2024 年 6 月 16 日

・説教 マルコの福音書1章35-39節「ガリラヤ全域に福音が伝えられる」

Filed under: 内山光生師,礼拝説教 — susumu @ 00:20

2024.6.16

内山光生

序論

 今日は、父の日です。日常生活においてお父さん方が家族のために労しておられることを覚え、各家庭においてもお父さんに感謝を表す時となることを願います。

 また昨日の子ども食堂も、第三回目となりました。参加者とボランティアをあわせて99名が与えられた事を神様に感謝をいたします。

 さて今日の箇所のタイトルは「ガリラヤ全域に福音が伝えられる」とさせて頂きました。しかし、後でメッセージの準備を進めていく中で別のタイトルの方が良いかもしれない、と思うようになりました。ですから週報には記していませんが、サブタイトルとして「福音を伝えるために」とさせて頂きます。

I 主イエスの祈り(35節)

 では35節を見ていきましょう。

 前回の箇所によると、前の日の夜に、イエス様の元にカペナウムの人々が訪れました。病人や悪霊につかれた人々がイエス様に癒してもらおうと、やって来たのです。そして、イエス様は人々の期待に応え、皆、癒されたのです。

 この時、きっと夜遅くまで癒しの御わざがなされていたと思うのです。それで、イエス様は肉体的に疲れ果てておられたのではないかと推測できるのです。いや、肉体的だけでなく、霊的な疲れを覚えておられた事でしょう。にもかかわらず、イエス様は次の日の朝早いうちに起きて、祈りに専念されたのです。

 ある人は、前の日の疲れが残っているのならば、ゆっくりと寝ていればいいのにと思うかもしれません。私自身も、どちらかと言えば、ゆっくりと寝ているのが好きな方です。ところが、イエス様は自分の疲れを回復させるために、父なる神と祈りによる交わりを持つという方法をとっておられたのです。

 しばしばマルコ1章35節は、ディボーションをする時なら朝早くの時間が良いという聖書的な根拠とされています。確かに、その通りかもしれません。実際、多くの人は朝に聖書を読むと集中しやすいと思っているのです。もちろん、朝が苦手な人もいるかと思いますので、その場合は朝にディボーションしなければと思い込む必要はなく、むしろ、自分にとって一番聖書を読みやすい時間帯を選べばよいのです。

 というのも、他の箇所では、イエス様は昼間に祈っておられる場面がありますし、また夜中に祈っておられる場面もあります。だから、時間にこだわりすぎる必要はないのです。

 イエス様は祈る必要がある時、なんとかして、祈る場所を確保して父なる神との祈りによる交わりに専念されたのです。 (続きを読む…)

2024 年 6 月 9 日

・説教 マルコの福音書1章29-34節「多くの人を癒された主イエス」

Filed under: 内山光生師,礼拝説教 — susumu @ 06:22

2024.6.9

内山光生

序論

 はじめにお伝えしたいことがあります。それは、私が芥見教会において、なぜ”マルコの福音書”から説教をすることにしたかについてです。

私が神学校を卒業してから、最初にとりくんだのが”マタイの福音書”でした。単純に新約聖書の順番に従ってマタイを選んだのでした。順番からすると次はマルコといきたいのですが、私は個人的にルカが好きだったので、次にルカからメッセージをしました。

 そうすると、福音書の中で残っているのが、ヨハネとマルコになります。どちらを選ぼうかなと考えたとき、マルコの方が執筆年代が早いということに気づかされました。それなら、先にマルコをやろうという考えになりました。そういう訳でマルコを選んだのは執筆年代が早いということからです。

 さて、マルコの福音書の特徴は、イエス様の行いや出来事を簡潔に記している、そういう文体となっています。また恐らく、マルコはペテロを通して、イエス様の色々な話を聞いていたと推測できます。それゆえ、マルコの福音書にはペテロの視点が反映されていると言えるでしょう。マルコの福音書の特徴の細かい所については必要に応じてその都度、説明していくことにします。では、今日の箇所を順番に見てきましょう。

I シモンの姑をいやす(29~31節)

 29~31節を見ていきます。

 29節にある”一行”とは、”イエス様とシモンとアンデレ、ヤコブとヨハネ”のことを指しています。この一行はシナゴーグでの礼拝が終わるとすぐに、シモンとアンデレの家に向かったのでした。

 30節では、シモンの姑が熱を出して横になっていたとあります。何が原因で熱が出ていたのかは分かりません。普通の風邪だったのか、それともどこか病気があって熱が出ていたのか、その辺りは何も記されていないのです。だから、私たちがそれぞれ自分の頭の中で推測するしかないのです。いずれにせよ安息日でありながらも礼拝に行くことができない程に辛い状態だったのは確かな事です。

 ある人が考えるには、病人が寝ていたならば、その家を訪ねることは控えようとするかもしれません。なぜかというと、病気がうつったり、感染が人々に広がる危険があるし、何よりも、病人である当事者にとっては静かに寝ているほうが良いと思うからです。

 また、別の人は次のように思うかもしれません。「あの人は今、病気で大変そうだから、何か食べるものでも持っていってあげよう。直接、会うことができなかったとしても、それでもかまわない…」と。

 そういう風に、誰かが病気になった時に取る行動はそれぞれであって、どれが正しいかと判定することはできないのです。

 ところで、シモンたちは、家の中に病人がいるのを分かっていて、どのような行動を取ったでしょうか。それは、自分たちの姑が寝ていたけれども、イエス様を家に招き入れ、姑が熱で寝ていることをイエス様に伝えるということでした。 (続きを読む…)

2024 年 5 月 19 日

・説教 マルコの福音書1章21-28節「主イエスの評判が広まる」

Filed under: 内山光生師,礼拝説教,説教音声 — susumu @ 07:41

聖霊降臨祭(ペンテコステ)
2024.5.19

内山光生

序論

 今日はペンテコステの日、すなわち、聖霊降臨祭です。ペンテコステの日とは、イエス様があらかじめ弟子たちに伝えていたように “助け主” つまり “聖霊” が( くだ )った事を記念する日です。イエス様の弟子たちは、イエス様の教えを聞いていながらも、本当の意味では福音を理解できていませんでした。例えば、イエス様が十字架の上で苦しまれること、その後、よみがえるということを何度も何度も聞かされていながらも、その意味を悟ることができていなかったのです。

 けれども、イエス様が復活した後でようやく心の目が開かれたのです。そして、ペンテコステの日に聖霊が降ることによって、福音がどういう意味なのかがはっきりと分かるようになったのです。そういう訳で、ペンテコステの日は私たちクリスチャンにとって記念すべき時なのです。

I カペナウムでの宣教 ~人々が驚く~(21~22)

 では21~22節を見ていきます。

 カペナウムという町は、ガリラヤ湖の北西に位置し、交通の便が良いことから割と繁栄していたと言われています。この町がイエス様によるガリラヤ伝道の活動拠点となっていくのです。

 イエス様の伝道方法には、あるパターンがありました。それは会堂、つまり、ギリシア語で言うと “シナゴーグ” において、安息日ごとに聖書の説き明かしをする、という方法です。シナゴーグには、会堂司と呼ばれる人がいて、礼拝において誰に説教をしてもらうかを決める権限がありました。それゆえ、イエス様は会堂司の許可を得て、あるいは、依頼されて聖書の説き明かしをしたのでしょう。

 イエス様の教えは、人々に驚きをもたらしました。マルコの福音書では「人々が驚いた」という表現が至る所に記されています。マルコは、イエス様の教えや行動が、どれ程、人々に驚きをもたらしたかを強調しているのです。

 22節では「その教えに驚いた」とあります。では、なぜ人々は驚いたのでしょうか。当時、聖書の説き明かしをする人は、しばしば「あの有名なラビがこう言っている」とか「言い伝えによれば、こうこうこういうことです」といった感じで、有名な人や有力な言い伝えに頼って、自分の言っていることばに権威を持たせようとしました。ところが、イエス様は、他の説教者のように何かを引用する必要がなかったのです。なぜなら、イエス様ご自身が権威あるお方だったからです。

 私たちは自分の言っていることを信じてもらうために、「誰が言っていたのか。」の出所を大切にします。テレビのニュースで放映されていたり、新聞に書かれている事ならば、ある程度の信頼性があります。一方、インターネットの情報は、しばしば、嘘のニュースが流されることがあって、鵜呑みにできないことを私たちは経験しています。しかしながら、本当に権威あるお方ならば、その人が言うことには言葉では表現しがたい独特の雰囲気があって、人々の心に強い印象を与えるのです。

 イエス様の聖書の説き明かしは、当時の律法の教師とは比較にならない程、権威に満ちておられたのです。それで、人々は驚きを隠せなかったのです。 (続きを読む…)

2024 年 5 月 12 日

・説教 マルコの福音書1章14-20節「人間をとる漁師」

Filed under: 内山光生師,礼拝説教,説教音声 — susumu @ 07:58

〈ききたまえ〉
2024.5.12

内山光生


序論

 今日は母の日です。それぞれが家庭において、お母さんに感謝をあらわす日となれば幸いです。

I 宣教を開始した主イエス(14~15節)

 14節を見ていきます。

 イエス様が地上において福音宣教を始めたそのタイミングは、ちょうど、あのバプテスマのヨハネが牢屋に入れられた事がきっかけとなりました。

 なぜヨハネが投獄されたかについては、マルコの6章に詳しく記されていますので、今日は簡単に説明するだけにいたします。

 当時、ガリラヤ地方を政治的に治めていた「ヘロデ・アンテパス」が、自分の異母兄弟の妻を奪うという罪を犯しました。その罪を指摘したのがバプテスマのヨハネです。ヨハネは、正義を大切にする人でした。それで権力のあったヘロデ・アンテパスに対してはっきりと何が罪なのかを指摘したのです。しかしそれが原因で、投獄されたのでした。

 さて、ヨハネが投獄された事はイエス様にとっても、ヨハネを信頼していた人にとっても悲しい出来事でした。けれども、その出来事がきっかけとなって、いよいよイエス様によって「神の福音」が力強く伝えられるようになったのです。

 イエス様による宣教の最初の地がどこかというと、「ガリラヤ地方」でした。ガリラヤ地方は、頑固な国粋主義者が多い地域と言われていました。また、地理的な条件から北からの侵略者の攻撃を一番最初に受ける場所とも言われていました。だから、自分たちの国を守ろうとする気持ちが強かったのです。ある意味、保守的な地域だとも言えるでしょう。そんな場所に、どこよりも早く「神の福音」が伝えられることとなったのです。

 ところで、ガリラヤの地に福音の光が届けられることは旧約の預言書にも記されていることであって、神があらかじめ選んでいた地域だったのです。

 今の時代でも、どうしてあの地が、周辺地域で一番最初に開拓伝道地として選ばれたのだろうか? と思う方があるかもしれません。例えば、私たちの同盟福音では、岐阜県の羽島が最初の開拓地域となりました。その理由は、私ははっきりとは知りませんが、どなたかご存じかもしれないですが、、、言えることは、人々の祈りの中で神様がその地で開拓するようにと導いた、そういうことだと思うのです。

 ここに神様の支配があることを私たちは認めざるを得ないのです。 (続きを読む…)

2024 年 4 月 21 日

・説教 マルコの福音書1章9-13節「私の愛する子」

Filed under: 内山光生師,礼拝説教,説教音声 — susumu @ 09:16

〈全地よ喜べ〉
2024.4.21

内山光生

⇒ 説教音声のみの再生はこちら

(本日はYouTube動画はありません)


序論

 私たちの家族が住んでいる借家において、私は2階の部屋を書斎にしてメッセージの準備をしています。窓の外には木の枝が風に揺さぶられている姿が見えます。また、鳥たちの鳴き声がまるでBGMのように響いています。とても恵まれた環境で聖書と向き合うことができることに感謝をいたします。昨日の子ども食堂も大勢の方が来られたことを感謝いたします。

I バプテスマを受けた主イエス(9節)

 9節から見ていきます。

 イエス・キリストが公に活動を始められる少し前に、バプテスマのヨハネが悔い改めのバプテスマを宣べ伝えていました。悔い改めのバプテスマとは、人々が自分の罪を告白し、神様に心を向けること、それらの「あかし」として水によるバプテスマを授けてもらうこと、そういう意味がありました。

 バプテスマのヨハネの噂は、ユダヤ地方だけでなく多くの地域に広がっていきました。それでガリラヤ地方の田舎町、ナザレという村に住んでいたイエス様もわざわざヨハネの元にやってきたのです。

 マルコの福音書では、この時の詳しい様子が省略されています。一方、マタイによると、ヨハネがイエス様にバプテスマを授けるのをためらった事が記されています。ヨハネは「どうしてこんな私がイエス様にバプテスマを授ける資格があるのだろうか?」と疑問に思ったのです。

 ある人々は、そもそもイエス様は神の子であって何一つ罪のないお方ではないか。罪がないのに「悔い改める必要」はないのではないか。と考えるかもしれません。確かに、その通りです。イエス様は私たちのように悔い改める必要はないのです。

 けれども、マルコの福音書は、単純に、この時起こった出来事を記すにとどまっていて、私たちの心に浮かぶ疑問に対して沈黙をしています。そしてそれがマルコの福音書の特徴なのです。だから、書かれていないことに目を向けるのではなく、はっきりと記されていることに目を向けていけばよいのです。ただマタイによると、イエス様がヨハネからバプテスマを受けられたのは、正しいことなんだと記されています。つまりイエス様は、私たち人間に対して、模範を示してくださったのです。イエス様は罪なきお方でした。しかしながら、ヨハネからバプテスマを受けられたことによって、私たち人間に対して、悔い改めて心を神様に向けることの大切さを示して下さったのです。

 まだ洗礼(バプテスマ)を受けていない方々に伝えたいことがあります。それは、イエス様を救い主として受け入れているならば、そして、洗礼を受けたいという気持ちがはっきりと出てきたならば、ぜひ、早めに洗礼を受ける決心をして頂きたいのです。それが神のみこころであって、神に喜ばれる正しい事だからです。 (続きを読む…)

2024 年 4 月 14 日

・説教 マルコの福音書1章1-8節「力のある方が来られる」

Filed under: YouTube動画,内山光生師,礼拝説教 — susumu @ 00:06

〈主の慈しみ〉
2024.4.14

内山光生

序論

 皆さん、おはようございます。

 4月から芥見教会で奉仕させて頂いております内山光生です。

 私たち家族は諸事情によって昨年の9月頃から芥見教会の礼拝に集っております。そして私たちが芥見に集い始めてすでに半年以上経ちましたので、ようやく人々の顔と名前が分かるようになってきました。まだまだお話しした事のない方が大勢おられますが、皆様と少しずつ交わりを深めていけたらと願っています。

 短く、自己紹介をいたします。

 私は1972年生まれです。年齢は今は51才。今年の11月で52才になります。生まれは三重県の桑名市多度町で、両親共にクリスチャンです。幼い頃から教会学校や礼拝に集っていて、小学5年の頃にイエス様が救い主だということを知識としてではなく、心の底から信じることができるようになりました。そして、中学1年の夏に洗礼を受ける恵みにあずかりました。しかしながら、中学時代や高校時代は、あまりぱっとしない信仰生活を送っていました。今思うと、学校での悩みや受験の悩みなどで、神様に心を向ける余裕がなかったのでしょう。

 その後、大学受験で失敗し、2年間の浪人生活を送りました。その試練を通して、私は神様の存在をより強く感じるようになり、大学1年の冬に、献身の思いが与えられました。祈りと導きの中で、5年間、会社員として働きました。そして29才の時に神学校に入学し、33才の時から牧師として奉仕をしています。

 家族は妻と息子です。それでは聖書を順番に見ていきます。

I 表題(1節) ~はじめ~

 1節を見ていきます。

 ここには、イエス様がどういうお方なのかが示されています。そして、イエス様は神の子であって、キリストだということが分かってきます。そこで、「イエス・キリストの福音のはじめ」と表現されていますが、福音とは、どういう意味でしょうか。

 私たちはしばしば福音とは「良い知らせ」という意味だと受け止めます。厳密には、「福音」は元々は別の意味だったのですが、聖書の中に出てくる「福音」は「良い知らせ」という意味でよいかと思います。 (続きを読む…)

2021 年 8 月 22 日

・説教 マルコの福音書15章33-34節「十字架上の7 つの言葉」

Filed under: ライブ配信,礼拝説教 — susumu @ 00:06

2021.08.22

田中啓介

Lineライブ

午前10時30分よりライブ配信いたします。終了後は録画でご覧いただけます。


ライブ配信が1時間を超えたため、説教の最後の部分で配信が途切れました。
続きはこちら ↓


 

2019 年 7 月 21 日

・説教 マルコの福音書16章1-8節「空虚な墓」

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 13:38

2019.07.21

鴨下 直樹

⇒ 説教音声はこちら

 ここにとても美しい物語があります。安息日が終わりました。当時は日が沈むと一日が終わりと考えられていました。ですから、夜から新しい日と考えたのです。主イエスが亡くなって墓に葬られてから、ここに名前の記されている3人の女の弟子たちは気が気ではありませんでした。何とか早く主イエスの埋葬された遺体に油を塗って死の備えをしたいと思っていたのです。それで、油を安息日が終わったその晩のうちに準備したのでしょう。そうして夜が明けるのを待って、墓に急いだのです。けれども、一つ大きな問題がありました。それは、主イエスの墓に転がされている大きな石のふたを動かさなければならないという問題です。

 ところが墓に行ってみると、自分たちの問題としていた墓の石が転がしてあるのです。ほっとしたかもしれません。普通なら、これで問題解決です。目の前に差し迫った問題はこれでクリアーされたわけです。ところが、墓の中に入ってみると、真っ白な衣をまとった青年が右側に見えます。そして、彼はこう告げたのです。
6節です。

「驚くことはありません。あなたがたは、十字架につけられたナザレ人イエスを探しているのでしょう。あの方はよみがえられました。ここにはおられません。ご覧なさい。ここがあの方の納められていた場所です。」

 その知らせは衝撃的な内容でした。確かに墓のふたの石を転がすという差し迫った問題はあったのですが、それが解決したと思ったら、もっと大きな、そしてとてつもない問題がそこで突き付けられたのです。肝心の墓の中にあるべき主イエスの体がないというのです。

 この出来事を読んだ人はここで一気にいろんなことを考えはじめるわけです。なぜ、男の弟子たちの名前が出てこないのだろう。弟子たちは一体何をしていたのだろうということがまず気になります。その次に、この墓にいた青年ですが、天使ではなかったのかと、復活の出来事を知っている人であればそこが気になるかもしれません。そして、最後の8節まで読んでいくと、さらに気が付くのは、よみがえったはずの主イエスの姿がどこにも描かれていないということが気になるのです。そして、さらには、ここを最後まで読むと、8節にこうあります。

彼女たちは墓を出て、そこから逃げ去った。震え上がり、気も動転していたからである。そして誰にも何も言わなかった。恐ろしかったからである。

 マルコはこの大切な復活の場面を描くところで、誰がどのように変えられたかというような信仰の言葉を書かないのです。誰がどう信じたのか、どう受け止めたのかということは、最後の一文章だけを書くのにとどめています。そして、その文章というのは、「恐ろしかったからである」という言葉が書かれているだけなのです。もう少し、気の利いた言葉でまとめてくれてもよさそうなものですが、マルコは起こった出来事だけを淡々と記録しているのです。

 ですから、この福音書を読む人は、その後どうなったのか気になって仕方がありません。おそらくそういうこともあって、後になって、このマルコの福音書には、実に多くの人々がこの後の出来事を書き加えました。それが、9節以降です。けれども、聖書にはそのところはみなカッコ書きになっています。これは、明らかに後の時代に書き足されたことがわかっているので、このようになっているわけです。ですから、この9節以降についてはここで取り扱いません。8節のこの言葉で本来のマルコの福音書は終わっているのです。

 このマルコの福音書の書き方は他の福音書の書き方とはまったく異なっています。復活の主イエスと出会った時にどうであったのか、弟子たちが何を思ったのか、どう行動したのかということは、まるっきり書かれていません。ここには、その日の朝の出来事はこうでしたということが淡々と記録されているだけなのです。そして、だからこそ、このマルコの記録には真実味があるわけです。
 復活というのは、こういうことなのだということを、ここを読むと改めて考えさせられます。当たり前の出来事ではないのです。信じられない出来事です。そして、マルコはここで、3人の女の弟子たちが、逃げて、気が動転していて、誰にも何も言わなかったのだ。その理由は、彼女たちが恐ろしかったからだと書いたのです。それで、終わりです。

 しかも、原文には最後にガルという言葉で終わっています。「なぜなら」という言葉です。「なぜなら」と書きながら、そのまま終わってしまっているのです。 (続きを読む…)

2019 年 7 月 14 日

・説教 マルコの福音書15章33-47節「光を与えたまえ」

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 13:46

2019.07.14

鴨下 直樹

⇒ 説教音声はこちら

「さて、十二時になったとき、闇が全地をおおい、午後三時まで続いた。」

 今日の聖書はこのところからはじまっています。十二時というのは、お昼の十二時です。太陽が一番高く上るとき、つまり一日の中でもっとも明るい時間、もっとも光に包まれている時間です。その時に、この世界は闇に包まれたのだと聖書は語っています。

 主イエスが十字架にかけられている時、それこそまさにここでこそ神の光が注がれたら、誰もが奇跡が起こったと信じることのできるような時に、神はこの世界の希望に応えるのではなくて、闇に支配されてしまった。そして、その闇が三時まで続いたと記しています。

 光が欲しい、救いが欲しい、神の助けが今あれば、神を信じるのに、と人が思う時があります。しかし、いつもそうですが、神の救いの光は、私たちの望むように簡単に与えられたりしないのです。そこにあるのは、神の沈黙と絶望です。

 私たちが神を必要とするときに、時折そのような思いを抱いてしまうことがあるのだと思うのです。なぜ、神は私の祈りに耳を傾けてくださらないのか。神は死んでしまったのではないのか。そう考えることがどれほど楽だろうかと考える人は多いのです。実際に、教会に足を運びながら、この神の沈黙に耐えられずに、離れていく人は少なくないと感じます。

 そして、驚くことに、そのような神の沈黙を経験し、闇を味わいながらこの聖書に出てくる人物はこう叫んだというのです。

「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」訳すと「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」という意味である。

 34節にそのように記されています。この礼拝に先立って、祈祷会でこの箇所を学んだ時に、何人かの方が、「この主イエスの叫びの言葉が理解できない」と言われました。もっとほかの言葉があるのではないのかと言うのです。あるいは、神に見捨てられると言っても、すぐその後でよみがえるわけだから、すでに分かっていることを大げさすぎるのではないかというのです。

 こういう問いかけはとても大切です。そういうところから、この言葉の持つ意味がより明らかになるからです。私もそう聞きながら、改めて、この主イエスの言葉の持つ意味を考えさせられています。そこで改めて考えさせられるのは、主イエスにとって、神から引き離される、闇に支配されるということがどれほど恐ろしいことなのかということを、私たちはあまり理解できていないのではないかということを改めて考えさせられているわけです。 (続きを読む…)

2019 年 7 月 7 日

・説教 マルコの福音書15章21-32節「三本の十字架」

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 12:27

2019.07.07

鴨下 直樹

⇒ 説教音声はこちら

 今日、私たちに与えられている聖書のみ言葉は、主イエスが十字架にかけられるところです。マルコの福音書は、この出来事をできるかぎり淡々と、事柄だけを列記するような仕方で書き記しました。一節ずつ、それぞれ異なる情報を淡々と読む私たちに伝えています。人が、一人十字架につけて殺される。しかも、キリストとしてこの世界に来られたお方の死を描くのに、ドラマ性をほとんど無視して書いていくわけです。そして、だからこそ、この時の出来事が、いっそう真実味を帯びて読む私たちに迫ってくるわけです。

 ローマの著述家のキケロは十字架刑について「最も残酷にして、最も恐るべき刑罰」と言っています。そして、「決してそれをローマ市民の身体に近づけてはならない。決してローマ市民の思い、眼、耳に近づけてはならない」とさえ言っています。見ること、耳にすること、考えるだけでも恐ろしいというほどに、十字架の刑罰は人を躓かせるに十分な残忍な方法であったことがよくわかる記述です。十字架刑というのは、それほど残酷で、最も恐るべき刑罰なのだと言うのです。

 そして、ここにはたまたま通りかかったために、その十字架を主イエスに代わって背負わされることになったクレネ人のシモンのことが記されています。ところが、興味深いのは、このシモンは「アレクサンドロとルフォスの父で」と紹介されています。この二人の名前は、初代の教会の人たちには知られていた名前であったようです。この時に十字架を背負わされたシモンは、その時はひどく腹を立てたでしょう。不当なことをされたと感じ、不名誉なことを命じられたわけですが、結果、やがて主イエスを信じるようになったのでしょう。つまり、その子どもたちは教会の中でよく知られる人物になっていたというのです。

 シモンはまるで自分がその十字架に磔にされるような気持ちをそこで味わいました。もちろん、シモンは十字架にかけられることはありませんでしたが、十字架に磔にされるという意味は、おそらく他の誰よりも明確に感じたに違いないのです。

 もしかすると、当時の読者はこの書き方で自然に、シモンの気持ちになってこの十字架の出来事を読んだのかもしれません。それほど主イエスに興味があったわけではない。むしろ、なかば無理やりに十字架を背負わされて、自分はいったいどんなことをした人の十字架を背負わされることになったのか、そんな少しばかりの興味を抱きながら、これから起こるであろう十字架の出来事を、どこか他人事のような思いで眺めようとしたのかもしれません。

 この時、主イエスをかけた十字架の上には「ユダヤ人の王」という罪状書きが書き記されました。そして、二人の強盗と一緒に十字架にかけられたと書いてあるのです。

 「ユダヤ人の王」。クレネ人のシモンにはさほど意味を持たない言葉です。けれども、ユダヤ人にとってはどうだったか。きっと自分たちが馬鹿にされているような、そんな思いになったかもしれない。そんな想像が頭をよぎったかもしれません。そして、シモンの背負った十字架には「ユダヤ人の王」と掲げられた男が磔にされ、その右と左には「強盗」が磔にされた。起こった出来事としてはそれだけのことです。それが、どれほどの意味があるというのでしょう。

 この礼拝堂の前の聖餐卓の上にいつも小さな三本の十字架のブロンズの置物が置かれています。これは、古知野教会の長老で鉄のクラフト作品を作っておられる加藤さんの作品です。その教会の牧師をしていた時に、加藤長老の家で毎月家庭集会が行われていました。いつも玄関の下駄箱の上に飾られていたこの三本の十字架の作品が、私はとても気に入っていて、行くたびに褒めていたのです。そうしたら、ある時にこの作品をくださったのです。 (続きを読む…)

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