2022 年 12 月 4 日

・説教 ルカの福音書1章26-38節「恵みの告知」

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2022.12.04

鴨下直樹

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 今日の聖書箇所は、クリスマスの物語の中でも大変有名なところです。キリスト教美術の中でも、この箇所の場面を描いたものが最も多く、「受胎告知」と呼ばれています。御使いガブリエルが、一人の少女のところを訪ねて、「あなたから主イエス・キリストが生まれる」という告知をしたのです。

 このマリアにはいいなづけがいました。いいなづけはヨセフといいます。ですが、このルカの福音書にはヨセフのことは出てきません。あくまでも、マリアのことを描こうとしているのです。

 この時代、婚約をしている相手に、妊娠が発覚してしまいますと、婚約者が訴えれば石打ちの刑にされてしまいます。物語だけを読んでいますと、これはとても美しい出来事です。ですから、描かれている絵画も、美しく描かれているものが多いのですが、実際、このことが明らかになれば、マリアは夫となるヨセフに殺されてしまうという危機にあったのです。

 そのマリアの背景を、神はよくご存じだったはずです。そんなマリアに御使いガブリエルは神の恵みの告知をします。まず、28節にこう記されています。

御使いは入って来ると、マリアに言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」

 
 最初から御使いは神の恵みを語ります。神の恵みの使いとなってガブリエルはマリアに「おめでとう」と告げました。

 みなさんは「おめでとう!」という言葉を誰かに言う時、そこにどんな意図を込められますか?

 「退院おめでとう」「合格おめでとう」「誕生日おめでとう」「ご結婚おめでとう」いろんな場面で私たちはおめでとうという言葉を使います。この「おめでとう」というのは、何か嬉しいことがあった時に使う言葉です。そして、その多くの場合、その人が願っていることが実現してよかったですねという思いが、その言葉の中にはあるのだと思います。

 この言葉を言われたマリアは、この「おめでとう」という言葉に思い当たることが何もありませんでした。だから、困惑しました。
 29節にこう記されています。 (続きを読む…)

2022 年 11 月 27 日

・説教 ルカの福音書1章5-25節「良い知らせを伝えるために」

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2022.11.27

鴨下直樹

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 今日こうしてまた皆さんと共に、礼拝をささげることができることを嬉しく思っています。先週、私は入院していたこともあって病室からオンラインで礼拝に参加しました。私にとって、オンライン礼拝に参加するというのははじめての経験でした。確かに、画面越しに説教を聞くことができますし、礼拝の様子を見ることができます。便利になったものだと思います。

 ただ、同時にやはり物足りなさを感じるのも事実です。何よりも、教会の皆さんと顔を合わせることができない、みなさんと語り合うことができないというのは、オンライン礼拝の最大の欠点です。特に、私は入院中個室にいたということもありますけれども、ほとんどこの9日間誰とも会話をすることができませんでした。もちろん、手術の後というのは喉を傷めていますので、飲み込むときにかなりの痛みがあります。ですから、積極的に会話ができる状態でもありませんでしたので、教会にいたとしてもお話しできたか分かりません。

 今もオンラインで礼拝をされておられる方が一定数います。日本中の教会でも3割ほどの人が礼拝に来なくなったという報告もあるようです。オンライン礼拝というのは、便利ですが、どうしても人との交わりという部分、あるいは教会の愛の姿を奪うものとなってしまう要因になっていることは、大きな課題と言えます。

 私自身、この入院している間、それこそ誰とも交わりをすることができませんでしたから、この9日間、強制的に沈黙の時間を得ることになりました。この期間、私は何をして過ごしていたかと言いますと、病室でテレビをみたり、インターネットをしたり、本を読んだりして過ごしていました。入院というのはそういうものなのかもしれません。ただ、今から思うと、もっと違う時間の過ごし方があったのではないかと思っています。とても、怠惰な時間を過ごしました。
 
 そんな中で、今日のみ言葉を心に留めていました。ここに記されているのは、バプテスマのヨハネ誕生の秘話と言うべき内容が記されています。どうやって、ルカがこの物語を知ったのか、そのこともとても興味があります。

 ルカは、順序だてて書いていく中で、洗礼者ヨハネの誕生の出来事の背後に、大きな神の働きがあったことを知って、そのことをこのように記録しました。それはヨハネの両親の上に働かれた神の御業を記すことです。

 バプテスマのヨハネの両親は、ザカリヤとエリサベツと言います。ザカリヤは祭司をしていてアビヤの組に属しています。これはダビデが王様だった時に祭司を24の組に分けて、一年に二回それぞれの組で担当者になった祭司が一週間神殿の祭儀の奉仕をする当番になるようになっていました。このアビヤの組だけでも当時700人の祭司がいたそうです。その中で一年に2度しかチャンスが回って来ないのです。一度に何人が当番になったか分かりませんが、その担当者を決めるためにくじ引きをして神殿での奉仕に担当者に割り振られます。神殿の奉仕担当になった人は大変名誉なことだったようで、一度くじに当たると、次からはくじのリストから除外されていたようです。ですから、祭司としてのどれほどこの働きが名誉なことだったかが分かると思います。

 そんな、まさに祭司冥利に尽きると言ってもいいような奉仕をしていた時に、ザカリヤに主の御使いガブリエルがあらわれたというのです。この時、ザカリヤに語られた御使いのメッセージは13節から17節に記されています。

 最初の知らせはこうです。13節をお読みします。

恐れることはありません、ザカリヤ。あなたの願いが聞き入れられたのです。あなたの妻エリサベツは、あなたに男の子を産みます。その名をヨハネとつけなさい。

 この時天使がザカリヤに伝えた知らせは驚くような内容でした。ザカリヤとエリサベツには子どもは無かったようです。そんな中で、二人は子どもが与えられるように祈ってきたのでしょう。この祈りは若い時にしたのかもしれません。その時の祈りが、もう諦めていたのかもしれませんが、その願いを主は聞き入れてくださったというのです。しかも、その子どもは「主の御前に大いなる者となる」と15節で語られて、続く16節と17節では「イスラエルの子らの多くを、彼らの神である主に立ち返らせます。彼はエリヤの霊と力で、主に先立って歩みます。父たちの心を子どもたちに向けさせ、不従順な者たちを義人の思いに立ち返らせて、主のために、整えられた民を用意します。」と記しています。 (続きを読む…)

2022 年 11 月 6 日

・説教 ルカの福音書1章1-4節「私たちの間で成し遂げられた事」

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2022.11.06

鴨下直樹

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 今日は信長祭りがこの岐阜市で行われています。朝はそれほどひどい渋滞ではなかったようですが、岐阜駅の近くからこの礼拝に来られた方は大変な渋滞を通って、教会にたどり着いたのではないでしょうか。今回の信長祭りは三年ぶりに行われまして、そこで行われるパレードに俳優の木村拓哉さんが出るのだそうです。かなり大きなニュースになりまして1キロのパレードの観覧者席1万5千人のところに96万人もの応募があったという話です。

 来年の1月にどうも織田信長の映画があるのだそうで、その宣伝も兼ねているのだとか。これまで、この織田信長をテーマにした映画や小説は沢山あります。私も歴史小説を読むのが好きなので、何冊も織田信長の小説を読みました。こういった歴史を扱う作品は、それなりに歴史的な事実関係を調べたうえで、そこに小説家の独自の解釈をしながら、信長像を作り出していきます。この解釈に基づいて作家たちはさまざまなエピソードを創作しながら物語の違いを生み出してきます。そういった意味では、今度の織田信長の映画もどんな物語になるのか、とても楽しみです。

 さて、何で信長祭りの話を冒頭にしたかといいますと、まさに今日からしばらくの間、共に聞いていきたいと思っているこのルカの福音書の特徴も、このことと関係があるからです。ここに記されているのは、主イエスが言ったこと、行ったことの記録です。「歴史」というのは、実際に起こった事柄ですが、それは書き残された記録によって知ることができます。この歴史の記録というのは、事実を記録していくのですが、その内容にはさまざまな記録があります。信長にはどういう部下がいたとか、兵隊が何人いたとか、石高はどうだったとか、どの地域で反乱がおこったとか、誰が武功を上げたかという記録です。あるいはそこで起こった事件なんかを発見された手紙などから読み取っていきます。

 歴史を読み解く人たちは、そのようなさまざまな記録を読み取っていくうちに、そこからおぼろげに見えて来る「信長像」というものを見出していきます。小説家たちは、その自分が掴んだ信長像に、さまざまな物語を付け加えることで、強調点を明確にし、そうであったという説得力を生みだしていくのです。歴史小説の面白さは、そのそれぞれの作家の豊かな想像力によって脚色された信長を楽しむことができるところにあります。

 そういう意味では、この聖書も神が働かれた事実を記録した歴史の証言です。特にこのルカの福音書は、歴史家と言われるようになったルカが記したものです。この記録を、現代の説教者たち、牧師たちが、この聖書を読んで解釈して伝える「イエス像」も、また「説教」も、小説家の記す小説に、似ている部分があるかもしれません。

 歴史の記録を読んで、解釈して、他の人に伝えるという意味では行う作業は非常に似ています。ただ、小説と、説教が決定的に違うことがあります。神が記録された歴史の書でもある聖書には、神からのメッセージ、使信があって、それを聞き取って、まさに神の名によって宣言することが説教です。ですから、聖書を読むという作業は、歴史書を読み説く作業も当然するのですが、そこから更に、神の言葉を聞き取るという作業が出てきます。そして、そのために牧師たちは神学校で、その方法を学び、身に付けていくのです。そうやって、ただの歴史を解釈するだけではなく、神の言葉を聞き取る訓練をしていくのです。これは、牧師だけでなく、みなさんも同じように神の言葉を聞き取る訓練をすることで聖書の中にある神の言葉を聞き取ることができるようになります。

 少し余談になりますが、祈祷会で行っている聖書の学びは、聖書をこうやって読むんですよ、神の言葉をこうやって聞くんですよということをみなさんと毎週、その訓練を積み重ねているということになります。ですから、ぜひ聖書を自分で読めるようになりたいと願われる方は、聖書の学びと祈り会に出ていただきたいと思います。

 さて、前置きが長くなってしまいましたが、このルカの福音書を記したルカという人物について、少し考えてみたいと思います。この福音書は、主イエスと出会ったことのないルカというマケドニア出身の医者が記したというところに特徴があります。

 ルカは、パウロの第二次伝道旅行の時に加わった人物で、マケドニアの出身です。ユダヤ人ではなく異邦人です。このルカはパウロの語る福音を聞いてキリスト者になった一人です。当然、主イエスに会ったことはありませんし、自分に福音を伝えてくれたパウロもまた、主イエスと共に歩んだ弟子ではありませんでした。

 しかし、このルカという人は、パウロの語る主イエスのことを聞けば聞くほど、ちゃんと調べてまとめてみたいという思いを持ったのでしょう。

 出来たばかりの教会には、はじめは主イエスの弟子たちや、復活の証人と呼ばれる人たちがいました。第一コリント人への手紙の15章3節を読みますとこう記されています。 (続きを読む…)

2022 年 3 月 20 日

・説教 ルカの福音書18章1-8節「私たちの祈りを聴く神」井上正彦師

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2022.03.20

井上正彦

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礼拝前半


 

礼拝説教から


 

 ただいまご紹介をいただきました私が津島佐織キリスト教会と北名古屋キリスト教会牧師の井上正彦です。

 私がこの芥見キリスト教会へ来始めました頃、丁度同時期ぐらいに同じ歳ぐらいの青年方が何人かすでに集っておられました。そのことを教会の方々は非常に喜んでくださいまして、当時青年だった私たちに「教会に青年が与えられるように祈っていたのですよ!」と満面の笑みで語りかけ喜んでくださいました。当時、信仰的な意味で理解ができていなかった私はその意味が十分に分からずにおりましたが、20年近く前にラジオ放送の「世の光」月間のニュースの巻頭言の原稿を依頼されて祈りつつ、その原稿を書いておりました時にふいに雷に打たれたような衝撃が走りました。

 実は私は教会へ集うようになる前から、朝早く美濃市の実家から名古屋の会社へ行く道中に毎朝ラジオ放送を聴いていました。私は毎朝、旧芥見教会会堂のある国道156号線沿いの「神は愛なり」という芥見教会の小さな電柱の看板を横目で見ていました。その看板を通過するその時間に私は「世の光」のラジオ放送を聴いていました。私は「世の光」のラジオ放送と三浦綾子の本に触れる中で、やがて私は教会へ通うことを決心して、日曜休みのある地元の工作機械の会社に転職し、芥見教会へ毎週通うようになりました。そして芥見キリスト教会は自分が毎日聴いていた「世の光」のスポンサー教会の一つであることを思い出し、私はそこに衝撃が走ったのです。私は自分の意志で教会の門を叩いたはずなのに、教会の方々の、当時見ず知らずの私たちに対するとりなしの祈りの中で、私たち当時の青年が教会に導かれて来たということを改めて感じ入ることができました。それと共に、私にとっては主なる神様にとりなしの祈りをささげることの大切さを痛感したエピソードでした。
 
 さて、本日の聖書のみことばであるルカの福音書第18章1節から8節には、一つの譬え話が出てまいります。登場人物は二人です。一人は「神を恐れず、人を人とも思わない裁判官」です。もう一人はやもめです。この二人の背景についてもう少し詳しくみる必要があると思いますので、説明しますと、この「神を恐れず、人を人とも思わない裁判官」は、どうやらユダヤ人の裁判官ではないようです。当時のユダヤの法律では、何かを裁く裁判官は3名いたようです。一人は原告側から選ばれ、もう一人は被告側から選ばれ、三人目は原告、被告とは関係のないところから裁判官が選ばれて、公正な裁定が下されていたといいます。他方、一人の裁判官が裁きを下していたということは、これはユダヤ人による裁判官ではなくおそらく当時のユダヤを支配していたローマ政府の治安裁判官であったと言えます。このような裁判官は公正な裁判をすることは少なかったようで、もし裁判を有利に進めようとすると、コネクション(縁故による人間関係)と賄賂を使うのでなければ、裁判に勝てる見込みはほとんどありませんでした。逆に言えば、裁判官にとってうまい話があれば、社会的正義や通常の道理を押し曲げることぐらいは平気でやるような人たちでありました。その一つとして、主イエスが十字架の刑にかけられるかどうかの裁定を下す際、当時ローマからの総督であったポンティオ・ピラトなどはその典型例と言えます。また、6節では、主イエス自らがこの裁判官のことを「不正な裁判官」とも断定して言われていることからも、十分にこの裁判官が問題に対して、正義や道理に照らし合わせて公正に裁判するような人ではなかったことがご理解いただけるかと思います。

 他方、もう一人の登場人物は、やもめです。聖書でやもめは貧しく弱い者のシンボル(象徴)でした。社会的地位もお金もないわけですから、先の「神を恐れず、人を人とも思わない裁判官」の所へ行って、「私を訴える人をさばいて、私を守ってください」との願いは普通ならば聞きとどけられることありえませんでした。ところがこのやもめには一つの武器と言えるものがありました。それは「しつこさ」です。先の裁判官は5節でやもめのことを「うるさくて仕方がない」「ひっきりなしにやって来て」と言っているように、このやもめは自分を守るための裁判を行うまでこの裁判官に執拗に食らいつきました。そして最後には、この裁判官は「このやもめは、うるさくて仕方がないから、彼女のために裁判をしてやることにしよう」と思うようになります。

 ですから、ここでたとえ血も涙もないような不正な裁判官であっても、執拗なやもめの嘆願に対して根負けしたからさばきをするというのです。そうしますと、今日の聖書のメッセージは、神様を不正な裁判官として見立てて、とにかくしつこく祈れば、その祈りは聴かれるということになるのでしょうか。そうではないと、今日のみことばはその後に続いて語られます。6節では、「主は言われた。『不正な裁判官が言っていることを聞きなさい。まして神は、昼も夜も神に叫びを求めている、選ばれた者たちのためにさばきを行わないで、いつまでも放っておかれることがあるでしょうか。」とあります。

 ここで、不正な裁判官とやもめのやりとりも念頭に置きつつ、それを今度は主なる神と私たちとのやりとりに置き換えて考えてみよ、と言われました。そうした時、不正な裁判官でさえ、やもめのしつような嘆願を聞きとどけるのだから、まして義と愛なる私たちの父なる神は不正な裁判官とは全く異なり、神の民の祈りを常に聞きとどけてくださり、速やかにその解決を与えてくださるというのです。つまり神様の前での私たちの祈りは決して無にはされない、ということです。私たちは日常での信仰生活において、神様が私たちの祈りを聴かれないとか、祈りが本当に聴かれているのだろうかと疑念をいだくことがあるかもしれません。しかし、やもめの執拗な嘆願を不正な裁判官は迷惑しつつも自分の日頃の行いを変えてまで行動するのだから、まして、私たちの主なる神様は私たちのことを決してお忘れにも、お見捨てにもならないと言われるのです。

 私たち福音派の教会は「デボーション」(日々聖書を読み、祈り、神と交わること)ということを入門クラスや日常の信仰生活の中で強調いたします。しかし、そこで、間違ってはならないのは、この「デボーション」を行う時に、「私にとって主なる神様、主イエス様はどのようなお方であるか」という視点です。そこを見落として、聖書を読み、祈っていくと信仰生活が私たちの行動規範の修正に終始し、信仰生活自体が自分を責めるだけのものとなり、重苦しいものとなってしまいます。そうではなくて、聖書を通して、生ける神ご自身が聖書の登場人物を通しての語りかけや手紙などを通して、どのような働きかけや関わりをしてくださり、どのようなお姿で私たちに関わってくださるのかを知る時に私たちは本当の慰めをいただけるのです。 (続きを読む…)

2021 年 12 月 19 日

・説教 ルカの福音書1章26-56節「あわれみ深い主への賛歌」

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2021.12.19

鴨下直樹

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※ 本日の礼拝は洗礼式と聖餐式を行うため、LINEライブによる礼拝配信は、洗礼式の後から聖餐式の前までの部分のみです。
配信開始時刻は10時30分より遅くなります。Zoomでは礼拝全部をリモート配信していますので、可能な方はZoomでご参加ください。


 
「クリスマスおめでとうございます!」

 私たちは、クリスマスに「クリスマスおめでとうございます」と挨拶を交わします。しかし、実のところ、クリスマスの何がめでたいのか? 何のことでおめでとうと言うのか、人にとって様々な受け止め方があるように思います。

 マリアに天使が現れ「おめでとう、恵まれた方!」とみ告げを受けた時、マリアは意味が良く分からなかったはずです。許嫁のヨセフ以外の人の子どもを身ごもっているというのが、その知らせの中身だったからです。

 普通であればこの後に待ち構えているのは、ドロドロの展開と相場は決まっています。

 宗教改革者ルターはかつて「福音は奇跡というよりむしろ驚きである」と言いました。私は、このクリスマスにこの言葉の意味を深く心にとめたいと思うのです。

 私たちは、福音と聞くと、私たちの身に奇跡が起こることを期待します。クリスマスの福音は処女が身ごもったこと。この奇跡の中に福音があると考えてしまいがちなのです。けれども、マリアにもたらされた「おめでとう」の知らせの中身は、「奇跡」というよりも、むしろ「驚きの知らせ」だったのです。

 起こりえないことが、起こる。これが、マリアに告げられた知らせでした。

 私たちプロテスタント教会は、主イエスの母、マリアについてそれほど詳しく知りません。しかし、中世以降、主イエスの母マリアには七つの喜びがあったと言われるようになりました。

 その七つとは、次の七つです。

 「告知」「訪問」「誕生」そして「公現」。このはじめの四つはクリスマスにかかわることです。

 「告知」というのは「み使いがマリアに主イエスを宿すことになると告げた」ということです。「訪問」は、「マリアがその後、エリサベツを訪問したこと」です。そして、主イエスの「誕生」の後、東の国の博士の訪問を受けます。これを「公現」と言います。

 残りの3つは、主イエスが12歳になった時に家族で「神殿を訪問」した時の喜び。そして、「復活」主イエスが十字架の死の後によみがえったこと。そして、「マリアの被昇天」が最後に数えられています。この最後のものは、カトリック特有の考え方で、マリアが死を味わうことなく天に引き上げられたという伝説にもとづくものです。

 そして、今日は、マリアの七つの喜びの中でも特にこのマリアの生涯に与えられた最初の「告知」の何が喜びだったのかということを、もう一度考えてみたいと思います。

 今日は、ルカの福音書の特に第1章46節以下の「マリアの賛歌」、「マグニフィカート」と呼ばれるマリアの歌の内容に心をとめようとしています。

 み使いの告知を受けて不安の中にあったマリアは、親類のエリサベツを訪問します。エリサベツもまた、子どもができないまま、高齢になっていたのに、子どもが与えられたのです。それも、マリアと同じようにみ使いに告知を受けた後の出来事でした。

 この訪問で、マリアはエリサベツを通して神に不可能はないことを確信します。エリサベツはマリアにこう言ったのです。45節です。

主によって語られたことは必ず実現すると信じた人は、幸いです。

 この言葉に励まされ、マリアは主をほめたたえます。それが、46節以下の「マリアの賛歌」です。

私のたましいは主をあがめ、
私の霊は私の救い主である神をほめたたえます。
この卑しいはしために
目を留めてくださったからです。
ご覧ください。今から後、どの時代の人々も
私を幸いな者と呼ぶでしょう。
力ある方が、
私に大きなことをしてくださったからです。

46節から49節の途中までをお読みしました。
 すばらしい賛美です。ここでマリアは何を言おうとしていたのでしょう。マリアの不安はどのように克服されたのでしょうか。
 それが、その後の続きのことばで語られています。

その御名は聖なるもの、
主のあわれみは、代々にわたって
主を恐れる者に及びます。

 まだ続きますが、ここでマリアは「主のあわれみ」を語っているのです。 (続きを読む…)

2021 年 1 月 3 日

・説教 ルカの福音書6章36節「憐れみ深く生きよう!」

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2021.01.03

鴨下 直樹

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「あなたがたの父があわれみ深いように、あなたがたも、あわれみ深くなりなさい。」

 今年のローズンゲンによる年間聖句は、このルカの福音書の6章36節のみ言葉です。この一年、この御言葉を心に留めて歩みたいと願っています。

 今、まさに世界に求められているのは、この御言葉に尽きるのだと思うのです。昨年、私たちは大変な一年を過ごしました。そして、その大変さは今年一年も続くだろうと考えられています。新型コロナウィルスの拡大は、この冬になってますます広がっています。もう、私たちは「未曽有の危機」とか、「緊急事態」という言葉さえも、あまり危機感を感じないほど、耳慣れしてきています。

 人と人とが顔を合わせて会話するという、この当たり前の人とのコミュニケーションが禁止されているのです。入院している家族との面会も許されていませんし、老人ホームのような施設でも家族の面会が禁止されています。

 人を愛している、大切にしているということを伝える手段が奪われてしまうような、そんな生活を、私たちはなおもし続けていなければならないのだというのです。

 そして、それは、権力を持っている誰かが、禁止しているというのでもないのです。自主的にそうするように要請されているのです。

 そんな中で、私たちはこの御言葉をこの一年の聖句として与えられているのです。

「あなたがたの父があわれみ深いように、あなたがたも、あわれみ深くなりなさい。」

 私たちが、何よりもまず、心にとめなければならないのは、私たちの父なる神は、「憐れみ深いお方である」という事実です。

 主は、この憐れみ深いというご自身の性質を、主イエスを通して、私たちに示してくださいました。

 ルカの福音書の第6章というのは、マタイの福音書で語られている山上の説教と呼ばれる内容と、似ているのですが、ルカの福音書では6章の17節で「イエスは彼らとともに山を下り、平らなところにお立ちになった。」と書かれていまして、そこでなさった説教が記されているところです。それで、「平地の説教」と一般に言われているところです。

 そこで、主イエスは弟子たちに、また主の教えを聞きたいと思って集まって来た人々に、説教をされました。特に、この部分は6章26節から36節では「愛すること」が語られています。そこで語られているのは、敵を愛することと、与えることです。

 愛するというのは、観念なのではなくて、具体的な働きとなって示されるのです。敵を赦すこと、そして、与えることが、愛することだと言っているのです。

 主イエスの敵とはいったい誰のことを指しているのでしょう。単刀直入に言えば、それは、私たちのことを指しています。

27節、「憎む者たちに善を行いなさい。」
28節、「あなたがたを呪う者たちを祝福しなさい。」
29節、「あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬も向けなさい。」
30節、「求める者には、だれにでも与えなさい。」
31節、「人からしてもらいたいと望むとおりに、人にしなさい。」

 主イエスが語る、人を愛するというのは、こういうことだと続けざまに語られています。これを、聞いていた人々はにこやかな顔のままでは、この言葉を聞くことはできなかったと思います。私たちにしてもそうでしょう。

「悪には悪で報い、愛には愛で報いる」というのが、私たちの世界の常識です。そして、それは、キリスト者であってもほとんど例外なしに、同じような感覚で生活してしまっていると思うのです。

 しかし、父なる神はそれを、私たちにしたのだというのです。そのことが、私たちに明確に示されたのは、あの、主イエスが十字架にかけられる前のゲツセマネの祈りの姿で、私たちはそのことを心に刻むことができます。敵を愛するということが、どれほど厳しいことなのかが、あの時の主イエスの姿の中に示されています。

 自分の敵のために、自分を傷つけてくる人のために、自分自身を与える、それが愛するということなのだということを、主イエスはあのゲツセマネの祈りを持って、私たちに示してくださったのです。それが、どんなに苦しいことなのか、どれほどつらいことなのか、まさに、愛するといことは、苦痛と困難を祈りによって乗り越えた先にあるものなのだというのです。

 「憐れみ深く生きよう!」という説教題をつけました。

 これが、この一年、主から私たちに託された宿題です。それは、とてつもない困難な課題です。

 そのために、祈るのです。そのために、お互い支え合っていくのです。そして、そのことができるようになるためには、あなたがたの父の憐れみ深さを知ることが何よりも重要です。

 その人のことが好きとか、嫌いとか、私たちの持つ感情に目を向ける時に、それは何に根差しているのかをよく知る必要があります。その判断を下しているのは、自分自身です。そして、そこにあるのは、自分自身の正義という判断が働いているはずです。もちろん、そこにはさまざまな苦い経験があるのかもしれません。これまでに、どれほど犠牲を払ってきたか分からないという部分があるのかもしれません。

 しかし、愛するのは、感情ではないのです。意志です。そして、その意志というのは、神のご意思なのだということです。神がそう願っておられる。そして、その神の意志は、私を愛するということのために費やされた意志でもあるのです。そして、この神の意志の背後には、神の正義があるのです。

 神が、その人を愛したいと願っておられるという、事実が、神の正義が私たちの意志を支えるのです。私も愛そうという思いを支えるのです。

 私たちの主は義なる神です。たとえ敵であったとしても、その人を義としたい、その人をよしとしたい、その神の思いがそこにはあるのです。

 私たちの父なる神は、あわれみ深いお方です。そして、そのお方は、その憐れみを、まず、何よりも私たちに示してくださいました。そして、今度は、私たちから、私たちの周りの人たちに示されることを願っておられます。

 私たちが愛を示すのはもちろん、敵のような人ばかりではありません。家族にも、友人にもそうです。教会の中でもそうです。私たちの周りには、強い人もいるでしょう。弱い人もいます。心寄せる人もいれば、苦手だと思う人もいます。主は、私たちに憐れみ深さを示すことを、その人たちを愛することを求めておられます。

 この主のご意思が、私たちを通して示される一年となることを私たちは祈り求めて生きたいのです。

 お祈りをいたします。

2020 年 12 月 24 日

・聖夜燭火礼拝説教 ルカの福音書1章26-38節「お言葉どおりこの身になりますように」

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2020.12.24

鴨下 直樹

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*1:ライブ録画から抽出した音声を掲載しています。聞きづらい点はご容赦ください。

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 今日、私たちに語り掛けられている言葉はこういう言葉です。

「おめでとう、恵まれた方。」

 スマートフォンでインターネットの記事を読んでいると、突然、「おめでとうございます。」という画面になって、よく読んでみると、「アイパッドが、あなたに当選しました。」という画面が突然現れたことがあります。そうすると、私はすぐにその画面を消して、検索をかけます。「アイパッド、当選」と検索しますと、すぐに「当選詐欺」という情報を見つけることができます。

 今から20年も前のことですが、当時はFAXでしたが、シェル石油のゼネラルマネージャーを名乗る人からのFAXでした。私と同じ苗字の、シェルのナンバー2の方が家族で事故にあってしまい、その莫大な遺産、たしか何千億円だったかという金額が書かれていました。そのお金が、もうすぐ政府に没収されてしまいます。そのため、誰かにこの遺産を引き継いでもらいたい。あなたはたまたま同じ苗字なので、あなたにその権利を差し上げたいので、銀行口座と名前、そして、暗証番号をFAXして欲しいという内容のFAXがナイジェリアから届いたことがあります。

 なぜ、暗証番号が必要なのかと思うわけです。不思議なもので、詐欺だとすぐに分かるのですが、少し夢があります。一瞬そんなにお金貰ったらどうしようかなぁなどと考える自分がいます。

 私たちはこの「おめでとう、恵まれた方」という言葉ほど、今日うさん臭い響きの言葉はないということを知っています。

 しかし、私たちはこのクリスマスに改めて、この言葉を聞きたいのです。

「おめでとう、恵まれた方。」これが、クリスマスの出来事の神からの最初のメッセージだったのです。

 今、私たちはそれぞれに、さまざまな異なる状況を抱えて生きています。誰もが、嬉しい思いで毎日生活しているわけではありません。今年、とりわけ今年のクリスマスは、世界中が闇に覆われた年のクリスマスだと言えると思うのです。

 この世界中に爆発的に広がっているウィルスのために、経済が停滞しています。外出自粛がまた叫ばれています。病院はひっ迫し、適切な医療を受けられない方々が沢山います。今、病気の人たちがいます。家族とこの年末年始も会うことができない人もいます。経済的にとても厳しい人たちも少なくありません。将来の姿が描けない中で、私たちは今、この聖書の言葉を聞こうとしているのです。

 そんな中で、何が「めでたい」と聖書は語ろうとしているのでしょう。不安しかない、押しつぶされそうな思いの中で、この聖書の言葉を聞こうとしているのです。

「おめでとう、恵まれた方。」

 何もおめでたくない。そんな言葉を聞くのもつらい、そんな中で、神はこの言葉を私たちに届けようとしているのです。

 何が、「おめでとう」なのでしょうか。クリスマスにはどんな喜びがあるというのでしょうか。

 ひょっとすると、私たちはこうして、教会に集まっては来ますが、本当のところ、クリスマスのめでたさなんていうものを、そもそも期待してここに来ているのでしょうか。

 この知らせを受けたマリアは、この時まだ十代の少女でした。

「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」
しかし、マリアはこのことばにひどく戸惑って、これはいったい何のあいさつかと考え込んだ。

 
 当時は、スマホなんてありませんから、すぐに検索するというわけにはいきませんので、そうであれば考え込むしかできません。これは、いったいどういうことなのか?

 すると御使いは、こう告げます。

「恐れることはありません、マリア。あなたは神から恵みを受けたのです。
見なさい。あなたは身ごもって、男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。」

 本人の同意もなしに、一方的に、男の子を産むだろうと言うのです。何かが当たりましたというような知らせでは済まないのです。

 マリアは婚約していました。それなのに、子どもを産むことになるという知らせは、「おめでたい」知らせではありません。はた迷惑な話です。この神からの一方的で、拒否権もない、この知らせのどこに、おめでたさがあるというのでしょう。 (続きを読む…)

2018 年 7 月 15 日

・説教 ルカの福音書 13章1―9節 「悔い改め? 反省?」

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 22:14

2018.07.15

鴨下 直樹

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 今日は第三週です。いつも第三週はファミリー礼拝と紹介していますけれども、まだ教会に来て間もない方であるかと、初めて礼拝に集った方のために分かりやすいテーマでお話しようと考えております。今回のテーマは「悔い改め?反省?」というテーマにしました。今月の役員会の時に、今回のテーマである「悔い改め?反省?」というタイトルは、教会にあまり来たことのない人から考えてみると、興味を引き起されるテーマではないのではないかという議論が起こりました。それで、私もなんとかこのタイトルを変えようと思ったのですが、すみません、そのままになりました。いろいろ考えすぎて一周して元に戻った感じです。ですが、タイトルについてここであれこれ考えるより、今日の聖書にさっそく飛び込んだ方がよいかもしれません。

 今日の聖書の箇所はかなり衝撃的な内容から始まっています。1節に、当時エルサレムで起こったある事件のことが書かれています。ローマの総督であるピラトが、「ガリラヤ人たちの血を、ガリラヤ人たちが献げるいけにえに混ぜた」というのです。ガリラヤ人というのはガリラヤ地方に住んでいるユダヤ人たちのことです。その人たちがいけにえをささげにエルサレムの神殿に来ていた時にこの事件が起こったのです。あろうことか、ローマ総督のピラトは、過越しの祭りのためにエルサレムに来ていたガリラヤの人々を殺害して、その血をほかのいけにえと一緒に神殿に注いだというのです。現代であったとしてでも、ニュースの一面を飾るようなできごとであったに違いありません。

 また、4節には、もう一つの事件のことが書かれています。エルサレムにあるシロアムの塔が何の理由かわかりませんけれども、倒れてしまいその下敷きになって18人が死んでしまったという事件があったようです。これも、新聞の一面を飾るような出来事であったに違いありません。今日の箇所はこのように、被害者となった方々は思いもよらない出来事に遭遇してしまって、その被害者になってしまったということがテーマとなっているわけです。

 先週の月曜日、隣の関市で先々週から続く大雨のために津保川が決壊したために、上之保地区の340戸の家が床上浸水しました。それで、隣の関市の改革派教会が中心になって、先週から被災された家を一軒一軒訪問しつつ、必要な物資を聞いてお届けするというボランティアをはじめました。岐阜の被害は全国からみれば小さなものですが、行ってみて分かるのは、思っていたよりも、大きな被害でした。亡くなった方は少ないのですが、上之保地区に行ってみると一階のものはすべて流されてしまって何もなくなっているという家が何軒かありました。全国で200人以上の方が亡くなるという大きな被害が各地に及んでいます。そういう出来事と、今日の聖書の箇所は深く重なり合う箇所です。

 日頃の行いの悪い人には、何かしらのアクシデントが起こる。それは、まるで天罰であるかのように考える。そういう考え方は日本独特というわけではなくて、聖書の時代にもそういう考え方があったわけです。
そんな大きな事件が起きなくても、なにげない場面でこういう考えは顔をのぞかせます。先週、私たちの教会は礼拝後にコンサートを行いました。本当に素晴らしいコンサートで選曲も良かったし、永島さんの歌声も大変すばらしいものでした。先々週は一週間長雨が続いていて、日曜日にようやく雨が止んだのですが、礼拝の前の時間に、どこからともなく、「やっぱり伝道部長の日ごろの行いがいいから、天気が守られたねぇ」という声が聞こえてきました。もちろん、冗談で言っていることは、聞いている人は誰もが分かりますけれども、自然にそういう言葉が出てくるわけです。日頃の行いがよければ、良い結果がついて来る。悪ければ、悪い結果になる。こういう考え方は不思議と私たちのなかに染み付いた考えとしてあると思います。確かに、良いことについて言えば、一所懸命努力すれば、その努力は報われるということはある程度言えると思いますけれども、まさに予想外のアクシデントに見舞われた時に、それは日ごろの行いの結果であるとか、神からの刑罰であるかのように考えることは、よく考えてみる必要があると思うわけです。そして、ここで主イエスはそのことを問いかけておられるわけです。 (続きを読む…)

2018 年 4 月 1 日

・説教 ルカの福音書24章1-12節「イースターの朝」

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 22:22

2018.04.01

鴨下 直樹

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 イースターおめでとうございます。復活の主の祝福が皆さんの上にありますよう祈ります。

 例年のように、イースターの朝、私たちはともに集まって賛美と祈りをささげ、一緒に朝食をいただきました。ようやく暖かくなってきて、外で過ごすことも楽しくなってきました。ここ数年でしょうか。スーパーのお菓子売り場に行きますと、イースターのパッケージのものを簡単に見つけることができるようになりました。少しでもイースターが多くの人の目に留まるようになることはいいことだと思います。

 イースターってなに?と少し興味をもって検索しますと、すぐに、イエス・キリストの復活をお祝いする日ということを見つけることができます。けれども、ここでちょっと考える人は、死んだ人がよみがえったの?という疑問が出てくるわけです。死んだ人が生き返るなどということは古今東西例がありません。そして、人がよみがえったという歴史的な記述もないのです。ただ、聖書の中には書かれているわけです。そして、それが、今日みなさんと読んでいる箇所です。

 特に、以前からお話していたように、今日から新改訳2017を使うことにしましたので、まだこれまでの聖書をお持ちの方は、ぜひ注意深く読み比べてくださればと思います。

 人がよみがえるというのは、どういうことなのでしょうか。このルカの福音書はこの復活の出来事の第一発見者となったのは女の弟子たちであったということを書いています。しかも、内容を読んでみるとこう書かれています。2017年訳で1節から4節まで読んでみたいと思います。

週の初めの日の明け方早く、彼女たちは準備しておいた香料を持って墓に来た。見ると、石が墓からわきに転がされていた。そこで中に入ると、主イエスのからだは見当たらなかった。そのため途方に暮れていると・・・。

 まず、そう書かれています。この短い言葉で色々なことが分かります。主イエスが亡くなったのが金曜日です。土曜日は安息日ですから、当時のユダヤ人たちは安息日に働くことができませんでしたので、埋葬の備えをすることができなかったようです。それで、週が明ける日曜の朝早くに女の弟子たちは遺体に香油を塗って埋葬の準備をするために墓を訪ねたのです。ところが、墓の石、これは日本のような墓石ではなくて、洞窟のお墓ですから、大きな丸い石で蓋をされていたのです。その石が転がされていて、行って見ると遺体がなくて、途方に暮れていたと書かれているわけです。

 そして、この何でもないような記述、主イエスの復活を告げる聖書の記述が、歴史家たちに、これは本当のことだろうと思わせるに十分な証拠となったのでした。 (続きを読む…)

2018 年 3 月 30 日

・受難日礼拝説教 ルカの福音書23章44-49節「いのちを委ねる」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 22:09

2018.03.30

鴨下 直樹

 今日は、受難日。主イエスが十字架につけられたことを覚える日です。そして、主イエスの生涯の頂点とも言えるものなのです。主イエスの人生の頂点、それは主イエスが十字架につけられて殺されるという出来事なのだということは、とても不思議です。

 主イエスが死ぬ時、全地が暗くなったということがここに記されています。日蝕がおこったのではないかとか、砂嵐のせいで暗くなったのではないかとか、色々な説明がありますが、どれも確かなものではありません。ただ、旧約聖書の中には、神のさばきの時に暗闇がおとずれることが色々な箇所で書かれています。ただ、私たちは「神のさばき」という言葉を聞くと、罰される立場で考えてしまいますから、恐怖感しか感じられません。けれども、神のさばきというのは、神の愛がみえるようになるということです。

 たとえば、親が子どもを叱るときのことを考えてくださるとよく分かると思います。怒られる子どもの立場からすれば、親が怒り出すと震え上がるほど怖いのかもしれません。けれども、それは同時に子どものことを愛している親の思いが、そこには込められているわけです。もちろん、人間の親は完全ではありませんから、嫌なことがあってつい子どもに当たってしまうというようなこともあると思います。けれども、この世を愛しておられる神は、八つ当たりのような怒りを人に示しめされることはありません。「神のさばき」というのは、ただ、ひたすらに人を愛してくださっていることがここで示されることになるのです。

 それで、45節で

太陽は光を失っていた。また、神殿の幕は真二つに裂けた。

とあります。普通に聖書を読んでいるとあまり意味が分からないのでつい読み飛ばしてしまうところですが、この言葉はとても大切な意味が秘められています。神殿というのは、一番奥に至聖所という部屋があります。その部屋を隔てているのが幕です。そして、この幕の内側には大祭司しか入ることが出来ません。 (続きを読む…)

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