2023 年 8 月 30 日

チャペルコンサート(2023年10月15日)のお知らせ

Filed under: お知らせ,イベント — susumu @ 15:32

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コンサートチラシ pdfファイル(両面/高解像度)

2023 年 8 月 27 日

・説教 ルカの福音書19章1-10節「イエス様の愛があなたを変える」田村洸太

Filed under: YouTube動画,礼拝説教,説教音声 — susumu @ 07:20

2023.8.27

田村洸太神学生

2023 年 8 月 20 日

・説教 第2列王記5章1-19節「安心して行きなさい」新井智也師

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 06:32

2023.8.20

新井智也

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2023 年 8 月 13 日

・説教 ルカの福音書8章19-21節「神の家族=み言葉を聞いて行う者」

Filed under: YouTube動画,礼拝説教,説教音声 — susumu @ 00:13

2023.8.13

鴨下直樹

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 今、私たちの教会では「信徒交流会」ということで、夏の間の祈祷会は、信徒の方々が担当してくださっています。担当になってくださる方はほとんどみなさん証しをしてくださっています。先週は、水曜日は私の娘のキャンプの報告と、Sさん、木曜日はMさんが証しをしてくれました。

 先週話してくださった方も、その前に証ししてくださった方々もそうですが、決まって家族のことを取り上げられます。特に、木曜に話してくださったMさんは、今は結婚して山口県の岩国におられますが、今ちょうど帰省してきておられます。その証しでは、信仰に至るまでの、クリスチャンホームで育った中での葛藤をお話しくださいました。その証しをお聞きしながら、改めてクリスチャンホームの家庭の子どもたちが信仰に導かれる難しさというものに気付かされます。

 先週の説教でも少しお話ししましたけれども、私たちは今、全体主義の世界に生きてはおりません。個人が尊重される時代のなかで生きています。家族がクリスチャンだから、子どもの自分もクリスチャンになるように期待されていることは分かるわけですが、親の信仰と、自分はまったく別物です。いくら親が強制したとしても、自分で神様と出会うことなしに自分の中には信仰心は生まれません。この神様との出会いというのは、自分で神様とお会いして自分の心が動かなければどうにもならないことです。

 今日の聖書の箇所はまさに、主イエスの家族はどうであったのかということが記されています。

 19節にこのように書かれています。

さて、イエスのところに母と兄弟たちが来たが、大勢の人のためにそばに近寄れなかった。

 主イエスのところに主イエスの母と兄弟たちが訪ねてきたというのです。

 その続きはこのように記されています。20節と21節です。

それでイエスに、「母上と兄弟方が、お会いしたいと外に立っておられます」という知らせがあった。しかし、イエスはその人たちにこう答えられた。「わたしの母、わたしの兄弟たちとは、神のことばを聞いて行う人たちのことです。」

 イエス様の家族の立場で考えるとちょっと悲しい気持ちになってしまいます。ただ、ここを読んだだけでは、主イエスは結局のところ兄弟たちと会ったのか会わなかったのかははっきりしません。

 私たちはこれと同じ出来事がマルコの福音書にも書かれていることを知っています。そこでは、主イエスがおかしくなってしまったのではないかという噂が広がって、家族が主イエスの活動をやめさせるためにやって来たという流れで書かれています。

 ところが、ルカはそういう流れでは書いていませんので、マルコの福音書のことは一度忘れていただいて、ここを読んでいただきたいと思います。 (続きを読む…)

2023 年 8 月 11 日

キリスト教美術講座(最終回)のお知らせ

Filed under: お知らせ — susumu @ 10:13

4年ぶりにキリスト教美術講座を開講します。

今回のテーマは、誰でも知っている「ゴッホ」ですが、あまり知られていないゴッホの信仰と模写の秘密を探ります。

ゴッホの父親と祖父は牧師でした。 ゴッホも神学校に通い、伝道師になります。 ミレーの信仰と作品にあこがれ、37歳で生涯を閉じるまで、ミレーの模写を続けていました。

もう一つの不思議は、日本の浮世絵を模写した連作です。

今回は一連の講座の最終回となります。 皆さんとともに、ゴッホの謎に挑戦してみましょう。

日時

2023年9月10日(日)午後2時~3時30分
(終了後、4時半頃まで茶話会を予定しております。 どなたでもご参加いただけます)

講師

古川秀昭 (元・岐阜県美術館館長、芥見キリスト教会長老)

テーマ

「ゴッホの秘密」

会場

芥見キリスト教会 (058-243-5798)
資料代 200円(当日受付にて)
※ 資料の準備がありますので、参加ご希望の方は9月2日までに電話でお申し込みください。

2023 年 8 月 6 日

・説教 ルカの福音書8章16-18節「明かりのもたらすもの ―聖書とキリスト教の歴史のはなし― 」

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 07:47

2023.8.6

鴨下直樹

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 今日の聖書の箇所は前回の種まきの譬えの続きの部分です。この18節には、種まきの譬え話の全体の結びが記されています。最初の予定では先週この18節までを扱う予定にしていたのですが、二週に分けてお話しすることにしました。ですから、覚えていただきたいのは今日の箇所は先週の種まきの譬えと一つの話だということです。そのことを初めに踏まえておいていただいて、この16節以下の部分の、み言葉に耳を傾けたいと思います。

 さて、今日の譬えは「明かりの譬え」です。16節にこうあります。

明かりをつけてから、それを器で隠したり、寝台の下に置いたりする人はいません。燭台の上に置いて、入って来た人たちに光が見えるようにします。

 この主イエスの譬え話そのものは、単純明快です。明かりには、暗い部分に光をもたらす役割があるわけで、その役割を果たさないようにはしないでしょということです。ところが、この分かりやすい譬え話を聞いて、私たちは皆、誰もが同意できるかというとそうではないわけです。

 「明かり」というのは、この場合何を指しているかと言えば「神の国の福音」のことであることは明らかです。じゃあ私たちは、この「神の国の福音」を、誰から見ても、その光に照らされるように掲げて生きていますか? と問われたらどうでしょう。

 安倍元首相銃撃事件以降、キリスト教カルト集団のことが連日報道されました。統一教会とか、エホバの証人のようなカルト教団のことが取り上げられて「宗教二世」という言葉で、宗教を信じる家の子どもたちは可哀想だという論調が生まれました。ただ、この「宗教二世」という言葉は、どんどん一人歩きしていって、宗教を子どもに強要することの問題点がクローズアップされています。専門家は、ちゃんと「カルト二世」と言った方が良いという主張をしていますが、あまりそういう意見は取り上げられません。そして、日本人の多くは何かの関わりがある神道も仏教も、キリスト教も総じて宗教というものは悪いものだという理解になりつつあります。

 昨日もある方と話していたのですが、自分の子どもに教会へ行くことを強要しないようにしていると話しておられました。とても残念なことですが、親の通う教会に子どもを連れていくのは悪いことをしているような感覚が最近では生まれてきてしまったようです。

 こういうご時世ですから、私たちキリスト者も「私はクリスチャンです」ということを公にすることに抵抗を感じるようになった人たちも少なくありません。

 いくら聖書が「明かりは燭台の上に置いて、光を見えるようにするのです」と言っても、「いや、今は隠しておいた方が賢い選択なんです」という声の方が勝ってしまうような社会に、私たちは置かれているのです。

 けれども「明かり」というのは、その性質上、隠せるものではありません。そのため、クリスチャンの家族の中でも、子どもに信仰教育をする上で葛藤があるのだと思います。子どもに信仰を強要するのか、自分で選び取ってもらうのかというのは、いつの時代も振り子のように揺れ動いています。 (続きを読む…)

2023 年 8 月 1 日

今月の礼拝予定(2023年8月)

Filed under: 今月の礼拝予定 — susumu @ 07:48

8月6日 三位一体後第9主日

主日主題: 光
聖餐式礼拝: 午前10時30分(Zoom配信)
聖書: ルカの福音書8章16-18節
説教:「明かりのもたらすもの」鴨下直樹牧師

礼拝後:誕生月の方のための祈り/役員会

8月13日 三位一体後第10主日

主日主題: 神の言葉
公同礼拝: 午前10時30分(Zoom配信)
聖書のお話:「カナの婚礼」宮崎恵美子
聖書: ルカの福音書8章19-21節
説教:「神の家族=み言葉を聞いて行う者」鴨下直樹牧師

礼拝後:ゴスペルカフェ(流しそうめん)、聖歌隊練習、礼拝準備会/礼拝細目確認

8月20日 三位一体後第11主日

主日主題: 賛美
公同礼拝: 午前10時30分(Zoom配信)
聖書: 第2列王記5章1-19節
「安心して行きなさい」新井智也師

8月27日 三位一体後第12主日

主日主題: 神の恵み
公同礼拝: 午前10時30分(Zoom配信)
聖書: ルカの福音書19章1-10節
説教:「イエス様の愛があなたを変える」田村洸太神学生

2023 年 7 月 30 日

・説教 ルカの福音書8章4-15節「神の言葉をどう聞くか?」

Filed under: YouTube動画,礼拝説教,説教音声 — susumu @ 06:59

2023.7.30

鴨下直樹

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 昔、「のらくろ」という漫画がありました。ご存知ない方も多いと思いますが、犬たちを主人公にした、戦争をテーマに扱った少しユーモラスな漫画です。この「のらくろ」の作者は田河水泡さんといいますが、この方はキリスト者です。この田河水泡さんが晩年、「のらくろ」を書くのをやめたあと、キリスト教をユーモアで紹介したいと『人生おもしろ説法』という本を書かれました。

 その本の中に「名画の切り売り」という話があります。

「画商さん、この額に入っているセザンヌの静物だがね、こんな大きな絵は私の部屋には大きすぎるので、はじっこの果物一個だけ、切り取って売ってもらえないかね」

 そんな会話からはじまります。もちろん無理な注文です。作品を一部だけ切り取ってしまっては絵全体の構図がだめになって、作品としての価値がなくなってしまいます。

 そこで、こんな話を書いています。あるところに、クリスチャンとして非の打ちどころのない人がいました。でも、その人は形式というものが嫌いで、洗礼だけは受けなかった。洗礼は形式だけだからそんなのはいらないと言っていたというのです。

 でも、田河さんは、これはセザンヌの絵を一部だけ切り売りして欲しいというようなものではないかと書いています。自分の都合しか考えない身勝手な要求で、そんなことをすればそのものの価値を失ってしまうことになるというのです。

 今日の説教題を、「神の言葉をどう聞くか?」としました。この箇所でも、同じようなことが言えるのかもしれません。私たちは、聖書から、神の言葉を聞くのですが、そこで自分の気に入ったところだけ切り売りするかのように、部分的にしか聞き取っていないと、同じことになりかねないのではないでしょうか。

 今日の聖書箇所は主イエスのなさった譬え話です。「種まきのたとえ」とか「四つの土地のたとえ」などと言われる譬え話です。実は、この譬え話は、譬えなだけにいろいろな解釈が存在します。み言葉をどう聞くか? というのがテーマの箇所でありながら、一部だけを切り取るようなさまざまな解釈が出てくるのです。

 というのは、種のたとえなのか、土地のたとえなのか、種を蒔く人のたとえなのかで、読み方は全然変わってくるのです。それこそ、その中にはみ言葉を聞いた時の受け取り方のタイプとして四つあるというような話をすることが多いと思います。そうすると、自分は「良い地」なのか、それとも「いばらタイプ」なのか、「岩地タイプ」なのか「道端のカラスタイプ」なのかを考えて、自分はこのタイプだから、私はどうもダメみたいという話になってしまいます。

 このような読み方は、一般的でよく耳にすることがあると思うのですが、そのように読んでしまうと、結局私はダメで、実を実らせることのできないダメなクリスチャンだという話になってしまいます。

 あるいは、こういう解釈もあります。この土地は私たちの心の中の姿で、み言葉を受け入れる準備のできている「良い土地」の部分と、耕されていない道端や、岩地や、いばらの生えた「悪い土地」の部分とがあるのではないかという解釈をする場合もあります。人の心の中に、み言葉を受け入れやすい場所や、頑なな部分があるのではないかと読むこともできるのです。私自身も、そのように解釈して話したこともあります。

 ただ、そのように読むと、私たちの心を少しずつ良い地として耕していきましょうという話になってしまうこともあります。そうなると、もはや福音ですらなくなってしまいます。頑張って心を耕しましょうという努力目標になってしまうからです。

 聖書を読む時に私たちは分かりやすく聖書の言葉を受け取ろうとするのですが、話を単純化してしまうと、この箇所が語ろうとしていることがつかめなくなってしまいます。この譬え話はルカだけでなく、マルコの福音書にも載っています。マタイの福音書にも載っています。けれども、どの福音書も同じ譬え話を、同じように語っているわけではないので、それぞれの文脈を注意深く見極めて聖書の言葉を受け取る必要があります。

 この種は明らかに「神の言葉」のことを語っています。これは、聖書の言葉と言ってもいいし、説教のことと言ってもいいものです。 (続きを読む…)

2023 年 7 月 23 日

・説教 ルカの福音書8章1-3節「主イエスに従う女性たち」

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 00:04

2023.7.23

鴨下直樹

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 今日の聖書箇所はとても短いところで、主イエスに従った女性たちのことが記されていますが、歴史家と呼ばれるルカならでは、の、とても貴重な聖書箇所といえます。

 というのは、この箇所に続いて、この8章では、主イエスが種まきのたとえ話と、燭台のあかりのたとえ話をなさいます。このたとえのテーマは「隠れているものと明らかになるもの」です。

 そして、今日の箇所はこのたとえ話をする前の導入として、この1節から3節が配置されています。そこからも、ルカがどんな意図をもって、この話をここにおいたのかが見えてきます。

1節にこのようにあります。

その後、イエスは町や村を巡って神の国を説き、福音を宣べ伝えられた。十二人もお供をした。

 ルカはここで、主イエスと十二弟子との宣教がはじめられたことを書いています。私は先日の祈祷会でこの話をした時にはすっかり失念していたのですが、6章の12節以下で十二弟子のことが取り上げられていまして、弟子たちのことを「使徒」と呼んだという記録がすでに記されております。この8章では、主イエスの神の国の宣教に、この十二弟子たちを伴ったことが短く記されていますが、読んでみるとルカの関心は、十二人の弟子よりも、むしろこの後の2節と3節に記した女性の弟子たちに向けられていることが分かります。

 2節と3節にこう記されています。

また、悪霊や病気を治してもらった女たち、すなわち、七つの悪霊を追い出してもらったマグダラの女と呼ばれるマリア、ヘロデの執事クーザの妻ヨハンナ、スザンナ、そのほか多くの女たちも一緒であった。彼女たちは、自分の財産をもって彼らに仕えていた。

 このように書かれています。この「悪霊や病気を治してもらった女たち」という言葉は、このマグダラのマリア以外にも、2節には「ヘロデの執事クーザの妻ヨハンナ、スザンナ、そのほか多くの女たちも一緒であった。」とありますから、主イエスに仕えた女の弟子たちの多くは、主に悪霊や病気を治してもらった人たちが多かったことが分かります。

 このマグダラのマリアをはじめ、クーザの妻ヨハンナも、スザンナも、その他の主イエスに付き従った多くの女の弟子たちは、主イエスによって病気や、悪霊から解放されたという救いを経験して、主に従う者へと変えられたのです。

 特に、ここにはじめて名前が登場してきますこのマグダラのマリアというのは、一体どういう人なのでしょうか? (続きを読む…)

2023 年 7 月 16 日

・説教 詩篇32篇「主を喜び 楽しめ」田村洸太

Filed under: YouTube動画,礼拝説教,説教音声 — susumu @ 06:34

2023.7.16

田村洸太神学生

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 皆さんおはようございます。今日、このようにして芥見教会の皆さんの前で福音を述べ伝えることができることを心から嬉しく思います。

 私の神学塾での学びもいよいよ最後の年となり、とても祝福された時を送らせて頂いております。

 さて、本日は詩篇32篇、特に最後の11節の言葉を引用し、「主を喜び 楽しめ」という題を付けました。というのも私自身もまた皆さんにも主を喜び、楽しむそのような素晴らしい信仰生活を送っていただきたいと願うからです。せっかくなのでぜひ、皆さんと一緒にこの11節をもう一度、お読みしたいと思います。私が「詩篇32篇11節」と言いますので、それに続いて声を合わせてお読みください。

(詩篇32篇11節)「正しい者たち を喜び 楽しめ。すべて心の直ぐな人たちよ 喜びの声をあげよ。」

 「主を喜び 楽しめ」これは、32篇最初にあるように古代イスラエルの王であったダビデから、この詩篇32篇を読むすべての者に対する投げかけです。とても積極的な投げかけです。今、皆さんはダビデが言うように、「主を喜び、楽しむ」信仰生活を送っておられるでしょうか。もし、そうではないという方がこの場におられるのでしたら幸いです。なぜなら、ダビデがどのようにして「主を喜び、楽しめ」と言える信仰生活を送れるようになったか、そのことを今日は、この詩篇32篇を通してお話ししたいと思うからです。

 まず、この詩篇が書かれた背景をお話ししたいと思います。この詩篇が書かれる前、ダビデは彼の生涯の中でも最も大きな罪を犯します。部下であったウリヤの妻バテシェバと姦淫の罪を犯し、それを隠そうとしてウリヤの殺害を引き起こしてしまうのです。

 ダビデは、イスラエル軍がアンモン人と戦っている最中、部下であったウリヤの妻バテシェバが、夕暮れ時に水浴びをしている姿を、王宮の屋上から目にします。彼女がとても美しいのを見ると、ダビデは使いを送り、自分の元へと来るように言い、最終的に彼女を犯してしまいます。ウリヤが不在の機を狙った酷い裏切り行為です。しかし、ダビデの罪はここで止まることはありませんでした。

 それからしばらく経ったある日、ダビデはバテシェバがみごもったという知らせを耳にします。すると、ダビデは自分が行った姦淫の罪が明らかになることを恐れて、どのようにすれば自分の罪を隠せるだろうかと考え始めます。そして、彼が思いついたことは、「ウリヤを戦地から呼び戻せば、夫婦なのだから一緒に寝るだろう。そうすれば、自分が犯した罪を隠すことができる」ということでした。そして、ダビデはウリヤに使いを送り、彼を労わるふりをして、自分の家に帰るようにと命じるのです。

 しかし、ウリヤはその命令を聞くと、「他の兵士たちが戦いの中で自分の家に帰ることができない状況なのにも関わらず、自分一人だけが家に帰って、妻と寝ることができるでしょうか。私には、決してそのようなことはできません」とはっきり答えます。ウリヤの返答は、至って正論です。部下としても100点満点の返答ではないでしょうか。

 しかし、ダビデは違いました。自分が思い描いていたようにことが進まないことに焦り、憤って、ウリヤを戦いが最も激しいところへと誘導し、彼が敵に殺されるように仕向けろとウリヤの上司に命じるのです。一つの罪を隠すために、さらなる罪を重ねてしまうということがありますが、この時のダビデは、まさにそのようで、自分の罪をどのようにしたら隠し通せるか、そのことしか見えていなかったのです。

 結局、ウリヤはダビデの目論見通り、敵の矢に貫かれ命を落としてしまいます。当然ダビデが行ったこのことは、主のみこころを損ないました。義なる主は、このダビデが行ったことを見過ごす方ではありません。主は、預言者であるナタンをダビデの元へと遣わし、その罪を指摘しました。するとダビデは「私は主の前に罪ある者です。」と悔い改めの言葉を口にします。それに対して、預言者ナタンも「主はあなたの罪を取り去ってくださった。あなたは死なない」と答えます。

 これが、詩篇32篇が取り扱っている背景です。皆さんはこの出来事をどう思われるでしょうか。このダビデが犯した罪を許せるでしょうか。「もっと罰してやらないとウリヤがあまりにもかわいそうではないか」そう思われる方もいるかも知れません。しかし、これこそが主の赦しの深さなのです。 (続きを読む…)

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