2023 年 11 月 12 日

・説教 ルカの福音書9章51−62節「主イエスの決意」

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2023.11.12
召天者記念礼拝

鴨下直樹

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 今日は、召天者記念礼拝です。主のみもとに送った家族のことを覚えて、こうしてたくさんの方々がこの礼拝に集ってくださっています。

 特に、今日はこの礼拝の後、墓地で行われる墓地礼拝で3名の方の納骨式を致します。その亡骸(なきがら)を納骨堂に収めるのです。私たち、はそうすることで主のみもとに送った家族のことを思い起こし、彼らが主のみもとにいることを覚えようとしているのです。

 今、私たちの教会ではルカの福音書からみ言葉を聞き続けています。今日、この召天者記念の礼拝に丁度当たっている場所がこの箇所です。ここには、父親の葬儀をしたいと言っている人に、それは他の人にやらせなさいなど、主イエスが言われたということが書かれています。読んでびっくりされた方もあると思うのです。けれども、ここには今日私たちにとってとても大切なことが記されていますので、ぜひ、一緒にこのみ言葉に耳を傾けていただきたいと願っています。

 私たちは今日、天に送った家族や信仰の仲間のことを覚えて、この召天者礼拝に集っています。ここで私たちは、私たちに与えられた人生について一度立ち止まって考えようとしています。

 人の生涯というのは本当に不思議なものです。若い時は、自分がどんな大人になるのかと悩みながら人生を歩みます。大人になれば、自分の今の生き方が間違っていないのか、もっと意味のある生き方ができたのではなかったのかと不安になりながら、毎日を送ります。年をとっても悩みがなくなることはありません。自分の過去を悔いたり、今からでも充実した時間を過ごそうと、そこでも悩みを持ったりするのです。

 自分の生き方はこれで正しいはずだ、間違っていなかったと思えるのだとすれば、それは幸いなことと言えると思います。

 豊かな人生というのは、いったいどう生きることを言うのでしょう。豊かな人生というものがあるのだとすれば、それはきっと、神からあなたの生き方はこれで間違いないとお墨付きをいただくことができる人生でしょうか。人は神様からそう言っていただいてようやく平安を抱くことができるのだと思うのです。しかし、それにはどうしたら良いのでしょう。

 今日の聖書の箇所は、主イエスの生涯の中でも、重要な局面を迎えた時のことが記されています。51節にこのように書かれています。

さて、天に上げられる日が近づいて来たころのことであった。イエスは御顔をエルサレムに向け、毅然として進んでいかれた。

 ここに「天に上げられる日が近づいて来たころ」とあります。主イエスが、ご自分の死を意識するようになった時のことが、ここから書かれているのです。つまり、ここからの主イエスの歩みは死に向かう歩みであり、それが始まったということです。

 これは余命宣告を受けた時のようなものだと言ってもよいかもしれません。以前、この教会にホスピスケアの働きをしておられる柏木哲夫先生をお迎えして、講演会をしたことがあります。私はその時に聞いた話を今でも忘れることができません。

 柏木先生はその時、「余命宣告を受けた方は、はじめはそれを受け入れるのにとても動揺してあらがうのだけれど、一週間ほど過ぎると誰もがみな何か吹っ切れたような状態になる」という話をなさいました。そして、人は自分の死を受け入れた時に、その人はそこから新しく生きるようになるのだという話をしてくださいました。これは私にはとても印象的な言葉でした。

 余命宣告を受けて自分の死を受け入れるというのは、簡単なことではないはずです。けれども、それを受け入れた時に、残された時間をどう使うか、そこに集中するようになるというのは、分かる気がするのです。

 主イエスはここで「イエスは御顔をエルサレムに向け、毅然として進んでいかれた」とあります。少し不思議な言葉ですが、意図していることはわかると思います。エルサレムに行くというのは、この場合、十字架にかかりに行くということです。自分の死に向かって覚悟を定めて、ひたすらに進んでいこうとするということです。 (続きを読む…)

2023 年 11 月 5 日

・説教 ルカの福音書9章46−50節「こんなにもダメな弟子たち2」

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2023.11.05

鴨下直樹

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 今日の説教題は、先週に引き続き「こんなにもダメな弟子たち2」としました。今日の箇所は先週の続きの部分です。

 このルカの福音書の9章は、弟子のペテロが主イエスのことを「あなたはキリストです。」と告白したところから、大きな転換点を迎えています。この「主イエスはキリストである。」という言葉は、いったいどういう意味を持っているのか、このことを主イエスはこの時から弟子たちに教え始めておられるのです。

 そこで、変貌の山ではモーセとエリヤが現れて、主イエスが旧約聖書の預言の人物であることを弟子たちに示し、また、天からの神の言葉を聞かせることで、神自ら、主イエスがキリストであることを明らかにしてくださいました。そして、山から降りて戻ったところでは、悪霊に支配されて困っていた子どもから悪霊を追い出す力があることを改めて示され、再度、主イエスが人々から苦しみを受け、殺されることを予告されます。

 ところが、主イエスと一緒にいる弟子たちは、なかなかこの神の意図を受け取ることができません。なかなかどころか、まったく分かっていないのが、今の状況です。

 ルカの福音書は、ここまでずっと一貫して、主イエスは弱い者、虐げられている者の傍におられることを示してきたのです。弟子たちも、その姿を見てきたはずなのです。

 ところが、今日のところでは、弟子たちは誰が一番偉いのかという論争を始めているのです。それで、今週も先週に引き続いて「こんなにもダメな弟子たち2」としたわけです。主イエスからしてみたら、もう泣きたくなるような状態であったに違いありません。

 もちろん、弟子たちにも、弟子たちの言い分というものがあります。弟子たちは、主イエスがキリストであるということを示されたわけです。キリストといえば、イスラエルを治める王というイメージがありますが、3人はその確証をあの山の上で得たわけです。しかも、3人だけが特別に山の上にご一緒させて頂いたわけですから、3人の弟子たちにしてみれば、自分たちは今、他の弟子たちよりも抜きん出ていると考えたに違いないのです。

 それで、誰が一番偉いのかという議論を始めたのです。もし、主イエスがイスラエルの王になるようなことがあれば、これまで一漁師や、収税人というような仕事をしていた一般的な人たちには、棚からぼた餅が落ちてきたようなものですから、色めき立ったに違いないのです。この弟子たちの無理解っぷりといったらないと言わざるを得ません。

 私たちは、どうしても人と比較してしまう世界の中で生活しています。上には上がいますから、頭では人と比較するのは終わりが無いことだと理解できるのですが、比較からなかなか自由になることはできません。

 スーパーに買い物に行けば、レタスを次々に手に取って見比べます。牛乳も日付を見たり、他の種類と見比べながら買い物かごに入れるかもしれません。比較するということは、私たちの生活に染み付いているものです。

 ものを比べることは悪いことでもなんでもないのですが、問題は、人と自分を比べる時に、そこで起こるのは何かということです。そこにはどうしても人の醜さが出てしまいます。弟子たちは、他の弟子たちや自分が、どのくらいのポジションにいるのか気になって仕方がないのです。そこに、どうしても人の卑しさが出てしまいます。

 人と自分を比べる時の基準というのは一体何に根ざしているのでしょうか。私たちは、子どもの頃から、この比較の世界の中で苦しんで生きているのだと思います。他の子どもと比べられた時に嫌な感情を持たなかった人はいないのではないでしょうか。けれども、自分が子どもを持つと、どうしても他の子と比べてしまうようになるのです。

 そこで、私たちが気づかなくてはならないのは、比較の世界に愛は入り込む余地を失うということです。能力を愛する、成功を愛する、比較の中で生まれる愛というのがあるのだとすると、それはどうしたって条件付きの愛です。ということは、条件が整わなくなった時に、愛することをやめてしまうのです。

 もちろん、その人を愛するが故に、叱る、注意するということはあります。子どもの時のしつけというのは、これにあたるものです。けれども、これも人との比較の中でするものではありません。その人の為を思って語ることはあると思います。けれども、そこに比較が入り込んだ途端、その言葉は愛ある言葉ではなくなってしまうのです。 (続きを読む…)

2023 年 10 月 29 日

・説教 ルカの福音書9章37−45節「こんなにもダメな弟子たち」

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2023.10.29

鴨下直樹

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 今週も先週に続いて、ラファエロの「キリストの変容」の絵を見ながら、今日のみ言葉に耳を傾けていきたいと思います。

「キリストの変容」ラファエロ ラファエロの描いた、「キリストの変容」はルカの福音書9章の変貌山での出来事と、その時に地上で起こっていた出来事が一つの画面に描かれています。下半分に描かれているのは、主イエスが山の上で天の輝きの中におられたその時に、霊に取り憑かれた子どもが親に連れられて来たのですが、取り残された他の弟子たちは、何もできなかったということが記されています。

 この二つの出来事を一枚の絵に上半分と下半分とで描きました。まさに、このところで福音書の著者は訴えたいことを見事に描き出していると言えます。

 今日の説教題を「こんなにもダメな弟子たち」としました。はじめに予定していたタイトルを変えたのは、まさにこの言葉が、今日の内容を一番的確に表していると思うからです。

 いつも、水曜と木曜の祈祷会で、日曜にする聖書箇所を先に丁寧な学びをしています。わたしはこれを「共同の黙想」と呼んでいます。教会に集われるみなさんと共に、み言葉を聞くのです。私一人で聖書を読むのと違って、実にいろんなことに気付かされます。疑問が出てくれば出てくるほど、聖書の洞察は深くなります。一緒にみ言葉を味わう経験は、とても有意義なものです。説教では30分ほどの時間しかとれませんが、祈祷会の時は、1時間から2時間ほどの時間をかけて、み言葉を味わいます。

 そこで、いつも最後に聞く質問があります。「この箇所から語られている福音は何ですか?」という質問です。聖書を読んでも、そこから道徳的な教訓を見出すことは、あまり意味がありません。特に、今日の聖書箇所などはなかなか積極的な言葉が見出せませんから、福音を聞き取ろうと思うと、少し考えなければなりません。

 すると、一人の方がこんなことを言われました。
「弟子たちがこんなにも理解できないのだということは、福音です」と言われました。

 それを聞いて、みんなで笑ったのですが、同時に確かにそれも慰めになるなと考えさせられました。ここまで主イエスが弟子たちに、あの手この手で、ご自身がキリストであることを示しておられるのに、一向に理解できない弟子たちの姿に慰められるというのです。

 これは、確かにそうで、みんな出来が良い人ばかりだとプレッシャーに感じるのですが、弟子たちがここまでダメっぷりを発揮してくれると、ああ、自分もこれでも主に受け入れていただけるのだということが分かって平安を感じることができるわけです。

 想像してみると、主イエスの三人の弟子たちが山に祈るために出かけた後、弟子たちの所には大勢の群衆が詰めかけています。すでに9章の1節で、弟子たちは悪霊を追い出したり、病気を癒す力と権威が与えられたりしていると記されています。

 実際に、弟子たちは遣わされたところで、すでに与えられた力で、主の御業を行って来たはずなのです。ですから、自分たちだけでも大丈夫という自信のようなものは持っていたかもしれません。

 ところが、その弟子たちの前に霊につかれた子どもが連れてこられると、弟子たちは誰もどうすることもできなかったというのです。そこに、主イエスたちが戻って来ました。すると、その子どもの親が、姿を現した主イエスにこう言います。40節です。

「あなたのお弟子たちに、霊を追い出してくださいとお願いしたのですが、できませんでした。」

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2023 年 10 月 22 日

・説教  ルカの福音書9章28−36節「光と言葉を」

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2023.10.22

鴨下直樹

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 今日の聖書箇所は「変貌山」とか「キリストの変容」と呼ばれる出来事が記されているところです。前回の箇所で、主イエスの弟子のペテロが「あなたは神のキリストです」と、主イエスへの信仰を告白しました。このペテロの理解は正しかったのですが、主イエスはこのことを誰にも話さないように言われました。どうしてかと言うと、当時の人々や、この時の弟子たちが考えているキリストの理解と、主イエスの示そうとしているキリストのあり方が、まったく違っていたためです。

 この出来事に続いて、今日の「キリストの変容」という出来事が記されているのです。この意味について、私たちはここからしっかりと受け取りたいと思います。

 ルカはこの28節で「イエスはペテロとヨハネとヤコブを連れて、祈るために山に登られた。」と記しています。

 そして、この後、キリストのお姿が変わるという出来事が起こった時、32節では「ペテロと仲間たちは眠くてたまらなかったが」と書いていますから、この出来事は夜通し祈りをしておられた中での出来事だったことが暗示されています。

 こういう書き方は他の福音書では書いていませんので、ルカはこのところで夜の祈りの中での出来事であったことを伝えようとしています。

「キリストの変容」ラファエロ ラファエロの描いた「キリストの変容」の大きな絵がヴァチカン美術館の一番奥の部屋に置かれています。この絵は、マタイの福音書をもとにして書かれたと言われていますが、マタイでは弟子たちが眠かったという記述はありませんので、ルカの福音書の場面を描いたのではないかと考えて良いと思います。この絵もやはり夜の祈りとして描いています。

 みなさんは夜、山で祈るという経験をしたことがあるでしょうか。私たちの教団は、根尾にクリスチャン山荘を持っています。ここからだと45分くらいで行くことができます。私は、神学校に入る前に、当時は管理人もおりませんでしたのでこの根尾山荘に半年ほど住んでいたことがあります。このキャンプ場の周りには家がありません。明かりも道にでればカーブのところに街灯が辛うじて一つ点いているだけで、あとは真っ暗です。夜は猿だとか、鹿の声が聞こえてくることもあります。

 そんな夜の山の中で、時折祈った経験があります。不思議なものですが、とても祈りに集中することができます。気を紛らわせるものが何もないからかもしれません。

 弟子たちはそんな祈りの時に、眠くなってしまったようです。ということは、主イエスの祈りが長く続いたということと、弟子たちには祈る必要性をあまり感じなかったということなのでしょう。言ってみれば主イエスに付き合わされているわけです。そして、この時まで、なぜ、自分たちがこの祈りの山に招かれているかを理解できていなかったのです。

 ところが、弟子たちが寝ている間に、とてつもない出来事が起きています。29節から31節にこう記されています。

祈っておられると、その御顔の様子が変わり、その衣は白く光り輝いた。
そして、見よ、二人の人がイエスと語り合っていた。それはモーセとエリヤで、栄光のうちに現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について、話していたのであった。

 暗闇の山の中で、突如主イエスの御顔の様子が変わり、衣が光り輝き始めたのです。そして、そればかりか、主イエスの周りにはモーセとエリヤが姿を現わします。

 一体ここで、何が起こっているというのでしょう。この主イエスから発せられる光は一体何を物語っているというのでしょう。こんなとてつもない出来事が起こっているのに、三人の弟子たちは、眠さの中にあって、この姿にはじめ気づいていなかったというのです。 (続きを読む…)

2023 年 10 月 15 日

・説教 ルカの福音書9章18−27節「すべては祈りの中で」

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2023.10.15

鴨下直樹

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主イエスが一人で祈っておられた時

 今日の箇所は、この言葉から始まっています。静かな場所で主イエスが祈っておられる。このお姿を見るだけで十分と言えるような世界が、弟子たちの前に示されています。

 祈っておられる主イエスの姿。草原だったのか、荒地だったでしょうか。

 風の音、草木がたなびく音、鳥や虫のまでが美しく調和している。

 弟子たちはそんな中で、主イエスの祈る姿を見ているのです。それは、誰も主の祈る姿の前に割り込むことのできないような完成された世界であったに違いありません。

 どんな絵画よりも、どんな景色よりも崇高な世界がある。その姿を見ることが出来たならば、何と幸いなことだろうと、私などは羨ましくさえ感じます。

 まだ私が高校生の頃、この箇所を読んで素朴に驚いたことを今でも覚えています。「主イエスでも祈るのか」。聖書を読み始めた頃に、心に留まったそんな思いは、今でも覚えています。

 聖書学者や、解釈者たちは、この箇所がルカの福音書の頂点だといいます。頂点ということは、そこからすべてのものを見渡すことができるようになるということです。ここに記されている一切の出来事は、この主イエスの祈りがもたらしたものです。

 私たちは自分の人生の頂点がどこにあるかなど、知る由もありません。その多くは、気づいた時にはもう手遅れになっているような状況で…ということも少なくないのかもしれません。

 私たちは自分の人生の道半ばで立ち止まり、何度も後ろを振り返りながら、この道でよかったのか、あるいは今、目の前に差し迫っている壁や障害を、どう乗り越えたらよいのかと途方に暮れてしまうのかもしれません。

 そんな中で、信仰が一体どんな役割を果たすのか、神は私に何をしてくれるのかと思いながら、心を悩ませているのかもしれません。

 今、私たちは連日のように、戦争や災害の話を耳にします。最近ではイスラエルとハマスとの間で起こった争いや、ミャンマーでも政府の軍隊が難民キャンプを砲撃したというショッキングなニュースが入っていました。最近ではモロッコやアフガニスタンでも大きな地震があったというニュースも入ってきています。

 こういう時に、私たちは主がそれぞれの被害に遭われている土地の人々に、慰めを与えられるようにと祈ります。その時に、私たちは少し立ち止まって「私たちが祈っている主は、どういうお方なのか」と考えることはないでしょうか?

 今日の聖書箇所では、主イエスは祈りの後で、弟子たちの方を振り向いて言われました。

「群衆はわたしのことをだれだと言っていますか」

 この主イエスの問いかけは、今日の世界に生きる私たちにもそのまま通じる問いかけであると言えるかもしれません。

「この世の人々はわたしのことを誰だと言っていますか?」

 この主イエスの問いに、私たちは何と答えることができるのでしょうか? (続きを読む…)

2023 年 10 月 1 日

・説教 ルカの福音書9章1-17節「主イエスと共に働く~神の国のインフルエンサーとして」

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2023.10.1

鴨下直樹

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 先週、私たちは東海合同礼拝を行いました。東海地区の64の教会がオンラインで、一つの礼拝を行いました。約3,000人の人々が集まって礼拝したのです。これは画期的なことで、これまで、こんなことができるなどということは誰も考えたことのないような礼拝でした。

 東海地区では、この伝道会議のために、ひとつのテーマを掲げました。そのテーマが「神の国のインフルエンサーとなる」です。「インフルエンサー」というのは、ここ数年前から語られるようになった言葉で、「影響力を及ぼす人」という意味のある言葉です。主にSNSなどに新しい情報を発信する人たちのことを言います。

 「神の国のインフルエンサーとなる」というのは、私たちクリスチャンが、この世界に神の国の福音を伝える影響力のある人になっていきましょうということです。そこで、合同礼拝では、開催地企画室長を務めてくださったインマヌエル名古屋キリスト教会の内山勝先生が、「地の塩、世の光」というテーマで、マタイの福音書の5章から、私たちは、すでに地の塩、世の光とされているのですから、もう私たちは神の国のインフルエンサーなのだという力強い励ましのメッセージを語ってくださいました。

 今日の聖書箇所はルカの福音書9章です。少し長い箇所で、1節から17節までの中に、十二弟子の派遣、ヘロデの主イエスへの関心、そして五千人の給食の奇跡という3つの出来事が記されています。この3つの出来事にはすべて「神の国の福音」がどのように広がっていくのかが記されています。

 まず、簡単に9章の流れだけ見てみたいと思います。主イエスは十二弟子を遣わします。1節と2節にこのように記されています。

イエスは十二人を呼び集めて、すべての悪霊を制して病気を癒やす力と権威を、彼らにお授けになった。
そして、神の国を宣べ伝え、病人を治すために、こう言って彼らを遣わされた。

 まず、この1節と2節で、主イエスの弟子たちは神の国の福音を宣べ伝えるために派遣されていくのですが、そのために悪霊を制して、病気を治す力と権威が与えられたと記されています。

 「神の国の福音」とは何でしょうか? 神の国というのは、神の支配のことです。神が一緒にいてくださるということです。それは、主イエスがおられるところには、神が一緒にいてくださって、共にいてくださって、神が私たちと共に歩んでくださるということです。

 神が共にいてくださることは、病気が癒やされたり、悪霊が追い出されたりすることで分かるようになるのです。この悪霊からの解放や、病気の癒やしということは、この前の8章でも語られています。神の支配というのは、具体的に、体感的に神が共にいてくださることが感じられるようになることだと、すでに8章までで明らかにされています。

 やがて、この権威を与えられた弟子たちの働きが噂になって、当時のユダヤ地方の総督であったヘロデの耳にまで入ります。ヘロデはこの噂に驚きを隠せませんでした。というのも、ヘロデはすでにバプテスマのヨハネを殺害した後だったからです。もう、このような人物はいなくなったと思っていたのに、主イエスとその弟子たちが同じような働きをし始めて、その影響力が無視できなくなってきたことが、ここで明らかにされています。

 つまり、主イエスの弟子たちは「神の国のインフルエンサー」として、この時点で地域に影響力を与え始めていたわけです。そういう意味では、主イエスとその弟子たちによる神の国のインフルエンサー事業はそれなりの成果を収めたわけです。

 それで、派遣の期間が終わって弟子たちが戻ってくると、主イエスは弟子たちをつれて「ベツサイダ」という町で休憩を取ることにします。 (続きを読む…)

2023 年 9 月 17 日

・説教 ルカの福音書8章40-56節「信仰」

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2023.9.17

鴨下直樹

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 聖路加国際病院で長い間院長として働いておられた日野原重明さんという方がおられます。この方は2017年、105歳で召されたのですが、まさに生涯現役で働かれたキリスト者の医者です。この日野原さんが89歳の時だったと思いますが、『いのちの器』という本を出されました。この『いのちの器』というのは、日野原さんの取り組まれた一つの働きで、こんなことを言っています。

「命は私に与えられた時間です。このいのちを何のために使うか、自分たちの生き方がこれから生きる子どもたちの手本になる」

 そのように言われて、全国の小学校などを訪ねては講演活動をしておられました。

 この『いのちの器』という本が出版された時の本の帯にこんなことばが書かれていました。

私たちのからだは、いのちを容れる器である。その器は聖書にあるように、土の器である。土の器である限り、使っているうちに器はその一部が欠けたり、もろくなったりする。
動脈硬化になった心臓や脳の血管は、硬くなり、もろくなった土の器の姿である。人間のからだは、年とともに古くなり、光沢がなくなっていくかもしれないが、土の器で形づくられる空間の中に、人間は自らの魂を満たすことができる。
人間一人一人は、このやがては必ず朽ちてゆく土の器に、この有限な器の中に、無限に通じるいのちを宿したものである。

 信仰の医者らしい言葉です。私たちは土の器なのだ。器である以上、欠けているところがあるし、病に侵されることがある。しかし、大切なのは聖書が言っているように、この土の器の中に、無限に通じるいのちを宿すことと言っています。

 そして、この福音書を記したルカも、医者として生きた人です。ルカ自身、パウロがコリント人に宛てて書いた時に使った、この「土の器」というメッセージを耳にしていたに違いありません。

 この医者であったルカは、この8章の21節で、「わたしの兄弟とは神のことばを聞いて行う人たちのこと」という主イエスの言葉を取り上げて語りました。これはそのまま「信仰とは神の言葉を聞いて行うこと」と言い換えることもできると思います。

 そして、ルカはこの言葉に続いて3つの主イエスの奇跡の御業を語りました。まず、嵐の出来事を通して、信仰を与えてくださる主イエスとともにいることが、どんな恐れの中にあっても確かな平安を与えるのだということを明らかにしました。

 そして、続く悪霊に支配された人を、悪霊から自由にすることを通して、主は忘れられた人を訪ねて、その人にも救いを与えてくださるのだという、主イエスの心を明らかにしてくださいました。

 そして、今日の箇所では、治らない病と、死という、絶望的な状況の中で信仰が与えられることを、ルカはここで医者として語ろうとしているのです。

 医者として直面する死の絶対的な力、医者の手ではどうすることもできない病を目の当たりにしながら、そこに表れる人の絶望的な姿を目の前にして、主イエスは何をなさったのかを、ルカはここで描き出すのです。

 主イエスは異邦人の土地から戻ってきました。すると、ガリラヤの人々は喜んで主イエスを迎え入れます。そこで主イエスを待ち構えていたのは、病に苦しんでいる人々でした。

 その中に、ヤイロという会堂司がいました。主イエスは安息日には会堂で話されていましたから、顔見知りの人物だったのかもしれません。その地域の人々からの信頼も厚い人物であったに違いありません。このヤイロは主イエスをみると、

彼はイエスの足もとにひれ伏して、自分の家に来ていただきたいと懇願した。
彼には十二歳ぐらいの一人娘がいて、死にかけていたのであった。

と41節と42節に書かれています。

 主イエスはこのヤイロの願いを聞かれてヤイロの家に向かうのですが、その途中に、もう一つの出来事が起こります。それが、続く43節と44節に記されています。

そこに、十二年の間、長血をわずらい、医者たちに財産すべてを費やしたのに、だれにも治してもらえなかった女の人がいた。
彼女はイエスのうしろから近づいて、その衣の房に触れた。すると、ただちに出血が止まった。

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2023 年 9 月 10 日

・説教 ルカの福音書8章26-39節「レギオン 居場所のない者の救い」

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2023.9.10

鴨下直樹

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 来週、いよいよ第7回の日本伝道会議が行われます。今回は、岐阜の長良川国際会議場で行われるのですが、会場に近い教会ということもあって、私は最初からこの会議のための準備のメンバーに加わってきました。毎週、何時間にも及ぶ話し合いを続けてきましたので、ようやく伝道会議が始まるといった印象を持っています。

 今回の伝道会議は「『おわり』から『はじめる』宣教協力」というテーマが掲げられています。今回は岐阜を会場に行われるのに、「尾張」と掛けているテーマが気に入らないなどという意見もたくさん耳にしました。けれども、全国の人々からすれば尾張も、美濃も、名古屋も、みんな東海地区でしょという印象のようで、それほど気にならないようです。

 この「おわり」というのは、この東海地区から宣教協力を始めていこう、あるいは、それぞれの地域から宣教協力を始めていこうという意味が込められているのですが、それ以外にも、これまでの形骸化したやり方を「終わり」にしようという意味合いも込められています。

 私たちは、自分たちの居心地の良い生活を続けていくために、嫌なものをどこか隅に追いやって、それこそ「臭いものには蓋」というような生活をしていることがあります。それを「タブー」と呼んだり、「聖域」と呼んだり、「伝統」と呼ぶこともあるのかもしれませんが、そこには触れないで、何とか合理的に解決する道を考えて生活しています。

 この蓋をしている聖域に踏み込むことは、タブーです。先日来、大きな芸能事務所のタブーが何十年ぶりかで明るみに出されたというニュースが、連日報道されています。そこに切り込んでいくということは、かなりの犠牲が生まれることになります。

 私たちの教会の中にも、気づかない間にそういうものが無いとも言えませんし、職場や、家族の中にも、いつの間にか、この話題はタブーだというようなものがあって、誰もそのことには触れないでおくというようなものが出来てしまっているかもしれません。

 今回の伝道会議はまさに、そのようなタブーになっているようなことをも乗り越えて、宣教のために協力していこうということが呼びかけられているのです。 (続きを読む…)

2023 年 9 月 3 日

・説教 ルカの福音書8章22-25節「大嵐の最中、その時主イエスは!」

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2023.9.3

鴨下直樹

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 二週間の夏休みを頂きまして、今日三週間ぶりにみなさんと礼拝を捧げることができることを嬉しく思います。私たちの教団は御代田に宿泊施設があり、牧師や宣教師たちが、この施設で夏休みを過ごします。いつも本当に感謝なことですけれども、二回の日曜を挟んで休暇をいただいて、そこでゆっくりした時間を過ごすことができます。

 その間は、本当に仕事を一切持っていきません。ですから、睡眠時間をいつもよりも相当長く取ることができます。ただ、どうしても普段習慣づいてしまっているので、いつも決まった時間に目が覚めますが、休みの間は、もう一度そこから一眠りすることができて、本当にゆっくりすることができました。

 この夏休みの時に、一回は下仁田教会の礼拝に行き、そこで説教をしました。もう一回は、日本基督教団の軽井沢教会の礼拝に行きました。その日の説教は、安息日の話で、「安息日というのは、自分の人生を中断することである。その間は自分のいのちを神様に委ねるわけで、そのことを通して、自分の人生を自分で支配しているのではないことを覚えるのだ」という話をされました。

 私たちは、自分の人生を自分で支配している気持ちになっているわけです。けれども、その自分の人生を一時中断しなければならない。それは死んだ状態になるということで、その時は神様に自分の人生を任せることになるわけです。復活の信仰というのは、そこにあるのだというのです。
 
 私たちの教会では、この夏も信徒交流会が行われ、先週無事に終わりました。久しぶりに行われたこともあって、とても新鮮な時となりました。信徒の方々が順に証しをしてくださいました。その中で何度も出てきた話は、自分が通された困難な状況の中にあって、今も主イエスが生きて働いておられたことを経験した証しです。

 私たちは誰もが、人生の歩みの中で様々な試練を経験することがあります。その時に、不安を感じたり、恐れの感情に支配されたりすることがあると思います。私たちはそのような人生の試練の中で、それとどう向き合うのか。まさに、自分自身の信仰が試されているような思いになることがあるのです。

 今日の聖書箇所は、そのような経験をした時の出来事が記されています。 (続きを読む…)

2023 年 8 月 13 日

・説教 ルカの福音書8章19-21節「神の家族=み言葉を聞いて行う者」

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2023.8.13

鴨下直樹

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 今、私たちの教会では「信徒交流会」ということで、夏の間の祈祷会は、信徒の方々が担当してくださっています。担当になってくださる方はほとんどみなさん証しをしてくださっています。先週は、水曜日は私の娘のキャンプの報告と、Sさん、木曜日はMさんが証しをしてくれました。

 先週話してくださった方も、その前に証ししてくださった方々もそうですが、決まって家族のことを取り上げられます。特に、木曜に話してくださったMさんは、今は結婚して山口県の岩国におられますが、今ちょうど帰省してきておられます。その証しでは、信仰に至るまでの、クリスチャンホームで育った中での葛藤をお話しくださいました。その証しをお聞きしながら、改めてクリスチャンホームの家庭の子どもたちが信仰に導かれる難しさというものに気付かされます。

 先週の説教でも少しお話ししましたけれども、私たちは今、全体主義の世界に生きてはおりません。個人が尊重される時代のなかで生きています。家族がクリスチャンだから、子どもの自分もクリスチャンになるように期待されていることは分かるわけですが、親の信仰と、自分はまったく別物です。いくら親が強制したとしても、自分で神様と出会うことなしに自分の中には信仰心は生まれません。この神様との出会いというのは、自分で神様とお会いして自分の心が動かなければどうにもならないことです。

 今日の聖書の箇所はまさに、主イエスの家族はどうであったのかということが記されています。

 19節にこのように書かれています。

さて、イエスのところに母と兄弟たちが来たが、大勢の人のためにそばに近寄れなかった。

 主イエスのところに主イエスの母と兄弟たちが訪ねてきたというのです。

 その続きはこのように記されています。20節と21節です。

それでイエスに、「母上と兄弟方が、お会いしたいと外に立っておられます」という知らせがあった。しかし、イエスはその人たちにこう答えられた。「わたしの母、わたしの兄弟たちとは、神のことばを聞いて行う人たちのことです。」

 イエス様の家族の立場で考えるとちょっと悲しい気持ちになってしまいます。ただ、ここを読んだだけでは、主イエスは結局のところ兄弟たちと会ったのか会わなかったのかははっきりしません。

 私たちはこれと同じ出来事がマルコの福音書にも書かれていることを知っています。そこでは、主イエスがおかしくなってしまったのではないかという噂が広がって、家族が主イエスの活動をやめさせるためにやって来たという流れで書かれています。

 ところが、ルカはそういう流れでは書いていませんので、マルコの福音書のことは一度忘れていただいて、ここを読んでいただきたいと思います。 (続きを読む…)

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