2021 年 11 月 21 日

・説教 ローマ人への手紙8章14-17節「神の子どもとしての祝福」

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2021.11.21

鴨下直樹

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 今週から礼拝のプログラムの「聖書のおはなし」を再開することになりました。コロナウィルスのために短縮礼拝をしていますが、少しずつ戻していければと願っています。

 先ほどの「聖書のおはなし」いかがだったでしょうか。

 きれいな映像と共に、この世界を創造された神が、私たちのことをどれほど大切に思っていてくださるか、どれほど愛してくださっているのかが語られていました。

 私たちが当たり前に感じている今の私たちの生活の中に、どれほどの神の愛が隠されているかを気づかされる思いになります。

 最近、我が家では、朝の食事前に短い本を読んでいます。タイトルは『にゃんこバイブル』という本です。きれいな猫の挿絵が描かれていて、「猫から学ぶ聖書のことば」というサブタイトルがつけられています。

 私は猫派か犬派かというと、犬派ですが、この本は猫ならではの習性から、聖書を紐解いていきます。たとえば聖書の中に「放蕩息子」と呼ばれる物語があります。親元を離れて、財産を持って出て行った息子が、湯水のように財産を使い果たして、父のところに戻って来る話です。この本では、この放蕩息子の物語を猫にあてはめながら聖書を読んでいくのです。猫は家を出ていくと、どこで何をしているか分かりません。けがをして帰って来ることもあれば、どこかで何かご飯を貰ってきたかのような匂いをさせて戻ってくることもあります。どんなことがあっても、帰ってくることのできる家がある。そして、自分が失敗してきたことも、何も言わなくても受け入れてくれる。それが家族というものだと書かれていました。

 この聖書の物語に出てくる放蕩して帰ってきた息子と、猫とを比較することで、聖書のメッセージが更に具体的なものになる。そんな新鮮な気付きをこの本から与えられています。

 今日のテーマは「神さまの子ども」です。その、世界を創造された神様は、私たちをご自分の大事な子どものように、愛していてくださいます。猫のような、ちょっと何を考えているのかわからないようなところと、私たちの姿というのは少し結びつくのかもしれません。

 我が家には犬がいます。犬は比較的分かりやすい生き物です。犬の気持ちは、尻尾を見ているとわかります。尻尾を振っている時は大抵うれしい時です。これが、特にうれしい気持ちになると、尻尾の振りが速くなって、それも高い位置で振り始めます。反対に、本当に嫌な時というのは、尻尾が足の間に隠れてしまいます。「尻尾を巻いて逃げる」という言葉がありますが、まさにそんな風になります。

 私たちと神様との関係はどこで分かるかというと、祈りの姿に現れます。「天のお父さま」と神に向かって呼びかける時、それは神様との関係が良い時です。けれども、全然祈らない時というのは、神様と私たちとの関係が悪くなってしまっているのです。

 今日の聖書の箇所には、私たちがこの世界を創造された造り主であられる神に向かって「父よ!」と祈りたい思いを持つというのは、私たちの心に神様の霊である聖霊が働いていてくださるからなのだということが書かれているのです。

 しかも、15節の後半にこう書かれています。

私たちは「アバ、父」と叫びます。

 ただ、「お父さん」と神様に声をかけるというだけではなくて「叫ぶ」と書かれているのです。

 子どもが、父親に叫ぶ時というのはどういう時でしょうか。考えてみると、たとえば、公園かどこかに遊びに行っている時に、まわりに人がたくさんいて、声が届かない時です。「自分はここにいるよ!」「私を見て!」という叫びです。そして、その時には何か訴えがあるはずなのです。聞いてほしいメッセージがその時の子どもにはあるのです。

 神様に向かって、どうしても聞いてほしいメッセージがある、どうしても自分の方を向いてほしい。そういう思いをもって神に祈る。「お父さん」「パパ!」。それが、この「アバ、父」という言葉です。

 神様にむかって、何かを叫ぶように語り掛ける。そんな祈りをすることができるのが、神さまの子どもの特権なのだというのです。

 今日の聖書の箇所の中心的な言葉は、今日の冒頭の14節です。

神の御霊に導かれる人はみな、神の子どもです。

 神の子どもとしての特権は、私たちが祈る時に分かるのだということです。お祈りをすることができるというのは、神の子どもの特権なのです。

 今日は、子ども祝福式をお祝いする主の日です。親は子どもの祝福を願います。神の眼差しが子どもに向けられている。このことが祝福なのです。神が見ていてくださる。わが子のように、子どもが道を見失ってしまうことがあったとしても、子どもが自信を失ってしまうようなことがあったとしても、神はその子どもを見ていてくださる。そして、この神は、ご自身の子どもが神に向かって「父よ」と祈ることができるようにしてくださっているのです。 (続きを読む…)

2021 年 11 月 14 日

・説教 ローマ人への手紙6章23節「永遠のいのち」

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2021.11.14

鴨下直樹

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罪の報酬は死です。しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。

ローマ人への手紙6章23節

 今日は召天者記念礼拝です。すでに、この世での生を全うし、今主の御前にある方々のことを覚えながら、私たちはこの礼拝に招かれています。

 ヨーロッパにある古くからその地域に建てられている教会は、その会堂の地下が墓所になっているというところがいくつもあります。礼拝堂の足下に家族が眠っているのです。それも、何百年という永い年月の家族が、そこに眠っています。

 バロック建築、ゴシック建築、もっと古いものだとロマネスク様式などという何百年にも及ぶ歴史の長さを覚える礼拝堂がいたるところにあります。

 私がドイツにいたときに、各地を旅して、そういう古くからある礼拝堂を訪ねることが、旅の最大の楽しみでした。何年も、何十年も、何百年も変わらないその礼拝堂の席に腰を下ろして、ステンドグラスを眺める。十字架を眺める。古くからそこにある教会の装飾品や建築物を見ながら、その歴史を感じるというのは、本当に豊かな経験です。

 そこで大きく深呼吸をします。私の出会ったことのない昔の信仰者の息遣いを感じるのです。その町の困難な時代に生きた人々がどんな人生を送ったのか、どんな病の時代を通り抜けてきたのか、どんな戦争を経験してきたのか、どんな貧しさをその土地の人々は味わってきたのか。私がその礼拝堂の中で、肌で感じられるものはわずかなものでしかありませんが、そういう歴史を肌で感じるという対話の中から、私なりに「永遠のいのち」とは何なのかというものに少しでも触れた気になるのです。

 以前、妻と「永遠のいのち」という言葉は現代人にとって福音なのだろうかという話をしたことがあります。聖書が語る「永遠のいのち」というものに、今の人々は魅力を感じていないのではないか。そんな問いかけです。

 私たちが死を迎えた後に、聖書が語る「永遠のいのち」という世界が私たちにもたらせてくれるものに対する魅力といったらいいでしょうか、憧れといった方がいいのかもしれません、この永遠のいのちは、私たちにどんな魅力を、そして憧れを示してくれるのでしょう。この世界のいのちが、死後にもずっと続くということよりも、「今この瞬間の美しさ」「今この時」というその一瞬の経験にこそ、今を生きる人々は魅力を感じているのではないか。そんなことを妻が話してくれました。

 その妻の指摘は、ある一面の真理を示しているのだと思うのです。そこには、「今この時」というその一瞬一瞬を大切に生きたいという、現代人の今を大切にする思いがあるように思います。そして、そのことは私たちが生きていくうえでとても大切なことだと思うのです。

 聖書は「永遠のいのち」を、どのように私たちに示そうとしているのでしょうか。

 先日ある本を読んでいたら、こんなことが書かれていました。

 「グランドキャニオンを撮影した写真は数多くありますが、どのような写真も、この地形の持つ真の魅力を伝えることはできません。グランドキャニオンは自分の目で直接見なければならない光景なのです」

 私もグランドキャニオンに行ったことはありません。写真や映像で知っているだけです。それらを見て、少し分かった気になります。けれども、実際にそこに行って見たことのある人は知っています。グランドキャニオンを実際に見たときに、そこで肌で感じる風や空気、空の高さ、圧倒的な目の前に広がる景色の壮大さ、それらは写真が伝えてくれるものと全く別物なのだということを。

 私たちが分かった気になれるのは、ごく一部でしかないのです。

 「永遠のいのち」もきっとそういうものであるに違いないのです。それは観念的にイメージできるものではないのでしょう。私たちが漠然と思い描く、この日常がずっと果てしなく続くというような永遠のいのちの世界ではないはずなのです。

 神と共にある今を、私たちはこの世で経験したものから部分的にイメージできるにすぎません。しかし、今この世から去って、自由を得て神の御前に召された方々は、いま主の御前で永遠の今を経験しているのです。

 私たちの憧れとは何でしょう? 私たちが思い描く、人生の終わりには何が待っているというのでしょう。 (続きを読む…)

2021 年 11 月 7 日

・説教 ローマ人への手紙7章1-6節「新しい御霊によって」

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2021.11.07

鴨下直樹

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 今日の聖書の話は、なかなか考えさせられる話が書かれています。あるところに、夫と別れたい妻がいました。この人は、夫のために自分は苦しめられている、不自由を強いられていると感じていたのです。それで、離縁して新しい人と人生をやり直したいと考えるようになってきたのです。けれども、聖書の戒めである律法によれば、相手が生きている間は再婚することができません。それで、人知れず、夫が死んでくれたらいいなと思っている。そんな人の話を、パウロはここで話し始めたのです。

 パウロはここで、律法によれば、相手が生きている間に再婚すると、「姦淫の罪」と言われる。でも、相手が死別した場合は、自由になる。そういう話をここでし始めました。

 昼ドラのような話です。人の心の闇の部分を語っているのです。パウロがそこで語っているのは、その自由を求めている人にとっては、二つの邪魔な存在があるということです。一つは、「夫」であり、もう一つは「律法」と言うことになります。

 そんな決まり事さえなければ自由になれるというのです。けれども、別の言い方をすれば、その決まりごとがあるから、人はみだらな生活にならずに済んでいるということもあります。そして、その時の問題はというと、その自由を求めている人は、自分の欲望が、正しいと考えてしまっていることにあります。

 パウロがこの話をし始めたのはこの前の6章23節でした。

罪の報酬は死です。しかし、神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。

 先週の箇所では「罪の奴隷」になっている、欲望に従う生活というのは、死を招くのだということが語られていました。それで、その罪の欲望が死を招くということを、ここで一つのたとえ話を通して、イメージしやすいように話し始めたのです。

 今日の聖書の箇所は、私にとってとても慰められる箇所です。というのは、パウロはここであまり上手な説明ができていないからです。パウロのような人は、いつも完璧な説明と理屈があるように感じるのですが、この話はインパクトは凄いのですが、ちょっと何が言いたいかはっきりしてこないところがあります。

 それで、少し整理してみたいと思います。パウロはここで二つの生き方を描き出そうとしています。一つは、神のために実を結ぶ生き方があると言っています。そして、もう一方では死のための実を結ぶ生き方があると言っています。この二つの生き方を描こうとしているのです。

 では、その悪い方の生き方である死の実を結ぶという生き方とはどういうことなのでしょう。「死の実を結ぶ」というのは、考えてみるととても恐ろしいことです。この死の実を結ぶ生き方というのは、自分の欲望に支配された生き方ということです。けれども、自分の欲望に生きるということは、自分も殺すし、相手も殺すような生き方になってしまいます。

 パウロもかつては、この「死の実を結ぶ」生き方をしてきた人でした。その頃のパウロはというと、律法主義的な生き方をしている人の代表のような人でした。決して、自分の欲望を満足させるために生きていたわけではありませんでした。けれども、その時のパウロはというと、キリスト者を見つけ出して、殺していこうという仲間と共に働いていました。しかも、自分は正しいのだと考えていたのです。

 ここでパウロが描いて見せた再婚を求めている人の姿と、かつてのパウロの姿というのは、まるで正反対のような生き方に見えるのですが、実は本質的には同じことを考えています。その意味でも、このたとえ話がうまくかみ合っていないと感じる部分でもあります。けれども、今の夫と別れて、新しい生き方をしたいというのは、自分の考え方が正しいので、その考え方を貫くためには、他の人を殺してしまえばいいという考え方になっていたのです。

 私たちは、相手を殺してまで自分の理想を手に入れたいとまでは、なかなか考えてはいないと思います。この例は、少し極端な例といえるかもしれません。けれども、パウロはここで、私たち自身の中にある、「自己正当化」というものは、相手を殺すことなのだということに目を向けさせようとしています。 (続きを読む…)

2021 年 10 月 31 日

・説教 ローマ人への手紙6章15-23節「罪の支配と義の支配」

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2021.10.31

鴨下直樹

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 パウロの手紙は、このところで何度も何度も同じ言葉を繰り返しています。同じことを繰り返して言うというのは、そこのところがパウロの言いたいところだからです。今日の箇所で何回も出てくる言葉は何かというと「奴隷」という言葉です。そして、人はみんな何かの奴隷となっている。何かに支配されているのだということを、ここで繰り返して語っています。

 今日の箇所で、パウロが言おうとしているのは難しいことではありません。私たちは罪の奴隷なのか、神の奴隷なのか、罪に支配されているのか、神に支配されているのか、どちらかの生き方しかないのだと言っているのです。そして、神に支配されるということは、神の、あるいは義の奴隷となることだと言うのです。

 「奴隷」というのは、とても強い言葉です。「あなたは義の奴隷です」と聞いてうれしい気持ちになるという人はあまりいないと思うのです。奴隷という言葉に良いイメージがないからです。

 この奴隷というのはどういうことかというと、16節では「従順の奴隷」という表現もされていますが、この「従順」とか「服従」という言葉がここで何度も繰り返されています。繰り返されているということは、このことを、パウロはここで大事なこととして語ろうとしていることが分かります。

 私たちは誰でもそうですが、何かに支配される生活なんてまっぴらだと考えていると思うのです。自由でありたいとどこかで考えています。けれども、私たちはそうやって自由にふるまっているつもりで行動するわけですが、実際には罪に支配されていて、そういう生き方は恥ずかしくて人に見せられないような生き方になっているのだとパウロはここで語っています。そして、その義から自由に生きた結果は、死へ続く道に至るのだと言っているのです。それが、人の姿なのだというのです。

 パウロは今日の箇所で色んなことを話していますが、罪の奴隷として生きるか義の奴隷として生きるか。人にはその二つに一つの道しかないのだと言っています。これが、今日の箇所の中心的なところです。

 罪の奴隷としてではない、もう一つの生き方のことをパウロは「義の奴隷」として歩むと言っています。義の奴隷というのは、神にお従いして生きるということです。神のしもべとして生きるということです。そして、その生活は具体的にどういうことかというと、19節にあるように、「その手足を義の奴隷として献げて、聖潔に進みなさい」ということです。聖なる生き方をしようと勧めているのです。

 ただそうなると、そこで問題が起こります。「聖潔に進みなさい」とか22節では「聖潔に至る実を得ています」という言い方がされているのですが、ここに来ると私たちは立ち止まってしまうのだと思うのです。いかがでしょうか。

 先日の祈祷会で、この聖書を学んだ時に、「これは努力目標でしょうか?」と質問した方がありました。うまい言い方だなと思います。ある意味で、確かにこの言葉は私たちの努力目標と言ってもいいと思います。

 ただ、「努力目標」と言った時に、どこまで目指すかは完全に私たち次第ということになります。100点を目指す聖なる生き方をすることもできれば、10点でも仕方がないよねということも可能です。そして、どこまでを目指すかは、完全に私たちに任されていると言えるわけです。

 そうなると、大きな問題が起こります。先日もある方が言われたのですが、これは律法的な響きがあるのではないかという気がしてくるのです。ちゃんとやりなさいというのは、律法主義的な勧めであるように思えるのです。その時、ちょうどその日の朝に、我が家で起こった会話の話をしました。

 4年生の娘が朝、こんな話をしました。「今日は体育があるけれども、先生がいなかったら国語のテストをすると言われた」というのです。それで、私は「それならまだ時間があるから少し漢字の復習をしておいたらどうか?」と娘に勧めました。けれども、娘はそんな勉強なんかしたくないわけで、ぐずる娘に、私が究極の言葉を口にしてしまいました。「それで、勉強しないで悪いテスト持って帰って来たらどうなるか分かっとるやろうなぁ!」と言ってしまったのです。あまりいい父親とは言えませんね。私の性格の悪さが暴露されているようなものですが、そんな話をしていたわけです。

 この聖書箇所も、この話と少しどこかで似ている気がするのです。神様は、性格の悪いお方ではありません。けれども、神様の思いとしては、私たちにキリスト者として聖潔に歩んでほしい。できたら100点を取るような者になってほしいと考えておられるように思えるのです。

 パウロはここで、そのことを言っているようにも読めるのです。「ちゃんとやらんかったらどうなるか分かっとるやろうな! お前は神様の子どもなんやから」ということです。

 言わないといけないことだからパウロはここで心を鬼にして言っている。そのように読むと、それを聞いた私たちも「えーそれは、努力目標ってことでいいですか?」と答えたくなってしまいます。

 ただ、もしこの聖書の箇所がそう語っているのだとすると、それは恵みの言葉でも何でもありません。ここで言われていることは確かに、私たち個人個人の応答にかかっているということは言えます。だから、私が、娘にちゃんとやれよと言うように、皆さんにも、「ちゃんとやらんかったらどうなるか分かっとるやろうな!」とすごんで見せることもできるのかもしれませんが、そんなことを言われてやる気になる人はあまりいないと思うのです。それは、福音としての響きが何もないからです。

 そこで、改めて15節を見てみたいと思います。

では、どうなのでしょう。私たちは律法の下にではなく、恵みの下にあるのだから、罪を犯そう、となるのでしょうか。決してそんなことはありません。

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2021 年 10 月 24 日

・説教 ローマ人への手紙6章1-14節(2)「キリストと共に生きる!」

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2021.10.24

鴨下直樹

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 私がドイツに住んでいたころ、週に一度、村の人たちとサッカークラブで、一緒に汗を流しました。あちらは、多くの人が仕事終わりにそのようなサークルとかクラブというようなものに所属していて、一緒にいろんな活動をします。私は、サッカーを学生のころにしていたわけではありませんが、一緒にやらないかと誘われて、サッカーをすることになりました。

 いつも、集まって来るのは8人とか10人というメンバーです。それを二つのチームに分けまして、体育館でサッカーをするのです。ただ、私が驚いたのは、1時間ひたすら走り続けるのです。休憩なんてありません。ずっと走り続けるので、足の皮は剥けてしまうし、何しろ疲れるのです。ゴールキーパーなんて人数が少なくて作れませんから、ゴールは跳び箱の一番上の段を裏返しにしたものです。そのわずか1メートルほどのゴールに入れなければなりません。さらには、ちょうどそのゴールの周りに、ハンドボールコートで使う半円のペナルティーゾーンという入ってはいけないエリアの線があるのですが、そのサッカーでもその線の中には入れないという特別ルールがあります。だから、ゴールまで敵のいないフリーな状態でボールをもらっても、その小さなゴールに入れるのは至難の技です。そこで、私がゴールを外してしまうと、みんないつも一つのポーズを取ります。

 腹に剣を刺して、横に引く、いわゆる「腹切り」のパフォーマンスをするのです。こんな簡単なゴールを外す奴は切腹ものだと言うわけです。一緒にサッカーをしていた彼らはどこでその習慣を知ったのか知りませんが、「日本人は失敗をしたら、腹を切って詫びを入れる」そういうことだけは知っていたようです。

 長い自分の話をしてしまいましたが、私が言いたいのはこういうことです。日本人であっても、さらにはドイツ人でさえもと言うべきかもしれませんが、古くから罪を、過ちを犯した代償は死であるということは知っていたということです。そして、そういう意識というのは、今でもどこかで残っている気がします。昨日、妻と話していましたら、手話で「罪」は「つ」という指文字を作って、そのあとで親指を立ててお腹を切る、そういう表現をするそうです。罪とは腹切りだというのが、手話でも罪をあらわしているのです。

 今日、私たちがこの聖書から考えたいのはこの罪の支配をどのように乗り越えることができるのかということです。私たちがそこで考える必要があるのは、私たちが罪を犯してしまった相手というのは、ゴールが入らなかったとか、他人に迷惑をかけたとか、そういうことではなくて、神に対しての罪を犯したのだということです。神を裏切ってしまった。そして、そのために神の支配されている神の国という世界から追い出されてしまうほど、私たちは神の前に立つことができないほどの罪を、負債を、神の前に負っているということ、これが、聖書が語る罪です。

 しかし、私たちは自らの罪の責任を取るために腹を切る必要はなくなりました。主イエスが、私たちの罪の責任をとって、十字架で死んでくださったからです。私が負わなければならない死を、主イエスが代わりに負ってくださったのです。これが、福音の知らせです。

 主イエスは、私たちの神に対する罪を、自ら引き受けて下さって、神の裁きを私たちに代わって身に受けて下さったのです。

 そして、主イエスがその時に十字架で死んでくださったというのは、そこで、罪人であった私たちが死んだということです。だから、私たちも、そこでキリストと共に死んだはずなのです。そうでないと、私たちの罪の問題の解決はありません。私たちの罪が、私たちからなくなるためには、私たちが死ぬ必要があるのです。悔い改め、というのは、その死を通して、私たちは死んで、そこから新しいいのちがはじまったということなのです。

 5節の冒頭にこう書かれています。「私たちがキリストの死と同じようになって、キリストと一つになっているなら」と書かれています。

 ここで、パウロは何を言っているかというと、「私たちはキリストの死と同じようになった」、「同じようになって一つになったのだ」と言っています。これが、主イエスが十字架で死なれた意味です。主イエスがあの十字架の上で死なれたのは、私たちと一つになったのだと。

 主イエスは、その後、3日目によみがえられました。私たちは、主イエスと同じように一つとされて、あの十字架の上で、この私は死んで、そして、よみがえらされたのです。だから、そこでもうすでに私たちは罪から解放されているのだとパウロはここで語っています。

 この7節では、(すでに)「罪から解放されている」とパウロは語っています。主イエスが私たちに代わって死んでくださった。そのことを受け入れて、信じて、洗礼を受けたというのは、もう私たちはそれまでの罪から解放されているのです。もう、罪が私たちを支配することはないのです。

 しかし、です。私たちはそう言われるとそこで立ち止まってしまいます。この言葉は、私たちを苦しめるのです。なぜなら、罪の支配が無くなったという実感がないからです。

 パウロが言うように洗礼を受けたということは、一度そこで、古い罪に支配された自分は死んで、新しくされたのだ。だから、その罪は私を支配しないと言われるのです。けれども実際には、私たちはそう感じるどころから、洗礼を受けてからの方が、私たちの中にあるこの罪の自覚に苦しむようになるというのが、私たちの実感なのではないかと思うのです。
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2021 年 10 月 17 日

・説教 ローマ人への手紙6章1-14節(1)「新しいいのちに歩む」

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2021.10.17

鴨下直樹

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 パウロは、5章から8章までのところで、信仰に生きるようになった人の新しい生き方とは、どういうものなのかをここで語っています。

 前回の説教の最後で私は一つのたとえを話しました。死に向かう滅びの列車に乗っていた私たちに、反対方向に進む、いのちに向かう列車が来た。この列車に乗り込むことが、主イエスを信じて、悔い改めるということだという話です。

 その説教を聞いたある方が、昔歌った子ども賛美歌を思い出したと言われました。
「福音の汽車」という讃美歌です。ご存じの方がどのくらいいるか分かりませんが、私も子どもの頃、よく歌った歌です。こんな歌詞です。

福音の汽車に 乗ってる 天国行きに ポッポ 
罪の駅から出て もう戻らない
切符はいらない 主の救いがある それでただゆく 
福音の汽車に 乗ってる 天国行きに

 よくこのことをあらわした歌だと思います。主イエスの救いがやって来て、汽車というのはもうないので列車と言った方がいいかと思いますが、その列車に飛び乗っていのちの方に向かって進むようになった。そんな話をいたしました。

 そして、もう一つの話をしました。それは天秤の話です。私たちの罪の重さと、キリストのしてくださった恵みの大きさの話です。あまりにもこのキリストがして下さった恵みの御業が、大きいのでその秤からあふれるほどだというのです。そこで、パウロは5章の20節でこう言いました。

罪の増し加わるところに、恵みも満ちあふれました。」と。

 多くの罪を犯した者は、その大きな罪の重さをはるかに超えるキリストの恵みの大きさを知ることができるとパウロは言ったのです。ここまでが前回の話です。

 しかし、この言葉は、別の理解をもたらす危険をはらんでいました。それは、沢山の罪が赦されるのだから、罪を犯せば犯すほど、神様の赦しが分かるのだとしたら、罪をどんどん犯してもいいのではないかと考える人が出てくるかもしれないということです。

 まるで、ゲームの無敵のアイテムを手に入れたような状態です。ルールを無視してもOK、「あなたは義だ」と神様が言ってくださるのだから、もう鬼に金棒です。そんな風に考える人がでることを考えてパウロはここで話を進めているのです。

 そこで、パウロはその考え違いをここで解き明かしていこうとしています。そして、その説明としてパウロが選んだのは、「洗礼を受けることの意味」です。

 3節でこう言っています。

それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。

 パウロはここで、主イエスを信じてバプテスマを受けたということは、そこでキリストと共に死んだのだということなのだと語っています。 (続きを読む…)

2021 年 10 月 10 日

・説教 ローマ人への手紙5章12-21節「キリストとアダム」

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2021.10.10

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 今日の聖書箇所はかなり難解なところなのですが、このローマ人への手紙の中でも中心とも言われているところです。とても重要なところですから、本当は何回かに分けて説教すべきところだと思います。けれども、この箇所の中心部分をできるだけ聞きとっていきたいと思っています。

 今日の冒頭の12節にこうあります。

こういうわけで、ちょうど一人の人によって罪が世界に入り、罪によって死が入り、こうして、すべての人が罪を犯したので、死がすべての人に広がったのと同様に――

 私たちは、今世界中で何十万人という死者を生み出した新型コロナウィルスのことを、よく知っています。はじめは今から2年ほど前に中国の武漢で発見されたと言われていますが、瞬く間に世界中にこのウィルスがまん延していきました。まさに、一人の人から始まった出来事が、世界中に影を落とすことになるということを、私たちは身をもって経験しているわけです。

 パウロがここで言おうとしているのは、アダムによって罪がこの世界に入って来たということです。けれども、それはアダムだけの問題ではなくて、すべての人が罪を犯したことになるのだと言って、そのために死がすべての人に広がったのだとここで言っています。

 この12節の言葉を通して、パウロは3つのことを語り始めるのです。もう一度言うと、まず第一、アダムによって罪がこの世界に入ったこと。第二は、それはすべての人の犯した罪なのだということ。そして、第三は、そのために死が広がったのだということです。

 しかし、パウロはこの12節の冒頭で「こういうわけで」と語り始めています。「こういうわけで」と言うということは、その前にその原因が語られているはずです。しかし、この原因であるどういうわけなのかということが残念ながらよくつかめません。

 この前のところでパウロは、罪の中に生きていた私たちは主イエスの血によって義とされて、神と和解することができるようになったと話しています。私たちの罪と、主イエスの救いの業をパウロは語りました。では、その罪とは何かということを、ここで語り始めているのです。

すべての人が罪を犯した」とこの12節で言っています。一人の人が犯した罪とは、この後読んでいくと分かりますけれども、それは創世記に出てくるアダムのことです。しかし、そこで犯したアダムの罪というのは、アダムだけの問題ではなくて、「すべての人の罪」なのだとここで言っているのです。ただ、私たちが考える「罪」というのは、人の物を盗むとか、嘘をつくとか、人を殺すとか、そういう個々の罪のことがすぐに思い浮かぶと思います。だから、「すべての人」と言っても、赤ちゃんには罪がないとか、自分にしても、人から何か咎められるような違反行為をしたつもりはないという考え方が出てくるのだと思うのです。

 「罪」というのは、創世記ではじめの人であるアダムが、神との約束であった「エデンの園の中央にある善悪の知識の木の実を取って食べてはならない」という約束を破ったことから、人類はこの罪を引き受けることになりました。これが、聖書が語る罪の理解です。実は聖書が、アダムの犯した罪は私たちが犯した罪でもあるのだということを明確に語っているのは、ローマ書のこの12節が初めてなのです。聖書はアダムの犯した罪というのは、私たちが犯した罪なのだということを、ここではじめて語っているのです。

 けれども、そう言われると多くの人は抵抗したくなります。どうして、アダムの犯した罪が、私たちの罪なのでしょうか。すべての人がその根底に抱え続けているこの罪のことを「原罪」という言い方をします。この原罪と言われる、人の中に宿っている神に逆らう思いというアダムの出来事は、すべての人の代表者として、アダムが犯した罪であったので、これは私たちすべての人の中にある原罪なのだと聖書は書いているのです。 (続きを読む…)

2021 年 10 月 3 日

・説教 ローマ人への手紙5章1-11節「恵みによって」

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2021.10.03

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 パウロはこの5章から、新しいテーマで語り始めます。それは、義とされた者、神に救われた者の新しい生活についてです。

 1節

こうして、私たちは信仰によって義と認められたので、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。

 パウロはこの4章までで、主イエスを信じる時に、私たちの罪が赦されて義と認められると語ってきました。この義とされた時に、私たちは平和を持つのだとここで、はじめに語っています。「平和」とは「平安」という言葉です。「平和」がない、「平安」がない。それが、神から離れてしまった人の姿です。けれども、信仰によって私たちにこの待ち望んでいた「平和」を得ることができるようになる。それこそが、新しい生活なのだというのです。

 私たちは、この「平和」を、「争いがない状態」という意味で理解してしまいがちです。けれども、ここでは「平和を持っています」と書かれています。これは「神の前に立つことができるようになる」という意味です。最後に出てくる「神と和解する」ということです。

 そこで、私たちが考えなければならないのは、私たちは完全な正しさ、まさに義なるお方の前に立とうとすると、どうなるかということです。義なる神の御前に私たちが立つ時、私たちは自分の罪を恥じるしかなくなってしまいます。それほどに、私たちの罪と神の義しさの間には大きな淵があるのです。

 今日の1節から11節の中に何度も、義とされる前の私たちの状態のことが記されています。例えば6節「不敬虔な者」とあります。8節では「罪人」と言っています。10節では「」という言い方もあります。これが、私たちの姿だというわけです。

 そのような罪人である私たちは、どうやったら平和を持てるようになるのかと悩みながら救いを求めるわけです。そして、「宗教」に救いを見出そうとします。自分の中にある罪、醜い心、弱さ、ダメな自分をどうにかして何とかしていただきたいと願います。それは、人の持つ真剣な求めです。そのために、修行をするとか、少しでも徳を高めるような生き方をするとか、この苦しみから解放されるために一生懸命に伝道活動や奉仕活動をするとか、高い壺を買うとか、高名な名前をつけてもらうとかして、とにかくできる限りのことをして、何とか安心を得たいと考える。それが、「宗教」の一つの答えの示し方です。

 パウロはここで、「義」とされることで「平和」を得られるのだと語っています。この「平和」というのは、私たちは自分たちの努力によって何とか得られるようになりたいと願うのですが、私たちの努力で得られるものではなくて、神の側から与えられるものだと言っています。というのは、「義」というものは、私たちの努力で手に入れることができないものだからです。

 たとえば、誰かが自分の正義を主張したとします。そうすると、残念なことですがそこに「平和」が生まれることはないのです。平和の反対に争いが起こり、衝突や不和が生じたり、抑圧が起こったりしてしまいます。どこかの宗教が、「聖戦」だと言って自分たちの正義を主張しはじめると、そちら側にいない人にとっては迷惑なことでしかないのです。私たちが通そうとする正義、義では、平和は残念ながらもたらされることはないのです。

 ではどうしたら私たちに平和がもたらされるのか。それは、完全なる義である神の側から、私たちに救いを示されることによって、神の側から赦しの宣言を受けることによってはじめて平和を受け取ることができるようになるのです。 (続きを読む…)

2021 年 9 月 26 日

・説教 ローマ人への手紙4章9-25節(2)「弱まらない信仰」

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2021.09.26

鴨下直樹

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午前10時30分よりライブ配信いたします。終了後は録画でご覧いただけます。


 
 「JCE7」と言いますが「第7回日本伝道会議」が2023年に、この岐阜の長良川国際会議場を会場にして行われます。それで、この伝道会議の2年前大会が、オンラインですが、先週24日の金曜日、夜7時から行われました。テーマは「東海の宣教の歴史」です。

 私はその講師をする機会が与えられました。実は、私は講師の交渉係だったのです。そのため4人の先生方に講演を依頼したのですが、見事全員に断られてしまいまして、ほぼ一か月前にこの集まりが決まったということもあって、その時間の無さから、先生方も断られたと思うのですが、私は講師を見つけられなかった責任を取ることになりまして、仕方なく講演をすることになりました。ですから、この一か月の間にいろんな先生のところに資料を借りに行ったりしながら、この尾張と美濃のこれまでの宣教の歴史を学ぶこととなりました。幸いなことに、何とかギリギリで準備を終えることができまして、先日この講演も無事に終わることができました。

 なぜ、そんな話から始めるのかといいますと、今日のテーマは「弱まらない信仰」です。この東海の宣教の歴史がもたらしたものもまた、「弱まらない信仰」だったと思うのです。この「弱まらない信仰」というのは、今日の19節に出てきます。

彼は、およそ百歳になり、自分のからだがすでに死んだも同然であること、またサラの胎が死んでいることを認めても、その信仰は弱まりませんでした。

 ここでパウロはアブラハムの信仰は弱まらなかったと言うのです。百歳になってもなお、子どもが与えられると信じた。17節に「彼は、死者を生かし、無いものを有るものとして召される神を信じ」とあります。

 この「死者を生かし」というのは、百歳になって、死んだような状態とも言える自分や、妻のサラのような者に子どもが与えられること、あるいは、その後のイサクをささげたということも含まれているのかもしれません。その次の「無いものを有るものとして召される神を信じ」というのは、無いもの、存在しないもの、つまり、今はまだ与えられていない子どもが、やがて与えられること、あるいは未だ手にしていない土地も、やがては与えられると信じることです。

 もはや信じられないという状況になっていても、アブラハムの信仰は弱まらなかったのだと、パウロはここで語っているのです。

 先日の、「東海の宣教の歴史」の講演の中で、私はこの地域に三度、福音が語られてきたけれども、教会が無くなってしまう、信仰が切れてしまうということを経験してきたという話をしました。

 この東海地区というのは、昔の言い方をすれば尾張と美濃という地域ですが、織田信長がキリシタンに対して寛容だった影響もあり、信長の子、信忠はキリシタンとして受洗しています。その後、秀吉によって伴天連追放令が出されます。けれども、この地域は、信忠の子である秀信が家臣と共に受洗します。信長の家族がキリシタンであったということで、秀吉のキリシタン禁制の時代であっても、この尾張、美濃という地域は布教が認められた、いわば特別な地域だったわけです。その後は、松平忠吉が1606年から尾張と美濃をおさめますが、この忠吉もキリシタンに庇護を加えています。ですから、この尾張、美濃という地域は伴天連追放が叫ばれる中でも、布教することが暗黙の了解として受け入れられてきた珍しい地域だったと言えるわけです。

 ところが、その後1661年から、「尾濃崩れ」と呼ばれる出来事を通してキリシタンの大迫害が始まり、この地域のキリシタンは根絶されてしまうのです。これが、一度目の教会が無くなってしまった経験です。 (続きを読む…)

2021 年 9 月 19 日

・説教 ローマ人への手紙4章9-25節(1)「望みえない時に」

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2021.09.19

鴨下直樹

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 この10年ほどになるでしょうか。若い人たちを中心にしてライトノベルと呼ばれる読み物が、非常に良く読まれているようです。プロの作家が書く小説ではなくて、素人が、自分ならこんな小説を読みたいと思うものを、文章にして発表する場所もあって、そこで発表された小説が、次々に書籍化されるようになっています。そして、興味深いのはそのようにして生まれる多くの小説には「異世界転生」とか「異世界転移」というテーマが書かれているのです。

 「異世界」というのは、ファンタジーの世界です。魔物が出て来て、剣や魔法で戦うというストーリーの小説です。そのような異世界ものの小説が人気を博しているのです。こういう「異世界」をテーマにした小説が多く書かれるのは、今はゲームの影響が多いようですが、もともとはある二つの小説が元になっています。それは、J・R・R・(ジョン・ロナルド・ロウウェル)トールキンの書いた『指輪物語』と、C・S・(クライブ・ステーブルス)ルイスの書いた『ライオンと魔女』という小説の影響です。トールキンの描く異世界は、まさに剣と魔法のファンタジーです。C・S・ルイスが描いたのは今で言う「異世界転移」という物語です。そして、この二人の作家に共通するのは、二人ともキリスト者であったということです。トールキンがカトリック、ルイスはプロテスタントです。これらの物語の中で描かれた、私たちの知らない異世界は、善と悪の世界がもっと明瞭で、その中で何を信じていくのかということが、その背後に描き出されています。というのは、この二つの作品の背景にあった大きな世界戦争が起こる、まさに暗い世界の中で、子どもたちに悪の支配はやがて滅びるという希望を見せたかったのだと思うのです。

 そして、私が興味を抱くのは、この見えないものを信じる力というようなメッセージが、形はずいぶん変わっていますけれども、いまこの国の若者たちの心を大きく引き付けているという現実です。今、テレビのアニメーションになる作品のほとんどは、実はこのライトノベルと呼ばれる作品からのものが大半をしめています。多くの若い人たちが、この物語で描かれる異世界の物語に、新しい何かを見出しているのです。

 今、私たちが生きている世界は、戦争ではない、まったく異なる脅威を目の当たりにしています。これも、私はそれまでよく知らなかったのですけれども、先日、昨年一年で亡くなった日本の死亡者の統計が発表されました。それによると2020年の一年間で日本だけで138万人の方が亡くなったのだそうです。これは、毎年の平均とさほど変わっていない数字なのだそうです。去年は少し少ないくらいだったそうです。この138万人という数を、一日平均にすると3780人が毎日亡くなっている計算になります。コロナ患者で亡くなる方の数が最近は一日50人くらいでしょうか。年間の平均にすればもっと少ないと思います。コロナで亡くなる人の75倍とか100倍の方々が毎日別の理由で亡くなっているのです。それなのに、ニュースではコロナのことばかりが報道されているのです。

 私たちは、何を正しく恐れる必要があるのでしょう。私たちは目の前のものばかりに気を取られて、その背後にある恐れそのものから目をそらしてしまっているのかもしれません。今私たちは、実はそれほど脅威でもないものを、不用意に恐れすぎてしまっているのかもしれません。私たちはこのような現実世界という暗い闇が支配する世界の中で、果たして何を見出していく必要があるというのでしょう。

 今日の聖書は、パウロがこのローマの支配する世界の中で、その真っただ中にいるローマにいる人々に手紙を書き送っています。そして、聖書が語るアブラハムについて、語っているところです。
このアブラハムが抱えていた問題は、「将来が見えない」という問題でした。神の約束を信じて、カルデアのウルから出て来て、約束の地まで来たのに、その将来の希望であったはずの約束の土地も、将来を担う約束の子孫も得ることのないまま、試練の時間を過ごして来たのです。

 パウロはここで、このアブラハムは「神の約束の言葉」、もっというと「神の心」を信じるということを、その生涯で貫き通した人として描いています。神は、将来を約束してくださるお方なのだと信じたというのです。さらに神は、アブラハムその人の不法、不敬虔、そういうその人の罪、神に逆らう思いを持つ人間でありながら、神の約束を信じる姿をご覧になって、それを「義である」、この人の生き方は神の御前で義しい、義なのだと宣言してくださるお方なのだということを語ってきたのでした。

 18節にこう書かれています。

彼は望み得ない時に望みを抱いて信じ、「あなたの子孫は、このようになる」と言われていたとおり、多くの国民の父となりました。

 ここに「彼は望み得ない時に信じた」と書かれています。信じられないような出来事が、目の前に示された時に、それを信じることができたのだというのです。 (続きを読む…)

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