2023 年 5 月 21 日

・説教 ルカの福音書6章27-38節「あなたを量る秤」

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復活節第7主日
2023.5.21

鴨下直樹

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 今、私たちは主イエスが平地でなさった、「平地の説教」と呼ばれる箇所の御言葉を共に聞いています。主イエスは、私たちの生きている生活の場所まで下りて来られて福音を語ってくださいました。

 前回、語られたのは「貧しい者は幸いです」という言葉でした。私たちがこの世にあって、自分の人生が思うようにうまくいくような状況は、幸福に見えても、実は不幸なのだと言われました。けれども、主イエスは、私たちが生きている困難な状況、厳しいところ、そこで神を見出すことができることは幸いだと言われます。私たちが不幸だと感じるような生活の中で、神を見出すことができるなら、神が私たちと共にいてくださることを覚える、その時こそ幸せなのだと言われるのです。これが、平地の説教の冒頭の言葉でした。

 今日の箇所はそれに続いてのことばです。27節で、主イエスはこう言われました。

しかし、これを聞いているあなたがたに、わたしは言います。あなたがたの敵を愛しなさい。あなたがたを憎む者たちに善を行いなさい。

 ここで、主イエスは「しかし」と語り出されています。「しかし」というのはどういう意味なのでしょうか?

 主イエスはここで幸いな生活についてお語りになりました。そして、不幸な生活のこともお語りになられました。

 富んでいる人、今満腹している人、今笑っている人、人々があなたがたをほめるとき、そういう人は哀れなので、実は不幸なのだ、災なのだと主イエスは言われました。そうすると、それを聞いた人々はどう思うのでしょう。貧しい人たち、今苦労をしている人の立場であれば、それまで成功者と思われていた人たちが、主イエスから実は不幸なのだと言われた時に、どこかでほっとする、どこかで「ざまあみろ」という気持ちを抱くのではないでしょうか。

 主イエスは、説教者としてそういう人の心の動きをよく理解しておられるお方です。だから、ここで続けてこう言っておられます。

しかし、・・・わたしは言います。あなたがたの敵を愛しなさい」また、「あなたがたを憎む人たちに善を行いなさい」と言われたのです。

 「ざまあみろ」と思うのではなくて、そういう相手である「あなたがたの敵を愛しなさい」「憎む人たちに善を行いなさい」と言われたのです。

 主イエスがここで言われる「あなたの敵を愛しなさい」とはどういうことなのでしょうか。私たちは、この言葉を聞くと、どうしても「感情的に好きにならなくてはならないのだ」と考えてしまいます。もちろん、そうできたら良いのかもしれません。自分に対して敵対感情を向けてくる人を、自分の方から積極的に、自発的に好きになっていく。それが出来れば本当に幸いなことです。ただ、そう考えるとこの主の言葉は、私たちに非常に重い宿題を課すものとなっていきます。苦手な人を好きになれない自分は、何かが欠落しているのではないかと考えて自分を責めてしまうことになってしまうかもしれません。 (続きを読む…)

2023 年 5 月 14 日

・説教 ルカの福音書6章17-26節「幸いを告げる主の言葉」

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復活節第6主日
2023.5.14

鴨下直樹

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 何度聞いても驚くような言葉がここには記されています。

 「貧しい人たちは幸いだ」、「今飢えている人たちは幸いだ」、「今泣いている人たちは幸いだ」、「人々があなたがたを憎む時・・・排除し、ののしり、あなたがたの名を悪しざまにけなすとき、あなたがたは幸いだ」 そのように記されています。

 私たちの心が、魂が揺り動かされるような力強い言葉がここにはあります。私たちが生きている世界では決して聞こえて来ないような力強い言葉です。主イエスの語られたこの言葉を耳にした時、誰もが不思議に思います。一体、主イエスはどういう意味で語られているのだろうと思うのです。心が惹きつけられます。もっと聞きたいと思います。それが、主イエスの言葉、主イエスの説教です。

 説教とはこういうものだというまさにお手本のようお説教です。人の心に言葉が届くというのは、こういうことなのだと教えられます。

「福音」というのはこれまで聞いたことのないような良い知らせ、すばらしい知らせのことです。

「貧しい」とか「飢える」「泣いている」「人々から憎まれる」というような、ここで主イエスが語られたことというのは、私たちが普段恐れていることばかりです。

 貧しい時というのは、周りの人々から自分が蔑まれてしまうのではないかと感じるものです。飢える時、これほど惨めさを感じることはありません。涙を流す時、悲しみを抱える時というのは、そこから何とか抜け出したいと誰もが考えるのだと思うのです。

 私たちにとって、このような困難な状況、悲しい現実が突きつけられるような事態が訪れる時、主イエスは言われるのです。そういう時こそ、あなたがたは幸せなのだと。

 主イエスは誰よりも、私たちのことをよく知っていてくださるお方です。分かってくださるお方です。そして、ただ、理解してくださる、分かってくださるだけではなくて、そういう私たちに幸せを与えたいと願っていてくださるというのです。

 ここに挙げられている状況に陥ることは、決して幸いなことだとは思えない事柄ばかりです。しかし、主イエスは「貧しさ」も「飢え」も「泣くこと」も、「憎まれること」の中にも「幸い」を見ていてくださるのです。なぜなら、そこでこそ神と出会うことができるからだと言われます。 (続きを読む…)

2023 年 5 月 7 日

・説教 ルカの福音書6章12-16節「主イエスの弟子たち」

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復活節第5主日
2023.5.7

鴨下直樹

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 今日の聖書箇所の冒頭12節にこのように書かれています。

そのころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈りながら夜を明かされた。

 主イエスは夜通し祈っておられます。何を祈っていたかというと、この祈りを通して十二弟子をお選びになられたのです。

 この「12」という数字は特別な意味を持つ数字です。イスラエルの民は十二部族あります。この12の部族全てで神の民です。つまり、12というのは神の民を表す数字なのです。主イエスの十二弟子も、神の民全てを表します。この神の民全ての代表として、主イエスは12人をお選びになりました。この12人は新しいイスラエルの代表となるのです。そのために、主イエスは山に登られて夜を徹して祈られたのです。

 こうして、これから生まれる新しいイスラエルのために、主は先立って祈ってくださったのです。この新しいイスラエルというのは、今の私たちの教会のことも含まれています。主は、この弟子たちを中心とした新しい神の民イスラエルを再創造なさったのです。

 ルカは、こうして選ばれた12人の弟子たちのことを、「使徒」という名を与えられたと、続く13節で記しています。「使徒」というのは、古代ギリシャでは遠征に軍隊や艦隊を派遣することを意味した言葉でした。そのために正式に信任されて、権限を与えられた代表という意味を持つようになったようです。

 ここで選ばれた12人の使徒たちも、主イエスから信任を受けて、特別な使命のために派遣される、新しい教会の代表となっていきます。

 主イエスから信任を受けた、特別な使命を与えられた「使徒」というくらいですから、どんなに立派な人たちなのだろうかと思って見てみると、この弟子たちは本当に、かなりユニークな面々だということが分かります。

 14節から16節に、この十二使徒と呼ばれた人々の名前が出てきます。このリストを見ているだけでも、かなり個性的な人々の集まりであったことが分かります。

 まず気づくのは、同じ名前が3つもあります。ペテロと呼ばれたシモンの他に、熱心党員のシモン。漁師であったヤコブとヨハネの名前がありますが、アルパヨの子もまたヤコブです。しかも、このアルパヨの子のヤコブの子どもの名前にユダという名前があって、最後にイスカリオテのユダという名前も出てきます。このユダは主イエスを裏切るユダです。

 12人の中に3つの名前が重なっているわけですから、半分の名前は重なっていることになります。

 私には兄弟が二人ありますが、「なおき、ただし、けんじ」といいます。ある時、一番下のけんじが、小学校から帰ってきた時に、「今日、算数の問題で、なおき、ただし、けんじの名前が全部セットで出てきた。なんでこんなにありふれた名前にしたの!」と親に怒っていたことがありました。

 けれども、このシモンとヤコブとユダは、もっとポピュラーな名前です。このシモンとその兄弟アンデレ、そして続くヤコブとヨハネは、みな漁師たちでした。そして、それぞれ兄弟で、主に仕えています。ヤコブとヨハネには「ボアネルゲ(雷の子)」という名がつけられています。これは、気が短く、すぐ怒るというところから来ているそうです。短気で怒りっぽい人であっても、主の目にかなったのです。

 細かく全ての弟子について説明することは出来ませんが、次にピリポとバルトロマイという弟子が出てきます。この二人はいつもセットで出てきますが、他の福音書ではこのバルトロマイはナタナエルという名前で出てきています。

 この二人は弟子たちの中でもかなり優等生で、ナタナエルとして出てくる他の箇所では主イエスに「これこそイスラエル人」と呼ばれた人物でした。その正反対なのが次に出て来る取税人のマタイです。前回の5章で出てきた、ローマのためにユダヤ人の同胞からお金を取っていたような人物です。そして、マタイのような人をなんとかしたいと考えていたのが、熱心党員と呼ばれる人です。熱心党員のシモンとマタイなどは、仲良くするのは難しかったと思うのです。

 他にも石橋を叩いて渡るトマスのような弟子もいます。アルパヨの子ヤコブとユダ(別の福音書でタダイと書かれています)、この二人はどうも親子のようです。そこに、イスカリオテのユダです。このユダだけが、ガリラヤ以外の出身者ということになります。

 かなりキャラの強い人たちですから、仲良くやっていけたとは到底考えられません。それぞれ主義主張が異なっているのです。短気な兄弟や、慎重なトマス、突発的に行動してしまうペテロのような弟子までいるのです。これが、主イエスが徹夜の祈りをして、弟子として任命した十二使徒たちです。

 ここから何が分かるかというと、主イエスにとって、その人の性格やタイプ、主義主張や出身地というようなものは、何の問題にもならないのだということです。 (続きを読む…)

2023 年 4 月 30 日

・説教 ルカの福音書6章1-11節「愛する心を」

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復活節第四主日
2023.4.30

鴨下直樹

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 聖書にはレビ記という神の様々な戒めである律法の規定を記している書物があります。私は、このレビ記をとても興味深い書物だと思っています。多くの人が、聖書を読み始めようと思って聖書を読み進めると、最初の関門がレビ記だと言われます。細かな神様への捧げ物などをする祭儀の規定などが記されていて難しく感じるからです。律法というのは神の法律です。そこでは、神からの命令が記されているのですが、命令というのは、「何々してはならない」という記述の仕方が沢山あります。そういう戒め、規則の文章というのは読んでいてあまり楽しいものではないのかもしれません。ただ、そういう戒めの文章を読むときに、その言葉を文字通りに捉えるのか、それとも、その背後にある意図を知ろうとするのとでは、かなり捉え方は変わってきます。

 私が子どもの頃、小学生の頃のことです。両親が家を出る前にこう言い残しました。「戸棚にあるケーキは食べちゃダメだからね」と言って出かけたのです。我が家は5人きょうだいです。家族の中で当時、もっともよく使われていた言葉は「食い物の恨みは恐ろしい」という言葉でした。5人もきょうだいがいますから、目の前に食べ物があるときに口に入れなければ、「今度」はやってきません。鴨下家のその次によく使われていた言葉は「今度と化け物出たことない」という言葉です。なぜ、ことわざになっていないのかと不思議に思うほどです。「今度買ってきてあげるから」と言っても、出てきたためしがないのです。我が家はそんな具合ですから、戸棚に隠されたケーキの存在はまだ私しか知らない秘密ですから、その時点では私に主導権があると考えました。美味しいものを他のきょうだいに食べられるくらいなら、後でたとえ怒られようと食べておけというのが、私の当時の人生哲学でした。ですから何ら迷うことなく、親がいなくなったと同時に、戸棚のケーキは私のお腹の中に消えていったのです。

 するとどうでしょう。10分もしないうちに両親がお客さんを連れて帰ってきたのです。その時点で私は全てを理解しました。親が二人で出かけたのはお客さんを駅まで迎えに行ったからで、戸棚に隠されていたケーキはそのお客さんに出すためのものだったのです。

 親は、そのお客さんにケーキを出そうとして凍り付きました。4つあったはずのケーキの一つがないのです。当然、そのお客さんが帰った後で私は母から烈火のごとく叱られました。

 「戸棚のケーキを食べてはいけないよ」という戒めには、「それはお客さんに出すためのものだからね」という言葉が隠れていたわけです。けれども幼い子どもの頃の私にはそんな考えが背後にあるとは分かりませんでした。

 戒めの言葉というのは全てがこれと同じで、その戒めの背後には必ず異なる考えが隠されているのです。そして、神からの厳しい戒めも、その背後には、神からの私たちへの愛が隠されているのです。

 今日の安息日の戒めは、先ほど十戒を皆さんで読みましたが、新改訳ではこのように記されています。出エジプト記の20章8節から10節の途中までをお読みします。

安息日を覚えて、これを聖なるものとせよ。六日間働いて、あなたのすべての仕事をせよ。七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはいかなる仕事もしてはならない。

 十戒の第四の戒めです。ここには「安息日にはいかなる仕事もしてはならない」と戒められています。そして、この時代のパリサイ派の人々や律法学者の人々はこの戒めを忠実に守ることに、かなり力を注いできました。

 ここの「いかなる仕事もしてはならない」と書かれていますから、この「いかなる」は何をさすかを考えたわけです。そこで労働してはならないと考えました。じゃあ何が労働にあたるのかと続いて考えるようになりました。この安息日には何歩以上歩くと労働になるというような考え方まで登場してきたのです。そんな具合ですから、主イエスの弟子たちが、安息日に麦畑を通る途中で「穂を摘んで、手でもみながら食べていた」というのは、パリサイ人たちにしてみれば、禁則を犯したと思ったのは彼らからすれば当然のことだったのです。麦を収穫して、脱穀するというのは労働と考えられたからです。
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2023 年 4 月 16 日

・説教 ルカの福音書5章33-39節「主イエスとの新しい歩み」

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復活節第二主日「クアジ・モド・ゲニティ」
2023.4.16

鴨下直樹

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 今日は、復活節の第二主日です。教会の暦では「クアジ・モド・ゲニティ」という名前の付いた主の日です。これはこの日に読まれるペテロの手紙第一第2章2節のラテン語から来ています。「今生まれた乳飲み子のように」という意味です。

 よみがえりの主の新しいいのちに生かされる私たちは、よみがえりの信仰によって「乳飲み子」のように、新しい人生を歩み出していくのです。

 そういう意味では、今日の聖書箇所はこの日にぴったりな聖書箇所だと言えると思います。前回の箇所で出てきた、取税人のレビは、まさにこの「生まれたばかりの乳飲み子」のような状態だと言えるからです。

 レビは、主と共に歩むように招かれました。そこで、みんなで美味しくご飯をたべながらお祝いをしていたのです。ところが、それを見ていたパリサイ派と律法学者が主イエスに尋ねました。

 「さきほど、あなたは『わたしは罪人を招いて悔い改めさせるために来た』と言われましたよね? でも、悔い改めているようには見えないのですが?」と問いかけてきたのです。

 このパリサイ人たちの疑問は意地悪な質問というよりは、普通に感じた疑問なのだと思います。今日の33節の冒頭に「ヨハネの弟子たちはよく断食をし、祈りをします。パリサイ人の弟子たちも同じです」とあります。

 こういう習慣は、パリサイ人たちだけではなくて、初代の教会にもあった習慣です。たとえば、ルカが書いた使徒の働きの13章の1節から3節を読むと、アンティオキアの教会からバルナバとパウロを派遣して送り出す時にこう書かれています。「そこで彼らは断食して祈り、二人の上に手を置いてから送り出した。

 教会ははじめの頃から、断食をして祈る習慣をもっていました。これは、食事を食べる時間も忘れるほどに祈りに集中するという習慣を持っていたのです。断食して祈るという習慣があったということは、やはり悔い改めをする時も、断食をして祈ることはごく一般的にとらえられていたのです。

 今日、ドイツから来日しておられるマレーネ先生を囲んで、礼拝の後に食事会をする計画があるようです。初代教会風にいうと、「食卓を囲んで交わりをし、そして、マレーネ先生を送り出した」ということになります。こんな話をすると、「あれ? そんな話をする鴨下先生は、今日は食事をしないで断食するつもりなのか?」と思われる方があるかもしれません。もちろん、喜んで一緒に食事をさせていただきたいと思っています。

 けれども、言葉の印象としてはどうでしょうか? 「断食して祈る」というのと「食卓を囲んで祈る」というのを比べた時に、どういう印象を持つでしょうか?

 別に、意地悪で言っているわけではないのです。なんとなくですけれども、「断食をした」という風に聞いた方が、真面目な雰囲気があるんだと思います。断食と比べられると、楽しく食事をしていることが、悪いことかのような印象になってしまうわけです。

 当時の教会にも断食をするという習慣はありましたので、断食して祈るというのはとても重要なことだということは間違いありません。特に、ここで主イエスが「わたしが来たのは悔い改めさせるため」と言われたものですから、悔い改めというのは、断食するんじゃないの? とパリサイ人たちは当たり前のように思ったのです。ところが、主イエスたちを見てみると、断食するどころか、楽しそうに食事をしているので、パリサイ派の人々は「いやいや、それは悔い改めとは言わないでしょ」と言いたくなったのです。気持ちはよく分かります。

 ところが、そう言われて、主イエスはこう答えられました。34節と35節です。

「花婿が一緒にいるのに、花婿に付き添う友人たちに断食させることが、あなたがたにできますか。しかし、やがて時が来て、花婿が取り去られたら、その日には彼らは断食します。」

 主イエスはここで、弟子になったレビは今花婿と一緒にいるんだから、断食する必要はないのだと答えられたのです。ここで言われている花婿とは、主イエスのことです。レビにとっては、わたしと一緒に歩む結婚の誓いをしたようなものなのだから、今は喜ぶ時であって断食する時ではないのだと言われたのです。 (続きを読む…)

2023 年 4 月 2 日

・説教 ルカの福音書5章27-32節 「罪人を招かれるお方」

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棕櫚の主日礼拝
2023.4.2

鴨下直樹

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 今週は教会の暦で「棕櫚の主日」と言います。主イエスがエルサレムに入られて、十字架にかけられるまでの一週間の期間を過ごすことになります。この一週間のことを「受難週」とか「レント」と呼びます。

 この時、私たちは自分自身の罪と向かい合いながら、主イエスの十字架の意味を心に刻むのです。この受難週に私たちはこの「罪」に心を向けます。

 そこで、今日の箇所では、まさにこの時代だれからも「罪人」と思われた「取税人のレビ」が登場してきます。

 私はこの説教のためにある本を読んでいた時「彼はこの世の人間の屑でした」と書かれている文章を見つけて衝撃を受けました。聖書の解説の中で、そんな言葉を目にするとは思ってもいなかったのです。

 「人間の屑」というのは、なかなか厳しい言葉です。人に向かって使ってはいけない言葉です。けれども、この言葉には、レビの同胞であったユダヤ人たちからしてみれば、そういう思いがあったのかもしれません。同胞のユダヤ人からお金を取って、自分たちを支配しているローマのためにお金を納めるのです。当然疎ましく思われたはずです。

 先日の祈祷会で、みなさんに質問してみました。「このレビは同胞から疎まれても、それでも逞しくこの取税人という仕事に就いていられたのは、どういうモチベーションがあったと考えられますか?」という質問です。

 色んな答えが返ってきました。一番多かったのは「お金が手に入ることで、満足感を得たり、優越感に浸れたのではないか」という意見でした。他にも、こんな意見がありました。「ローマ人に仕えることができるというのは、他のユダヤ人たちとは違う特権を持っていたはずなので、それは誇りになり得たのではないか」という意見です。

 少しレビのことを想像してみたいと思います。レビは毎日、一体どんな気持ちで収税所に座っていたのでしょう。もちろん、取税人という仕事は誰かがやらなければいけない働きです。ローマからの特権もたくさんあったのでしょう。けれども、妬みや憎しみの目を向けられることも事実です。このレビは、他の福音書を読むと「マタイ」という名前で登場しています。マタイの福音書はこの人が書いたと考えられています。マタイの福音書を読むと、旧約聖書に精通している人物だということが分かります。

 レビは、どうやったのか分かりませんが取税人という仕事を得ました。その仕事が自分を支えていたに違いありません。

 それは、私たちも同じだと思うのです。人は自分の得たもの、手にしたもので、生きていかなければなりません。自分が手に入れて来たもので自分自身を支えているのだと思うのです。

 お金があるから大丈夫。そう考えて、お金によって自分のプライドやアイデンティティーを支えているということはあると思います。あるいは仕事のやりがいや、仕事の楽しさが自分を支えていることもあるでしょう。自分がこれまで培ってきた能力や、技能や、人脈や、知識や、経験といったさまざまなものが、私たちの毎日の生活を支えています。それは、間違いのないことですし、それは私たち自身にとって、とても大切なものでもあります。

 レビにしてみれば、少なくともこれまでは、それでいいと考えていたはずです。ところが、そんなレビに唐突に次のような言葉が語り掛けられます。

 主イエスはレビに語り掛けられました。「わたしについて来なさい」と。 (続きを読む…)

2023 年 3 月 26 日

・説教 ルカの福音書5章17-26節「天井を突き抜けた救い」

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2023.3.26

鴨下直樹

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 先週、WBC、野球のワールドカップが終わりました。とてもドラマチックな展開で、日本が見事優勝しました。私も、普段はそれほど野球を見ないのですが、今回は夜に再放送をしたこともあって、何度かゲームを見ました。一か月間続いたゲームが無くなって刺激がなくなったという方も少なくないのだと思います。

 私たちは普段、毎日同じことの繰り返しの生活を退屈に感じるかもしれません。時々、私たちの生活を刺激してくれるWBCのような非日常の体験というのは、私たちに刺激を与えてくれます。普段は退屈な毎日とは思っていなくても、何か大きな出来事が終わってしまうと、自分たちの普段の生活がとても退屈なものに見えてしまう。そんな経験をすることがあるのかもしれません。それは、たとえクリスチャンであったとしても、信仰を持っていたとしても同じようなことが起こるわけです。

 私自身もそんな思いになることに、今さらながら驚きを覚えます。聖書を読んで、お祈りすれば神様との豊かな交わりの中にいるのだから、退屈さなんてないのではないかと思うのかもしれません。なぜそう思うのだろうかと、私自身考えてみると、一つ見えてくることがあります。それは、「答えが見えて来る」「先が読めて来る」という経験です。

 聖書を読んでいても、本当は分からないことばかりなのですが、いつのまにかすっかり聖書が分かったような気持ちになってしまうことがあるわけです。聖書の学びを皆さんとしているときも、何か質問があるとつい、分かっている気になって話してしまいます。そういう思いというものを持つと、いつしか足もとがぐらつくことにもなりかねないのです。もう、何もかも、分かっている。神様が何と言われるか分かっている。そういう思いによって日常が造り上げられていくときに、私たちの生活はたちどころに退屈なものとなってしまうのではないでしょうか。

 先日も、今日の聖書箇所を祈祷会でみんなと学びました。とても刺激的で楽しい時間でした。というのは、皆さんから予想もしない答えが出てくるからです。私は普段、自分一人で聖書を読んで、聖書の解説を読んでいます。そんなことをずっと続けていますから、この箇所はこうやって解釈するというのは当たり前になってしまいます。そうすると、何だかわかったような気になって、聖書を読むことすら退屈になってしまうということが起こり得るわけです。

 けれども、先日もみなさんと話していますと実に様々な意見が飛び交いました。それは私にとって、非常に刺激的な聖書の学びの時となした。

 今日の聖書は、「また」と言ってもいいかもしれません。癒しの奇跡の御業が記されているところです。「中風の患者の癒し」と呼ばれています。中風というのはギリシャ語では「片方がゆがむ」という意味の言葉です。例えば脳梗塞などの病のために体が麻痺してしまう状態にある人のことをいいます。聖書の注のところにも、「からだが麻痺した状態の人」と記されています。

 ツァラアトの病の人に続いて、中風の人が出て来るのも、人が一度病になってしまうと、そんなに簡単に癒されることがない病として記されていることが分かります。そういう病に陥った時に、その病をどのように受け止めていくのかという、人の姿がここには描き出されています。

 もちろん、それは病の場合に限りません。病というのはその人の生活が困難な状況におかれてしまいますので、その病を抱えながらとても厳しい生活をしなければなりません。毎日、その厳しい現実を目の当たりにしながら、どこかで今の自分の身に起こっている状況が改善することを人は求めるのです。それは、病だけではなくて、人との関係の中でも起こることです。あるいは、経済的な困窮という場合もあるでしょうし、受け入れがたい日常が続くなかで、多くの人がどうしたらそこから抜け出すことが出来るのかを求めているのだと思います。

 そういう生活の中で、信仰が何の助けにもならないように感じてしまう場合もあると思います。今の自分の置かれている状況が変わるとは思えないので、その中でもがき苦しむということもあるのだと思うのです。そんな変わらない現状に苦しんでいるのが、今日出て来る中風を患っている人です。
私たちは今日、この病の人に目を留めることになるのですが、今日の所にはそれ以外の人々も登場してきます。特に今日聖書に出て来る登場人物の中には、新しい人たちが姿を現します。それが「パリサイ人たちと律法の教師たち」です。

 今日の箇所から6章の前半までに4つの物語が記されています。この4つの物語に共通して登場するのが、このパリサイ人たちと律法学者たちです。彼らは、主イエスが人々の病を癒し、聖書を解き明かしているという噂を聞きつけて、至る所から集まって来たようです。最近噂になっているイエスとはいったい何者なのか、興味を持っていたのです。

 ルカはここでこのユダヤ人の宗教指導者たちが主イエスの働きを見て、何を感じたのかということを、描き出していこうとしています。その最初の出来事として、この中風の患者の癒しの出来事を、パリサイ人たちや律法学者たちが見たのだと記録していったのです。

 今日の物語は、このパリサイ派たちに代表されるユダヤ人の宗教指導者たちの視点、そして、中風の患者とその友達の視点、また主イエスの視点と3つの視点で見てみる必要があります。 (続きを読む…)

2023 年 3 月 19 日

・説教 ルカの福音書5章12-16節「主の御手は光のごとく」

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2023.3.19

鴨下直樹

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 今日の聖書の中には「ツァラアトに冒された人」という言葉が出てきます。聖書を初めて読む人には何のことだか良く分からない言葉です。今は、「重い皮膚病」とか「規定の病」と訳したり、新改訳のように原文をそのままで「ツァラアト」と訳したりしています。

 この「ツァラアト」というのは、これまでは「らい病」と訳してきました。この翻訳のために、「らい病」「ハンセン氏病」の人が長い間苦しめられてきました。聖書がこの病のことを神からの刑罰としての病として描いてきたからです。

 たとえば、モーセの姉ミリアムも(民数記12章)この病に侵されてしまいました。エリシャの従者であったゲナジもナアマン将軍が持参した貢物に目がくらんでそれを手にした時、ツァラアトに冒されたと記されています。

 レビ記14章ではこの病に冒された者は人の中を通る時には「汚れている、汚れている」と言わなければなりません。また、町の外の宿営に隔離されて生活することになります。つまり、この病は、人と一緒に生きて行くことがもはやできず、誰からも避けられて一人孤独に生活しなければならない、感染の危険のある病とされてきたのです。

 そのために、人々はこの病に冒されることは、神の裁きであり、何か悪いことをして神の怒りをかった人なのだと考えるようになりました。病のために苦しむだけではなくて、誰からも理解されず、神からも見放された病。それが、このツァラアトという病でした。

 今日の箇所は12節でこのように書かれています。

さて、イエスがある町におられたとき、見よ、全身ツァラアトに冒された人がいた。その人はイエスを見ると、ひれ伏してお願いした。「主よ、お心一つで私をきよくすることがおできになります。」

 この一節だけでも、いろいろなことが語られています。まず、「主イエスがある町におられたときに、全身ツァラアトに冒された人がいた。」と書かれていますが、このこと自体がありえない出来事です。先ほど話したように、この病の人は町の中に入れません。ということは、この人はどこかで主イエスの噂を聞いて、いてもたってもいられなくなって、その禁令を破って町の中に入って来てしまったということです。

 そこで、うまい具合に主イエスと出会うことができたようです。すると、いきなり主の前にひれ伏してお願いしたとあります。この人が男性なのか、女性なのかも分かりませんが、必死さだけはこの文章からも良く分かります。しかも、「癒してください」と願ったのではありませんでした。まず、「主よ」と呼びかけていることもそうですが、「お心一つで私をきよくすることがおできになります」と語っています。自分の願っていることではなくて、主イエスの願ってくださることが重要なのだと、言っているのです。 (続きを読む…)

2023 年 3 月 12 日

・説教 ルカの福音書5章1-11節「深みへの招き」

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2023.3.12

鴨下直樹

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 今、私たちは受難節を過ごしております。受難節というのは、十字架に向かわれるために苦しみを受けられた主イエスのお姿を心に刻み、主の御前に悔い改める時です。それは、また自分を見つめる時でもあります。

 今日のところでは、シモン・ペテロという主イエスの最初の弟子となる人が出てきます。シモンは漁師です。ペテロはここで、一日の漁を終え、網を繕いながら自分を見つめています。

 一晩中漁をしたのに、その夜は何も捕れませんでした。夜通し働いたのに何の収穫もないのです。けれども、次の漁のために、網を繕わなくてはなりません。シモンは、そんな作業に明け暮れながら虚しさがあったと思います。食べていく不安があったかもしれません。苛立ちがあったかもしれません。漁師としての力のなさに打ちひしがれていたかもしれません。網を繕いながら、いろんな考えが頭をよぎったと思うのです。

 みなさんも、そういう経験をしたことがこれまでの歩みの中でもあったと思います。そういう時というのはどうしても、物事を悪い方に、悪い方にと考えてしまうものです。自分の力の無さや、自分の失敗という事柄の前に、私たちは暗い気持ちに支配されることがあるのだと思うのです。

 受難節というのは、ここに描かれているシモン・ペテロのように、自分を見つめる時となるのです。

 そんなシモンに主イエスは声をかけられます。舟を出してくれないか、少し沖から話をしたいのだがと頼まれたのです。この前の4章で主イエスはシモンの家に来られて、シモンの姑を癒しておられますから、シモンとの面識はあったことになります。他の福音書では、シモンが弟子になった後で、シモンの家を訪れていますが、ルカの福音書は順序が逆になっていますから、ルカは時間的な順序ということをあまり気に留めていないのかもしれません。いずれにしても、ルカはここでシモンと主イエスの出会いの出来事を描き出そうとしているのです。

 舟を沖に出すように頼まれたシモンは自分の舟に主イエスをお乗せし、少し沖へ漕ぎ出します。そこから群衆に向かって説教される主イエスの言葉に耳を傾けます。シモンはその時、どんな気持ちで主イエスの言葉を聞いたのでしょう。シモンからしてみれば、内心それどころではなかったかもしれません。主イエスの話を聞きたかったから協力したわけでもなさそうです。ただ、そこでじっと話を聞いたのは間違いありません。

 その時に主イエスが何をお語りになられたのか、シモンがどのように説教を聞いたのか、あるいは説教を聞きに来たと記されているその群衆の反応も、ルカはここで記しておりません。ということは、ルカは主イエスの説教と、その説教に対する群衆やシモンの反応については、ここでは描こうとしていないわけです。むしろ、その後の出来事に力点を置いています。

 4節にはこう記されています。

話が終わるとシモンに言われた。「深みに漕ぎ出し、網を下ろして魚を捕りなさい。」

 この主イエスの言葉は、シモンにどのように響いたでしょう。完全にシモンの想定外の言葉だったはずです。この当時の漁師たちは、昼間は魚が捕れないという経験から、夜に舟を出して朝戻って来るのが常でした。真昼に魚など捕れるはずがないのです。それは、漁師であるシモン自身が一番よく理解していたはずです。

 主イエスは何よりも、シモンの心の内にある思いをよく分かっていたと思います。自分を見つめ、自分の力や、自分の経験というものを見つめようとしているシモンに対して、主イエスはそこから抜け出すようにと、ここで語りかけておられるのです。

 自分の力を信じる、自分のこれまでの経験や、一般的な常識にとらわれている考え方のままでいるのではなく、「その考え方を捨てよ! そこから抜け出せ! そして、わたしの言葉に委ねてみよ!」と主イエスはここで語りかけておられるのです。常識に逆らってでも、自分の思い込みから抜け出してみよと、主イエスは語りかけておられるのです。

 神の言葉のすばらしさは、私たちの理解を超えたところにあります。そして、それは思いもよらないような出来事になるのです。

 シモンは思いがけない言葉をかけられてどうしたというのでしょう。5節にこう記されています。

すると、シモンが答えた。「先生。私たちは夜通し働きましたが、何一つ捕れませんでした。でも、おことばですので、網を下ろしてみましょう。」

 ルカは、このシモンの言葉を信仰の決断として描き出そうとはしていません。特に主イエスの言葉を信じて、その言葉に従ったという積極的な応答の姿ではありませんでした。むしろ、不本意で、疑いながらだったようです。ただ、そこまで言われるのであれば少し試してみましょうか? それがシモンの答えでした。

 ところが、シモンはそこで予想もしていない出来事に遭遇することになります。結果は、大漁です。捕れた沢山の魚はシモンの舟だけでは入りきらないので、岸辺にいたであろう友達のヨハネとヤコブを呼んで、その二人も巻き込み大漁を経験するのです。

 ルカはここで、主イエスの言葉は、従うと出来事が起こるのだということを描き出しています。そして、この神の御業とは、私たちの想像をはるかに超えた出来事が起こるのだと描き出しているのです。

 これが、シモンと、ヨハネとヤコブの、キリストとの出会いの出来事となったのです。それは、とても印象的な出来事だったのです。 (続きを読む…)

2023 年 3 月 5 日

・説教 ルカの福音書4章31-44節「神の言葉の力」

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2023.3.5

鴨下直樹

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 聖書を読む時に私たちは主イエスのお姿に目を留めます。主イエスのお姿に注目しながら今日の箇所を見ていきますと、私たちはここで衝撃的な印象を持つことになります。ここで描かれている主イエスのお姿というのは、りつけておられる厳しいお姿だからです。

 ガリラヤの町カペナウムに行かれた主イエスは、安息日になると会堂に入られました。すると、そこに悪霊につかれた人が出てきます。この人は主イエスに向かって「私たちを滅ぼしに来たのですか?」と語り「あなたが誰だか知っている。神の聖者だ」と言うのです。すると、主イエスは彼を叱ったと35節に書かれています。

 その後の記事でもそうです。会堂を出てシモンの家に行くと、そこでシモンの姑がひどい熱で苦しんでおり、人々は主イエスに治してくれるようお願いすると、主イエスは枕元に立って「熱を叱りつけられた」と記されています。

 「ちょっとイエス様は切れすぎなんじゃないか?」とか「カルシウム不足なんじゃないか?」とか思われても仕方がない書き方です。

 私たちは普段すぐに怒って大きな声をあげる人のことを、あまり好きにはなれないと思います。主イエスを紹介することを目的とした伝道の戦略としては、あまり賢い書き方だとも思えません。

 どうしてルカはこんなマイナスの印象を持たれてしまいがちな主イエスのお姿を、ここで描くのでしょうか。

 その他にも、今日の箇所には私たちが首を傾げたくなるようなことがいくつか記されています。例えば福音書に登場する「悪霊につかれた人」という描写を考えてみてもそうです。旧約聖書には悪霊に取りつかれた人の話はほとんどありません。ところが主イエスが登場すると、まるでそんなことは日常茶飯事でもあったかのように、頻繁に起こっているように描き出しています。これは、どういうことなのでしょうか。

 「悪霊」というのは神に敵対する霊の働きです。悪霊は神の国の支配を阻止したいと考えている、神に敵対する存在です。主イエスが活動を始めることを通して、人々は神の国のことを知るようになります。そうして人々が神に近づこうとすればするほど、悪魔の働きは活発化してくる。そんなふうに考えることができるのかもしれません。

 人々が神から離れている時は、悪魔はおとなしくしているものです。旧約聖書の場合、多くの人々は神から遠く離れたところにいましたから、それほど悪魔が働く必要がなかった。けれども、主イエスが働き始めると、いよいよ悪魔はうかうかしていられなくなって、活発に活動するようになった。そう考えることもできるのかもしれません。

 いずれにしても、ルカはこの前の出来事のような主イエスと群衆という構図ではなくて、ここでは主イエスと悪霊や病というように描き出そうとしていることが分かります。

 そして主イエスは、そういう神に敵対し人々から神さまを遠ざけようとしている存在に対して、ここで怒っておられるのだということが分かってくるのではないでしょうか。

 主イエスがここで叱っているのは、ペテロの姑に対してではなく、病に対してです。会堂に座っていた人に向かって叱ったのではなく、主イエスに近づいて主が何者なのかを人々に知らせようとしている悪霊に向かって叱っておられるのです。

 40節以降になるとこんな記事が書かれています。

日が沈むと、様々な病で弱っている者をかかえている人たちがみな、病人たちをみもとに連れて来た。
イエスは一人ひとりに手を置いて癒された。

 主イエスはここで病の癒しを求める人々に、とても親切に接しておられます。病を抱えている人が主イエスのみもとに来ると、主イエスは十把一絡げで癒されたのではなくて、一人ひとりに手を置いて癒しをしておられます。

 前回の説教箇所に記されていたナザレでは、身勝手で奇跡ばかりを期待する人に対して、主イエスは癒しをなさいませんでした。しかし、このカペナウムではまるで別人のように癒しをしておられる主のお姿が目に留まります。

 私たちはこういう場面を見るとすぐに、癒してもらえるケースと、癒してもらえないケースをしっかりと分析して、正しい求め方をしたら癒してもらえるに違いない。そんな考えを抱くのかもしれません。しかし私たちが、ここで主のお姿を見て心に留めなければならないのは、残念ながらどうすれば癒してもらえるのかという方法の問題なのではないのです。

 主がここで何を大切なこととして示そうとしておられるのか、その本質に目を留めることが大切です。 (続きを読む…)

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