勉強ができると先生や親から褒めてもらえる、そういう現実があるかもしれません。

 少し前までは、古本屋に行くと「効率のいい仕事の仕方」とか「勉強ができるようになるための秘訣」といった種類の本がたくさん並べられていて、私自身もそのような本を手に取って、参考にしていました。けれども、今の時代では、インターネットのユーチューブを見ると、分かりやすく、また、すぐに効果がでるような仕事の仕方や勉強方法が無数にあふれています。ただ、あまりにも情報量が多いので、どれが自分にあっているのかが分からなくなり、無駄な時間を過ごすことになる事もあるようです。また、事実と異なっていたり、いいかげんな情報も含まれていますので、それらを判別するためには、ある程度の経験が必要となります。

 多くの人々は、なるべく早く物事を吸収したいと願っていて、そして、そういう事がうまくできるのが良いことなんだ、そういう価値観の影響を受けているのです。それゆえ、そのような基準で考えると、確かに、職場などにおいても、言われたことを素直にすばやく吸収していく人が良い評価を受けやすい、そういう現実があるのです。

 ところが、私たちの信仰について考えるとき、必ずしも、この世の基準が当てはまるとは限らないのです。誤解を恐れずに言うと、聖書を効率よく読んでいき、そこに書かれていることを吸収するのが早ければ、それがいいことなんだ、とは言えないのです。というのも、ゆっくりかもしれないですが、聖書の教えを着実に実生活につなげていく、そういうタイプの人もおられますし、年齢によってはみことばを吸収する速度が早い時期とそうでない時期があるからです。

 また、人間というのは、そう簡単に自分の中にある罪深い言動が変わっていく訳ではないのです。自分では良くないことだと分かっていても、ついつい、家族に対して、冷たい言葉が出てきてしまったり、相手が不快に感じる言動をしてしまう、誰もがそういう弱さを持っているのです。いや、家族だからこそ、自分の弱さが出てしまうのでしょう。

 実は旧約時代の信仰の父と呼ばれているアブラハムでさえも、神様に出会った最初の頃は決して、立派な信仰者とは言えなかったのです。アブラハムが何度も何度も同じ過ちを犯した事が聖書に記録されているのです。例えば、外国の地において、自分たちの命の危険が迫ってくると、自分の妻のことを「あれは妹です。」とごまかしたのでした。しかも、同じような事を2回繰り返したのでした。ところが、神様は、そのようなアブラハムが年老いた頃には、立派な信仰者へと成長させてくださったのです。

 同じように、イエス様の弟子たちも、何度も何度も、失敗を繰り返したのです。更には、イエス様が捕らえられた時に、皆、一斉にイエス様の元から逃げ出したのです。けれども、イエス様はそんな弟子たちに怒りをぶつけたり文句を言ったりしませんでした。むしろ、彼らが立ち直る事ができるよう祈ってくださったのです。それらの事実を通して、私たちは、神様のふところの大きさに気づかされるのです。

 この世の基準では優等生タイプの人が評価されやすい傾向があります。けれども、神は、霊的な成長が遅い人であっても、決して見捨てないお方なのです。また、たとえ失敗を繰り返す人であっても、何度も何度も赦して下さるお方なのです。 (続きを読む…)

2025 年 7 月 13 日

・説教 マルコの福音書6章30-44節「五つのパンと二匹の魚」

Filed under: 内山光生師,礼拝説教 — susumu @ 08:53

2025.07.13

内山光生

イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げて神をほめたたえ、パンを裂き、そして人々に配るように弟子たちにお与えになった。また、二匹の魚も皆に分けられた。

マルコ6章41節

序論

 今日の箇所は、イエス様の行なった奇跡の中でも割と有名なものです。しばしば「五つのパンと二匹の魚」と呼ばれています。そして、この出来事は、マルコの福音書を含め4つの福音書すなわちマタイとルカとヨハネにも同じ内容が記されています。しかしながら、それぞれの福音書記者が強調している部分が少しずつ異なっているのです。

 ですから、私たちは「あ、この話は聞いたことがある。」と早急に判断するのではなく、今読んでいるマルコでは、この出来事から何を伝えようとしているのかを読み取っていくことが大切なのです。

 最初に結論をお伝えします。マルコによると、5千人の男たちに食事を与えるという奇跡が行なわれる前に、弟子たちを休ませようとしています。つまり、イエス様は人間の肉体の弱さを知っておられ、必要に応じて休息を取ることの大切さを示そうとしています。その流れの中で、大いなる奇跡が行なわれているのです。

 イエス様がこの奇跡を行なった目的は、イエス様は人々にみことばを語るだけでなく、人々の肉的欲求、この場合は、お腹が空いている状態をよく理解して下さるお方だということが示されています。そして、イエス様は人間の肉的欲求の一つである腹ペコになっているお腹を十分に満たして下さるお方なんだということが示されているのです。一言で言うとイエス様は私たちの身体に対して配慮してくださるお方なんだという事が示されているのです。

 順番に見ていきましょう。

I 休息するよう促した主イエス(30~31節)

 30節と31節を見ていきます。

 イエス様の使徒たち、すなわち、弟子たちは、二人一組となって伝道旅行に遣わされていました。この旅行は、彼らにとっては自分たちだけで行なった初めての伝道活動であって、かなりの緊張感や不安な気持ちがあったと思われます。また、色々な町や村を渡り歩いたために、肉体的な疲れを覚えていたと推測することができます。

 伝道活動を終え、彼らは、イエス様にどのような事が起こったのかを詳しく伝えたのでした。イエス様は使徒たちから一通りの報告を聞くと、すぐに「寂しいところへ行って、しばらく休みなさい。」と命じられたのです。自分たちの周りに多くの人々が出入りしていたので、あまりにも忙しくて食事をとる時間さえなかったからでした。

 私たちが伝道活動をする際に、これ程にまで忙しかったならば、かえってうれしい気持ちとなるかもしれません。そして、多少の無理をしてでも人々の要求に応えていきたいという思いが出てくるかもしれません。人々が救いを求めて集まってくることは、神様にとっても私たちにとってもうれしい事だからです。

 しかしながら、それでも休息を取る時間を削っていくならば、長い期間、活動を続けることができなくなります。それゆえ、イエス様は使徒たちに対して「しばらく休みなさい」と命じられたのです。使徒たちによる伝道活動は1回限りの事ではありません。この後、何度も何度も繰り返されていくのです。また、イエス様が天に昇られた後も、生涯、続けられていくのです。ですから、イエス様は、奉仕をする時と休む時の区別をしっかりするようにと促しているのです。

 教会において、伝道活動をする時も同じような事が言えるでしょう。つまり、自分たちの肉体的な疲れをきちんと回復させることも大切であって、その部分を軽く扱うと、結局は、長続きしない可能性が高くなるのです。

 イエス様は、私たちの肉的な弱さをよくご存知のお方なのです。ですから、私たちに対して「肉体の限界まで奉仕しなさい」とは言われないのです。むしろ、「休みなさい」と言って下さるお方なのです。その事を教会全体で共有していくことが、結局は、私たちが喜んで神様に仕えていくための秘訣となっていくのです。 (続きを読む…)

2025 年 6 月 15 日

・説教 マルコの福音書6章14-29節「悲しみを通して教えられる事」

Filed under: 内山光生師,礼拝説教 — susumu @ 08:20

2025.06.15

内山光生

主の聖徒たちの死はの目に尊い。  詩篇119篇15節

序論

 今日は父の日です。普段、ご家庭において父親の存在がどれ程、感謝に値することなのかを考えることが少ないかもしれませんが、年に一度の父の日は、しっかりとお父さん方に感謝の言葉をかけて頂けると良いかと思います。

 さて、今日の箇所には「バプテスマのヨハネが殺害された事」について記されています。バプテスマのヨハネは、旧約時代の最後の預言者と呼ばれています。そして、イエス・キリストが人々の前で福音宣教の働きをする少し前に、イエス様の道備えをした預言者です。人々からも尊敬されていて、力強く神様の教えを人々に伝えた立派な預言者だったのです。ところが、ヨハネは悲しい最期を遂げたのでした。

 人は誰かが死んだという知らせを聞くと、悲しい気持ちとなります。私たちは、人の死に対して悲しみや辛い気持ちになってしまうのです。それが、たとえ昔の時代の人の話であったとしても、やはり、悲しい気持ちが出てくるのです。

 聖書を読む多くの人々は、バプテスマのヨハネが殺されたという箇所を読む時、悲しい気持ちや複雑な感情を抱きます。そして、「神様、なぜこんな酷い殺され方をしたのですか。その理由を教えてください。」との気持ちが出てくるのです。ヨハネだけではありません。旧約時代の預言者たちも、同じように、神様に仕えていたにも関わらず迫害に遭い、殉教の死を遂げた人々が存在します。また、新約時代においても、十二使徒の中で一人を除いて、他の11人すべてが殉教の死を遂げたと言われています。直接、聖書の中には書かれていませんが、他の文献によって、そのように伝えられているのです。その事実を知る時、多くのクリスチャンは心が痛む、そういう思いにさせられるのです。

 神様に仕える者が殉教の死を遂げる、この事実に対して、ある人々は「それをどのように受け止めていいか分からない」と考え、キリスト教に失望したと発言する人々がおられます。そんな神様なら信じない方がましだ、と言い張るのです。私は、彼らの気持ちは半分は理解できるのですが、しかし、もっと聖書をきちんと読んでから、そして、イエス様の伝えた福音をしっかり学んだ上で判断してほしいと思うのです。

 今日の説教題は「悲しみを通して教えられる事」です。私たちは悲しい出来事が起こると、一時的に苦しい状況に立たされ、そのただ中にある時は、すぐには神様に対して希望を見出すことができないことがあるかもしれません。しかし、時間がかかったとしても最終的に「すべてのことを益として下さる神」に賛美をささげる者となるよう神様が導いて下さるのです。そのことに目を向けていきたいと思います。 (続きを読む…)

2025 年 6 月 8 日

・説教 マルコの福音書6章6-13節「十二弟子の派遣」

Filed under: 内山光生師,礼拝説教 — susumu @ 11:29

2025.06.06
聖霊降臨祭・ペンテコステ

内山光生

また、十二人を呼び、二人ずつ遣わし始めて、彼らに汚れた霊を制する権威をお授けになった。  マルコ6章7節

序論

 今日はペンテコステの日です。イエス・キリストは弟子たちに対して、ご自身が天に昇った後で「助け主」が来られると予告していました。そして、その予告通り、弟子たちが一つの場所で祈っている時に、助け主、すなわち聖霊が下ったのでした。この聖霊が下ったことを記念してキリスト教の世界ではペンテコステの日が定められているのです。

 聖霊が弟子たちに下った後、弟子たちは聖霊の力を受け、大胆に福音を伝えるようになりました。少し前までの弟子たちは、イエス様が逮捕された時に、イエス様の元から逃げ去るような弱々しい姿が描かれていました。しかし、聖霊が下った後では、まるで別人のようになって、人々からの非難や悪口があったとしても、また、逮捕され牢屋に入れられたとしても、それでもイエス様の福音を語ることをやめないほどに変わっていったのでした。

 この聖霊の力は、今も、私たちに注がれ続けていて、まだイエス様を信じていない人々が救われるよう世界中で福音が宣べ伝えられているのです。

 さて、今日の箇所は、弟子たちによる福音伝道の旅についてです。この時点では、イエス様の弟子たちは、まだ聖霊の力を受けていませんでしたが、しかし、イエス様から特別な権威を授けてもらうことによって、力強く福音宣教を繰り広げていく、そういう場面です。

I 十二弟子の派遣(6~7節)

 まず6~7節を見ていきたいと思います。

 前回の場面では、イエス様が故郷ナザレの人々に受け入れてもらえなかったという事、そのため大胆に福音を伝えたり、奇跡を行うことができなかったことが記されていました。故郷の人々がイエス様に心を開かなかった事は、イエス様にとって驚きとなりました。しかし、イエス様は頭を切り替えて別の村々に行き、福音を伝えたのです。

 そして、いよいよ新しい段階へと移っていくのでした。今までは、イエス様が中心となって福音を伝えつつ、癒しのみわざをなしてきました。しかし、イエス様一人だけではわずかな町や村にしか伝道活動をすることができません。それで、もっと多くの町や村で福音を伝えるために、ご自身の弟子たちを遣わすことにしたのです。

 イエス様の弟子たちは、すでにイエス様がどのような福音を伝えていたかを学び取っていました。イエス様が言われた内容をすらすら言えるほどに、何度も聞いてきた事でしょう。更には、イエス様が汚れた霊を制している場面を何度も何度も見てきた事でしょう。イエス様は、これらの権威を十二弟子たちにお授けになったのです。

II 持ち物の制限(8~9節)

 続いて8~9節に進みます。

 これから始まる伝道旅行は、特別な意味が込められていました。それは一言で言うと「イエス様に信頼しているかどうかが問われる旅」と言えるでしょう。

 イエス様は弟子たちを遣わす際に、持ち物を制限するよう命じられました。杖1本は持っていっても良いとされましたが、それ以外の旅に必要と思われる「パンや袋や小銭」さえも持って行かないようと、命じられたのです。ただし、履き物や下着1枚は許可されたのでした。 (続きを読む…)

2025 年 5 月 18 日

・説教 マルコの福音書6章1-6節「郷里の人々のつまずき」

Filed under: 内山光生師,礼拝説教 — susumu @ 06:51

2025.05.18

内山光生

イエスは彼らに言われた。「預言者が敬われないのは、自分の郷里、親族、家族の間だけです。」  マルコの福音書6章4節

序論

 今日の説教題は「郷里の人々のつまずき」です。聖書の中には「つまずき」という言葉が出てきますが、聖書を初めて読む人にとっては、どういう意味なのかが分かりづらいとの意見があるという事を知り、私はそのことについて何年がかりかで思い巡らしていました。けれども、辞書などを調べたりする訳でもなく、ただ時が過ぎ去っていきました。

 それで、今回、説教の準備をする際に、つまずきについて辞書で調べてみました。分かった事を整理すると、一般的な意味でのつまずきは二つに分類できると。一つは「文字通りのつまずき」で、歩いている時に石につまずいたといった感じで用いられます。もう一つは「比喩的な表現としてのつまずき」です。この場合、「人生につまずいた」といった感じで用いられます。そしてその意味は「人生に行き詰った」ということを指しています。ですから、比喩的な意味としてのつまずきの場合、別の言い方を付け加えることによって自分の言わんとしていることがきちんと伝わりやすいと解説されていました。

 しばしばクリスチャンの間で「誰かにつまずいた」と言った用いられ方をすることがあります。しかし、厳密に言うと、このような用い方は一般的な日本語としてはあまり使われていない表現です。クリスチャン独特の表現だと言えるかもしれません。ただ、言葉というのは時代によって変化するものなので、一概に「それは本来の用いられ方と違う」と指摘するのもナンセンスなのかもしれません。けれども、私自身、聖書で用いられている「つまずき」がどういう意味なのかをきちんと整理しておきたいという思いが出てきましたので、早速、聖書の色々な箇所を調べたり、ギリシア語や英語の聖書を調べてみました。

 分かった事は、日本語の聖書は一緒くたに「つまずき」と訳されているけれども、英語の場合は、文脈によって表現が変えられているということでした。具体的な事については、後で説明しますが、一つ言えることは、日本語の聖書で「つまずき」と訳されている聖書箇所については、英語の聖書で読んだ方が理解しやすいのではないか、ということです。

 聖書の中での「つまずき」という言葉は、大きく二つに分けることができます。一つは、今回の箇所のように「イエス様に対して人々がつまずいた場合」です。もう一つが、「誰かが誰かをつまずかせる場合」です。この二つは日本語では同じ「つまずき」と訳されていますが、しかし、先ほどお伝えしたように英語の聖書では、その文脈を踏まえた適切な訳となっています。

 今回の箇所について、どう訳せば分かりやすいかと言うと、「イエスにつまずいた」ではなく、「イエスを拒絶した」あるいは「イエスを疑った」とすればいいのです。それを踏まえると、今回の説教題は、「郷里の人々のつまずき」ではなく「イエスを拒絶した郷里の人々」と置き換えることができるのです。 (続きを読む…)

2025 年 5 月 11 日

・説教 マルコの福音書5章21-24,35-43節「タリタ・クム」

Filed under: 内山光生師,礼拝説教 — susumu @ 09:28

2025.05.11
(母の日)

内山光生

そして、子どもの手を取って言われた。「タリタ、クム。」訳すと、「少女よ、あなたに言う。起きなさい」という意味である。すると、少女はすぐに起き上がり、歩き始めた。彼女は十二歳であった。それを見るや、人々は口もきけないほどに驚いた。  マルコ5章41~42節

序論

 今日は母の日です。母の日について改めて調べた所、どうやら母の日というのは国によって日にちや祝う方法が様々だということが分かりました。日本における母の日というのは、アメリカの習慣を取り入れたことによって一般の人々に広まっていったと記録されています。日本に母の日が取り入れられた当時は、アメリカではカーネーションを贈る習慣がありましたので、それが日本でもそのまま受け入れられていったのです。ですから、今の時代においても母の日となるとホームセンターや花屋さん、そして、スーパーなどにおいてカーネーションが並べられているのを見ることができるのです。

 ところで最近、私はインターネットの情報というのは、必ずしも正しくないということを色々な経験から学んでいましたので、念のため、アメリカにおいてカーネーションを贈るということが今でも普通の事なのかどうかを確認したくなりましたそれで今年の3月頃でしょうか。私はアメリカ人で元宣教師をされていた方に「アメリカでも母の日はカーネーションをプレゼントするのですか。」と聞いてみました。すると、その方からは、少なくともその方が住んでいる地域では、「その人が好きな花をプレゼントする」と返ってきました。どうやら、あちらの方では、色々な考え方を受け入れるという土壌があるようで、皆が同じものをプレゼントされるというのは肌に合わないと考える人が多いというのです。

 これはアメリカに住んでいる人の考え方によるもので、日本全体の考え方とは異なっています。しかし、どちらが正解ということではありません。ただ言えることは、日本においても母の日のプレゼントの内容について様々な方法が出てきている、ということは確かなことだと言えるでしょう。

 さて、今日の聖書箇所は二つの箇所を選びました。その理由は、いきなり35節以降の話から始めても、前回聞いてなかった人や、忘れてしまっている人にとっては唐突に感じてしまうかもしれない。だから、もう一度21~24節に書かれている会堂司ヤイロがイエス様にお願いをした場面を確認した方が良いと考えたからです。

I ヤイロの信仰(21~24節)

 ではさっそく21~24節から見ていきたいと思います。

 会堂司というと、以前の訳では会堂管理人と訳されていましたが、会堂管理人と表現すると、まるで会堂の修繕や掃除をする人のようなイメージが出てきて、権威ある立場だということが分かりづらいと指摘されていました。そこで、新しい訳では会堂司となったのです。会堂司は、ユダヤ人の会堂において、安息日ごとの礼拝に関する責任者です。ですから、会堂司が礼拝で聖書朗読をしたり、聖書の解き明かしをすることがありましたし、会堂司の一存で、誰に聖書の解き明かしをしてもらうかを決めることができたのです。

 それゆえ、会堂司ヤイロは、町に住んでいるユダヤ人の間では、尊敬される立場だったのです。そんなヤイロが、自分の立場に関係なく、イエス様にひれ伏してお願いするのです。「娘が死にかけています。どうかおいでになって、娘の上に手を置いてやってください。」と。

 ヤイロはイエス様が病気を癒すことがおできになるといううわさを聞いていて、それで、今まさに娘には癒しが必要だと考え、必死になってイエス様にすがりついたのです。ここにヤイロの信仰が現されているのです。そして、イエス様は彼の願いを聞き入れ、娘のところに向かおうとされたのです。 (続きを読む…)

2025 年 4 月 20 日

・説教 マタイの福音書28章1-10節「よみがえられた主イエス」

Filed under: 内山光生師,礼拝説教 — susumu @ 16:59

イースター(復活祭)
2025.04.13

内山光生

イエスは言われた。「恐れることはありません。行って、わたしの兄弟たちに、ガリラヤに行くように言いなさい。そこでわたしに会えます。」  マタイ28章10節

序論

 個人的な事ですが、先週の金曜日、すなわち受難日に突然、私自身の背中と腰のあたりに激痛が走りその苦しみによってベッドに横たわっていました。原因は、結石によるもので、石が動くときに、しばしば、寝込むほどの痛みが生じるのです。そのような結石による痛みは、たいてい2~3時間で治まるのですが、今回の場合、半日以上激痛が続いたので、その日に予定されていた受難日賛美礼拝に出席できなかった事を残念に思います。しかしながら、翌日の土曜日の朝になるとすっかりと痛みが取り除かれていて、日曜日の説教の奉仕ができそうだとの思いが与えられ、神様に感謝をささげました。

 そして、今朝は8時半からイースター朝食会が行われ、いつもと違った楽しい食事の交わりを持つことができました。また、9時45分から通常の礼拝の前に聖餐式に与ることができた事に感謝いたします。

 さてイースターというのは、「イエス・キリストがよみがえられた」という喜びの知らせを伝えるのに最も適した時です。

 とは言うものの、例えばイエス様を信じていない人々の間であっても、クリスマスを楽しく過ごすという習慣はありますが、残念ながら、イースターは、まだまだ一般の人々に浸透している行事とは言い難いと思われます。注意深く情報を集めると、確かに、どこかのテーマパークでイースターを意識したイベントが企画されていたり、ある食品業界のチェーン店が、イースターの特別メニューや期間限定商品を販売することがあるのですが、果たして、イースターがイエス様の復活の喜びをお祝いする時だと認識している人はどれ程なのかと思います。

 そういう中にあっても、私たちクリスチャンがイースターのこの時に「イエス様がよみがえれた事によって、私たちに救いがもたらされた」というその喜びを再確認する時となればと願うのです。

 というのも、先に救われた私たちが、神様に対する感謝な思いで心が満たされていく時に、間接的かもしれないけれども、まだ救われていない周りの人々に、その雰囲気や態度を通して、神様の事について考えるきっかけとなることを期待できるからです。

 この日本においては、多くの場合、まだキリスト教に関心を持っていない人に対して、強引に聖書の話をしても、かえって警戒される可能性が高いと思われます。しかしながら、ある人が聖書に興味を持ったり、イエス・キリストがどういうお方なのかを知りたいと願う、そういう思いが出てきた時に、ようやく、イエス・キリストの福音を伝えるチャンスが出てくるのです。

 人々の心が耕され整えられるためには、私たちクリスチャンの心が、「イエス様によって救われているという喜びで満たされていく事」、ここに目を向けていきたいのです。

I 主イエスの墓へ向かったマリアたち(1節)

 では1節から順番に見ていきます。

 安息日とあります。これは土曜日の事を指しています。それゆえ、「安息日が終わって週の初めの日」とは、日曜日のことになります。この日の明け方、つまり、まだ薄暗い時間帯にマリアたちが墓を見に行ったのです。

 すべての福音書において、このイースターの日の明け方にマグダラのマリアがイエス様の葬られた墓に向かったことが記録されています。他にも女性がいたのですが、しかし、マグダラのマリアが先頭に立って墓に向かった、そういう雰囲気が伝わってくるのです。マタイの福音書では、彼女たちがイエス様が葬られた墓に向かった理由が記されていませんが、他の福音書によると、イエス様をもう一度葬るために、香油を持って向かったと記されています。 (続きを読む…)

2025 年 4 月 13 日

・説教 マタイの福音書27章32-44節「ののしられた主イエス」

Filed under: 内山光生師,礼拝説教 — susumu @ 09:34

2025.04.13

内山光生

わが神 昼に私はあなたを呼びます。/しかし あなたは答えてくださいません。/夜にも私は黙っていられません。/けれども あなたは聖なる方/御座に着いておられる方 イスラエルの賛美です。(詩篇22篇2~3節)

序論

 今日から受難週となります。個人的な事ですが、毎年、この時期になると花粉症による苦しみで身体が重くなったり、集中力が低下し、祈ろうとしても賛美をしようとしても、声がかすんでしまう状態となってしまいます。「苦しいな。しかし、もうしばらく忍耐すればこの苦しみから解放される」と自分にいい聞かせながら、説教の準備をしておりました。

 もちろんイエス様の十字架の上での苦しみと自分自身の花粉症の苦しみは、比較にならない程だと言うことは分かるのですが、しかし、自分自身も多少、辛い状況になっていた方が、イエス様の受けた苦しみについて思い巡らすのに、ちょうど良いと感じています。

I 十字架を背負わされたシモン(32節)

 では32節から順番に見ていきます。

 イエス様が裁判にかけられ、十字架刑という判決を受けた後、いよいよ処刑される場所へ移動することとなりました。通常、十字架刑となった人は、十字架の横木を自分で担いで移動することとなっていました。ところが、この時点でイエス様はすでに肉体的な限界がきていたようです。横木を担いで前に進もうとしても、歩けない程、弱っていたのです。それで兵士たちが見るに見かねて、たまたま近くにいたクレネ人シモンに、イエス様が担ぐはずだった十字架の横木を背負わせたのです。マタイの福音書だけでなく他の福音書すべては、イエス様の十字架での苦しみについては直接的には表現していません。しかし、文章の背後をよく思い巡らすことによって、イエス様がどのような苦しみを味わったかについてイメージすることができるのです。

II 苦味を混ぜたぶどう酒を飲まなかった主イエス(33~34節)

 33~34節に進みます。

 イエス様は、ついに、ゴルゴタの丘に到着しました。ゴルゴタが「どくろの場所」という意味からすると、いかにも処刑する場所にぴったりの名前だと言えるでしょう。この名前を聞いただけで不気味な雰囲気がある場所だと感じてしまうのです。

 さて、イエス様が十字架につけられる前に、兵士たちは「苦みを混ぜたぶどう酒」を飲ませようとしました。これは、十字架につけられた時の痛みを和らげるもので、鎮痛剤の役割を果たすものでした。ところが、イエス様は、「苦味を混ぜたぶどう酒」をお飲みにならなかったのです。どうしてなのでしょうか。それは、十字架で受ける苦しみを味わい尽くすために、敢えて、鎮痛剤のようなものに頼ろうとしなかったと考えられます。

 もしもイエス様が「苦みを混ぜたぶどう酒」を飲んでいたのならば、悪意のある人々は「どうせ痛みをあまり感じてなかったでしょう。」と言って、イエス様がまるで苦しまなかったかのように言い張るかもしれません。しかしながら、イエス様は十字架の苦しみをすべて背負うために、敢えて、兵士たちから差し出された「ぶどう酒」を飲まなかったのでした。 (続きを読む…)

2025 年 3 月 23 日

・説教 マルコの福音書5章21-34節「長血の女性」

Filed under: 内山光生師,礼拝説教 — susumu @ 07:58

2025.03.15

内山光生

イエスは彼女に言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。苦しむことなく、健やかでいなさい。」

序論

 今日の箇所から次回の箇所にかけて、イエス様による二つの奇跡が記されています。そして、この二つの共通のテーマは、「信仰による癒し」となっています。人間の力ではどうすることもできない、そういう病にかかって苦しんでいる人が、「イエス様なら癒すことができる」という信仰によって、癒しがなされていく、そういう場面です。また、これらの奇跡は、病気の癒しだけでなく、魂の救いをもたらすことも強調しています。

 この事は、別の聖書箇所に記されている「神様が一方的に救い出して下さる」との教えと矛盾しているかのように思えるかもしれません。けれども、それは強調する部分が異なっているだけであって、私たちがイエス様を信じるようになるかどうかは、やはり、神様による導き、あるいは聖霊の働きがあるかどうかにかかっている、そういう点では、全く同じだと言えるでしょう。
 

I ヤイロの娘のところへ向かう主イエス(21~24節)

 21~24節から順番に見てきます。

 これらの箇所は、次回に詳しく取り扱いますので、簡単に説明していきたいと思います。

 ヤイロという人物が出てきています。この人は会堂司という立場にあります。ユダヤ人の会堂では安息日ごとに礼拝がささげられていましたが、その礼拝に関する責任を任されていた人です。そのヤイロという人が、イエス様の下にやってきて「死にかけている自分の小さな娘を助けてほしい」とお願いをしたのです。

 その願いに応じるために、イエス様はすぐさま、ヤイロの娘のところに向かわれたのです。ところが、その途中で、大勢の群衆がついてきたのでした。

II 長血の病で苦しんでいた女性(25~26節)

 25~26節に進みます。

 イエス様が、ヤイロの娘のところに行かれる途中で、別の出来事が起こりました。長血をわずらっている女性が出てきています。長血というのは女性特有の病であって、血が止まらなくなるという症状があるようです。これが現代医学において、どういう病なのかは専門家の目から見れば幾つかの候補を挙げることができるかもしれません。でも聖書には、具体的な病名までは記されていませんので、あくまでも「血が止まらなくなる病気」と理解しておけば良いでしょう。

 この女性は、12年という長い期間、病で苦しんでいました。その間、いろいろなお医者さんに診てもらったのですが、しかし、医者代がかかるだけであって、治ることはありませんでした。それどころか、かえって悪い状態となっていたのです。

 今の時代では、少なくとも医療が発達している国々においては、このような事はめったに起こらないのではないかと思うのです。一つの病院で原因が分からなかったとしても、別の病院に行く、あるいは、評判の良いお医者さんの下に行けば、何とか治療をしてもらえる、そういう可能性が高いからです。例外的には、いわゆる難病と呼ばれているものだとか、腫瘍が末期的な状態になっている場合は打つ手が無い場合もありますが、そうでない限りは、何とかなるのが今の医学の現状だと思うのです。

 しかしながら、イエス様の時代においては、この長血という病を治すことができるお医者さんが、ほとんどいなかった、そういう時代だったのだと思われます。この女性は、自分にできる限りの事をやりつくしたのです。多くのお医者さんに治してもらうことを期待したが、もう治療してもらうお金も無なってしまった。こうして、病気による苦しみと経済的な苦しみを味わっていたのです。更には、彼女は堂々と多くの人々の前に行くことができない、そういう立場に立たされていました。

 というのも、旧約聖書の教えによれば、「血を流している者は汚れている」とみなされていて、多くの人々の前に出ていくことが禁止されていたからです。今の時代でも、伝染病にかかった人が強制的に隔離されるように、イエス様の時代においても、血が止まらなくなっている人は、人々との距離を置かなければならなかったのです。 (続きを読む…)

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