2023 年 3 月 12 日

・説教 ルカの福音書5章1-11節「深みへの招き」

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2023.3.12

鴨下直樹

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 今、私たちは受難節を過ごしております。受難節というのは、十字架に向かわれるために苦しみを受けられた主イエスのお姿を心に刻み、主の御前に悔い改める時です。それは、また自分を見つめる時でもあります。

 今日のところでは、シモン・ペテロという主イエスの最初の弟子となる人が出てきます。シモンは漁師です。ペテロはここで、一日の漁を終え、網を繕いながら自分を見つめています。

 一晩中漁をしたのに、その夜は何も捕れませんでした。夜通し働いたのに何の収穫もないのです。けれども、次の漁のために、網を繕わなくてはなりません。シモンは、そんな作業に明け暮れながら虚しさがあったと思います。食べていく不安があったかもしれません。苛立ちがあったかもしれません。漁師としての力のなさに打ちひしがれていたかもしれません。網を繕いながら、いろんな考えが頭をよぎったと思うのです。

 みなさんも、そういう経験をしたことがこれまでの歩みの中でもあったと思います。そういう時というのはどうしても、物事を悪い方に、悪い方にと考えてしまうものです。自分の力の無さや、自分の失敗という事柄の前に、私たちは暗い気持ちに支配されることがあるのだと思うのです。

 受難節というのは、ここに描かれているシモン・ペテロのように、自分を見つめる時となるのです。

 そんなシモンに主イエスは声をかけられます。舟を出してくれないか、少し沖から話をしたいのだがと頼まれたのです。この前の4章で主イエスはシモンの家に来られて、シモンの姑を癒しておられますから、シモンとの面識はあったことになります。他の福音書では、シモンが弟子になった後で、シモンの家を訪れていますが、ルカの福音書は順序が逆になっていますから、ルカは時間的な順序ということをあまり気に留めていないのかもしれません。いずれにしても、ルカはここでシモンと主イエスの出会いの出来事を描き出そうとしているのです。

 舟を沖に出すように頼まれたシモンは自分の舟に主イエスをお乗せし、少し沖へ漕ぎ出します。そこから群衆に向かって説教される主イエスの言葉に耳を傾けます。シモンはその時、どんな気持ちで主イエスの言葉を聞いたのでしょう。シモンからしてみれば、内心それどころではなかったかもしれません。主イエスの話を聞きたかったから協力したわけでもなさそうです。ただ、そこでじっと話を聞いたのは間違いありません。

 その時に主イエスが何をお語りになられたのか、シモンがどのように説教を聞いたのか、あるいは説教を聞きに来たと記されているその群衆の反応も、ルカはここで記しておりません。ということは、ルカは主イエスの説教と、その説教に対する群衆やシモンの反応については、ここでは描こうとしていないわけです。むしろ、その後の出来事に力点を置いています。

 4節にはこう記されています。

話が終わるとシモンに言われた。「深みに漕ぎ出し、網を下ろして魚を捕りなさい。」

 この主イエスの言葉は、シモンにどのように響いたでしょう。完全にシモンの想定外の言葉だったはずです。この当時の漁師たちは、昼間は魚が捕れないという経験から、夜に舟を出して朝戻って来るのが常でした。真昼に魚など捕れるはずがないのです。それは、漁師であるシモン自身が一番よく理解していたはずです。

 主イエスは何よりも、シモンの心の内にある思いをよく分かっていたと思います。自分を見つめ、自分の力や、自分の経験というものを見つめようとしているシモンに対して、主イエスはそこから抜け出すようにと、ここで語りかけておられるのです。

 自分の力を信じる、自分のこれまでの経験や、一般的な常識にとらわれている考え方のままでいるのではなく、「その考え方を捨てよ! そこから抜け出せ! そして、わたしの言葉に委ねてみよ!」と主イエスはここで語りかけておられるのです。常識に逆らってでも、自分の思い込みから抜け出してみよと、主イエスは語りかけておられるのです。

 神の言葉のすばらしさは、私たちの理解を超えたところにあります。そして、それは思いもよらないような出来事になるのです。

 シモンは思いがけない言葉をかけられてどうしたというのでしょう。5節にこう記されています。

すると、シモンが答えた。「先生。私たちは夜通し働きましたが、何一つ捕れませんでした。でも、おことばですので、網を下ろしてみましょう。」

 ルカは、このシモンの言葉を信仰の決断として描き出そうとはしていません。特に主イエスの言葉を信じて、その言葉に従ったという積極的な応答の姿ではありませんでした。むしろ、不本意で、疑いながらだったようです。ただ、そこまで言われるのであれば少し試してみましょうか? それがシモンの答えでした。

 ところが、シモンはそこで予想もしていない出来事に遭遇することになります。結果は、大漁です。捕れた沢山の魚はシモンの舟だけでは入りきらないので、岸辺にいたであろう友達のヨハネとヤコブを呼んで、その二人も巻き込み大漁を経験するのです。

 ルカはここで、主イエスの言葉は、従うと出来事が起こるのだということを描き出しています。そして、この神の御業とは、私たちの想像をはるかに超えた出来事が起こるのだと描き出しているのです。

 これが、シモンと、ヨハネとヤコブの、キリストとの出会いの出来事となったのです。それは、とても印象的な出来事だったのです。 (続きを読む…)

2023 年 3 月 5 日

・説教 ルカの福音書4章31-44節「神の言葉の力」

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2023.3.5

鴨下直樹

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 聖書を読む時に私たちは主イエスのお姿に目を留めます。主イエスのお姿に注目しながら今日の箇所を見ていきますと、私たちはここで衝撃的な印象を持つことになります。ここで描かれている主イエスのお姿というのは、りつけておられる厳しいお姿だからです。

 ガリラヤの町カペナウムに行かれた主イエスは、安息日になると会堂に入られました。すると、そこに悪霊につかれた人が出てきます。この人は主イエスに向かって「私たちを滅ぼしに来たのですか?」と語り「あなたが誰だか知っている。神の聖者だ」と言うのです。すると、主イエスは彼を叱ったと35節に書かれています。

 その後の記事でもそうです。会堂を出てシモンの家に行くと、そこでシモンの姑がひどい熱で苦しんでおり、人々は主イエスに治してくれるようお願いすると、主イエスは枕元に立って「熱を叱りつけられた」と記されています。

 「ちょっとイエス様は切れすぎなんじゃないか?」とか「カルシウム不足なんじゃないか?」とか思われても仕方がない書き方です。

 私たちは普段すぐに怒って大きな声をあげる人のことを、あまり好きにはなれないと思います。主イエスを紹介することを目的とした伝道の戦略としては、あまり賢い書き方だとも思えません。

 どうしてルカはこんなマイナスの印象を持たれてしまいがちな主イエスのお姿を、ここで描くのでしょうか。

 その他にも、今日の箇所には私たちが首を傾げたくなるようなことがいくつか記されています。例えば福音書に登場する「悪霊につかれた人」という描写を考えてみてもそうです。旧約聖書には悪霊に取りつかれた人の話はほとんどありません。ところが主イエスが登場すると、まるでそんなことは日常茶飯事でもあったかのように、頻繁に起こっているように描き出しています。これは、どういうことなのでしょうか。

 「悪霊」というのは神に敵対する霊の働きです。悪霊は神の国の支配を阻止したいと考えている、神に敵対する存在です。主イエスが活動を始めることを通して、人々は神の国のことを知るようになります。そうして人々が神に近づこうとすればするほど、悪魔の働きは活発化してくる。そんなふうに考えることができるのかもしれません。

 人々が神から離れている時は、悪魔はおとなしくしているものです。旧約聖書の場合、多くの人々は神から遠く離れたところにいましたから、それほど悪魔が働く必要がなかった。けれども、主イエスが働き始めると、いよいよ悪魔はうかうかしていられなくなって、活発に活動するようになった。そう考えることもできるのかもしれません。

 いずれにしても、ルカはこの前の出来事のような主イエスと群衆という構図ではなくて、ここでは主イエスと悪霊や病というように描き出そうとしていることが分かります。

 そして主イエスは、そういう神に敵対し人々から神さまを遠ざけようとしている存在に対して、ここで怒っておられるのだということが分かってくるのではないでしょうか。

 主イエスがここで叱っているのは、ペテロの姑に対してではなく、病に対してです。会堂に座っていた人に向かって叱ったのではなく、主イエスに近づいて主が何者なのかを人々に知らせようとしている悪霊に向かって叱っておられるのです。

 40節以降になるとこんな記事が書かれています。

日が沈むと、様々な病で弱っている者をかかえている人たちがみな、病人たちをみもとに連れて来た。
イエスは一人ひとりに手を置いて癒された。

 主イエスはここで病の癒しを求める人々に、とても親切に接しておられます。病を抱えている人が主イエスのみもとに来ると、主イエスは十把一絡げで癒されたのではなくて、一人ひとりに手を置いて癒しをしておられます。

 前回の説教箇所に記されていたナザレでは、身勝手で奇跡ばかりを期待する人に対して、主イエスは癒しをなさいませんでした。しかし、このカペナウムではまるで別人のように癒しをしておられる主のお姿が目に留まります。

 私たちはこういう場面を見るとすぐに、癒してもらえるケースと、癒してもらえないケースをしっかりと分析して、正しい求め方をしたら癒してもらえるに違いない。そんな考えを抱くのかもしれません。しかし私たちが、ここで主のお姿を見て心に留めなければならないのは、残念ながらどうすれば癒してもらえるのかという方法の問題なのではないのです。

 主がここで何を大切なこととして示そうとしておられるのか、その本質に目を留めることが大切です。 (続きを読む…)

2023 年 2 月 26 日

・説教 ルカの福音書4章14-30節「みことばから始める歩み」

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2023.2.26

鴨下直樹

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 先週は、荒野の誘惑の箇所から説教しました。その説教の中で、私たちのする、奇跡を期待する祈りは主イエスを誘惑するものにもなりかねないという話をいたしました。すいぶん驚いた方があったかもしれません。その後のお祈りの中でも、たとえばロシアとの戦争が終わるように祈ることも、主を誘惑することになるのか。そんな疑問を感じられながら祈られておりました。言葉が足りなかったかなと反省しております。

 その説教の中で、はじめに「神学する」という話をしました。信仰の筋道が見えて来るようになることを「神学する」と言います。そういうところからいうと、まだまだその道筋が見えていないのかもしれません。

 祈りというのは、私たちの願うとおりにではなく、神の御心がなるようにと祈ります。神を自分の願いをきかせる僕(しもべ)のようにすることはできないのです。そういうところから考えれば、人々が殺し合いをするような戦いを収めてくださいという祈りは、神の御心が行われますように、御国が来ますようにという祈りを具体的に祈るということです。そういう祈りのことを「誘惑」と言っているのではないことは明らかです。ですから、主の御心を求める祈りとして、私たちはどんなことでも祈ることができることを覚えていただければと思います。

 さて、とはいっても私たちは様々なところで過ちを犯してしまう弱さがあります。祈りにおいても、神を誘惑するような、まさに身勝手な祈りをしかねない者です。まさに、そのことを記したのが、今日、私たちに与えられているこの誘惑の続きが記されている4章の14節以下の箇所です。

 そこでルカが記しているのは、主イエスが会堂で教えられたことから書き始めています。「イエスは彼らの会堂で教え、すべての人に称賛された。」と15節に記されています。その後、ルカはこう記しました。16節です。

それからイエスはご自分が育ったナザレに行き、いつもしているとおり安息日に会堂に入り、朗読しようとして立たれた。

 いつものように主イエスは安息日に会堂に入って、聖書を朗読して、み言葉を語り始めます。主イエスが選んだみ言葉は、イザヤ書61章の1節と2節でした。

 そこにはこう記されていました。ルカの福音書の4章の18節と19節をお読みします。

主の霊がわたしの上にある。
貧しい人に良い知らせを伝えるため、
主はわたしに油を注ぎ、
わたしを遣わされた。
捕らわれ人には解放を、
目の見えない人には目の開かれることを告げ、
虐げられている人を自由の身とし、
主の恵みの年を告げるために。

 主イエスはたまたま、偶然にこのイザヤ書を開いたのではありません。主イエスは意図的にこの箇所をお選びになられました。

 そのみ言葉に続いて主が語られたのはこういう内容でした。21節です。

イエスは人々に向かって話し始められた。「あなたがたが耳にしたとおり、今日、この聖書のことばが実現しました。」

 主イエスは、この貧しい人に良い知らせが告げられ、捕らわれ人が解放され、目の見えない人は目が開かれ、虐げられている人は自由となるというイザヤの語った約束の言葉は、今日このところから実現していくのだと言われました。

 まさに福音がこの世界にこの時からもたらされるようになるのだと、主は宣言されたのです。 (続きを読む…)

2023 年 2 月 19 日

・説教 ルカの福音書4章1-13節「誘惑の正体」

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2023.2.19

鴨下直樹

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 今、私たちはルカの福音書から順にみ言葉を聞き続けておりまして、今日から第4章に入ります。ここで、いよいよ主イエスが登場してきます。ここからが、主イエスの公の生涯、公生涯の活動ということになります。そこで、このルカが記すのは主イエスの荒野の誘惑です。

 先日の祈祷会でも、ある方が「どの福音書でもそうだけれども、なぜ主イエスの生涯を書き記すにあたってこの出来事を記すのか、著者の意図が良く分からない」という質問がありました。

 どの福音書もそうですけれども、みな判をついたかのように、皆この「荒野の誘惑」の出来事を記すわけです。このことにどんな意味があるのか。そのことも頭に置きながら、このみ言葉に耳を傾けていきたいと思います。

 先日の金曜日、私は名古屋の東海聖書神学塾で説教学を教えておりました。今、そこで加藤常昭先生の書かれた『説教への道』という本をテキストにしながら学びをしております。この加藤常昭先生は説教をするときに「黙想」が大切だということを教えるために、説教塾という牧師たちを対象にした説教のセミナーを開催しておられます。聖書を解釈しただけでは説教にはならない。そこから、説教の聞き手や、この時代のことを黙想しながらみ言葉を聞くことの重要性を教えておられるのです。

 この本の中で加藤先生は、宗教改革者ルターの言葉を紹介しながら、ルターは説教のために神の言葉を黙想することを「神学すること」だと言っていると書いています。そして、さらにルターは、そのことは「祈り」と深く結びついていると言いました。

 「神学する」と言いますと何か難しいことと考えられてしまいますけれども、神さまは、私たちに信仰の筋道をしっかりと聖書を通して示してくださっているということです。ちゃんと信仰に至る筋道がある。このことを神学というのですが、そのためには祈りが必要だとルターは言ったのです。そして、ルターはさらにそこには当然のこととして神からの「試練」があるということを挙げたというのです。

 そこで加藤先生は、主イエスが荒野の誘惑を受けられたことを紹介しています。主イエスは、この荒野の誘惑を受けられた時に、ここにも書かれていますように、聖霊に満ちていたのですが、この御霊に導かれて荒野に赴いて、そこで悪魔から誘惑を受けられたのです。それは、神様から試練を受けたということだと加藤先生は書いています。こういうことを黙想することで、信仰の道筋を明らかにしていくのです。加藤先生はこの本の中で「神様の言葉を聞き続けてひたすら生き抜くことに伴う試練」と言っています。

 こういうと私たちにもよく分かるのだと思います。私たちは、聖霊に導かれて、誘惑を受けるというと、神様が働いておられるのに、なぜ試練を受けるのだろうと初めは思うのです。けれども、神様と共に生きようと願うところには、試練が伴うものなのです。神の言葉を聞くことを通して、神の願っておられることが分かるからです。神の願いが分かってしまうと、その後は従うか従わないかという選択の前に立たされることになります。そして、まさにそこで誘惑が起こるのです。

 さて、では主イエスはどのような試練、誘惑を受けられたのでしょうか? (続きを読む…)

2023 年 2 月 12 日

・説教 ルカの福音書3章15-38節「洗礼者ヨハネと主イエス」

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2023.2.12

鴨下直樹

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 今日は、バプテスマのヨハネと主イエスという二人の人物が、入れ替わるように出てきます。そこで、まず、ヨハネが授けていた「洗礼」、または「バプテスマ」とはどういう背景から来ているのかを考えてみるところから始めてみたいと思います。

 そこで、いきなりですが、まず「(けが)れ」と「罪」ということを聖書がどのように理解して来たのかを簡単にお話ししたいと思います。

 まず、「汚れ」というのは「罪」のことではありません。人の本質的な「罪」の問題を「汚れ」という言葉で表現しているのではなくて、「汚れ」というのは「ばい菌」がついている程度の意味です。イスラエルの民は、モーセの時代に40年間荒野を旅していました。そこでは、「ばい菌」との戦いが必須です。それは、このコロナの時代の私たちにもよく理解できることでしょう。一族の中で誰かが「菌」に冒されると、民族がそのまま滅んでしまうことになりかねません。それで、神は律法を与えて、「汚れ」についての対処の方法を教えます。

 簡単にいうとこの「汚れ」について、3つのことをレビ記では書いています。まず第一は、汚れたら「洗う」ということです。食べる前には手を洗うというようなことを徹底しました。動物の死体に触れた時とか、汚れたものを触った時、血に触れた時、人々に「洗うこと」を徹底します。そして、第二に、その「汚れ」というのは、そのままで大丈夫な「汚れ」なのか、民から隔離した方がいい「汚れ」、つまり感染拡大の恐れがあるかどうかを祭司が見て、判断します。これは、「ツァラアト」とか「重い皮膚病」という病の時の対処方法として、祭司がどう判断するかが記されています。

 そして、第三の最後に、汚れた者は「犠牲をささげること」でもう一度民の中に戻ることができるという方法について記されています。これは、神との関係をもう一度回復することと、同時に、一度汚れた人が、もう一度人々の生活の中に戻りやすくするという神の配慮の意味も込められていました。

 一度汚れてしまうと、周りの人々は変な目でみるようになります。これは、犠牲をささげて神との和解が成立したなら、もう安心できる状態になったので民の中に戻ることができるようになります。神様が受け入れられたのですから、他の誰にもそれ以上何も言わせないという効果がそこにはあったわけです。

 そういう意味では今から何千前の戒めですけれども、今の日本でもできていないような細やかな人間理解を神様はしておられるということが、分かっていただけると思います。

 さて、その次に考えてみたいのは、この時に行われた「犠牲をささげる」という祭儀の考え方についてです。汚れた者や、罪を犯した者は、神との和解をするために「犠牲をささげる」ことを神さまは要求なさいました。ここでは、「汚れ」の問題と同時に「罪」の問題が出てきます。「汚れ」は外側の問題ですが「罪」は内面の問題です。つまり、神様との関係を軽んじたために起こる様々な出来事に対しても、「犠牲」をささげることで、神様は和解することができることを示したのです。 (続きを読む…)

2023 年 2 月 5 日

・説教 ルカの福音書3章1-14節「荒野を新しい地に」

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2023.2.05

鴨下直樹

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 皆さんは、NHKの大河ドラマを見ておられるでしょうか? 私は今回の『どうする家康』をとても楽しみにしています。こういう大河ドラマなどでは、よくオープニングの曲が終わるとナレーションが入って、短く簡単に、今回のストーリーの背景を説明することがあります。今回の『どうする家康』では今のところ、あまりそういう場面がなかったと思いますが、これからそういう場面が時々出てくると思います。

 今日の聖書は、まさにこのドラマの本編が始まる前のナレーションの部分だと思っていただけると、理解しやすくなると思います。

 そこでは「いつ」「どこで」「誰が」「何を」「どうした」という背景となるべきことの基本が説明されます。

 「いつ」についてはかなり丁寧な記述がなされています。1節から2節までです。

皇帝ティベリウスの治世の第十五年、ポンティオ・ピラトがユダヤの総督であり、ヘロデがガリラヤの領主、その兄弟ピリポがイトラヤとトラコニテ地方のの領主、リサニアがアビレネの領主、
アンナスとカヤパが大祭司であったころ、

 ここまで読んできますと、これから登場するヨハネが、いつの時代の人物であったが、かなり厳密に特定できるようになります。つづく「どこで」は、ユダヤで、ヨルダン川周辺の地域でということになります。「誰が、何を、どうした」は、バプテスマのヨハネが、罪の悔い改めのバプテスマを、宣べ伝えたとなっています。

 このように、ルカはこの3章から、いよいよ主イエスの、公の生涯と言いますけれども、この公生涯を書き記すにあたって丁寧に、その備えとして場面設定を記しているわけです。主イエスの物語を書き記すのに際して、ナレーションとして書き記しているのです。

 このルカの記述のおかげで、主イエスのことは昔の伝説上の人物としてではなくて、歴史的な記録として認識されることとなりました。何でもないことのように思いますが、これはヨハネと主イエスの歴史的な記録であると、後世にしっかりと覚えられるようになったわけですから、どれだけ重要なことであったかが、お分かりいただけると思います。

 ルカのナレーションはまだ続きます。ルカは主イエスを登場させる前に、ザカリヤとエリサベツから生まれた、あの赤ちゃんがどうなったのかを書き記していきます。これから登場するヨハネは、旧約聖書のイザヤ書の預言の成就として現れたのだということを6節までのところで語っていくのです。

 ここでルカは、イザヤ書40章の3節と4節を取り上げています。このイザヤの預言で語られているのは、道がまっすぐになること、それに山や谷が真っ平な土地になることです。高慢な者は謙遜にさせられ、蔑まれていた者は引き上げられるということがイザヤによって語られたのです。

 これは、実は、部分的にはマリアの賛歌にも同じような内容がすでに語られていました。(このマリアの賛歌の部分はまだ説教ができていません。説教をする予定だったのですが、コロナになってしまったために飛ばしたままになっていますので、どこかで説教をしたいと思っています。)マリアは、このマグニフィカートと呼ばれる賛歌、ルカの福音書の1章52節でこう歌っています。

権力のある者を王位から引き降ろし、
低い者を高く引き上げられました。

 マリアが歌ったあの歌が、荒野で叫ぶ預言者の言葉となって世界に届けられたのだとルカはここで描き出しているのです。

 イザヤの言葉は6節でこう結ばれています。

こうして、すべての者が神の救いを見る。

 神の救いをこの世界のすべての者が見るために、これから記されている本編が行われていくのだと言うのです。

「荒野で叫ぶ者の声がする。
『主の道を用意せよ。主の通られる道をまっすぐにせよ。
すべての谷は埋められ、すべての山や丘は低くなる。
曲がったところはまっすぐになり、険しい道は平らになる。
こうして、すべての者が神の救いを見る。』」

 預言者イザヤが、かつてイスラエルの人々に語ったこの預言の言葉は、今ヨハネの言葉を通して、再びこの世界で語られたのだと言うのです。しかも、この預言が告げられたのは「荒野」という場所でだと、ルカは記していくのです。 (続きを読む…)

2023 年 1 月 29 日

・説教 ルカの福音書2章41-52節「主イエスの姿を見失うことなく」

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2023.1.29

鴨下直樹

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 聖書の中には4つの福音書があります。いずれも主イエスの宣教の業を私たちに伝えるものです。その中でも、主イエスの少年時代について記されているのは、このルカの福音書だけです。そういう意味でも、この12歳の主イエスの記述はとても重要な意味を持っています。

 まず、ここでルカがなぜこの12歳の時の出来事を記したのかですが、ここにはとても大切な意味があります。

 申命記16章16節にこういう戒めがあります。

あなたのうちの男子はみな、年に三度、種なしパンの祭り、七週の祭り、仮庵の祭りのときに、あなたの神、主が選ばれる場所で御前に出なければならない。主の前には何も持たずに出てはならない。

 ここで言う「男子」というのは11歳から12歳に至る年齢を過ぎたイスラエルの男子がすべて含まれています。そして、12歳になってこの戒めを守った者は「律法の子」と呼ばれるようになるのです。「律法の子」というのは、律法を守って生活する者という意味です。つまり、ルカは、主イエスはこの戒めに忠実に従って律法の子となったということを描き出しているのです。

 このイスラエルの三大祭には、イスラエル中の人々が、この戒めに従ってエルサレムを訪れました。実際には、遠方の者や、貧しい者は年に三度訪れることができませんでしたので、年に一度エルサレムを訪れるようになっていたようです。それぞれの祭りは七日間続きます。そのために、村から出て来る人たちは、一緒にグループを作ってエルサレムを訪れたようです。

 主イエスも12歳になる年に、ナザレの村の人々と共にこの旅に加わってエルサレムを訪れました。その時に、一つの出来事が起こりました。それが、主イエスが両親から離れて迷子になってしまったという出来事です。

 主イエスの両親は慌てました。息子が帰りの一行の中にいると思っていたのに、いなかったからです。両親はその時、どれほどがっかりしたことでしょう。12歳というのは大人になって、自分で律法を守ることができるようになったという意味です。それなのに、主イエスは親から離れて迷子になってしまうような子どもだったのです。両親の落胆はどれほど大きかったかと思います。

 まだ、我が家の娘が幼稚園の頃のことです。デパートに行って買い物をすると、娘はいつもお菓子売り場に行ってしまいます。子どもは親が付いて来てくれるものだと思い込んでいます。それで、ある時、私たちは、しばらく遠くから様子を見ようということになりました。一度迷子になって、慌てて親を探すという経験をさせた方がいいと思ったのです。

 ところが、そこで予想外の出来事が起こりました。私たちが物陰から見ていると、ひとりの年配の女性が娘に近づいて声をかけました。その人は周りを見回して、親の姿が見えないことを確認すると、子どもの手をとってインフォメーションまで連れていったのです。その時、娘は泣いたり慌てたりすることもなく、そのままその人の手に引かれてインフォメーションまで連れて行かれます。そうなると、今度はこちらが慌てる番です。急いでその方の所まで行って、子どもを迎えに行くことになりました。

 その時、娘は「どうして私がお菓子売り場にいることを、ご存じないのですか?」とは言いませんでしたけれども、迷子になっても動じない娘に驚いたものです。

 子どもが迷子になるという経験を、子どもをお持ちの方は経験したことがあると思います。そこには、親の不安な姿があります。その時、いろんな考えが頭をよぎると思います。何か危ないことが起こっていないかと心配するのです。

 不思議なことですけれども、私たちの信仰の歩みの中でもこれと似たようなことが起こります。私たちが主イエスの姿を見失うと、私たちはたちどころに不安になるのです。

 親は、子どものことを自分の手の中にあると思い込んでいます。自分の願うようになってくれないと困るのです。腹が立ちます。心配になります。子どもを見失うとどうしていいか分からなくなるのです。私たちも、主イエスと共に歩んで行く中で、どこかで自分の手の中にあるものだと思い込んでしまうのかもしれません。主イエスは、神様だから自分の願うようになる。祈った通りになる。そうでないと困ります。思うようにならなければ腹が立つし、どうしていいか分からなくなるのです。

 主イエスの両親ほど、主イエスのことを理解している人はいないはずです。しかし、神殿まで戻って来た時に、この両親は驚くべき光景を目の当たりにします。45節から47節にこう書かれています。

見つからなかったので、イエスを探しながらエルサレムまで引き返した。そして三日後になって、イエスが宮で教師たちの真ん中に座って、話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた。聞いている人たちはみな、イエスの知恵と答えに驚いていた。

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2023 年 1 月 22 日

・説教 ヨハネの福音書4章3-15節「いのちの水?」

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2023.1.22

鴨下愛

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 今読んでもらった聖書の箇所から「いのちの水?」という題でお話しします。

 「いのちの水」について、嬉しいお知らせです、いのちの水、今は なんとインターネットで買えるんですって! ほら!(日本某所の実在の水汲み場とオンラインショップの画像を見せる)

 この水は 命の水ですから普通のミネラルウォーターとは違います! すごい水なんです! 普通のペットボトルの水より5倍のお値段は 当然です。

 ただちゃんと注意書きがあります。(小さい字で書いてあります。)
⑴飲んでいれば、病気が治る……事もありますが、もちろん個人差があります。
⑵体調の悪い時はこの水だけで、なく、肉や野菜も十分にとってください。
⑶身体が生まれ変わるように元気になるためには 、飲み続ける必要があります! 
ただし、数に限りがございますから、お早めにお申し込みください。

 どうします? 買う? お友達が教えてくれて、良いらしいけど……今回はやめておくわ~。ほかのお値打ちなお水も試してみてからにしようかな~。 なんて声が聞こえてきそうです。水がどこでも飲める、買える日本ならでは……ですね。

 「いのちの水はいらんかね?」とイエス様が言われても ピンと来ないかもしれませんね。日本名水百選のひとつくらいにしか思えないのだとしたら、とても残念です。

 確かにお水は生きていくのに必要です。お水を飲まないとどうなりますか? 喉が渇きますね。喉が渇くって嫌な感じですね。

 喉からひりひりして、体中が干からびていくようで、美味しいハンバーガーを差し出されたって、「けっこうです! 水、水、水をちょうだい」と、もう水のことしか考えられなくなります。

 それだけじゃなくて、水を飲まず渇いたままでいると、私たちの体は「脱水症」になって本当に死んでしまいます。あつい夏と同じくらい、冬にもたくさんの人が「脱水症」で亡くなっているって知ってますか。

 冬は空気は乾いているし、あまり喉が渇いている感じがしないので、うっかり水を飲まずにいて、「脱水症」になってしまうんですね。

 それと同じように私たちの心も、カラカラに渇いてしまうことがあると聖書は教えています。心の渇きは冬の間の脱水症と同じで、渇いていることに気がつかないのが困った問題です。

 でも、イエス様はそんな私たちに、「あなたは渇いていますよ」と教えるために、そっと近づいて来てくださいました。それが今日のお話です。 (続きを読む…)

2023 年 1 月 15 日

・説教 ルカの福音書2章22-40節「主よ、今こそ」

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2023.1.15

鴨下直樹

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 今日、私たちは、この与えられたみ言葉の中に、とても美しい一人の年老いた信仰者の姿を見ることが出来ます。キリスト者であれば誰もが、こんな老人になりたいと思える人です。名前をシメオンと言います。新約聖書の外典によれば、シメオンはこの時112歳であったと記されています。

 実際に112歳だったかまでは分かりませんが、かなりの年齢であったようです。シメオンは自分の人生の終わりの時に至るまで望みに生きた人でした。

 25節で、このシメオンのことをこう記しています。

そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい、敬虔な人で、イスラエルが慰められるのを待ち望んでいた。また、聖霊が彼の上におられた。

 シメオンはイスラエルが慰められることを望み続けていたことがここに記されています。この「イスラエルが慰められること」というのはどういうことでしょうか? 預言者イザヤは何度もこの「イスラエルの慰め」について語りました。イザヤが語る「慰め」というのは、バビロン捕囚が終わりを迎えることです。国を追われたイスラエルの人々が、本来いるべき地に戻ってくることができるようになることです。

 このシメオンが生きた時代には、すでにバビロン捕囚は終わっていました。けれども、シメオンはまだこの慰めが与えられていないと感じていたのです。シメオンはその時代にあってどんな宗教家たちにも増して、望みに生きることを知っていた人でした。この時代を代表する宗教家を、新約聖書では3種類の人々で描いています。まず、パリサイ派や律法学者と呼ばれる人たちがいました。この人たちは信仰を職業化させていった人たちです。外面的に良く見えるような生き方に心を砕いた人たちです。こうなると信仰は無味乾燥なものとなってしまいます。

 その次にサドカイ派と呼ばれる人たちがいました。これは信仰を世俗化させていった宗教となりました。信仰を人々が受け入れやすくしました。そう聞くと良さそうに聞こえますが、自分たちに都合のいいように変えたということです。神様の心ではなくて、自分たちにとって便利なことを優先させていったのです。

 もう一つゼロテ党とかゼロタイ派と呼ばれる人たちがいます。この人たちは打倒ローマを打ち立てて民族としてのイスラエルの再興を声高く主張しました。民族主義的信仰と言えます。

 律法学者のような職業化した信仰、サドカイ派にみられる世俗化した宗教、ゼロテ党の民族主義的宗教とさまざまな人々がいたのですが、神様はこのような宗教家たちではなく、シメオンをお選びになっておられました。シメオンは、26節によれば「主のキリストを見るまでは決して死を見ることはないと、聖霊によって告げられていた。」のでした。

 このシメオンは、神の民が慰められることを求めていました。神の思いがそこにあることを知っていて、神のみ心を望み続けて生きたのです。ここに、信仰者としての美しい姿が示されています。

 シメオンは、神殿を訪れた赤ちゃんの主イエスを見てすぐに分かったようです。どうしてかは分かりません。不思議としか言えません。主イエスの両親が生まれて8日目の割礼を授け、ささげ物をするために神殿にやって来ました。この時赤ちゃんの主イエスを見て、シメオンはこのお方こそ救い主、キリストであることが分かったのです。 (続きを読む…)

2023 年 1 月 8 日

・説教 イザヤ書58章8節「しんがりの神」

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2023.1.8

田中啓介

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