2023 年 1 月 1 日

・説教 創世記16章13節「その名はエル・ロイ」

Filed under: ライブ配信,礼拝説教,説教音声 — susumu @ 00:30

2023.1.1 元旦礼拝

鴨下直樹

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2023年間聖句カード

2023年間聖句カード


2023年ローズンゲンの年間聖句

彼女は自分に語りかけた主の名を「あなたはエル・ロイ(私を見てくださる神)」と呼んだ。

 今年、私たちに与えられている年間聖句は、主の名を「エル・ロイ」と呼んだというみ言葉です。「エル・ロイ」というのは、「見ておられる神」、「顧みられる神」という意味です。
 
 これは、アブラムとサライのもとにいた女奴隷ハガルが、女主人のいじめから逃亡した時に起こった出来事です。アブラムとサライは神様の約束を頂いていましたが、この時にはまだ子どもができませんでした。それで、サライは自分の女奴隷ハガルをアブラムに与えます。すると、ハガルは子を宿したのです。ハガルは自分の主人サライに子どもがいませんでしたが、自分に子どもができると、主人であるサライを軽く見るようになります。それで、そのことに腹を立てたサライが、ハガルをいじめたというのです。

 この物語は、私たちに衝撃を与えます。神がお選びになられたサライは完全な人ではありませんでした。自分を軽く見るハガルに腹を立てる、私たち普通の人と同じです。そして、アブラムも、このサライに「あなたの好きなようにすればよいではないか」と言うのです。

 今であればこの時のアブラムとサライのしたことは「自分の子どもを身ごもっているハガルに対してあまりにも冷たすぎる」とすぐにネットニュースにでも流れそうな対応です。

 アブラムもサライも、子どもが与えられることを心底願っていたはずです。それなのに、ハガルの態度は、そんな二人の心を忘れさせるほどのものだったということでもあります。

 ここで、ハガルが悪いのか、サライが悪いのか、それともアブラムが悪いのか。そんな議論をすることも間違っているように思われます。

 そこで、私たちが関心を抱くのは、聖書はこのドロドロした状況に神がどんな解決を与えようとするのかということです。

 聖書は、決して美辞麗句を並べた綺麗事を記しているのではありません。ここには、私たちの生活のリアルが記されているのです。

 ハガルは、主人の元を逃げ出します。100キロ以上離れたところまで逃げるのですから、どれほど追撃を恐れていたかが分かります。ハガルにとって、この状況から逃げ出すというのは、一つの選択肢でした。おそらく、自分が生き延びるには、その選択肢しか残されていないほどに、サライのいじめは過酷なものだったのかもしれません。

 さて、主なる神はさっそく行動を起こされます。この物語には、「主の使い」が現れます。クリスマスの物語に何度も登場した、御使いです。その御使いは、ハガルを見つけて尋ねます。

「サライの女奴隷ハガル。あなたはどこから来て、どこへ行くのか。」

 「あなたはどこから来て、どこへ行くのか?」 御使いは、ハガルに自分の存在そのものについてお尋ねになりました。あなたは何者で、何をしようとしているのかという問いです。所属と、自分の行動の動機をお尋ねになられたのです。
 ハガルは応えます。8節です。

「私の女主人サライのもとから逃げているのです。」

 ハガル自身、自分がサライに所属する女奴隷であることをよく理解しています。そして、自分はそこから逃げていることも分かっているのです。

「あなたはどこから来て、どこへ行くのか?」

 この問いかけは、私たち自身人生の節目節目で自分自身に問いかける必要がある問いなのではないでしょうか?私たちが、道を見失いそうになる時、私たちをあるべき道に立ち戻らせる問いです。 (続きを読む…)

2022 年 12 月 25 日

・説教 ルカの福音書2章8-20節「恐れるな!」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 07:18

2022.12.25 クリスマス礼拝

鴨下直樹

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 今日、私たちは25日のクリスマスの朝に、こうして教会に集い、み言葉を耳にしています。今朝私たちに与えられている聖書は、「恐れることはありません」と語りかけています。

 これは、御使いが夜番をしている羊飼いに語りかけた言葉です。今朝は、この「恐れるな」という言葉を考えるところから始めてみたいと思います。

 羊飼いというのは、この地域では最も弱い立場の貧しい者たちでした。夜、暗闇の中で羊を襲う獣や盗賊と戦うのが仕事です。命がけの仕事なのに、身分が低いのです。

 今回カタールで行われたワールドカップは、暑い夏をずらして冬の開催となりました。12月でも、カタールは温かいのです。そんな中で、スタジアムの建設に当たった人たちは、貧しい出稼ぎの人たちでした。ドイツの友人から聞いたのですが、すでに10月の時点で、3000人以上の死者がこの過酷な労働のために出ているということでした。そのニュースを知ったヨーロッパの人々は、今回のワールドカップに抗議するために、テレビを見ないという運動をして、そういう人がかなりの数になったのだそうです。人のいのちを使い捨てのようにするやり方に、多くの人々が異を唱えたのです。

 このクリスマスに出て来る羊飼いは、このような貧しい人々を代表する存在として神様はお選びになりました。現代も、羊飼いという職業ではなかったとしても、さまざまな羊飼いのような立場の人たちがいることを私たちは考えさせられます。カタールで働いた労働者たち、また戦争のために暖もとれないウクライナの人たち。また今回大雪で、もう一週間近く停電のままでの生活を強いられている北陸の方々があります。あるいは、一人暮らしで孤独を覚えておられる方、病の中で苦しんでおられる方、さまざまな人たちがいます。羊飼いは、そのような弱さを覚えておられる方の代表と言えるのです。

 羊飼いたちは、その夜も夜番をしていました。眠気と戦いながら、周囲に気を配り、羊たちの面倒をみるのです。過酷な仕事です。今のような電気の柵が張り巡らされていて、羊が逃げ出したり、野獣が入って来たりすることがないような環境ではないのです。

 そんな羊飼いたちのところに、突然天が開け、まばゆいばかりの光が降り注ぎます。この時のことを9節はこう記しています。

すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。

 天使の登場と共に主の栄光が周りを照らしたのです。それを見た羊飼いたちは、非常に「恐れた」と書かれています。

 羊飼いたちが日常的に抱えている恐れは、狂暴な野獣が現れることでしょう。自分のいのちの危険を感じる時に恐れを覚えるのです。そうであれば、この恐れは私たちにもよく分かるのです。私たちは、子どもの頃から暗闇の恐怖を感じるものです。

 特に、怖い映画か何かを見ますと、いつも夜中に一人で行けるトイレさえ、怖いと感じることがあるものです。得体の知れないものがどこかから出て来るのではないか、そんな不安があります。けれども、ここで、羊飼いたちが感じた恐れは、その手のたぐいのものではありませんでした。もっと、本質的な恐れです。

 目の前に現れたのは、暗闇を打ち破るほどのまばゆいばかりの光です。そして、そこにはどんな姿であったのかそれ以上のことは書かれていませんが、御使いがいたのです。人の姿をした存在だったと考えられています。

 そこで、羊飼いが感じた恐れは、いのちを脅かされる恐怖ではありませんでした。聖いものの前に出る時に覚える畏れです。自分の卑しさを知らされたのです。羊飼いたちの心の中に、自分を卑下したくなるような、そんな思いが染みついていたのかもしれません。けれども、この自分は貧しい者でしかない、自分は聖なるお方の前に出るのにふさわしくないと感じる、そのような畏れは、決して主なる神が嫌われる思いではなかったはずです。

 御使いは羊飼いたちに告げました。まず10節です。

「恐れることはありません。見なさい。私は、この民全体に与えられる、大きな喜びを告げ知らせます。」

 「恐れることはありません。これは民全体への喜びの知らせです」とまず、御使いは告げました。民全体の代表として、あなたがたを選んだというメッセージが、ここで当たり前のように告げられています。これは、民全体への知らせ、しかも大きな喜びの知らせを、全国民を代表するあなた方に知らせますということです。

 この世の王や、大臣や、商人たちでもなく、雇い主や、一族の長でもないあなたがたに、この知らせをまず知って欲しいと思っているのだという、神のメッセージがここにはあります。それは、まさに、この世界にいる、今どんな暗闇の中にいる人のことも神は見ておられるというメッセージです。
 神は、暗闇の中に潜むようにしてうずくまっているものを、見ておられるお方です。来年のローズンゲンを先日、みなさんにお届けました。来年のみ言葉は、「あなたはエル・ロイ!」と呼んだ主の御名が年間聖句になっています。

 この「エル・ロイ」というのは、「見ておられる神」「顧みられる神」という意味です。 (続きを読む…)

2022 年 12 月 24 日

・説教 ルカの福音書2章1-7節「居場所のない救い主」

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2022.12.24 聖夜燭火礼拝

鴨下直樹

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宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。

 ここには衝撃的な言葉が記されています。

 イスラエルの人々は、長い間、メシアとかキリストと呼ばれる救い主が生まれるとの約束の言葉を、600年以上の長い間待ち続けてきました。その救い主がいよいよお生まれになった。これがクリスマスの出来事です。

 この12月24日に生まれたという、神の御子主イエス・キリストはイスラエルの人々の長い期待と忍耐の末に、ついにこの世界に来られました。この聖書の中には、神の預言の成就が記されています。

 ところがです。神の約束の実現は、私たちに衝撃を与えます。

 聖書は「宿屋には彼らのいる場所がなかったからである」と書かれているのです。神の救いの計画は、落ち度なく完璧であったはずです。神ご自身が、人間の姿をとってこの世界においでになられるのです。このルカの福音書の前の所には、主イエスの誕生の前に、ヨハネの誕生を備えておられたことが書かれていました。神は、ゼカリヤとエリサベツという年老いた祭司の夫婦を備えられたのです。そして、神の御子を宿すことになったマリアと夫のヨセフもまた、ダビデ王の末裔でした。この長い時間をかけた神の計画に、落ち度があったとは思えません。

 この主イエスがお生まれになられたのは、今から2022年前、ローマの皇帝アウグストがイスラエルを支配している時代でした。この皇帝は、自分の支配している全世界の住民に住民登録を強要します。臨月に入っていたマリアまでもが故郷に戻らなければならないほどの強制力のある命令です。臨月の女性に、100キロを超える旅をさせるなど、今では考えられないことです。「妻はお腹が大きくて来られませんでした」と言えばいいだけの気がするのですが、それができなかったのです。

 しかも長い旅の末、ベツレヘムに到着したのに宿屋もないのです。この宿屋問題にしても、このルカの福音書には実際には宿屋の話は少しも書かれていません。そもそも、自分の故郷に戻るのですから、親戚がいたはずなのです。住民登録に行くのですから、親類縁者も、郷里を離れていた一族や親族たちがベツレヘムを訪ねて来ることが分かっていたはずです。ダビデ王の家系なのです。大事にされなかったはずはないと思われるのですが、結果は臨月の妻が出産するにあたって「その子を布にくるんで飼葉桶に寝かせた」とあるのですから、誰もこのお腹が大きくなっていた若い夫婦を迎え入れなかったということなのでしょう。 (続きを読む…)

2022 年 12 月 18 日

・説教 ルカの福音書1章57-80節「伝統を乗り越える神の御業」

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2022.12.18

鴨下直樹

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 四年に一度のサッカーワールドカップが間もなく終わります。決勝戦はフランスとアルゼンチンです。今朝の三位決定戦もなかなか白熱した試合だったようですがクロアチアが勝ったようです。明日の決勝も今からとても楽しみにしています。アルゼンチンにはメッシという世界最高と言われている凄い選手がいます。フランスにはエムバペという、メッシを超えるのではないかと期待されている選手も出て来ています。メッシは年齢的に今年が優勝できる最後のチャンスで、このワールドカップで代表を引退すると言われています。さて、どちらの国が勝つのか、本当に今から楽しみです。

 今回の大会は、日本は強豪国に勝ったこともあって、本当に楽しい時となりました。いわゆるサッカー大国と言われるドイツやスペインに勝ったのですから、これはもう歴史的な出来事でした。これまで日本はドイツにもスペインにも一度も勝ったことがなかったのです。

 たとえばドイツには「ゲーゲンプレス」という伝統的な戦術があります。ボールを取られたらすぐ取り返すというやり方です。こういう戦術もあって日本はドイツやスペイン相手にほとんどボールを持つことができませんでした。ほとんどの時間ボールを持たれてしまっていたわけです。それなのに日本が勝ったわけですから、これまでのサッカーの価値観を大きく変えるような衝撃を世界に与えることになりました。

 今、私は「それまでの価値観」と言いましたけれども、これを私たちは「伝統」という言い方をします。サッカーの場合、ボールを持った方が有利であるという考え方が以前からあったわけです。こういった伝統的な考え方というのは、サッカーだけではなく、様々な場面に出てくるとても大切なもので、そこには歴史性や民族性というような特徴が表れています。この伝統が重んじられるのは、やはりその習慣が意味を持っていて、とても大切なことなので、次の世代にもこの伝統といわれるものを受け継がせていきます。

 今日の聖書の中にも、一つの伝統的な習慣が出てきます。それは、生まれて来る子どもに、親や親類の名前にちなんだ名前をつけるという伝統です。これは、とても大切な事でした。たとえば、イスラエルは家族に割り当てられた土地を代々受け継いでいきます。そうすると、ある地域にはその家族でいつもきまった名前の所有者がいるわけで、つける名前を固定することで、その父がどこの誰でどこの土地の所有者かが分かったのです。そうすると、子どもの代に替わったとしても、親類や家族の中で同じ名前が付けられていますから、すぐにこの土地はどの一族の土地であるというようなことが分かりました。これは、イスラエルの民にとっては非常に重要な伝統だったのです。そして、それはザカリヤのような祭司でも同様でした。

 今みたいに、みんなが自由に名前をつけてよいということになると、この時代であればとても大変なことになったわけです。

 さて、ここで母エリサベツは、生まれたばかりの子どもの名前を「ヨハネ」にすると言います。お祝いに駆け付けた人たちは、あなたの親類にそんな名前はないと言います。そして、今度はザカリヤに尋ねます。すると、話すことのできなかったザカリヤまでもが、書き板に「ヨハネ」と書いたので「人々は驚いた」と記されています。

 なぜ、人々は驚いたのでしょう。ここを読むと、ザカリヤは話せなかっただけでなく、耳も聞こえなくなっていたことが記されています。それで、この夫婦はどうやって会話をしたのだろう。そのことに驚いたのだと考える人もあるようですが、問題はそこではありません。それこそ、書き板に書くことだってできるわけです。ここでの驚きは、「ヨハネ」と名付けることに、二人が確信を抱いていることに対する驚きです。このヨハネという名前をつけることの背後に、何かがあったのだのだということを、人々は悟ったのです。 (続きを読む…)

2022 年 12 月 11 日

・説教 ルカの福音書2章11-14節「クリスマスの心」田中啓介師

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2022.12.11

田中啓介

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2022 年 12 月 4 日

・説教 ルカの福音書1章26-38節「恵みの告知」

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2022.12.04

鴨下直樹

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 今日の聖書箇所は、クリスマスの物語の中でも大変有名なところです。キリスト教美術の中でも、この箇所の場面を描いたものが最も多く、「受胎告知」と呼ばれています。御使いガブリエルが、一人の少女のところを訪ねて、「あなたから主イエス・キリストが生まれる」という告知をしたのです。

 このマリアにはいいなづけがいました。いいなづけはヨセフといいます。ですが、このルカの福音書にはヨセフのことは出てきません。あくまでも、マリアのことを描こうとしているのです。

 この時代、婚約をしている相手に、妊娠が発覚してしまいますと、婚約者が訴えれば石打ちの刑にされてしまいます。物語だけを読んでいますと、これはとても美しい出来事です。ですから、描かれている絵画も、美しく描かれているものが多いのですが、実際、このことが明らかになれば、マリアは夫となるヨセフに殺されてしまうという危機にあったのです。

 そのマリアの背景を、神はよくご存じだったはずです。そんなマリアに御使いガブリエルは神の恵みの告知をします。まず、28節にこう記されています。

御使いは入って来ると、マリアに言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」

 
 最初から御使いは神の恵みを語ります。神の恵みの使いとなってガブリエルはマリアに「おめでとう」と告げました。

 みなさんは「おめでとう!」という言葉を誰かに言う時、そこにどんな意図を込められますか?

 「退院おめでとう」「合格おめでとう」「誕生日おめでとう」「ご結婚おめでとう」いろんな場面で私たちはおめでとうという言葉を使います。この「おめでとう」というのは、何か嬉しいことがあった時に使う言葉です。そして、その多くの場合、その人が願っていることが実現してよかったですねという思いが、その言葉の中にはあるのだと思います。

 この言葉を言われたマリアは、この「おめでとう」という言葉に思い当たることが何もありませんでした。だから、困惑しました。
 29節にこう記されています。 (続きを読む…)

2022 年 11 月 27 日

・説教 ルカの福音書1章5-25節「良い知らせを伝えるために」

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2022.11.27

鴨下直樹

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 今日こうしてまた皆さんと共に、礼拝をささげることができることを嬉しく思っています。先週、私は入院していたこともあって病室からオンラインで礼拝に参加しました。私にとって、オンライン礼拝に参加するというのははじめての経験でした。確かに、画面越しに説教を聞くことができますし、礼拝の様子を見ることができます。便利になったものだと思います。

 ただ、同時にやはり物足りなさを感じるのも事実です。何よりも、教会の皆さんと顔を合わせることができない、みなさんと語り合うことができないというのは、オンライン礼拝の最大の欠点です。特に、私は入院中個室にいたということもありますけれども、ほとんどこの9日間誰とも会話をすることができませんでした。もちろん、手術の後というのは喉を傷めていますので、飲み込むときにかなりの痛みがあります。ですから、積極的に会話ができる状態でもありませんでしたので、教会にいたとしてもお話しできたか分かりません。

 今もオンラインで礼拝をされておられる方が一定数います。日本中の教会でも3割ほどの人が礼拝に来なくなったという報告もあるようです。オンライン礼拝というのは、便利ですが、どうしても人との交わりという部分、あるいは教会の愛の姿を奪うものとなってしまう要因になっていることは、大きな課題と言えます。

 私自身、この入院している間、それこそ誰とも交わりをすることができませんでしたから、この9日間、強制的に沈黙の時間を得ることになりました。この期間、私は何をして過ごしていたかと言いますと、病室でテレビをみたり、インターネットをしたり、本を読んだりして過ごしていました。入院というのはそういうものなのかもしれません。ただ、今から思うと、もっと違う時間の過ごし方があったのではないかと思っています。とても、怠惰な時間を過ごしました。
 
 そんな中で、今日のみ言葉を心に留めていました。ここに記されているのは、バプテスマのヨハネ誕生の秘話と言うべき内容が記されています。どうやって、ルカがこの物語を知ったのか、そのこともとても興味があります。

 ルカは、順序だてて書いていく中で、洗礼者ヨハネの誕生の出来事の背後に、大きな神の働きがあったことを知って、そのことをこのように記録しました。それはヨハネの両親の上に働かれた神の御業を記すことです。

 バプテスマのヨハネの両親は、ザカリヤとエリサベツと言います。ザカリヤは祭司をしていてアビヤの組に属しています。これはダビデが王様だった時に祭司を24の組に分けて、一年に二回それぞれの組で担当者になった祭司が一週間神殿の祭儀の奉仕をする当番になるようになっていました。このアビヤの組だけでも当時700人の祭司がいたそうです。その中で一年に2度しかチャンスが回って来ないのです。一度に何人が当番になったか分かりませんが、その担当者を決めるためにくじ引きをして神殿での奉仕に担当者に割り振られます。神殿の奉仕担当になった人は大変名誉なことだったようで、一度くじに当たると、次からはくじのリストから除外されていたようです。ですから、祭司としてのどれほどこの働きが名誉なことだったかが分かると思います。

 そんな、まさに祭司冥利に尽きると言ってもいいような奉仕をしていた時に、ザカリヤに主の御使いガブリエルがあらわれたというのです。この時、ザカリヤに語られた御使いのメッセージは13節から17節に記されています。

 最初の知らせはこうです。13節をお読みします。

恐れることはありません、ザカリヤ。あなたの願いが聞き入れられたのです。あなたの妻エリサベツは、あなたに男の子を産みます。その名をヨハネとつけなさい。

 この時天使がザカリヤに伝えた知らせは驚くような内容でした。ザカリヤとエリサベツには子どもは無かったようです。そんな中で、二人は子どもが与えられるように祈ってきたのでしょう。この祈りは若い時にしたのかもしれません。その時の祈りが、もう諦めていたのかもしれませんが、その願いを主は聞き入れてくださったというのです。しかも、その子どもは「主の御前に大いなる者となる」と15節で語られて、続く16節と17節では「イスラエルの子らの多くを、彼らの神である主に立ち返らせます。彼はエリヤの霊と力で、主に先立って歩みます。父たちの心を子どもたちに向けさせ、不従順な者たちを義人の思いに立ち返らせて、主のために、整えられた民を用意します。」と記しています。 (続きを読む…)

2022 年 11 月 20 日

・説教  「はこぶねの中で」鴨下愛

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2022.11.20

鴨下愛

 夜眠る時、目をつぶろうとする時、どうしたって怖くなって、不安になってお母さんを呼んだことはありませんか?私は小さい頃、夜になると、ここはベッドの上なのに、まるで小さなボートの上、暗くて重い霧の中、深い深い水の上を浮かんでるみたい。急に怖くなって、不安になって、泣き出してしまったことがありました。この世界はあまりにも広くて、知らないこといっぱい! 私の未来は、どうなるんだろうと怖くなってしまう、みなさんもそんな夜はありませんか。

 今日は子ども祝福式の礼拝です。神様の祝福があなたと一緒に、いつもかわりなく、今も未来にもありますようにとお祈りするのです。
 神様の祝福とは、いろんな意味がありますが、今日は一つ、「安心していられる」ってことを、ノアのはこぶねのお話から「はこぶねの中で」という題で、みなさんにお話ししたいと思います。

 まず上を見てみましょう。木材がきれいに組まれて、窓がほとんどなくて、ここはまるで大きな船の中のようではないですか? では船の中に私たちも乗っているって、ちょっと想像して聞いていてね。

 この絵の子どもたちは、うす暗い船の中で、お父さんお母さん、おじいちゃんおばあちゃんのそばにピッタリすわって、じっとしていました。子どもたちはこの大きな船のことをはこぶねと呼んでいました。船の中はいくつもの小さな部屋に仕切られていています。どの部屋からも、動物たちの鳴き声が絶え間なく聞こえてきます。立ち込める動物の匂い。もう40日も雨が降り続けています。その間ずっと波の上を漂い続けていました。

 時々ノア爺さんが、小さな窓を開けて外をうかがいました。けれどそのたびにすぐに窓を閉めなければなりません。大粒の雨が吹き込んできてしまいます。
 「まだ、やまないのね」お母さんたちがため息をつきました。
 「だいじょうぶだ。心配いらないよ」ノア爺さんがなだめるように言いました。
 「でもノア爺さん、いつ、この雨はやむの?いつになったらこんな生活からぬけだせるの?いつになったらこの苦労はむくわれるの?」
 みんなが不安になるのも、仕方がありません。大海になってしまった世界で、ポツンと一隻この箱舟は、行く目的地がないようにさまよっているのですから。
 
 なぜこんなたいへんなことになっているのでしょうか?

 それはこういうわけだったんです。

 神様は世界を造られ、アダム、エバと名付けた、人を作られました。でも人の心に罪が生まれました。人間も動物も世界中に増え広がるといっしょに、神様を悲しませる罪も増え広がっていきました。

 罪とは、差し出された神様の手を振り払うことです。愛されて造られたものが、つくり主に「あんたに造られた覚えはない」ということです。神がいては自分の好きにできないと思って、神などいないことにして生きるのです。しかし神様がいないので自分のことは自分でなんとかしなければなりません。人は心から安心することができなくなりました。安心できないので、戦います、傷つけます、奪います。いつのまにか世界に強い人と、弱い人が分けられました。あたりまえにお金持ちと、貧しいひとが分けられました。それが罪の増え広がった世界です。

 そんな中で、ノアだけ違っていました。

 もうお爺さんですが、いつも安心しています。なぜかというと神様を知っていたからです。知っているだけじゃなくて、小さい子どもが、お父さんお母さんにやっていいことか悪いことか聞くみたいに、神様に心を向けていました。お父さんお母さんが私をちゃんと見守っていることを確かめるみたいに、手をつないでもらって安心して歩いていけるみたいに、ノアは神様を信頼していました。

 ある日神様はご自分の子どもに話すように、ノアに言われました。
 「ノアよ、わたしはこれから大雨を降らせる。すると大洪水が起こるだろう。この世界の罪を、洗い清めたいのだ。しかし私はあなたと家族を救う。今からあなたは箱舟を作りなさい。大きさも、作り方も、乗せるものも全部私が言った通りにしなさい」 (続きを読む…)

2022 年 11 月 13 日

・説教  ローマ人への手紙8章35-39節「キリストの愛」

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2022.11.13 召天者記念礼拝

鴨下直樹

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 今週、水曜日から金曜日まで掛川で行われました、「CPIカンファレンス」という会議に参加してきました。CPIというのは、「チャーチプランティング・インスティテュート」と呼ばれるもので、日本にいる多くの宣教師たちが集まるカンファレンスです。今回も400名ほどの方々が参加していました。

 その中の一つの講演で面白い話を聞きました。それは、人が人生の危機を経験するときに、三つの質問をすることで、問題点が明らかになるというのです。

 一つは、「自分が何者であるのか?」という質問です。二つ目の質問は、「自分の目的は何か?」「ゴールはどこか?」です。そして、三つめは、「自分はどこに所属しているか?」というものです。

 これはキリスト教の話ではなくて、どのジャンルでも共通することですが、この3つの問いで問題点が明確になるというのです。

 そもそも、私たちが人生の危機を迎えるというのは、どういう時でしょうか? よく言われるのは、自分の人生が大きな節目を迎える時です。学校を変わるとか、新しい勤め先に変わるとか、結婚をするとか、退職するとかいうような、人生の大きな節目を迎える時です。

 あるいは、仕事の中でトラブルを抱えて、優先順位が分からなくなってしまうというようなこともあるのかもしれません。

 自分の存在そのものを問う、自分の目標を問う、そして、自分の関係を明らかする。この三つのことは、自分の身に起っている問題の答えを私たちに与えてくれるといいます。

 今日、召天者記念礼拝のために、私たちはここに多くのご家族の方々をお迎えしております。コロナのために、礼拝にお招きすることを控えていたのですが、今年は3年ぶりにご家族のみなさんを礼拝にお招きしました。こうして、多くの方が集ってくださって、天に召された方々の事を心に留め、また私たち自身のいのちの意味を考える時が与えられています。

 私たちにとって大きな危機を迎えるのは、何と言っても家族の死です。今まで共に生きて来た最愛の家族を失うということは、大きな喪失感を私たちの心にもたらします。そして、それと同時に、人は死んだらどうなるのだろうか? そもそも、自分は何のために生きているのだろうか? これまで関わって来た人たちとの関係はどうなるのだろうか? そんな思いが浮かび上がってきます。そんな、まさにこの三つの問いを、ご家族を失った時にもいろいろと考えられるのかもしれません。そして、悲しみに暮れる中で、明確な答えが出ないまま、時間が過ぎて行くということも経験するのです。

 この3つの問いかけは、その人の年齢や、経験の差によって答えが違ってくるのかもしれません。 (続きを読む…)

2022 年 11 月 6 日

・説教 ルカの福音書1章1-4節「私たちの間で成し遂げられた事」

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2022.11.06

鴨下直樹

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 今日は信長祭りがこの岐阜市で行われています。朝はそれほどひどい渋滞ではなかったようですが、岐阜駅の近くからこの礼拝に来られた方は大変な渋滞を通って、教会にたどり着いたのではないでしょうか。今回の信長祭りは三年ぶりに行われまして、そこで行われるパレードに俳優の木村拓哉さんが出るのだそうです。かなり大きなニュースになりまして1キロのパレードの観覧者席1万5千人のところに96万人もの応募があったという話です。

 来年の1月にどうも織田信長の映画があるのだそうで、その宣伝も兼ねているのだとか。これまで、この織田信長をテーマにした映画や小説は沢山あります。私も歴史小説を読むのが好きなので、何冊も織田信長の小説を読みました。こういった歴史を扱う作品は、それなりに歴史的な事実関係を調べたうえで、そこに小説家の独自の解釈をしながら、信長像を作り出していきます。この解釈に基づいて作家たちはさまざまなエピソードを創作しながら物語の違いを生み出してきます。そういった意味では、今度の織田信長の映画もどんな物語になるのか、とても楽しみです。

 さて、何で信長祭りの話を冒頭にしたかといいますと、まさに今日からしばらくの間、共に聞いていきたいと思っているこのルカの福音書の特徴も、このことと関係があるからです。ここに記されているのは、主イエスが言ったこと、行ったことの記録です。「歴史」というのは、実際に起こった事柄ですが、それは書き残された記録によって知ることができます。この歴史の記録というのは、事実を記録していくのですが、その内容にはさまざまな記録があります。信長にはどういう部下がいたとか、兵隊が何人いたとか、石高はどうだったとか、どの地域で反乱がおこったとか、誰が武功を上げたかという記録です。あるいはそこで起こった事件なんかを発見された手紙などから読み取っていきます。

 歴史を読み解く人たちは、そのようなさまざまな記録を読み取っていくうちに、そこからおぼろげに見えて来る「信長像」というものを見出していきます。小説家たちは、その自分が掴んだ信長像に、さまざまな物語を付け加えることで、強調点を明確にし、そうであったという説得力を生みだしていくのです。歴史小説の面白さは、そのそれぞれの作家の豊かな想像力によって脚色された信長を楽しむことができるところにあります。

 そういう意味では、この聖書も神が働かれた事実を記録した歴史の証言です。特にこのルカの福音書は、歴史家と言われるようになったルカが記したものです。この記録を、現代の説教者たち、牧師たちが、この聖書を読んで解釈して伝える「イエス像」も、また「説教」も、小説家の記す小説に、似ている部分があるかもしれません。

 歴史の記録を読んで、解釈して、他の人に伝えるという意味では行う作業は非常に似ています。ただ、小説と、説教が決定的に違うことがあります。神が記録された歴史の書でもある聖書には、神からのメッセージ、使信があって、それを聞き取って、まさに神の名によって宣言することが説教です。ですから、聖書を読むという作業は、歴史書を読み説く作業も当然するのですが、そこから更に、神の言葉を聞き取るという作業が出てきます。そして、そのために牧師たちは神学校で、その方法を学び、身に付けていくのです。そうやって、ただの歴史を解釈するだけではなく、神の言葉を聞き取る訓練をしていくのです。これは、牧師だけでなく、みなさんも同じように神の言葉を聞き取る訓練をすることで聖書の中にある神の言葉を聞き取ることができるようになります。

 少し余談になりますが、祈祷会で行っている聖書の学びは、聖書をこうやって読むんですよ、神の言葉をこうやって聞くんですよということをみなさんと毎週、その訓練を積み重ねているということになります。ですから、ぜひ聖書を自分で読めるようになりたいと願われる方は、聖書の学びと祈り会に出ていただきたいと思います。

 さて、前置きが長くなってしまいましたが、このルカの福音書を記したルカという人物について、少し考えてみたいと思います。この福音書は、主イエスと出会ったことのないルカというマケドニア出身の医者が記したというところに特徴があります。

 ルカは、パウロの第二次伝道旅行の時に加わった人物で、マケドニアの出身です。ユダヤ人ではなく異邦人です。このルカはパウロの語る福音を聞いてキリスト者になった一人です。当然、主イエスに会ったことはありませんし、自分に福音を伝えてくれたパウロもまた、主イエスと共に歩んだ弟子ではありませんでした。

 しかし、このルカという人は、パウロの語る主イエスのことを聞けば聞くほど、ちゃんと調べてまとめてみたいという思いを持ったのでしょう。

 出来たばかりの教会には、はじめは主イエスの弟子たちや、復活の証人と呼ばれる人たちがいました。第一コリント人への手紙の15章3節を読みますとこう記されています。 (続きを読む…)

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